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私達はどう生きて行けばいいのか 「答え」はいつも目の前にある 見えていないのは「問い」の方だ

2023年09月01日 13時14分13秒 | 災害の記憶

私達はどう生きて行けばいいのか

「答え」はいつも目の前にある 見えていないのは「問い」の方だ

  養老孟司(ようろうたけし)氏著

地震や津波は自然災害だが、福島第一原発の事故は完全な人災だ。携帯電話には防水機能があるのに、原発の電源装置はなぜ水に浸かると使い物にならなくなるのか。その根本が私にはまったく理解できない。東京電力は電気が専門の「電力会社」だ。これは、ものすごい手抜きである。

 原発が安全か危険かの議論をしている間に、本当の意昧での安全性が「嘘」になっていたのではないか。議論そのものが肝心な作業を妨げていたと言ってもいい。もっと悪く言うと、原発の反対派も推進派も、結果的に両者が共同して手を抜いていたということ。私が政治を嫌うのは、そういうところである。われわれの生活に関係があることは、賛成か反対かというイデオロギーで考えてはいけない。

 大切なのはトータルで物を見る総合的な合理性である。そういう意昧での「安心感」がない人が、非常に増えた。福島で起きたことは、部分合理性にしか目が向かなかった結果である。

 この震災が自分に問いかけているものは何なのか。最後は、教育に行き着く。長い間、アメリカ式の問題解決型の教育になっていた。自然を見るということが理解されなくなってきた。葉っぱはなぜ重なることなく配列されているのかと言えば、最大限の日照を得るためだ。その効率性はコンピューターで計算すれば何通りも答えは出るのかもしれないが、ともかく葉っぱは重なっていない。自然は初めから「答え」を出している。見えていないのは、なぜかという「問い」のほうだ。

 人生は何のためにあるのかという質問に意味がないのは、人生はいろいろな問題に対する答えだからだ。頭で「自分の人生は何なのだ」と考えても、絶対に答えは出てこない。

 震災をふまえた提言と言われると、ああすればいい、こうすればいいという話になる。それも、私からすれば根本から意見が違ってくる。千年にI度の大地震が起きた。その結果が目の前にある。けれども、被災者たち、われわれは、これからも生きていく。そのことに何ら変わりはない。

 拝すべきものは、「答え」ではない。この震災から「問われているもの」は何かということだ。

 

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東海地震に係る地震防災対策強化地域(市町村一覧)

2023年09月01日 13時10分41秒 | 歴史探訪

東海地震に係る地震防災対策強化地域(市町村一覧)

東京都新島村、神津島村、三宅村

神奈川県

平塚市、小田原市、茅ケ崎市、秦野市、厚木市、伊勢原市、海老名市、南足柄

市、寒川町、大磯町、二宮町、中井町、大井町、松田町、山北町、開成町、箱

根町、真鶴町、湯河原町

山梨県

甲府市、富士吉田市、塩山市、都留市、山梨市、大月市、韮崎市、春日居町、

牧丘町、勝沼町、大和村、石和町、御坂町、一宮町、八代町、境川村、中道町、

芦川村、豊富村、上九一色村、三珠町、市川大門町、六郷町、下部町、増穂町、

鰍沢町、中富町、早川町、身延町、南部町、富沢町、竜王町、敷島町、玉穂町、

昭和町、田富町、八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町、双葉町、

明野村、白州町、武川村、道志村、西桂町、忍野村、山中湖村、河口湖町、勝

山村、足和田村、鳴沢村、上野原町、秋山村、須玉町、高根町、長坂町、大泉

村、小淵沢町

長野県

岡谷市、飯田市、諏訪市、伊那市、駒ヶ根市、茅野市、下諏訪町、富士見町、

原村、高遠町、辰野町、箕輪町、飯島町、南箕輪村、中川村、長谷村、宮田村、

松川町、高森町、阿南町、阿智村、下條村、天龍村、泰阜村、喬木村、豊丘村、

大鹿村、上村、南信濃村

岐阜県 中津川市

静岡県

静岡市、浜松市、沼津市、清水市、熱海市、三島市、富士宮市、伊東市、島田

市、富士市、磐田市、焼津市、掛川市、藤枝市、御殿場市、袋井市、天竜市、

浜北市、下田市、裾野市、湖西市、東伊豆町、河津町、南伊豆町、松崎町、西

伊豆町、賀茂村、伊豆長岡町、修善寺町、戸田村、土肥町、函南町、韮山町、

大仁町、天城湯ケ島町、中伊豆町、清水町、長泉町、小山町、芝川町、富士川

町、蒲原町、由比町、岡部町、大井川町、御前崎町、相良町、榛原町、吉田町、

金谷町、川根町、中川根町、本川根町、大須賀町、浜岡町、小笠町、菊川町、

大東町、森町、春野町、浅羽町、福田町、竜洋町、豊田町、豊岡村、龍山村、

佐久間町、水窪町、舞阪町、新居町、雄踏町、細江町、引佐町、三ケ日町

愛知県

名古屋市、豊橋市、岡崎市、半田市、豊川市、津島市、碧南市、刈谷市、豊田

市、安城市、西尾市、蒲郡市、常滑市、新城市、東海市、大府市、知多市、知

立市、高浜市、豊明市、日進市、東郷町、長久手町、七宝町、美和町、甚目寺

町、大治町、蟹江町、十四山村、飛島村、弥富町、佐屋町、立田村、八開村、

佐織町、阿久比町、東浦町、南知多町、美浜町、武豊町、一色町、吉良町、幡

豆町、幸田町、額田町、三好町、設楽町、東栄町、津具村、鳳来町、作手村、

音羽町、一宮町、小坂井町、御津町、田原町、赤羽根町、渥美町

三重県

伊勢市、尾鷲市、鳥羽市、熊野市、長島町、木曽岬町、二見町、南勢町、南島

町、紀勢町、御薗村、浜島町、大王町、志摩町、阿児町、磯部町、紀伊長島町、

海山町

※ 下線のない市町村は、従来の地震防災対策強化地域6県167市町村。

※2 線は、追加指定した5都県96市町村。

計 8都県263市町村

 

山梨県

韮崎市、明野村、白州町、武村、須玉町、高根町、長坂町、大泉村、小淵沢町

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戦時中の空知における 朝鮮人、中国人の強制労働の実態

2023年09月01日 13時04分51秒 | 歴史探訪

戦時中の空知における 朝鮮人、中国人の強制労働の実態

  

  『歴史地理教育』歴史教育者協議会編集 19738 №214

      供野周夫氏著  一部加筆

 

北海道空知 朝鮮人の炭鉱労働者

 

強制連行された朝鮮人

 

 一九四〇年、朝鮮が日本の植民地なる前には、在日朝鮮人はわずか二二九人しか居なかった。しかし一九一〇年の「日韓併合」とともに、朝鮮人は「日本帝国国民」となり、安くて有能な朝鮮人労働者の供給地となった。

 「日韓併合」以前には「特に宗教、画家、陶工、織物工等は、日本にそれぞれの技術とか芸術品をもたらし、日本に定着して帰化した人も、かなりの数が歴史上に記載されている。それらの人たちの中には親目的か政治家や、いわば留学生などもあったわけですが、日本に定着する場合には、文化の面、技術の面で優れているということで、尊敬の眼(まなこ)を持って見られていたという。それが後にみられるような虐待、過酷な搾取、民旅的差別、侮蔑は、日本帝国主義のブルジョア氏族排外主義によるものであった。

