第二次世界大戦終了時 中国人・朝鮮人の「暴動」と「強制連行」
『昭和の歴史』8 89㌻~90・91㌻
占領と民主主義 神田文人氏著 小学館 一部加筆
(終戦を迎え)、政治家は戦後いち早く行動を開始したが、一般国民の動きはにぶかった。それと対照的なのが中国人・朝鮮人の行動であった。日本の敗北は、彼らにとっての「解放」であったから、戦時中の日本・日本人による支配からの解放を求めてたち上がった。経営者も警察も、自信と進路を見失っていたときであり、その行動は効果的であった。敗戦当時、北海道には朝鮮人37,171人(全国の41%)中国人 3,079人(同30%)がおり、炭坑・鉱山・土建・港湾部門等で強制使役されていた。敗戦後彼らは、ただちに、戦時中の日本の労務管理の責任追及を開始した。
それらの戦後「暴動」事件について、桑原真人『近代北民主主義運動の開幕北海道史研究序説』が、『北海道警察史』を基礎に、その後の発掘によって補充し、45年8月15日から11月28日までの間の31件を収録している。彼らの要求は、労務管理への不満・待遇改善・送還問題等が多い。
そのうち、9月19日から10月中旬にかけての、三井美唄・三菱美唄と三菱大夕張炭鉱の場合は、白人俘虜のイュシアチブによる中国人寮解放にはじまった。解放された三菱美唄の中国人が三井美唄を訪問したのがきっかけで、三井美唄の中国人の態度が変わり、衣服支給を要求、寮や現場の係官を襲撃した。さらに、9月24日には、両美唄から134人が大夕張に出向き、戦時中同様の待遇に激怒し、「食糧増配、衣料支給、自由外出」などを要求した。翌25日夜には、中国人約400人と警官隊の大衝突がおこり、警官一名が死亡のほか多数の重傷者も出た。このため、翌日から、「中国人にたいして白米8合の他に肉・魚などが毎日支給」されることになった。いきおいづいた大夕張の中国人は、30日、角田に出向いた。角田の中国人は賃金交渉をけじめ、会社側の一日5円案にたいして、本国から強制連行のさいの条件、一日90円を主張し、労務課長を殴打・監禁する事態にいたった。結局10月10日、占領軍の斡旋により、石山以後一か年分2500円(貸し付物品代50円をふくむ)で解決した。真谷地・大夕張・三井美唄などでも、これに準じた金額が支払われることになった。中国人の動向は朝鮮人にも波及した。7000人ちかく朝鮮人のいる夕張炭鉱では、10月5日、朝鮮人労働組合を結成し、8、9日、ストライキを決行した。占領軍は再三にわたって布告を発し、鎮静化をはかった。結局、帰国促進・食糧改善等を一括する300万円の要求にたいして、5万円で妥結したが、以後彼らの稼働率は、10月には36%、11月には19,6%と激減した。
中国人・朝鮮人の帰国要求にたいして、10月4日、函館に上陸した米軍司令官ブルース少将は、11
月1日、「北海道の炭鉱にある華人、朝鮮人に対する布告」を出した。中国人・朝鮮人の帰国はすみやかにみとめられるべきであるが、いまは船がない、帰国までの間、米軍のため石炭増産のために働くことを要望する、というものであった。こうしたなかで、「暴動」はほぼ11月いっぱい継続する。
労働組合の結成
これらの「暴動」が、日本人労働者の労働組合結成を刺激した。
10月6日には、三井労働組合の芦別従業員組合が230名で組織され、10月19日には平和炭鉱、さらに同月中に明治上芦別・新夕張・豊里・空知・歌志内、11月3・4日、三井美唄・三菱美唄にそれぞれ組合が結成され、同年末までに、北海道の炭鉱労働者の58%を組織した。彼らは、解放の意気に燃えていた。平和炭鉱労働組合の結成宣言はいう。
我等の邁進する処解放の鐘は鳴りひびき自由の讃歌は湧き起らん。
我等を緊縛せる軍国主義、官僚主義、資本主義の暗黒支配の鉄鎖は断ち切られて、
強権の支配は転覆せん。
征かん哉、断々乎として征かん哉。
北海道各地の労働組合を結集するため、11月11日、北海道鉱山労働組合連合会が結成された。
(以下略)
伊江島のたたかいと学習
伊江島土地を守る会 阿波根昌鴻
『歴史地理教育』 臨時増刊号 №199
沖縄県伊江島のたたかい
歴史教育者協議会編集
一部加筆 山梨県歴史文学館
伊江島は、沖縄本島の北端にある人口八千人、一千五百戸という小さな島です。それでも、一戸平均一町歩(沖縄では平均一戸当り六反歩といわれる)の土地をもち、農作物は、米以外なら、落花生、イモ、野菜、サトーキビ(砂糖黍)など、なんでもとれる豊かな島で、昔から自給自足ができたものでした。
