昨日、3月1日は長男のミニバスの卒団式だった。
3年生の夏から初めて3年半、まあ、よく頑張った。
卒団式までやめずに続けられて本当に良かった。
あんまり積極的なタイプじゃないし、自信もなくて、
ボールを追っているようでいて、
実は腰が引けてた最初の頃のプレイから考えると、
自信もついたし、まあ上手くなったと思う。
NBAオールスターゲームの時のスラムダンクコンテストみたいに、
卒団生がドリブルシュートのデモンストレーションをするのが、
卒団式の恒例だそうだ。
ドリブルで足の間を通したり、ハンドリングでボールを回したりして、
結構本格的にトリッキーなプレイを魅せる。
うちの子はあんなことできないし、
できたとしてもみんなの前でやりたがらないだろう。
何するのかと思ってドキドキで見ていたら、
スリーポイントの位置からのロングシュート!
綺麗なフォームから放たれたボールは美しいラインを描いてリングに吸い込まれた。
シュートを決めた長男は両手の指を立ててゴールをアピール。
シュートが決まったことも良かったけど、
ガッツポーズを見せる長男にびっくりした。
思えば父は、試合でロングシュートを決めて、
ガッツポーズをするキミの姿をずっと夢に見ていたんだよ。
ミニバスを初めて1年位経った頃のこと、
「バスケをやってどんな良いことがあるのか全然わからない。」
と言って、やめたいと言い出した時に、
僕が描いて長男の机の上に置いておいたマインドマップ。
これを見てどう思ったのかはわからないけれど、
いつの間にかやめたいとは言わなくなって、
バスケの楽しさを見つけてくれたのだと思う。
好い感じになってきて、
自信も出てきたかなと思ったら、足首骨折、全治3か月。
夏に向けての、この時期のケガは思ったより厳しかった。
ケガが治っても、チームの仲間の成長についていけず、
一人だけ遅れをとって、バスケ自体が楽しくなくなってしまったようだ。
でも、やめたい思いをだましだまし、なだめすかして、
何とか最後までやり遂げられた。
卒団式に出れて、ホントに良かった。
バスケに誘ってくれてありがとう。
シュート練習につきあってくれてありがとう、って社交辞令でもうれしいもんだ。
我ながらバスケをやるメリットがよく書けていると思ったので、
このマインドマップを参考にしてミニバスチームのホームページもつくった。
今年から小学校にあがる次男もバスケをやってくれるそうだ。
またこのマインドマップを使う日がくるかな。
補助輪付きで自転車の練習をしていておもしろくなったらしく、
図書館までそのまま自転車で行った。
その帰り道に小さな横断歩道の上で転倒して、
胸の辺りに痣をつくった。
暑いのと、
不親切な車ばかりでいつまで待っても道路が渡れないことと、
いくつかの小さな理由が重なってちょっとイライラしていた僕は、
転んだ息子を心配する代わりに、
「もう、なんでこんなところで転ぶんだよ!」
と怒鳴りつけてしまった。
胸の痣は消えたけれど心に痣が残ってしまって、
自転車が怖くてまたがることもできなくなってしまった。
それが昨年の夏。
ああ、やっちゃったな、と後悔しても遅く、
どれだけ励ましても、なだめすかしても、
自転車に近寄ることもできない状態がしばらく続いた。
年が明けて、幼稚園の年長さんになった。
自転車にまたがって、両足が地面につくようになった。
GWを前にして
「ボク、自転車の練習しようかな。」
と自分から言い出した。
まだまだ補助輪がとれるのは先のことだろうけれど、
彼にとってはすごい進歩。
何とかしなくちゃと必死に消そうと思っても消せない傷も、
いつか自然に消えていくんだなと思った。
頭の中に浜田省吾のPAINが流れていた。
二度と立てぬ痛手なのに
受け入れてく、不思議だ人は
ホントに不思議だ。
今、つらいと思っていることだって、