朝鮮人の労働者は

 「無一文で来日したから、白分の労働力を売って生活しなければならなかった。在日朝鮮人に、植民地下の渡航という異常な形態をとおして、農民からプロレタリアートへの転化という歴史的過程をとらされた、といえよう。(「朝鮮近代史」渡部学編著」

 次に掲げる表一は強制連行した朝鮮人の人数であるが、それは正しく二十世紀の奴隷狩りに他ならない。日本の朝鮮支配、様々な植民地化支配の中でも類を見ないものであり、「あらゆる最新技術的発見と純アジア的拷問とを結びつけた前代未聞の残虐なやり方で朝鮮を略奪している。」同(レーニン全集)のであった。以下は空知における強制労働の実態を若干の資料をもとにして追及したものである。

 

 北海道空知における朝鮮人労働者の実態

 

空知における朝鮮人の使役については、既に一九一七年頃よりみられる。「三菱美唄炭鉱では大正六~八年(一九一七~一九)の好況と、太平洋戦争の二度にわたって大量に使用した。朝鮮人労働者は安全弁的な存在で、好況の波にのる資本家の労力不足を一時的に満たし、不況による企業の縮少には帰省をうながすという状態であった。」(三菱美唄炭鉱労働組合編著『炭鉱に生きる』岩波書店)

 以下したこの書から当時の状況をみると、大正六年には朝鮮から募集した労働者が一二四名も居た。これらの労働者は主に切羽で後山として働いていた。

日本帝国主義が他民族の侵略を開始してからは、この傾向が更に強くなる。すなわち、昭和十四年十月には四六一名、十五年には六八五名、十六年、九〇〇名、十七年、七〇〇名というように送り込んだ。

これらの朝鮮人は主に農村の素朴な青年が多かった。募集の方法は自己希望となっているが、戦争末期では強権を発動し、野良に出ている者を無理につれてくるという強奪同様の手段をとった。

 空知では、どの位の朝鮮人を働かせたかは正確にはわからない、が、畑田重夫氏は数十万、四十万とも六十万ともいわれている、とのべている。

空知では、どの位の朝鮮人を強制巡行したかについては定かではないが、一九四五年の存在していた朝鮮人の数を各市町村史、『北炭七十年史』を基に作成したものが次の表である。

  

『空知に於ける強制連行一覧表』 「一九四五年存在数」

   連行炭鉱所    連行者数 

   夕張炭鉱    7,300人

   平和      1,500人

   大夕張     3,200人

   真谷地鉱      838人

   三菱美唄    2,817人

   三井美唄    1,641人

   上砂川     3,109人

   住友赤平    1,159人

   三井芦別    1,947人

   歌志内鉱    2,504人

   上歌志内      805人

   空知鉱     2,504人

   新幌内鉱    1,489人

   幌内鉱     1,736人

   奔別鉱     1,174人

   弥生鉱       512人

   万字鉱       100人?

 

    計     44,577人

 

 表は、一つの年に在住した人数であるし、この外に強制労働をさせた雨龍浅野炭鉱、北炭万字炭鉱、美流浪炭鉱などは正確な資料が残っていないためつかめないし、また雨龍発電所の朱鞠内ダム工事などにも使役しているから、四万四千五百七十七名も一つの輪郭として、部分としてのみ押えられよう。

 

強制連行した朝鮮人 内務省警保局資料

 

年次        人数

1904        229

  1915      3,889

  1920     30,175

  1923     80,617

  1930    298,091

  1935    625,678

  1938    799,865

  1940  1,190,444

  1942  1.625,054

  1944  1,936,843

1945  2,365,263

  

  上記の資料は、朝鮮問題の研究には常に引用されているが、畑田重夫先生は,この資料そのものを批判的に検討することを教えている。

 

 炭鉱における 朝鮮人の使役の実態

 

「坑内における請負組夫は、タコ部屋といわれた土工請負の転化したものであった。しかし戦争末期では朝鮮人労働者が大半でこれらの組夫は突貫作業の坑道開さく、岩石掘進、水現場などのひどいところの作業をした。現場には棒頭がつき、逃亡を監視する見張員を坑道の要所に配置して作業をおこなっている部屋には厳重な囲いをほどこし、封建的奴隷労働さながらの鉄則に縛られていた。

リンチは所かまわず加えられる。例えば炭車が脱線するとそれを一人で直すことができないと腰が抜けるけるほど叩くなどは日常茶飯事であった。」(『炭鉱に生きる』)。

しかも、危険の比較的少ない坑外労働はできるだけ、日本人労働者に、危険の多い坑内労働は先山を除いて、できるだけ朝鮮人労働者にさせた。表は、三つの炭鉱の坑内と坑外の日本人と朝鮮人の対比であるが、この傾向は戦時中の絨竹中の今川鋲に共通していたのである。

 

表3 坑内と坑外の日本人と朝鮮人の   労働者の比較(S18年6月現在)

 

坑  内     坑   外

日本人  朝鮮人  日本人  朝鮮人

三菱美唄  2,459   2,216  2,092    93

三井美唄  1,294   1,507  1,004      134

北炭夕張  2,527   4,793  2,411       635

三井砂川  1,840   1,979  1,926       249

    「北海道炭鉱統計資料集成」

 

 元タコ部屋にて酷使さわた今善水さんは「朝鮮で浮浪児のようにブラブラしていたら警察につかまり、いい所に連れていってやるといわれて炭拡にきた。つく迄は何処に行くともなんともいわれなかった。着いた時は、二年たったら国に帰してやるといっていたが、二年たったら、戦争のため石炭を掘らなげれば負ける。この戦争に勝つために延期する、といわれた。仕事も危なくてひどい所は組に渡し、良くなった現場は会社にとられた。」と語っている。

  

  朝鮮人労働者に対する搾取政策

 

 「毎朝四時に起床、洗面して点呼を受け飯をかきこみ便所に行く間もない位に追い立てられ坑内電車に乗って現場まで急ぐ、日が経つにつれて飯がだんだん悪くなり----大根飯とか、人参飯になって、栄善失調でみる間に仲問は倒れて行った。先山と後山の二人の作業量は、坑道の一番危険な所に回さているにも拘らず、高さ六尺、幅五尺、長さ十二尺を掘り進んでいかなければならなかった。労働時間は平均十二時間で、夜遅くタコ部屋にもどると、雑談ができぬほど疲れ切ってしまった。(『日・韓・中国人民連帯の歴史と理論』日本朝鮮研究所)

 「当時は人間扱いされなかった。食べ物についていえば幹部の御飯は米、次は豆を入れた。最後には豆ばかりだった。労働時間は朝四時に起され九時過ぎまでが普通だった。」(金善永氏談)。

 これらはまさに奴隷的労働に外ならない。帝国主武者は、朝鮮人労働者を尚一層搾取するために、朝鮮人を手下に使うなど非常に巧妙に支配した。『三笠市史』はこの間の事情を「この人たちは五人ないし十人で一組を編成させ、二組ないし四組をもって一班とし、五班内外をもって一隊を編成させた。一七年からはこの役付者に朝鮮総督府抗割合の打合わせに基づく標準に準じて、隊長三十円、班長五円、組長三円の月額賞与を支給して、出稼増産を督励した、」とのべている。当時タコ部屋労働者の一日の賃金は三円十五銭、会社募集の朝鮮人労働者は一日五円であるからかなりな金額であった。

 

 炭鉱災害と朝鮮人の犠牲者

 