この豊かな、美しい伊江島に、土足でふみこんだ米軍は島の六三%にあたる土地を奪って軍用地とし、三ヵ所に米軍の飛行場をつくり、二亘戸近くの農家と土地をとりあげてしまったのです。
■ いつわりのサイン
一九五四年七月。米軍の宣撫班のようなものが伊江島にやってきて、四軒の農家に「立ちのいてくれないか」と親しげに話しかけてきました。当時農民たちは、アメリカはリンカーンの国、民主主義の国として信頼しきっていました。移転後の保障はする、心配はいらないという言葉を信用して、こころよくこれに協力して立ち退きました。
すると、こんどは七軒の農家に、測量に協力してほしいといってきました。このときもみんなこころよくひきうけましたが、仕事が終って帰ろうとすると、「あなたたちの働いた日当を支払うのに、確かに働いたという証明が必要だから、サインを」といって、米兵から英文の用紙をだされ、日当までくれるなら、といって署名しました。
ところがあとでわかったのですが、それは「立ちのき承諾書」だったのです。
「だまされた“」と気がついたときはもう遅かった。
さらにまたこれに追いうちをかけるようにして、同じ年の 十月頃になると、こんどは百五十二軒の農家に強引な立ちのきを要求してきたのです。
たびかさなる卑劣なだましうちに村民の怒りは爆発しました。こうして伊江島八千の農民の十二年にわたるたたかいが始まりました。
私たちは「土地をとられたら生きていけない」といっては何度も陳情にいきました。すると、米軍と琉球政府は、「いや立ちのかなくてもいいし、農耕もそのままつづけてよろしい」とこたえて村民を喜ばせておき、一ヵ月ぐらいたつとまた立ちのけといってきました。また抗議にいくと、「いや立ちのかなくてもよろしい」とこたえる。こんなことが一九五四年暮から翌年春までくりかえされました。
彼らは、陳情をあきらめるのを待っていたのです。だが私たちはひるみませんでした。ついに米軍のたてた「米軍人以外の者立入禁止」の立札のすぐそばに、「土地は農民のものだ、地主以外の立入禁止」という立札をたて、米軍が金網を張ればそれを取り払い、遂に米軍の基地だという所に二百戸の家を建てました。村民の命をかけたこの戦いは、今もなお守りぬかれています。
■これが!!強盗の論理!!だ
一九五五年三月のことです。
突如三百人以上の完全武装をした米兵がピストルや催涙ガスをちらつかせ、ブルドーザーやジープ、救急車まで動員して、伊江島の海岸に、上陸してきました。びっくりした村民は、「第三次大戦でも始まったのか?」と、一時は半信半疑でしたが、じつはこの工作部隊は、武力で私たちの土地をとりあげにきたのです。
それを知った村民は鐘を乱打して集まり、米兵たちの前に土下座して」「土地をとりあげてくれるな」「土地をとりあげるとママもベビーも飢え死にしてしまう」と嘆願しました。
このとき工作隊の隊長ガイディア中佐は「アメリカ合衆国軍隊は平和的軍隊にして、かつ友好的軍隊である。アメリカ軍に協力するものは多大な利益が与えられる。もし反対したものは、その利益を失ったうえに、大きい不幸のくることを承知しなければいけない」と通告文を読みあげ、「この島はアメリカがぶんどった島であるから、アメリカの自由である」と、イエスでもノーでも立ちのけといい放ち、そしてちょうど畑に土下座して手まね、足まねで必死に嘆願していた
並里清二さん(当時六十歳で、村民からは最も勇気ある人と尊敬されていた)にいきなり米兵たちがとびかかり、皆の前でなぐるけるの暴行を加え、半殺しにしたうえ、荒縄でくくり、毛布でくるんで、用意してきた金アミのオリにぶちこんでしまいました。そのとき、他の農民も散人、私もふくめて逮捕され暴行されたうえ、土下座して訴えた私たちに、煽動、暴行、公務執行妨害という三つの罪をきせたのです。
こうして「平和的軍隊」は、農家に火をつけて焼きはらい家をつぶし、ブルドーザーで作物や防風林をひきつぶし、土をかぶせて焼けあとをつぶし、百五十坪の土地に鉄条網や金アミをはるという影参加かぎりをつくしたのです。
そのときいらい、琉球政府や警察は手をひいてしまいました。
私たちの代表が、このことを訴えに、当時のジョソソン主席民政客と会見したときです。彼はこういいました。
