② 北炭夕張への朝鮮人連行
侵略戦争の拡大による総動員体制の中で朝鮮人の徴用が計画されていった。北炭は一九三九年七月に朝鮮人動員に向けての申請の手続きを開始し、八月には北海道庁に二五〇〇人に及ぶ朝鮮人の「移入」の申請を提出した。
北炭は一〇月はじめから十二月の間に全羅北道、全羅南道、慶尚南道から約二四〇〇人以上を連行した。以後も連行がすすみ、札幌鉱山監督局の史料(「移入朝鮮人労務者逃走調」『戦前期北海道の史的研究』二二七頁所収)では一九三九年度分として、夕張と平和へ一六四七人、幌内へ五二三人、空知へは五八八人が連行されていった。連行は継続され、夕張(含む平和)へは一九四三年七月はじめまでに八千人ほどが連行された。敗戦までに北炭夕張へは約一万四千人、北炭平和へは約五千人が連行されたとみられる。北炭夕張への連行者を収容する寮は三〇ヶ所を超えた。北炭平和への連行者については一九四三年一月から一九四四年八月までの着山者名簿の一部が残っている。
夕張の北炭と三菱の各坑へと連行された朝鮮人の数は二万人を超えた。連行期の死者も五〇〇人を超えるとみられる。
北炭は朝鮮人労働者を「チロ」と呼び、連行を「連送」といった。連行途中で多くの逃亡者がでた。北炭の連行表をみると、そこには残数が示され、連行を実施した郡を再び訪れ、残数分の「供出」をおこなっている(『釜山往復』)。執拗な労働奴隷狩りがおこなわれたといっていい。
一九四四年六月に北炭夕張へと連行された全南霊光郡からの集団についてみてみよう。一九四四年五月三一日に北海道炭礦汽船の労務補導員が釜山の駐在員へと送った状況報告がある(北炭『釜山往復』・『北海道と朝鮮人労働者』七〇頁)。北炭の労務にとって、霊光郡は前年の一九四三年七月・九月にそれぞれ五〇人の「割当」を一〇〇パーセント送出した「優秀」な郡であった。このときの集団は幌内へと連行されている。
この報告には北方への徴用による連行状況が記されている。一九四四年五月に霊光郡で北方要員一〇〇名(軍要員とみられる)の徴用命令が出されたが、二一日「面ニテ強制的ニ連行セル者」の三六人しかそろわなかった。そのためさらに一二〇人を割り当て、警察や職員を総動員し、「寝込ヲ襲ヒ」「田畑二稼動中ノ者ヲ有無ヲ言ワサズ連行」し、二二日に八四人を集めて輸送したという。この北方要員に続く北炭への連行に際しても、五月二六日に六四人しか集まらなかった。郡庁へと「連行中逃走」する者や「老人(息子逃走身代リトシテ父親ヲ連行セル者)」、病人が多数あり、引き継いだのは四〇人となったが、無理な送出であったため「家族等ト郡職員及面職員トノ間二大乱闘」がおきた。その間に六人が逃走した。自動車に乗せるが、松汀里でさらに四人が逃走、列車でも一人が逃走、麗水で病気送還一人、結局連行できたのは二八人となった。
ここには北炭の労務担当者自身により、強制的な連行状況と現地での抵抗が記されている。この史料は朝鮮人強制連行の状況とそれへの抵抗を明確に示している。この史料は戦時下の労働奴隷狩りを物語るものである。北炭『釜山往復』には「チロ送出情報」という文書があり、各地での逃走の状態も記されている。十分な人員を揃えることができず、さらに逃走の多発によって北炭の現地幹部は徴用を願望するようになった。
ここで一九四四年三月末から九月初めまでの夕張への連行表を示しておく。この表から、この期間に二〇〇〇人を夕張へと連行したが、連行途中で五〇〇人以上が逃走していった実態がわかる。また一九四二年に連行された人びとの二年後の状態を示す史料も示す。二年前の連行者をみれば、その四分の一が減少していた。再契約強要への抗議の声も高まっていた。このなかで北炭は一九四四年八月と一〇月に夕張へとそれぞれ一〇〇〇人を超える連行を計画していったのである。