先に空知の炭鉱で使用した朝鮮人の数をまとめたが、炭鉱の災害で労働者が殺された時は必ず朝鮮人も殺された。美唄関係の坑内事故による主な死亡者数は、三菱、昭和十四年・五名、昭和十六年三月・百七十七名、昭和十九年五月・百九名、昭和二十二年・九名である。最も危険な坑内労働は朝鮮人を使役したのであるから、この内半分以上は朝鮮人であるはずだが、現在判明し判明しているのは次の表のとおりである。

 

朝鮮人の年次別死亡者数

 

美唄市の三菱・三井炭鉱分

 

   大正11年   1名

     12年   1名

   昭和12年   2名

     13年   1名

     15年   4名

     16年  43名 (内ガス爆発32名)

     17年  26名

     18年  31名

     19年  81名 (内ガス爆発42名)

     20年  13名

計 203名

 

  変動の激しい朝鮮人労働者

 

 朝鮮人労働者には、移転の自由など全然なかった。二年契約であったものも「戦争に勝つまでは----」という勝手な理由により強判労動が続けられた。重労働と差別に耐えられなくなって逃亡するものも少なくなかった。彼らが逃亡したとしようものなら「朝鮮にいる家族にまで国賊の烙印を押して差別待遇するなど、威嚇と懐柔をもって管理した。」のであった。逃亡したものがもし見つけられたりしようものなら、死を覚悟しなければならなかった。まさに命懸けの逃亡だったのである。

しかし危険をおしても逃亡する者が後を絶たなかった。タコ部屋から逃亡して見つからずにすんだ金善水氏は「タコ部屋の何が辛いかといったら、殴られたことでもなければ食う物が与えられなかったことでもない。一番辛かったのは差別だった。『こら半島、こら猿』といっては足で蹴られたり、殴られるのは普通だった。けがをしても炭鉱病院では、タコ用に玄関脇に、バラックの特別な小屋を作って、そこで手当をし た。逃げて捕まったら半殺しに合ったのを何回 も見ていて知っていたから、逃げるために随分研 究をした。そして病院に行く時は監視人が手薄なのを発見し、その時に逃げた。動機は〝腹一杯ものが「食べたい」「馬鹿にされたくない」という気持からだった。」と語っている。

 朝鮮人の変動の激しさを示すものの一つの例として、『三笠市史』は一つの資料を提供している。

坑外労働者が減少したのは、坑内に補充したと考えられるが、坑内、坑外共に減少していることは、事故による死亡、記録に残されないまま闇から闇に葬なり去られたか、逃亡かは今後の調査にまたなければならないにしても、一ヵ月の間での変動の激しさに、やはり異常な事態であったといえよう。

  

朝鮮人労働者の反抗と闘争

 

言葉が通じないうえに民族的差別の激しい中で、いつでもただ殴られ通しばかりではなかった。時としては団結し反抗したり闘った。しかしそれらには血の弾圧が常だった。空知での朝鮮人労働者の闘争の、一・二を紹介すると、大正年間三菱美唄では「日本人Sと一人の朝鮮人は空車の順番で口論となった。暫く争っていたが、Sは炭車の差しピンで朝鮮人の頭を殴った。殴られた朝鮮人は倒れてしまった。この争いが知らされるや切羽に居る朝鮮人は労働者約四十名は、ツル・スコップを持って駆けつけて来た。日本労働者はSの危険を感じ、いち早く運搬小屋へ避難させたが、集合した朝鮮人はSを入れた小屋の周囲を二十に囲んで、Sを出せと怒鳴った。休養中の仲間にも知れ、七・八十人が応募に集まった。会社では労務主任を先頭に、四・五人の係員が来て事件の鎮圧にあたった。労務主任は「持ち場に戻れ」と演説をしたが、一向に役に立たず、容易に解散する気配がないばかりでなく、益々強くSの連れ出しを迫った。会社係員は止む無く坑務室で話をしようと朝鮮人意に従い、Sを護りながら、運搬小屋を出た。坑務所入り口までくると、かねてしめし合した如く、Sを先に坑務所に入れ、先頭の四・五人を手荒く入れて、玄関を固く閉めたのである。窓越しに覗く大勢の朝鮮人の前で、なかの仲間は、腕節の強い係員に滅多打ちの制裁を受けた。係員は見せしめのために、これみよがしに棒を振った。

その勢いにのまれた戸外の朝鮮人達は誰一人押し入ろうする者はなく呆然と見守っていた。ややあって、労務係はこれらの人たちを引率して作業場へ連れていった。」(『炭鉱に生きる』)。

この事件は、労働者が集団で抗議した行動に対して徹底的に弾圧したのであった。

 

 夕張では、集団で砿長交渉を行ない要求項目の一定の獲得という成果を上げた。『夕張市史』はこの様子を次のように述べている。

「昭和に入ってからは、夕張砿所属大新抗では増炭を計画し、現場数に比較して多数の朝鮮人労務者を入坑させた爲、賃金が次第に低下し、労働者は内心不満を抱いていたところ、昭和二年七月二十九日、同坑で、朝鮮人坑夫二名が落盤圧死したことが動機となり、低賃金の上他坑より危険が多い、これを改善すべきであるとして、一番方坑内百二十四名は翌三十日結束して羅業に入り、賃金値上げ、設備改善の二要求を掲げて同砿事務所に押しかけ砿長と交渉した。

その結果砿長の交渉を入れ、朝鮮人代表金景項外三名を選定し、翌日さらに会社側と接衡を重ねることとして解散した。翌三十一日に会社側では

一、現場の人員配置は適当に考慰する。

二、賃金は可能の範囲において値上げする。

三、設備は速やかに改善する、

と回答したので坑夫側もこれに満足して、八月一目より全員就業し解決を見た。」とある。

 日本人労働者はただこれを傍観するのみであった。民族的差別と蔑視感が、共同した戦いに発展させるのを妨げていた。

 

 コンクリートの中に生き埋め、濁流に谷まれたタコ部屋の朝鮮人

 

空知の最北、名寄~深川間の深名線に囲まれるように両側ダム、別名朱鞠内湖がある。朝鮮人の生き埋めがあったのはこのダム工事の時であった。

雨舵ダムは戦時統制で統合され、現在は北海道電力に入っている。北電の水力発電所の総出力五三万三三六四KW(平時三九三〇KW)の発電量を誇るもので、昭和三年から、およそ十ヵ年の調査時期と約六ヵ年の工事期間をかけて完成した。

 ダム工事でどのような虐待か行なわれたかを、北海道在日朝鮮人の人権を守る会発行の小冊子第五集から当時の状況をみると、

半場の帳場をしていたY氏は、「あれをやったのは、朝鮮人ダコと日本人ダコですよ、今日は朝鮮人ダコが何人死んだ、昨日何人死んだ、という話は毎日だった」と述べている。

元タコ部屋の労働者ユン・ヨンワン氏が証言している内容を省略して紹介すると、そこで組立てする時に上にのぼり、ここから落ちたら、死ぬか片輪になるかのどっちかだ。決して助けには降りないで、そのままコンクリートを打ちこんで埋めてしまった。わしら同胞が、本当に何人あそこに埋められたか数え切れない。朝鮮人の飯場は殆どそうだった。同じ故郷から六人きたが、四人死んで二人残った。その一人もどこへ行ったかわからない。飯場で二人死んで、あとの二人は他所に引っ張られていかれて死んだ。」