「今の話は聞くにたえません。あなた方は可愛想です。なんとかして助けてあげたいが、不幸にして沖縄には、あなた方を助ける方法がない。土地をとりあげるという法はあるが、土地をとられた人びとの保障をするという方法がない。その予算がない。また保障したという例もない。だから助けることはできない。しかしアメリカは、沖縄で多くの土地はとりあげたが、一人も死んだということをきいたことがない。だからあなた方も、死にはしないかと心配することはない」と、強盗の理論をひれきしたものでした。
■娘を売って恥ずかしくないか
また四年前です。本土からきたある国会議員が、私たちに向って「あなた方はウソはいわない方がいい。常識でも考えられないことだ。アメリカ人は文明人だ、そんな野蛮人ではない」というのです。そこで私たちはいいました。
「あなたは、私たちがアメリカ軍隊から苦しめられているという考え方をおもちか。そうではない。じつはあなた方が弱いために、日本の政府が無責任のために、私たちはアメリカ軍に苦しめられているのであって、あなた方が苦しめているのと同じなのだ。
今日本は″沖縄はドルのかせぎ場″とか、″日本は工業国だ″″日本は独立国だ″といって威張っているが私たち農民の考えからすれば、それは無責任な考え方だ。それは彩でが美しい沖縄という娘を赤線地帯に売り、その金できれいな家や、りっぱな服をつくっているのと同じではないか。これで独立したといえるだろうか。これは同じ日本人としても、また世界にたいしても、最も恥ずきことではないか」と。
また、昨年沖縄にきた佐藤首相にも陳情したし、沖縄全島にも訴えてまいりました。その間、島では、土地を奪われた農民たちは、食うため生きるために、弾丸の降ってくるなかを、鉄条網や金網を切り、軍用犬や米兵のピストルに追い回されながら、奪われた畑から芋や落花生とってきては飢えをしのぐ生活がっづきました。
そのために多くの犠牲者もだしてきました。土地を奪われたショックやすい弱で婦人二人、青年四人が死亡し、米軍の不発弾の解体中に爆死した二人、さらに草刈りしていた 二十歳の青年が米軍に射殺されています。その他、右腕をもぎとられ、太腿部の貫通銃創など重軽傷者三十数人、逮捕投獄されたものは百人をこえています。
これほどの大きな犠牲をだしながらも私たちは実力で土地をうばいかえして農耕を続けるかたわら、各方面への訴えを続けていきました。
■痛感した学習不足
陳情書を書き、プテカードーつ書くにも、字や法律を知っている学校の先生や、役所の人たちに協力してもらっていました。ところが、これを知った米軍や琉球政府は、この人たちに圧力をかけ、先生方が農民に協力するなら、学校を建ててやらないとか、役人がこれに協力するなら、銀行から金の援助をさせないとかいって、さまざまな害を加えてきました。
私たちは、あらゆる手段をつかって勝たなければなりません。このような弾圧と妨害のなかで、私たち自身が学習しななりました。
学習の必要を痛感したわけはもう一つあります。
私たちが陳情にいって島を空けておくと、米軍や役人たちが村民を買収したり、分裂させようと策動するので、すぐまた島に帰るといった弱さがありました。
あるいは新聞に私たちのたたかいをのせると、アメリカはその反対の記事をのせます。例えば、軍用地の使用料は十八万二百円なのに、新聞は九百万円も払っているとウソを報道します。よくしらべてみたら、今まで伊江島に投じたアメリカの費用が九百万円だったというふうに、どっちが真実か、わからないようにしてしまうのです。あるいは、彼らは農民には「十五時間の農耕時間を与えている」と宣伝しています。ところがこの十五時間とは、演習の終る夕方五時から翌朝八時までのことなのす。
私たちは、こうしたゴマカシや圧迫をはねのけ、宣伝をひめるために、自らの力で学習をはじめました。
当時立法院議員であった前川守仁という人が、東京の中央労働学院を出たことがわかり、さっそく「人材養成有志会」をつくり、皆の苦しい生活の中から金をだしあって、中央労働学院に毎年代表を送り、今では六人の卒業生を生むことができました。