一九四四年八月一五日付の北炭釜山駐在員からの文書には「逃走者夥しき」ことを詫び、「毎日の送出に一憂又一憂」と嘆き、さらに連行に際し、論山では駐在巡査が殺され、扶余では面職員がナイフを胸部に向けられたことなどが記されている(『釜山往復』所収文書)。現地では連行に対する激しい抵抗が起きていたのである。
連行後、抵抗すると清心寮へと送る、あるいは下請けの組(今井組)へと送って拘束したケースもある。日本人労働者の証言には、一三歳で連行された朝鮮人もあったとし、伝染病などによる葬式が絶えなかったとするものがある(『北の語り』六、一九九一年)。
北海道石炭鉱業会が朝鮮料理屋の新設を北海道に要請したのは、連行が始まった一九三九年一〇月のことだった。四〇年三月には夕張で三軒が開設し一〇人の女性を連行している(西田秀子「戦時下北海道における朝鮮人『労務慰安婦』の成立と実態」)。一九四一年には福住の朝鮮人収容地帯に、四軒の「慰安所」があり、朝鮮人女性が十六人連行されていた。炭鉱病院で検診がおこなわれ、予防具が朝鮮人寮に無料で備え付けられた(『半島労務者勤労状況に関する調査報告』)。「慰安所」のひとつは「南亭」といった。
夕張への連行については、金善彬、安正玉、金昌模、新夕張・金容出、平和・姜明奉らの証言がある。
つぎに逃走した朝鮮人が殺害されその事実が隠蔽されたケースをみてみよう。北炭資料『争議関係』のなかに「移入半島人二対シ傷害致死事件発生二関スル件」(一九四四年五月二四日)という文書がある。逃走する朝鮮人が多いため、北炭夕張・北炭平和・三菱大夕張の三者は共同し、五月一〇日から六月二〇日の四二日間、九箇所に警戒員を駐屯させて監視した。
監視拠点のひとつが勇払郡安平村追分駅前(現追分町)の岩手屋旅館だった。警戒員は本安平炭鉱の木炭小屋に二~三人が隠れているという情報をえて、五月十一日に捜索したが、発見できなかった。翌十二日の早朝に捜索、逃走朝鮮人を発見し格闘となった。
このとき岩城在祥(一九二二年一月四日生まれ)はコマイの棒切れで前額を殴られた。かれは夕張炭鉱鉱山病院に運ばれたが、午後九時三〇分に死亡した。岩城は慶南の梁山郡から一九四三年九月二〇日に北炭平和(真谷地坑)へと連行され、真谷地第一協和寮に収容された。三人で五月十七日午前二時頃逃走したが、ともに逃走した金本仙徳(一九一六年九月生まれ)は捕えられ、岩城恵鎬(一九一八年十二月九日生まれ)は格闘の間に逃走した。
この傷害致死事件に対し、北炭平和・真谷地坑は本人の死を「絶対二秘シテ公表セヌコト」とした。このときに捕らえた金本は真相を発表するおそれがあるため警察に留置し、機会を見て北方へと「送廻」するよう話をつけた。また岩城の国元へは、逃走中に山中で負傷し加療中に心臓麻痺を併発して死亡したと通報することとした。そして警察へと照会があったときには同一歩調を取るように連絡した。
北炭平和へと梁山郡から六一人が連行されたのは一九四三年九月のことだった。このときの連行者名簿が残っている(『戦時外国人強制連行関係史料集Ⅲ朝鮮人二中』八七二頁)。名簿では三人とも熊上面の出身であり、氏名は岩城在龍(一九二二年一月十六日生まれ・開南里)、岩城眞鎬(一九一八年十二月九日生まれ・開南里)、金本千徳(一九一六年九月四日生まれ・召同里)となっている。
強制労働からの解放を求め逃走が増加した。逃走者を捕らえる際には殺傷事件も起きた。北炭は連行者の決起をおそれて真実を公表しなかった。殺傷事件は隠蔽された。虚偽の死因を遺族に通知し、警察と口裏をあわせた。真相を知るものを北方へと送って隔離した。この事件は朝鮮人を一人の人間として扱っていないことを示すものである。民族差別、強制労働と逃走者狩りの実態の一端を示すものといえるだろう。北方へと送られた連行朝鮮人がその後どうなったのかは不明である。逃走者のその後も不明である。