 濁流に呑まれたタコ部屋は、美唄市で起きた。

 昭和十八年九月十一目美唄には八九・〇ミリの集中豪雨が襲った。美唄川上流の谷あいの狭い平地に建てられていた監獄部屋には、約百名近い朝鮮人が、タコとして閉じこめられていた。部屋の幹部は折からの豪雨と洪水で身の危険を感ずるや、我が身だけ部屋から脱出し、その時に厚い戸に外側から鍵をかけ独り裏の山手に逃げた。格子戸から手を出して、助けを叫ぶ「朝鮮人労務者」に目もくれなかった。幾十となく格子戸から必死に打ちふる手、そして叫び声を、水量を増した濁流は一瞬のうちに呑みこんでしまった。

目撃者のチョン・イムチン氏は「丁度水が増えてくるのに、自分達だけ外に出て、川の様子を見ていたのではないですか。早く開けてやれば裏が山だから逃れたのに。ところが出せば逃げると思って出さなかったんですよ。あくる目、水が退いてから、人を探しに行ってもいる者もなかった。目の前で殺されても、それを見ているだけのもので、言葉ひとつかけることもできなかった……。」

 なんという残酷なことか。これらの遺体は寺の過去帳にも載らず、結局、闇から闇に葬りさられたのだった。

 

中国人の炭鉱労働者

 

一九二〇年~一丸三〇年代の日本帝国主義は「世界を征服しようと思えば先ず中国を征服しなければならない。満蒙の利益をもとにして全中国の利益を取り、インド、南洋、中小アジア、ヨーロッパを征服する資としよう。」(『歴史教育の扱い方』大村書店)のもとに、いわゆる「満州事変」以来十五年にわたる日本帝国主流の中国侵略戦争中、三光政策による残虐行為かくり返され、中国人民千数百万人を殺傷し、さらに中国人三万八千九百三十五人を日本に強判連行し、六千八百三十人を死にいたらしめている。『北炭七十年史』は、その間の事情を「朝鮮人労務者の移入にも限界があったので、華人の使用も止むなしとすることに……当社には合計千二百二十三名が移入された」とのべている。つまり朝鮮人をさらいつくすだけさらいつくし、なおかつ足りなかったので中国人をさらってきたのである。

 中国人に対する扱いは、人間なみには扱かわれなかった。若干の資料に基づき当時の様子をみると、「被服は真冬でも薄い肌着一枚に編目の荒い作業服一枚、給食は麦粉入りの野菜粉食をこねたマントウ(饅頭)を与え、栄養の摂れない処へ量が少なかったので、ほとんどが骸骨のように痩せていた。作業現場の往復は監視付きで、空腹のあまり道路に転がっている馬鈴薯や大豆を生のままで口に入れ、甚だしきは草をむしって食べ、坑内の粘土をたべた。」(三菱炭鉱労組発行『炭鉱に生きる』岩波書店)

 同様のことは美唄ばかりではなく、芦別でもそうであった。「一粒のよごれた豆でも探しあてて食べていた事実を、私たちは涙なしでは語れない。」と前置きし当時の状況を「戦況はますます不利になりつつあった終戦の年だった。私たちが合宿所で食事をして、食べ残りを窓から投げ捨てると大勢の華人は我先にと争って走って来てそれを食べた。

炊事揚の流し尻で、水と炭殻の中に沈んでいる米や豆類を手で掬い上げ、その場で食べている姿も毎日見うけられた。----華人のなかには、栄養失調、凍傷などで作業が出来ず、途中で寮に帰る者が、三月~五月にかけて毎日一人や二人は出た。食料・煙草・その他の給与は、稼動成績で差があったと聞いていた。休養すれば半減されたことは言うまでもないことだった。」

 酷寒の二月、三月には『鉱業所には在庫なし』と称して、班長以外に地下足袋は履かず、藁(わら)で作った「ツマゴ」を素足に履かせた。もちろん、足に巻く布さえ与えず、手には、これも藁で作ったものをはめただけであった。大島常次郎『三井芦別物語』)とのべている。

 晩飯も米麦のようなものを与えたのではなく、大根のきり干しを塩で煮たものを茶わんに一杯だけしか与えなかった。(三菱美肌炭鉱の例)このような扱いは犬や描より劣っている。しぼるだけしぼり、働けるだけ働かせるというのが独占資本の政策であった。

  

 中国人の強制労働の実態

 

「作業は請負および日役の二本建で、原則として十時間二交替制をとった。出稼率は八十五・四%で、動作は鈍重であったが誠実に就労し、能率は日本人労務者に比べて十%程度であった。」(『北炭七十年史』)満足なものを食べさせもしないで、日本人労務者の七割もの能率を上げさせるのであるから、ちょっとでも休もうものなら必ず棍棒のあらしがとんだ。三菱美唄鉱で中国人を使役したN氏は「炭車を三人で押させ、それが動かないとたくさんの中国人が手伝いにくる。すると、そんなもの三人で動かせないのか、とぶんなぐった。」と述懐している。

『北炭七十年史』は「華人労務者は長期の戦争に疲弊していたので、入山当時すでに栄養におちいり、一般に疾病に対し抵抗力を消耗したものが多かった----一カ月の休養期間を設けた----」

としているが、休養期間といっても体力を回復させるための休養ではなく、軍事訓練、作業訓練が主であったことを忘れてはならないし、また採炭や掘り進みなどの重労働はさせなかったと解すべきであろう。

さもなければ後にみるような大量の死亡者か出るはずはないであろう。

 

  強制連行と死亡の実態

 

 前に述べたように、中国人に対しては人並みには扱われなかった。栄養失調や不衛生からくる発疹チフスその他の発病者が続出し----牝片孔増加の一途をたどった。「不慣れな作業に食事の不足、防寒衣料の配給不足のため凍傷患者が続出し、不衛生からは発疹チフスその他の発病者か続出し……」(『三井芦別炭鉱物語』)「彼らはボロのような衣類をまとい、食糧も極めて悪くて乞食同然の有様であった。昼食はマントウ二つであった。血色が悪く、隊を組んでいる姿は、見るもあわれな姿であった。栄養失調から死ぬものも続出し、上砂川火葬場であずかった霊は四十六霊となっているが、実際にはもっと死亡者が多かったのではないかと推定される。」(『上砂川町史』)とある。

 三菱美唄炭鉱で、ある組の帳場をしていたA氏は

 「あの当時は随分ひどいことをした。仕事が鈍いといってぶんなぐり、リンチで殺したとなったら問題になるのでグッタリとなっているのを飯場においてきた。翌日死んでいても病死になった。」と述懐していたが、これらの諸要因が組み合わされて死亡率四十五%(三井芦別炭鉱川口組)三十五・八%(三井芦別炭鉱)など常識では考えられない数字が並んでいる。

 

中国人の「俘虜」については、生きている時の虐待、差別だけに終わらず死後においても貫ぬかれた。美唄の三井炭鉱では病死した中国人を火葬場でなく人里離れた山中で火葬にしている。この残酷な扱いは中国人を人として扱わなかった例の一つである。空知全体で中国人の投入は六千六百六十三名、内死亡者は千七百十七名であり、死亡率二十五%にものぼっている。この事実に対して、酷使した資本の代表はどのような感覚を持っていたか。以下美唄炭鉱五代所長西村謙次郎の『想い出の記』なるものを引用しよう。「美唄炭鉱は外人俘虜収容の本部となり、総指揮官として古賀大佐が着任し……彼は古武士的な老人で、俘虜を遇するに所謂日本武士道的温情にて彼らに接した。----私の方針も大佐の方針にならって決して残酷な取扱いせぬよう指示し実行した。……」

 あいた口が塞がらない、というのはこのようなことを指すのだろう。この回想なるものを、『美唄市史』では無批判にのせ『歌志内市史』では北京独占の代表者の回想をのせている。歴史を書く者の言くものの史観以前の問題かこれらの市史は提起していて興味深い。