最初に卒業した浦辺正良さんは、すぐ村会議員に当選しましました。当時の村会では、科学といえば湯川博士がやるもの、哲学といえば、自殺することだくらいにしか考えていませんでした。この村会に浦辺さんが、「あなた方は科学を否定するものだ」とか、「ものの見方が形而上学だ」とか「観念論」だとかいう専門語を使いはじめたので、村長以下、何のことやら意味がわからず、これや勉強しないと天変だということになり、国民百科辞典を買って、はじめて議会でも週一回学習するようになりました。今では沖縄の市町村会議員が定期的に開く研修会には、伊江島の議員が講師になるくらいになりました。
■先頭に立つ六人の卒業生
米軍が伊江島を奪うまでは、農民たちは、とくに学習を必要としませんでした。ただ牛を飼い、野菜をつくり、肥料の使い方さえ知っておればよかったのです。だが米軍との戦い、日本政府の白々しい裏切りの数かずの中で、私たちが土地を守り、そして生きていくためには、野蛮人のようなアメリカ人を説得できるくらいの学習と、また戦い抜けるりっぱな人間になることだといって、死にものぐるいになって勉強をはじめたのです。
昨年のことです。米軍は、この島にミサイルの基地をつくろうとして、とつぜん三菱の舟艇に器材をつみ、請負い人夫までのせて上陸してきました。このとき、ついに一本の器材も降させずに追いかえしたことがありますが、その先頭に立ったのは、この六人の青年たちでした。
「あなた方は、誰の許可をうけてここへきたのか。ここは私たちの島、目本の島、日本の国土です。あなた方の国はアメリカではないか。自分の国があるなら帰りなさい。ここは狭い国です。あなた方は、こんなところまでこなくてもメシが食えるだろうが、私たちが土地を失うと生きていけないのだ。もしあなた方が食っていけないというのなら、喜んで土地を分けてあげましょう。私たちにはミサイルなんかいらない。二度と戦争はしたくない。
私たちのいうことをきけば、アメリカは永久に栄えるんだ。もしウソだと思うなら、もっと勉強しなさい。自分の国の歴史を勉強しなさい。自分の国と他の国と見さかいがつかないようではアメリカ人として恥ずかしいことではないか。
かつて日本を占領した司令官マッカサーは、日本人の精神年令は十二歳だといったが、今のあなた方は、私たちからくらべれば○歳だよ」と、アメリカ兵をさとし、堂々と教育をはじめたのです。米兵たちは、これになんの反論もできませんでした。
■身につけた二つの学習方法
このことだけでもわかるように、私たちの学習は二つの方法をとりていました。一つは、沖縄には昔から、儒教の影響が根深く残っていますが、この昔からのいいつたえの教えをつかっての説得です。例えば儒教のことばに「非理法権天」というのがあります。悪いことは良いことに負け、良いことでも法に負ける。その法も権力には負けるが、権力も天の教えにはかなわない。この天こそ私たち農民であり、私たちをうちまかすものはいないということです。
今一つは、ペトナム人民が、アメリカ兵から奪った兵器で自らを武装し、侵略者を打破っているように、私たちも、アメリカの歴史、独立戦争やリンカーソなどの教えを学び、アメリカの民主主義の伝統をアメリカ兵に教育してきました。
あるいはアメリカがハワイ島を植民地として奪いとった歴史を研究し、アメリカの土地とりあげのしかたを学びました。
そしてたたかい方としては、あくまで味方の中に敵をつくらないで統一し、団結すること、遂に敵の中に味方をつくっていくのです。ですから琉球政府や警察がきても、「お前たちは関係ない、よけいな手出しはしないで帰りなさい」といって帰してしまい、米軍当局とは徹底的にたたかいます。
今では、アメリカ兵の方で私たちの「話しあい」を恐れて逃げまわるしまつです。
■私は笑うことができる
私は、いま中央労働学院を卒業するにあたって、学習の大切さを骨のズイまで感じとっています。
私は今まで良心さえあれば、神の力でよくすることができると考えていました。しかし、この学校にきて、ヒューマニズムにも二つあること。資本家と労働者という二つの相対立する階級のあること。アメリカは帝国主義国であること。帝国主義の下では、労働者や農民は永久に自由になれないこと。労働者階級の立場に立ってはじめて社会を変え、アメリカ帝国主義や独占資本もうちたおすことができる。労働者階級とともにたちあがってはじめて、沖縄を真に解放することができるということを学びました。
また、私は若いときから、ときにはキューバや。ペルー、ハワイなどにもいき、学習と金をためるために苦しい労働をしてきましたが、その苦しみのなかで、笑うことを忘れた人間になっていました。しかし動物は泣くことはできても笑うことはできません。私は動物と同じ一生を歩んでいたことにきずきました。今、私は大いに笑うことができます。