夕張の石炭博物館には朝鮮人中国人の強制連行についての記述があった。しかし夕張への連行者数や連行された人々の抵抗や、死亡者の状況についての細かな表記はない。
北炭の夕張炭鉱の跡地は石炭の歴史村となっている。歴史村に残る連行期の史跡としては「採炭救国の像」(一九四四年)、天龍坑坑口(一九〇〇年)、高松跨線橋(一九三六年)、鹿ノ谷倶楽部(一九一三年)、石炭分析所(一九一八年)などがある。清水沢には発電所(一九四一年改築)、滝之上の発電所(一九二四年)が残る。登川坑用の楓発電所(一九一三年)の建物も現存する(『そらち炭鉱遺産散歩』)。死亡者の状況をみていくと、残されたこれらの産業遺産は墓標ということもできる。
北炭平和・真谷地坑へと連行された中国人の墓碑が光聖寺にある。墓は墓地の奥にあり、中国人労務者之墓と刻まれていた。建立は一九四八年五月のことである。同様の墓碑が北炭角田坑(栗山町)の二岐共同墓地にある。真谷地へ連行された中国人は四一七人(内死亡六〇人)、角田へは二九二人(内死亡七六人)が連行された。墓碑はこれらの死者を追悼するものである。
三菱大夕張への中国人連行者についてみれば、二九二人(内死亡八五人)、下請けの地崎組へ三八八人(内死亡一四八人)となる。これらの死者を追悼するものはない。大夕張での連行朝鮮人についての史料は少ない。一九四二年六月までに一五〇〇人ほどが連行されている。死亡者数は不明である。三菱大夕張の井出組・酒井組にも連行朝鮮人がいた。
三菱大夕張に連行された朝鮮人は忠生寮や本立寮など五寮に収容された。全南からの連行者が多かったようである。連行寮の近くに「星の家」という慰安所がつくられた。後にみるようにここが抵抗の拠点となった。大夕張への連行については崔在浩(地崎組)、朴英培の証言がある。
三菱の大夕張跡は大きなダムの底に沈められた。それは労働者の歴史や強制連行という戦争犯罪を覆い隠す行為のように思われる。
大夕張に向かう廃駅に三菱のマークをつけた機関車が展示されている。そこに地域の保存会が「お願い!これ以上壊さないで」と記していた。産業遺産は地域の民衆の労働と生活の歴史や民衆の汗と命を吸い込んだものでもある。それらを保存することもなく、利益にならなくなれば破壊するという事例が三菱には多い。保存会の記した文字はそのような三菱資本のありように対する、地域住民の歴史と文化への思いを示しているように思われた。
北炭夕張・平和への連行については年月別の集団的連行の状況を北炭の史料とその後の研究からあきらかにすることができる。また死者の一部をあきらかにすることができる。ここでは判明した朝鮮人死亡者名を示し、紙の碑としたい。
③ 夕張での抵抗と解放後の朝鮮民族統一同盟の活動
夕張地区には二万人を越える朝鮮人が連行されてきたが、この夕張の炭鉱を中心に組織的な独立運動も展開された。
活動の中心となったのは、三菱大夕張井出組に連行された集団とともに渡日した安在浩(平山昌成)であった。かれは四三年一〇月に検挙されるが十一月取り調べ中に逃亡、十一月に天塩で再検挙された。かつては元山で活動し、井出組連行者の通訳として紹介されて大夕張に来た。
かれは井出組の朝鮮人や大夕張の連行者寮の全通訳、朝鮮料理屋(星の家)の支配人などを組織、そこを拠点にし、夕張地区に抵抗組織を広げ、北炭夕張の南亭の営業主や夕張炭鉱の通訳を仲間にしていった。さらに札幌などで朝鮮料理店を経営し息子が独立運動にかかわっていた孫邦柱と連携し、砂川、美唄、幾春別にも組織を拡げていったという。権力は組織的朝鮮独立運動とみなして、四三年から四四年にかけて関係者の検挙をすすめていった。