 

  連帯感の強い中国人労働者

 

以上みてきたように、中国人労働者に対する扱かいは牛馬にも劣るものであったが、中国人労働者の中には八路軍の影響もかなりあり、帝国主義者と日本人民とを区別して考えていた。中国人民の解放を勝ちとる以前の八路軍のその感度は非常に教訓的である。すなわち戦後労働組合づくりの準備をはじめた時、中国人労働者が資金カンパをもって激励にかけつけてきた。「大和寮(中同人寮)書記長の張連栄(八踏軍少尉)は、労働組合の結成に賛意を表し、準備資金にと三百円のカンパを贈った。また準備会には大和寮の中国人がコックを連れて激励にきた。……『本国に帰ったら君達のように労働者の解放のためにたたかう』ことを誓い、固い握手をかわされた。」(『炭鉱に生きる』)のである。

 

 帝国主義w者の中国侵略に命をかけて戦った日本人民の数々、帝国主義者による非人道的な虐待の数々……。この張連栄の行為もプロレタリア国際主流の気高さを示している。

 

おわりに

 空知の炭鉱地帯を中心に、帝国生辰、軍国主義というものはどんなに非人間的な残虐性を示すものであるか、また空知の石炭産業を発展させたのはどのような階級の人たちであったかを考えてきた。

空知の石炭産業の全発展の行程は、日本人の労働者ばかりではなく、中国人の労働者、わけても朝鮮人の労働者の「哀号、哀号」という血涙の上に成り立っているといっても過言ではない。

 この小稿では紙数の関係上、目本の労働者に対する労働強化・搾取の実態についてはふれなかったが「他民族を抑圧するものは自らも自由でない。」というエソゲルスの教えは常に貫徹されていた。私たちは帝国士族支配下の事実から学び、再び帝国士族、帝国主義復活を許してはならない。そのためにも、もっともっと日本帝国主義の戦争責任、自民族ばかりでなく他氏族に対する虐待の事実を発掘する必要があろう。昨年、一昨年と二年にわたり北教組教研の人権と民族分科会で訴えたが、歴教協会員や他同体の進歩的教師により調査活動が展開し、昨年は一昨年に比較して室蘭と小清水支部から報告宵が提出された。美唄においても、目弁連の強制連行真相調査団が現地調査に来たことも契機の一つとなって、五月には歴教協会

員と社会科教師五名がタコ部屋の流失現場を調査し、共同研究の芽生えが出ている。さらに各地域の共同研究に発展することを切に望んで筆をおく。 (北海遊歴教協)

 

 

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爆投下 トルーマン声明 昭和二十年八月六日

2023年09月01日 13時02分37秒 | 歴史探訪

原爆投下 トルーマン声明 昭和二十年八月六日
  
トルーマン大統領声明

           ホワイトハウス新聞発表
              一九四五年八月六日
    
合衆国大統領の声明

 一六時間前、米国航空機一機が日水陸車の重要基地である広島に爆弾一発を投下した。
その爆弾は、TNT火薬二万トン以上の威力をもつものであった。それは、戦争史上これまでに使用された爆弾のなかで最も大型である。
英国の「グランド・スラム」の爆発力の二〇〇〇倍を超えるものであった。
 日本は、パールハーバーにおいて空から戦争を開始した。彼らは、何倍もの報復をこうむった。にもかかわらず、決着はまだついていない。
この爆弾によって、今やわれわれは新たな革命的破壊力を加え、わが軍隊の戦力をさらに一層増強した。これらの爆弾は、現在の型式のものがいま生産されており、もっとはるかに強力なものも開発されつつある。それは原子爆弾である。宇宙に存在する基本的な力を利用したものである。太陽のエネルギー源になっている力が、極東に戦争をもたらした者たちに対して放たれたのである。(中略)
 今やわれわれは、日本のどの都市であれ、地上にあるかぎり、すべての生産企業を、これまでにもまして迅速かつ徹底的に壊滅させる態勢を整えている。われわれは、日本の港湾施設、工場、通信交通手段を破壊する。
誤解のないように言えば、われわれは、目本の戦争遂行能力を完全に破壊する。
 七月二十六日付最後通告がポツダムで出されたのは、全面的破滅から日本国明を救うためであった。
彼らの指導者は、たちどころにその通告を拒否した。もし彼らが今われわれの条件を受け容れなければ、
空から破滅の弾雨が降り注ぐものと覚悟すべきであり、それは、この地上でかつて経験したことのない
ものとなろう。
この空からの攻撃に続いて海軍および地上軍が、日本の指導者がまだ見たこともないほどの大兵力と、彼らにはすでに十分知られている戦闘技術とをもって進攻するであろう。

(出典)山際晃・立花誠逸編『資料マンハッタン計画』

一九九三年、大月書店、六〇五~六〇七ページ。

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北炭夕張への朝鮮人連行

2023年09月01日 12時56分25秒 | 歴史探訪

② 北炭夕張への朝鮮人連行

 侵略戦争の拡大による総動員体制の中で朝鮮人の徴用が計画されていった。北炭は一九三九年七月に朝鮮人動員に向けての申請の手続きを開始し、八月には北海道庁に二五〇〇人に及ぶ朝鮮人の「移入」の申請を提出した。

北炭は一〇月はじめから十二月の間に全羅北道、全羅南道、慶尚南道から約二四〇〇人以上を連行した。以後も連行がすすみ、札幌鉱山監督局の史料(「移入朝鮮人労務者逃走調」『戦前期北海道の史的研究』二二七頁所収)では一九三九年度分として、夕張と平和へ一六四七人、幌内へ五二三人、空知へは五八八人が連行されていった。連行は継続され、夕張(含む平和)へは一九四三年七月はじめまでに八千人ほどが連行された。敗戦までに北炭夕張へは約一万四千人、北炭平和へは約五千人が連行されたとみられる。北炭夕張への連行者を収容する寮は三〇ヶ所を超えた。北炭平和への連行者については一九四三年一月から一九四四年八月までの着山者名簿の一部が残っている。

夕張の北炭と三菱の各坑へと連行された朝鮮人の数は二万人を超えた。連行期の死者も五〇〇人を超えるとみられる。

北炭は朝鮮人労働者を「チロ」と呼び、連行を「連送」といった。連行途中で多くの逃亡者がでた。北炭の連行表をみると、そこには残数が示され、連行を実施した郡を再び訪れ、残数分の「供出」をおこなっている(『釜山往復』)。執拗な労働奴隷狩りがおこなわれたといっていい。

一九四四年六月に北炭夕張へと連行された全南霊光郡からの集団についてみてみよう。一九四四年五月三一日に北海道炭礦汽船の労務補導員が釜山の駐在員へと送った状況報告がある(北炭『釜山往復』・『北海道と朝鮮人労働者』七〇頁)。北炭の労務にとって、霊光郡は前年の一九四三年七月・九月にそれぞれ五〇人の「割当」を一〇〇パーセント送出した「優秀」な郡であった。このときの集団は幌内へと連行されている。

この報告には北方への徴用による連行状況が記されている。一九四四年五月に霊光郡で北方要員一〇〇名(軍要員とみられる)の徴用命令が出されたが、二一日「面ニテ強制的ニ連行セル者」の三六人しかそろわなかった。そのためさらに一二〇人を割り当て、警察や職員を総動員し、「寝込ヲ襲ヒ」「田畑二稼動中ノ者ヲ有無ヲ言ワサズ連行」し、二二日に八四人を集めて輸送したという。この北方要員に続く北炭への連行に際しても、五月二六日に六四人しか集まらなかった。郡庁へと「連行中逃走」する者や「老人(息子逃走身代リトシテ父親ヲ連行セル者)」、病人が多数あり、引き継いだのは四〇人となったが、無理な送出であったため「家族等ト郡職員及面職員トノ間二大乱闘」がおきた。その間に六人が逃走した。自動車に乗せるが、松汀里でさらに四人が逃走、列車でも一人が逃走、麗水で病気送還一人、結局連行できたのは二八人となった。

