のつづき。
対比の前提は、二つ以上の存在があること。
単品では対比のしようがないです。
ただし、「存在しそうな事」を想定すると、
その単品と「存在しそうな事」との対比ができます。
今回、検討するものは、
という雑な文面ではなく、
写真。
(今回の場合、文章よりも写真の方が、より明瞭に伝わるので)
当方は、有識者・専門家としてメディアに出演する人たちに、
多少なりとも面識あります。
そういう人たちはそれなりに、スケジュールに追われています。
なので、スタジオで写真をパシャリという時間的余裕は、乏しい。
特に、TV局内は時間にシビア。
そもそも、有識者・専門家たちは、雑多な仕事の一つとして、
顔を出しているに過ぎない。
ゆえに、有識者・専門家としてメディアに出演する人たちが、
スタジオ見学者の如く写真に納まっている姿は、
まず見かけません。
つまり、「存在しそうな事」そのものが不存在に近い。
上の写真の検討に戻ります。
そもそも、時間に追われるTV局内の者にカメラを持たせ、シャッターを切らせるなど、その者の時間を奪う行為です。言語道断です。
それでも、上の写真が撮影された。
ということは、上の写真は、村中璃子が宣伝活動の一環として、他者の時間を奪ってでも、宣伝用素材を作る必要に迫られている証左(或いは、村中璃子が単に図々しい)。
ちなみに、有識者・専門家としてメディアに出演する人たちのうち、
仕事に困っていない人たちは、そもそも宣伝の必要がない。
取材依頼のFAXを当方に見せて下さった某専門家の
「こういう依頼は鬱陶しいんだ」顔を
今でも覚えています。
補。
どの国のテレビでも別の場所にいる出演者を中継でつないで放送するのが当たり前になってしまいましたが、同じスタジオに出演者が集って収録できるようになる日はいつ来るのでしょう。テレワークが推奨されたままだけど、一緒にすることでよくなる仕事っていっぱいある
を書き直すと、
各国の放送局では今や、リモート中継が当たり前。演者がスタジオで一堂に会する機会はいつになるのでしょうか。テレワーク全盛の昨今、同じ場に集って成し遂げることで初めて、よりよい価値を生み出せる事、きっとある。
リモート中継、テレワークなどというタームを散らしつつ、冗長な表現を刈り取れは、締まりある文章になる。
村中は、高校生向けの小論文添削を受けるべき。
ちなみに、「出演者が集って収録」という部分は、他の出演者をスタジオ内の置物程度にしか見ていない上、撮影されることに快感を覚え始めている内心の表れ。
他の出演者に焦点を合わせると、
「演者がスタジオで一堂に会する」
「出演者一同、顔を合わせる」
などと各演者の動きを表出しようとするから。