結局は受け入れて、笑い話にすることだってできる。
だから、様子を見て、
じっと待ってみることも大切なんだとつくづく思う。
本日発売の週刊朝日進学MOOK「大学ランキング2015」に掲載されている聖学院大学の新学長、姜尚中先生のコメントに映画「レ・ミゼラブル」のくだりがあった。
それを読んで、以前自分も「レ・ミゼラブル」の映画を観てブログを書いたことを思い出した。
しかも、姜先生が着目したセリフと同じセリフに注目して自分も書いたなあと思って自分のブログを確認したところ、おっとトップに広告が載っている。
※印の注意書きを読むと、60日間ブログを更新しないと広告が載るのだと書いてある。
そうか、いつの間にかずいぶんブログ、サボっちゃったんだなあ。
僕がブログを書くのは例えばこんなとき。
映画を観たとき。
美術展に行ったとき。
旅行に行ったとき。
小説を読んだとき。
スポーツ観戦をしたとき。
クラッシックやロックのコンサートに行ったとき。
その他イベントやセミナーなどに参加したとき。
ブログを書いてないんだから、あんまり充実してなかったのかなあと思って、手帳で2月以降の予定を振り返ってみた。
映画、2回行ってましたね。
「THE LEGO MOVIE」と
「ドラえもん 新・のび太の大魔境 ~ペコと5人の探検隊~」
それから、旅行とは言えないかもしれないけれど、子どもたちを連れてハンターマウンテンにスキーにも行きました。
それを読んで、以前自分も「レ・ミゼラブル」の映画を観てブログを書いたことを思い出した。
しかも、姜先生が着目したセリフと同じセリフに注目して自分も書いたなあと思って自分のブログを確認したところ、おっとトップに広告が載っている。
※印の注意書きを読むと、60日間ブログを更新しないと広告が載るのだと書いてある。
そうか、いつの間にかずいぶんブログ、サボっちゃったんだなあ。
僕がブログを書くのは例えばこんなとき。
映画を観たとき。
美術展に行ったとき。
旅行に行ったとき。
小説を読んだとき。
スポーツ観戦をしたとき。
クラッシックやロックのコンサートに行ったとき。
その他イベントやセミナーなどに参加したとき。
ブログを書いてないんだから、あんまり充実してなかったのかなあと思って、手帳で2月以降の予定を振り返ってみた。
映画、2回行ってましたね。
「THE LEGO MOVIE」と
「ドラえもん 新・のび太の大魔境 ~ペコと5人の探検隊~」
それから、旅行とは言えないかもしれないけれど、子どもたちを連れてハンターマウンテンにスキーにも行きました。
これから車に乗ろうとしたところで母親から電話が掛かってきて、妻が電話に出た。
話しながら、いつの間にか妻が泣いているので、間にあわなかったのだと思ったがそうではなかった。
母親が心細くて泣いていたので妻もつられて泣いたのだ。
どちらにしても猶予はそれほどない。
東北道を走って、実家へは行かずにそのまま県立の病院へ直行した。
父は穏やかではないがそれほど辛そうでもなく横になっている。
指に器具がつけられ、脈を測っているのか絶えず、ピーピーとなっている。
弟はさっき帰ったのよ、と母親が言った。
ドラマや映画などでは最後の時に思い出を語りあったりするシーンがあるが、父の場合は痛さと辛さでそれどころではなかった。
昔、父から聞いた話を雑誌に投稿して掲載されたものが単行本化されたので持ってきていたのだが、そんな話をするどころではなかった。
まだ幼稚園にあがっていない長男を連れて近くのショッピングモールへ下着など必要なものを買いに行く。
長男がトミカが欲しいというので「じいじに買ってもらおうな」と言って事後承諾で買った。
そしてそれがじいじに買ってもらった最後のオモチャになった。
検査やら何やらで日中が過ぎ、夕方になった。