ここには北炭の労務担当者自身により、強制的な連行状況と現地での抵抗が記されている。この史料は朝鮮人強制連行の状況とそれへの抵抗を明確に示している。この史料は戦時下の労働奴隷狩りを物語るものである。北炭『釜山往復』には「チロ送出情報」という文書があり、各地での逃走の状態も記されている。十分な人員を揃えることができず、さらに逃走の多発によって北炭の現地幹部は徴用を願望するようになった。

ここで一九四四年三月末から九月初めまでの夕張への連行表を示しておく。この表から、この期間に二〇〇〇人を夕張へと連行したが、連行途中で五〇〇人以上が逃走していった実態がわかる。また一九四二年に連行された人びとの二年後の状態を示す史料も示す。二年前の連行者をみれば、その四分の一が減少していた。再契約強要への抗議の声も高まっていた。このなかで北炭は一九四四年八月と一〇月に夕張へとそれぞれ一〇〇〇人を超える連行を計画していったのである。

一九四四年八月一五日付の北炭釜山駐在員からの文書には「逃走者夥しき」ことを詫び、「毎日の送出に一憂又一憂」と嘆き、さらに連行に際し、論山では駐在巡査が殺され、扶余では面職員がナイフを胸部に向けられたことなどが記されている(『釜山往復』所収文書)。現地では連行に対する激しい抵抗が起きていたのである。

連行後、抵抗すると清心寮へと送る、あるいは下請けの組(今井組)へと送って拘束したケースもある。日本人労働者の証言には、一三歳で連行された朝鮮人もあったとし、伝染病などによる葬式が絶えなかったとするものがある(『北の語り』六、一九九一年)。

北海道石炭鉱業会が朝鮮料理屋の新設を北海道に要請したのは、連行が始まった一九三九年一〇月のことだった。四〇年三月には夕張で三軒が開設し一〇人の女性を連行している(西田秀子「戦時下北海道における朝鮮人『労務慰安婦』の成立と実態」)。一九四一年には福住の朝鮮人収容地帯に、四軒の「慰安所」があり、朝鮮人女性が十六人連行されていた。炭鉱病院で検診がおこなわれ、予防具が朝鮮人寮に無料で備え付けられた(『半島労務者勤労状況に関する調査報告』)。「慰安所」のひとつは「南亭」といった。

夕張への連行については、金善彬、安正玉、金昌模、新夕張・金容出、平和・姜明奉らの証言がある。

つぎに逃走した朝鮮人が殺害されその事実が隠蔽されたケースをみてみよう。北炭資料『争議関係』のなかに「移入半島人二対シ傷害致死事件発生二関スル件」(一九四四年五月二四日)という文書がある。逃走する朝鮮人が多いため、北炭夕張・北炭平和・三菱大夕張の三者は共同し、五月一〇日から六月二〇日の四二日間、九箇所に警戒員を駐屯させて監視した。

監視拠点のひとつが勇払郡安平村追分駅前(現追分町)の岩手屋旅館だった。警戒員は本安平炭鉱の木炭小屋に二~三人が隠れているという情報をえて、五月十一日に捜索したが、発見できなかった。翌十二日の早朝に捜索、逃走朝鮮人を発見し格闘となった。

このとき岩城在祥(一九二二年一月四日生まれ)はコマイの棒切れで前額を殴られた。かれは夕張炭鉱鉱山病院に運ばれたが、午後九時三〇分に死亡した。岩城は慶南の梁山郡から一九四三年九月二〇日に北炭平和(真谷地坑)へと連行され、真谷地第一協和寮に収容された。三人で五月十七日午前二時頃逃走したが、ともに逃走した金本仙徳(一九一六年九月生まれ)は捕えられ、岩城恵鎬(一九一八年十二月九日生まれ)は格闘の間に逃走した。

この傷害致死事件に対し、北炭平和・真谷地坑は本人の死を「絶対二秘シテ公表セヌコト」とした。このときに捕らえた金本は真相を発表するおそれがあるため警察に留置し、機会を見て北方へと「送廻」するよう話をつけた。また岩城の国元へは、逃走中に山中で負傷し加療中に心臓麻痺を併発して死亡したと通報することとした。そして警察へと照会があったときには同一歩調を取るように連絡した。

北炭平和へと梁山郡から六一人が連行されたのは一九四三年九月のことだった。このときの連行者名簿が残っている(『戦時外国人強制連行関係史料集Ⅲ朝鮮人二中』八七二頁)。名簿では三人とも熊上面の出身であり、氏名は岩城在龍(一九二二年一月十六日生まれ・開南里)、岩城眞鎬(一九一八年十二月九日生まれ・開南里)、金本千徳(一九一六年九月四日生まれ・召同里)となっている。

強制労働からの解放を求め逃走が増加した。逃走者を捕らえる際には殺傷事件も起きた。北炭は連行者の決起をおそれて真実を公表しなかった。殺傷事件は隠蔽された。虚偽の死因を遺族に通知し、警察と口裏をあわせた。真相を知るものを北方へと送って隔離した。この事件は朝鮮人を一人の人間として扱っていないことを示すものである。民族差別、強制労働と逃走者狩りの実態の一端を示すものといえるだろう。北方へと送られた連行朝鮮人がその後どうなったのかは不明である。逃走者のその後も不明である。

夕張の石炭博物館には朝鮮人中国人の強制連行についての記述があった。しかし夕張への連行者数や連行された人々の抵抗や、死亡者の状況についての細かな表記はない。

北炭の夕張炭鉱の跡地は石炭の歴史村となっている。歴史村に残る連行期の史跡としては「採炭救国の像」(一九四四年)、天龍坑坑口(一九〇〇年)、高松跨線橋(一九三六年)、鹿ノ谷倶楽部(一九一三年)、石炭分析所(一九一八年)などがある。清水沢には発電所(一九四一年改築)、滝之上の発電所(一九二四年)が残る。登川坑用の楓発電所(一九一三年)の建物も現存する(『そらち炭鉱遺産散歩』)。死亡者の状況をみていくと、残されたこれらの産業遺産は墓標ということもできる。

北炭平和・真谷地坑へと連行された中国人の墓碑が光聖寺にある。墓は墓地の奥にあり、中国人労務者之墓と刻まれていた。建立は一九四八年五月のことである。同様の墓碑が北炭角田坑(栗山町)の二岐共同墓地にある。真谷地へ連行された中国人は四一七人(内死亡六〇人)、角田へは二九二人(内死亡七六人)が連行された。墓碑はこれらの死者を追悼するものである。

三菱大夕張への中国人連行者についてみれば、二九二人(内死亡八五人)、下請けの地崎組へ三八八人(内死亡一四八人)となる。これらの死者を追悼するものはない。大夕張での連行朝鮮人についての史料は少ない。一九四二年六月までに一五〇〇人ほどが連行されている。死亡者数は不明である。三菱大夕張の井出組・酒井組にも連行朝鮮人がいた。