夕張地域を中心に、潜入する憲兵のスパイもいるなかで、連行者用通訳を仲間にし、連行者用の料理店(慰安所)を抵抗の拠点とした。多数の連行者の解放と朝鮮の独立をめざし、採炭のサボタージュをすすめながら、抵抗を組織していった。この状況については北炭「大夕張半島労務者思想問題二関スル件」に詳しい(北炭『争議関係』所収・守屋敬彦「アジア太平洋戦争下の被強制連行朝鮮人の反日独立闘争」に分析があり、原史料も紹介されている)。
連行が新たな抵抗を生んでいったものとして新潟鉄工所での活動がある。全南海南出身の松本一峰は夕張へと一九四三年六月に連行されたが逃走した。四五年三月には新潟鉄工所へと再度連行されている。かれは朝鮮人への差別や侮蔑のなかで民族意識に目覚め、現場からの逃走により軍需生産を阻害することをねらった。そして新潟鉄工所で連行者を組織して集団逃走を実行している(新潟県警察部特別高等課『内鮮関係書類綴』一九四五年・『朝鮮問題資料叢書』第十三巻,二四六頁以下)。
解放後の一〇月九日夕張で約四〇〇〇人が参加し朝鮮民衆大会が開かれ、朝鮮人労働組合(委員長崔桂洪)が結成された。組合によって性の奴隷とされていた女性たちも解放された。平和や登川では朝鮮人自治会が結成された。
一〇月中旬には北海道で朝鮮民族統一同盟が結成されるが、その委員長となったのは一〇月はじめに釈放された安在浩であり、かれとともにその活動を担ったのは孫邦柱や金興坤らであった。現場の朝鮮人・中国人は起ちあがり、帰国や生活条件の改善、賠償などの要求をだしてたたかっていった。
一九四二年頃全北から夕張へと連行された金吉龍は四四年ごろコンベアに巻き込まれ片腕を切断した。解放後、北炭はあとで支給するとし、障害年金額五一二円ほどの支給をしめす「厚生年金仮證書」を発行した。しかしその後の支給はない。金吉龍の「計画輸送帰鮮證明書」によれば一九四五年十一月二六日に夕張を出発している。遺族の事実確認要求に対して北炭は「記録がない」と対応し、謝罪や賠償の要求に対しては「私企業で対応すべき問題ではない」と拒否し、連行と労災に対して企業としての責任をとろうとはしなかった(「アジアを考える静岡フォーラムニュース」第一五号・一九九五年二月)。
戦後、鉱業会社は連行に関わっての被害を主張し、日本政府から補償金約二二九〇円を得た。『北海道と朝鮮人労働者』には北炭夕張炭鉱の朝鮮人への未払い金約五二万円が、四六年五月に連合国軍総司令部の口座へと供託されたことが記されている(四三五頁)。しかし、その供託された未払い金の清算については不明である。連行企業は政府から補償金を得たが、一方で連行被害者やその遺族への未払い金の支払いをおこなっていない。
おわりに
以上、石狩炭田での朝鮮人労働について幌内、赤平、歌志内、美唄、夕張の順にみてきた。この現地調査は主として二〇〇三年におこない、史料収集とともに北海道での強制連行期の朝鮮人死亡者名簿を作成した。
ここでみた以外に北海道には連行期の朝鮮人追悼碑が朱鞠内、置戸、釧路に、連行期前の追悼碑が札幌藻岩にある。
夕張の項でみたように、慰安所の経営や通訳として連行者へと強制労働を指示するといった抑圧する側へと組み込まれても、人間としての想いは涸れることなく脈打ち、解放と独立を求めての抵抗運動が形成されていった。権力の側は夕張の組織を弾圧したが、各地で朝鮮人が帰国や独立を求めて行動している。八・一五解放を経て、各地に朝鮮人組織が形成され、朝鮮民族統一同盟と連携して賠償と帰国を求めての活動をおこなっていった。
これらの活動は日本の民衆運動の抵抗史のなかでも光彩を放っている。より人間的であろうとし、よりよい関係性を求めて抵抗していった人々の歴史がここにある。人間としての希望をもっての歩みと戦時下の抵抗はアジア民衆の人権と平和につながる歴史であり、その地下水脈は枯れることなく今もあると思う。
最後に石狩炭田と朝鮮人労働について参考とした文献をあげる。
参考文献
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