先生がやってきてモルヒネを打ちましょうと言った。
いよいよかと思った。
僕は実はなんとなくわかっていた。
たぶん父は今日、逝ってしまう。
今日なら僕もいるし、母もいるし、僕の妻も、父の孫もいる。
もうすぐ弟に子どもが産まれるので、そこまで頑張ってほしいとも思ったけれど、目の前にいる父の姿を見て、僕はもう頑張れとは言えない。
暗くなって、母が家に帰ると言う。
母も看病疲れでまいっている。
そして、少し我がままも言う。
母は明日病院に持ってくるものを紙にメモして
「お父さん、また明日ね」といって病室を出た。
父はモルヒネを打っているので目覚めなくてもおかしくないのだけれど、僕らがいる間に何度か目を覚ました。
妻に運転してもらって僕だけ残った方が良いかとも思ったけれど、なんとなく一緒に帰ってしまった。
もうすぐ春がやってくる風の強い日だった。
僕はジャンピングジャックフラッシュを口ずさんでいた。
僕はその日はビールを飲まなかった。
夜中になって電話が鳴って母が出た。
父が危篤。
やはり、と僕は思った。
母親と二人で病院に駆けつけた時はすでに父は事切れていた。
父は最後にきっと必死に「お母さん」といつものように呼んで探したんだろうなと思って、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。
人が死ぬ瞬間に手を握ることを仕事とする人が出てくる伊坂幸太郎の小説があるが、父の手を握ってやれなかった、母に手を握らせてやれなかったことを実は今でも後悔している。
告別式では僕があいさつをした。
そこでこんなことを言った。
父親との思い出はたくさんあるけれど、思い出というよりも、今でも例えや誇張ではなくて僕の身体の中に父親が存在していることを感じる。
子どもができて、僕も父親になって、父が僕の目を通して僕の子どもである僕を見ている。父と同じように僕は子どもを愛して、一緒に風呂に入り、子どもがご飯を食べる姿をうれしい思いで見ている。それは今まさに一緒に父親と僕が経験していることであって思い出ではない。だからいつまでも父は僕の中にいるんだと思う。
まあ、途中でつまっちゃってグダグダな挨拶だったのだけど、こんなことをみんなに伝えたいと思っていた。
今でもその思いは一緒だ。
俺は自分で食べるより子どもたちが食べるのを見ている方がお腹が一杯になるんだよ
っていつか父が言っていた。
まさしく僕もそう思う。
子どもの成長を日々感じながら、自分の父と過ごした半生をなぞっていっている。
そう考えるとさびしくはないけれど、同士として酒を飲みながら子どもの話を父とできたらいいなと思う。
俺の気持ちがわかっただろ
という父の声が聞こえてくる気がする。
僕はいつも思うんだけど、
親は子どもの百倍、子どもとの思い出を持っていると思う。
僕は自分が産まれた時の思い出はないけれど、子どもたちが産まれた日のことは今でも詳細に覚えている。
だから僕はもっと父と話して、たくさん思い出をつくれば良かったと後悔しているんだけど、父は僕が思う以上に僕との思い出を持っていてくれたんだろうなと思う。
死とは結局、生き残った者の思いなのだ。
僕はこれからも精一杯生きて、そして妻や子どもたちにも精一杯生きてくれることを望むだけだ。
話しながら、いつの間にか妻が泣いているので、間にあわなかったのだと思ったがそうではなかった。
母親が心細くて泣いていたので妻もつられて泣いたのだ。
どちらにしても猶予はそれほどない。
東北道を走って、実家へは行かずにそのまま県立の病院へ直行した。
父は穏やかではないがそれほど辛そうでもなく横になっている。
指に器具がつけられ、脈を測っているのか絶えず、ピーピーとなっている。
弟はさっき帰ったのよ、と母親が言った。
ドラマや映画などでは最後の時に思い出を語りあったりするシーンがあるが、父の場合は痛さと辛さでそれどころではなかった。