三菱大夕張に連行された朝鮮人は忠生寮や本立寮など五寮に収容された。全南からの連行者が多かったようである。連行寮の近くに「星の家」という慰安所がつくられた。後にみるようにここが抵抗の拠点となった。大夕張への連行については崔在浩(地崎組)、朴英培の証言がある。

三菱の大夕張跡は大きなダムの底に沈められた。それは労働者の歴史や強制連行という戦争犯罪を覆い隠す行為のように思われる。

大夕張に向かう廃駅に三菱のマークをつけた機関車が展示されている。そこに地域の保存会が「お願い!これ以上壊さないで」と記していた。産業遺産は地域の民衆の労働と生活の歴史や民衆の汗と命を吸い込んだものでもある。それらを保存することもなく、利益にならなくなれば破壊するという事例が三菱には多い。保存会の記した文字はそのような三菱資本のありように対する、地域住民の歴史と文化への思いを示しているように思われた。

北炭夕張・平和への連行については年月別の集団的連行の状況を北炭の史料とその後の研究からあきらかにすることができる。また死者の一部をあきらかにすることができる。ここでは判明した朝鮮人死亡者名を示し、紙の碑としたい。

 

③ 夕張での抵抗と解放後の朝鮮民族統一同盟の活動

夕張地区には二万人を越える朝鮮人が連行されてきたが、この夕張の炭鉱を中心に組織的な独立運動も展開された。

活動の中心となったのは、三菱大夕張井出組に連行された集団とともに渡日した安在浩(平山昌成)であった。かれは四三年一〇月に検挙されるが十一月取り調べ中に逃亡、十一月に天塩で再検挙された。かつては元山で活動し、井出組連行者の通訳として紹介されて大夕張に来た。

かれは井出組の朝鮮人や大夕張の連行者寮の全通訳、朝鮮料理屋(星の家)の支配人などを組織、そこを拠点にし、夕張地区に抵抗組織を広げ、北炭夕張の南亭の営業主や夕張炭鉱の通訳を仲間にしていった。さらに札幌などで朝鮮料理店を経営し息子が独立運動にかかわっていた孫邦柱と連携し、砂川、美唄、幾春別にも組織を拡げていったという。権力は組織的朝鮮独立運動とみなして、四三年から四四年にかけて関係者の検挙をすすめていった。

 夕張地域を中心に、潜入する憲兵のスパイもいるなかで、連行者用通訳を仲間にし、連行者用の料理店(慰安所)を抵抗の拠点とした。多数の連行者の解放と朝鮮の独立をめざし、採炭のサボタージュをすすめながら、抵抗を組織していった。この状況については北炭「大夕張半島労務者思想問題二関スル件」に詳しい(北炭『争議関係』所収・守屋敬彦「アジア太平洋戦争下の被強制連行朝鮮人の反日独立闘争」に分析があり、原史料も紹介されている)。

連行が新たな抵抗を生んでいったものとして新潟鉄工所での活動がある。全南海南出身の松本一峰は夕張へと一九四三年六月に連行されたが逃走した。四五年三月には新潟鉄工所へと再度連行されている。かれは朝鮮人への差別や侮蔑のなかで民族意識に目覚め、現場からの逃走により軍需生産を阻害することをねらった。そして新潟鉄工所で連行者を組織して集団逃走を実行している(新潟県警察部特別高等課『内鮮関係書類綴』一九四五年・『朝鮮問題資料叢書』第十三巻,二四六頁以下)。

解放後の一〇月九日夕張で約四〇〇〇人が参加し朝鮮民衆大会が開かれ、朝鮮人労働組合(委員長崔桂洪)が結成された。組合によって性の奴隷とされていた女性たちも解放された。平和や登川では朝鮮人自治会が結成された。

一〇月中旬には北海道で朝鮮民族統一同盟が結成されるが、その委員長となったのは一〇月はじめに釈放された安在浩であり、かれとともにその活動を担ったのは孫邦柱や金興坤らであった。現場の朝鮮人・中国人は起ちあがり、帰国や生活条件の改善、賠償などの要求をだしてたたかっていった。

一九四二年頃全北から夕張へと連行された金吉龍は四四年ごろコンベアに巻き込まれ片腕を切断した。解放後、北炭はあとで支給するとし、障害年金額五一二円ほどの支給をしめす「厚生年金仮證書」を発行した。しかしその後の支給はない。金吉龍の「計画輸送帰鮮證明書」によれば一九四五年十一月二六日に夕張を出発している。遺族の事実確認要求に対して北炭は「記録がない」と対応し、謝罪や賠償の要求に対しては「私企業で対応すべき問題ではない」と拒否し、連行と労災に対して企業としての責任をとろうとはしなかった(「アジアを考える静岡フォーラムニュース」第一五号・一九九五年二月)。 

戦後、鉱業会社は連行に関わっての被害を主張し、日本政府から補償金約二二九〇円を得た。『北海道と朝鮮人労働者』には北炭夕張炭鉱の朝鮮人への未払い金約五二万円が、四六年五月に連合国軍総司令部の口座へと供託されたことが記されている(四三五頁)。しかし、その供託された未払い金の清算については不明である。連行企業は政府から補償金を得たが、一方で連行被害者やその遺族への未払い金の支払いをおこなっていない。

 

おわりに

 

以上、石狩炭田での朝鮮人労働について幌内、赤平、歌志内、美唄、夕張の順にみてきた。この現地調査は主として二〇〇三年におこない、史料収集とともに北海道での強制連行期の朝鮮人死亡者名簿を作成した。

ここでみた以外に北海道には連行期の朝鮮人追悼碑が朱鞠内、置戸、釧路に、連行期前の追悼碑が札幌藻岩にある。

夕張の項でみたように、慰安所の経営や通訳として連行者へと強制労働を指示するといった抑圧する側へと組み込まれても、人間としての想いは涸れることなく脈打ち、解放と独立を求めての抵抗運動が形成されていった。権力の側は夕張の組織を弾圧したが、各地で朝鮮人が帰国や独立を求めて行動している。八・一五解放を経て、各地に朝鮮人組織が形成され、朝鮮民族統一同盟と連携して賠償と帰国を求めての活動をおこなっていった。

これらの活動は日本の民衆運動の抵抗史のなかでも光彩を放っている。より人間的であろうとし、よりよい関係性を求めて抵抗していった人々の歴史がここにある。人間としての希望をもっての歩みと戦時下の抵抗はアジア民衆の人権と平和につながる歴史であり、その地下水脈は枯れることなく今もあると思う。

 

最後に石狩炭田と朝鮮人労働について参考とした文献をあげる。 

 

参考文献

日本鉱山協会「半島人労務者に関する調査報告」(『朝鮮問題資料叢書』二アジア問題研究所)

労働科学研究所『半島労務者勤労状況に関する調査報告』一九四三年

「美唄朝鮮人関係死亡者調査書」一九三九~一九四五年分 朝鮮人強制連行真相調査団蔵

「鑛夫名簿」(北炭幌内炭鉱万字坑美流渡坑分)同調査団蔵 

「北炭平和・新幌内関係朝鮮人名簿」(北炭の朝鮮募集関係綴からの抄録分)同調査団蔵

「住友上歌志内坑朝鮮人名簿」(住友歌志内礦業部「半島礦員文書綴(一)労務」所収名簿からの抄録分)同調査団蔵

大日本産業報国会『殉職産業人名簿』一九四二年ころ 同調査団蔵

北炭「釜山往復」「争議関係」北海道大学図書館蔵

金興坤「怒りの海峡」(『人間雑誌』七草風館)一九八一年

朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』四・五 三一書房一九七六年

朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』十三 アジア問題研究所一九九〇年

長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』Ⅰ緑蔭書房一九九二年

 石炭統制会労務部京城事務所「半島人労務者供出状況調」一九四三年分

 石炭統制会「労務者移動状況調」一九四三年五月

 石炭統制会「県別炭砿労務者移動調」一九四三年六~九月

 石炭統制会「労務状況速報」一九四三年一〇~一九四四年七月

 石炭統制会「雇入解雇及就業率調」一九四四年八・一〇~十二月

 石炭統制会「主要炭砿給源種別現在員表」一九四四年七・九月

 石炭統制会「給源種別労務者月末現在員調」一九四四年八・一〇~十二月

長澤秀編『戦時下強制連行極秘資料集』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 緑蔭書房一九九六年

 Ⅰ石炭統制会北海支部「北海道各炭鉱別労働者数調」一九四五年六月

北海地方商工局「北海道各炭鉱別労働者数調」一九四五年七月

 Ⅱ住友歌志内礦業部「半島礦員文書綴(一)労務」一九四〇年度

  住友歌志内礦業部「半島礦員関係 許可申請外」一九四〇年七~十一月

  住友新歌志内礦「半島礦員就業日報」一九四〇年三~十二月

 Ⅲ住友歌志内礦業部「半島礦員募集関係(往復文書)」一九四〇年六~八月

  住友上歌志内砿「半島関係稟議及検認」一九四一年六~一九四二年十二月(含む名簿)

  住友上歌志内砿「雑書類」一九四五年

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行強制労働の記録 北海道千島樺太編』現代史出版会一九七四年

朝鮮人強制連行実態調査報告書編集委『北海道と朝鮮人労働者』札幌学院大学生活協同組合一九九九年

北海道在日朝鮮人の人権を守る会『ホッカイドー!ホッカイドー!生きて再び帰れぬ地』一九七二年

渡辺惣蔵『北海道社会運動史』レポート社一九六六年

北海道総合文化開発機構『北海道開拓殉難者調査報告書』一九九一年

「北海道開拓殉難者調査報告書」調査資料 北海道公文書館蔵

加藤博史編『戦時外国人強制連行関係史料集』Ⅲ朝鮮人2中 一九九一年

  加藤博史「北海道炭礦汽船株式会社のあゆみ」

  北炭関係史料 (募集・着山名簿・労務管理・帰国)

  「朝鮮人動向日誌」一九四五年一〇~四六年一月

「北海道炭礦汽船七〇年史・勤労編」第一次稿本 朝鮮人労務者分

北海道炭砿汽船北海道支店真谷地坑「過去帳」

北海道炭砿汽船平和鉱業所真谷地砿登川「殉職者過去帳」

「平和鉱殉職者過去帳」

北海道炭砿汽船北海道支店萬字坑「過去帳」

北海道炭砿汽船夕張砿「過去帳」ほか

白戸仁康編『戦時外国人強制連行関係史料集』Ⅲ朝鮮人2上一九九一年

  白戸仁康「第二次大戦期における美唄の炭鉱」

  三菱美唄山史

三菱美唄協和会会報(抄)

  三菱美唄竪坑ガス爆発関係一九二七年一九四一年

  災害事変報告綴一九四五年

  朝鮮人労務者関係綴一九三五~四四年

  「美唄関係朝鮮人死亡者名簿」ほか

杉山四郎『語り継ぐ民衆史』北海道出版企画センター一九九三年

「安楽寺追悼碑」〔住友上歌志内坑分〕「住友歌志内砿殉職者名簿」「韓国人遺骨奉安過去帳写」「(茂尻砿)殉職者名簿」「〔奉性寺〕過去帳」等の調査報告所収 

杉山四郎『続語り継ぐ民衆史』北海道出版企画センター一九九七年

杉山四郎『古老が語る民衆史』みやま書房一九八五年

夕張働くものの歴史を記録する会『わが夕張』煉瓦社一九七七年

本間隆『夕張のあゆみ(年表)』夕張市郷土資料保存研究会資料一九七一年

朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社一九六五年

金賛汀編『証言朝鮮人強制連行』新人物往来社一九七五年

金賛汀『火の慟哭』田畑書店 一九八〇年

桑原真人『近代北海道史研究所説』北海道大学図書出版会一九八二年

桑原真人『戦前期北海道の史的研究』北海道大学図書出版会一九九三年

矢野牧夫・丹治輝一・桑原真人『石炭の語る日本の近代』改定新版 そしえて一九八七年

「百萬人の身世打鈴」編集委員会『百萬人の身世打鈴』東方書店一九九九年

森山軍治郎『民衆精神史の群像』北海道大学図書刊行会一九七四年

岩村登志夫『在日朝鮮人と日本労働者階級』校倉書房一九七二年

松本正徳『日本労務管理史』中央大学出版部一九九九年

西成田豊『在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家』東京大学出版会一九九七年

田中宏・内海愛子・石飛仁『資料中国人強制連行』明石書店一九八七年

『中国人強制連行強制労働損害賠償請求事件第二次訴訟訴状』中国人戦争被害者の要求を支える会一九九七年

上野志郎『室蘭における中国人強制連行強制労働の記録』中国人殉難者全道慰霊祭事務局一九九四年

 守屋敬彦「第二次大戦下における朝鮮人強制連行の統計的研究」(『道都大学教養部紀要』十三)一九九四年

 守屋敬彦「アジア太平洋戦争下の被強制連行朝鮮人の反日独立闘争」(『佐世保工業高専研究報告』三七)二〇〇〇年、

守屋敬彦「日本敗戦直後の北海道石狩空知炭田での被強制連行中国人朝鮮人の闘争」(同三六)一九九九年

守屋敬彦「第二次大戦下被強制連行朝鮮人労働者の寮生活」(同三四)一九九七年

長澤秀「北炭と朝鮮人強制連行」(『史苑』五六-一立教大学史学会)一九九五年

平林久枝「今も忘れぬタコ部屋での労働と生活」(『在日朝鮮人史研究』五)一九七九年

西田秀子「戦時下北海道における朝鮮人『労務慰安婦』の成立と実態」(『女性史研究ほっかいどう』一札幌女性史研究会)二〇〇三年

「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム資料」二〇〇四年

「アジアを考える静岡フォーラムニュース」一五 一九九五年二月

蔡鴻哲「西本願寺札幌別院遺骨問題」二〇〇四年

『北の語り』六 北海道口承文芸研究会一九九一年

三菱鉱業セメント社史編纂室『三菱鉱業社史』三菱鉱業セメント一九七六年

『美唄市百年史』美唄市 一九九一年

『赤平八〇年史』赤平市一九七三年

『赤平市史』下 赤平市二〇〇一年

赤平市市民相談室『あかびらふるさと文庫』五 一九八六年

三笠市博物館『三笠の石碑』一九八九年

『三笠市史』通史編 三笠市一九七一年

『栗沢町史』栗沢町一九九三年

『新三笠市史』三笠市一九九三年

『新歌志内市史』歌志内市一九九三年

歌志内歴史資料収集保存会『歌志内歴史の散歩道石碑石仏を尋ねて』一九八三年

杉山四郎『歌志内のむかしばなし第三集』歌志内歴史資料収集保存会一九九〇年

ト部信臣編『空知の開拓記念碑』空知地方史研究協議会一九七九年

北海道新聞空知炭鉱取材班『そらち炭鉱遺産散歩』共同文化社二〇〇三年

「うたしない思い出時刻表」うたしない炭鉱の記憶再生塾二〇〇〇年

「空知炭鉱遺産マップ」グループ炭鉱夫二〇〇一年 

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