昔、父から聞いた話を雑誌に投稿して掲載されたものが単行本化されたので持ってきていたのだが、そんな話をするどころではなかった。
まだ幼稚園にあがっていない長男を連れて近くのショッピングモールへ下着など必要なものを買いに行く。
長男がトミカが欲しいというので「じいじに買ってもらおうな」と言って事後承諾で買った。
そしてそれがじいじに買ってもらった最後のオモチャになった。
検査やら何やらで日中が過ぎ、夕方になった。
先生がやってきてモルヒネを打ちましょうと言った。
いよいよかと思った。
僕は実はなんとなくわかっていた。
たぶん父は今日、逝ってしまう。
今日なら僕もいるし、母もいるし、僕の妻も、父の孫もいる。
もうすぐ弟に子どもが産まれるので、そこまで頑張ってほしいとも思ったけれど、目の前にいる父の姿を見て、僕はもう頑張れとは言えない。
暗くなって、母が家に帰ると言う。
母も看病疲れでまいっている。
そして、少し我がままも言う。
母は明日病院に持ってくるものを紙にメモして
「お父さん、また明日ね」といって病室を出た。
父はモルヒネを打っているので目覚めなくてもおかしくないのだけれど、僕らがいる間に何度か目を覚ました。
妻に運転してもらって僕だけ残った方が良いかとも思ったけれど、なんとなく一緒に帰ってしまった。
もうすぐ春がやってくる風の強い日だった。
僕はジャンピングジャックフラッシュを口ずさんでいた。
僕はその日はビールを飲まなかった。
夜中になって電話が鳴って母が出た。
父が危篤。
やはり、と僕は思った。
母親と二人で病院に駆けつけた時はすでに父は事切れていた。
父は最後にきっと必死に「お母さん」といつものように呼んで探したんだろうなと思って、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。
人が死ぬ瞬間に手を握ることを仕事とする人が出てくる伊坂幸太郎の小説があるが、父の手を握ってやれなかった、母に手を握らせてやれなかったことを実は今でも後悔している。
告別式では僕があいさつをした。
そこでこんなことを言った。
父親との思い出はたくさんあるけれど、思い出というよりも、今でも例えや誇張ではなくて僕の身体の中に父親が存在していることを感じる。
子どもができて、僕も父親になって、父が僕の目を通して僕の子どもである僕を見ている。父と同じように僕は子どもを愛して、一緒に風呂に入り、子どもがご飯を食べる姿をうれしい思いで見ている。それは今まさに一緒に父親と僕が経験していることであって思い出ではない。だからいつまでも父は僕の中にいるんだと思う。
まあ、途中でつまっちゃってグダグダな挨拶だったのだけど、こんなことをみんなに伝えたいと思っていた。
今でもその思いは一緒だ。
俺は自分で食べるより子どもたちが食べるのを見ている方がお腹が一杯になるんだよ
っていつか父が言っていた。
まさしく僕もそう思う。
子どもの成長を日々感じながら、自分の父と過ごした半生をなぞっていっている。
そう考えるとさびしくはないけれど、同士として酒を飲みながら子どもの話を父とできたらいいなと思う。
俺の気持ちがわかっただろ
という父の声が聞こえてくる気がする。
僕はいつも思うんだけど、
親は子どもの百倍、子どもとの思い出を持っていると思う。
僕は自分が産まれた時の思い出はないけれど、子どもたちが産まれた日のことは今でも詳細に覚えている。
だから僕はもっと父と話して、たくさん思い出をつくれば良かったと後悔しているんだけど、父は僕が思う以上に僕との思い出を持っていてくれたんだろうなと思う。
死とは結局、生き残った者の思いなのだ。
僕はこれからも精一杯生きて、そして妻や子どもたちにも精一杯生きてくれることを望むだけだ。