『学習の友』一九六七年五月号より転載
柳田(国男)おじさんの思い出
『定本 柳田国男集』月報23 昭和38年11月
飯島小平氏著
一部加筆 白州 山口素堂資料室
明治の四十四年というと今目から既に五十年以上昔のことである。
その頃柳田國男氏(同氏夫妻のことを私は(柳田のおじさん、おばさんと云いつづけて来た。)は貴族院書記官長の職に居り、わたしの父も外務省の参事官だったので、既に交友関係があった。その上茅ヶ崎の柳田家の別荘と私の家の別荘(明治の四十四年に建った)が偶然隣り同志で、両家の子俵達がお互いに五人姉弟でしかもほぼ同じ年齢だったので、一二年経たぬ中に親しくつきあうようになった。殊に夏休みに茅ヶ崎へ来ると、両家の子俵たちは毎日のように連れ立って海に行く。曇りや雨の日はどちらかの家に赴いて遊ぶ。夜もお月見だといっては浜にゆき、月光にゆらめいている冷々とした海水に足をぬらしては騒ぎまわる。
子供時代の誰にも憶えがあることだが、八月も廿日を過ぎて残り少なくなった休みがひどく大切に思えて来る。隣り同志の親しみも増してゆく。夏のお別れに箱根まで出かけ、夜ともなると、親まで連れ出して、ろうそく片手に松虫取りに幾晩か過した、大正の中頃の日本の夢のようなよい時代の夏の想い出はつきない。
こうして幾夏を経て大正の末年になると、両家の子供達も大分成長して来た。わたし自身も早稲田に入り文学を学ぶ志をきめていた。当時わが家では生母につづいて、継母まで病死してしまったので、私達兄妹は主婦を失って、一番年上の私が主婦代りという妙な役割を演じていた。
そのために、何か判らない相談ごとでもあると、自然隣りの柳田のおばさんのところへ甘えては教えを受けにゆく。ついでに勝手な文学の話の相手にもなって貰い、二時間も三時間も過ごしてしまうことが度々だった。母のいないわたしを憐れと思って貰ったのだろうか、よくも我慢して青白い文学青年の相手になって下さったものだと今も惑謝している。そうした時、たまたま國男氏も一緒のときは、
「今は何を読んでいるの?」
「こんどぼくの本をかしてあげよう。」
などとよくいわれた。或る目のこと母のいないわが家のことを孝夫人が告げると國男氏は、
「そうか。それは気の毒だね。君のところは主婦が亡くて困るだろうが、こちらは主婦が多過ぎて困る。」と苦笑いして云われたのを覚えている。
当時柳田家では老夫婦が未だ健在だった。
その時分氏に会ったときはいつもフランス綴じの洋書を読んで居られた。未だ民俗学という日本語がなかったのだろう、孝夫人に
「おじさんのやっておいでの学問はなんというのですか。」
と訊ねたら
「フォークローというのだそうです。」
という答だった。
又他の日に國男氏自身から
「僕のやっているのは文学と歴史の境目のところなのだ。」
という解説があった。
私が氏に関して一番敬服したのは、その一刻もおろそかにしない研究熊度だった。柳田家の最初の成城の家が新築されたのは昭和二年の夏の終りだった。國男氏が夫人に向って、
「ぐずぐずしていては勉強が出来ない。ぼくだけ独り先へ引っ越すよ。」
といわれているのを傍できいて私は一寸びっくりした。その言葉通り、氏は家族達より五、六ヵ月早く引っ越しされたようである。
頭脳が素晴しくよく、その上人並み外れた記億力の持主だった氏のことについては世間周知のことだが、その勉強ぶりも超人的であったようだ。官界、新聞と全く別な社会にあって相当な地位について、傍ら目本民俗学の確立に先駆的な役割を果たすためには異常な研究心に燃えていたにちがいない。特に、砧村(成城)へ引越しされた頃は氏の研究の頂点の時代だっただろうか。
國男氏はよき夫人にめぐまれ、子供たちも文字通りよき配偶者を得て立派に成人したのだから大変恵まれた一生と云えようが、唯一つの不幸は次女の干枝子さんが若くして世を去ったことである。千枝子さんは弟妹の中で國男氏の文学的な才能を一番受け継いだ才女だった。
逝くなる二、三年前に、
「わたし小説を書き出したんだけれど。」
と筆者のところへ原稿を持参して来た。早速その原稿を早稲田文学へ載せて貰うと、その中の一篇が芥川賞の候袖作品に推薦きれた。ペンネームだったので世間では殆んど知らなかったろうが、彼女が今生きていたら一流の閨秀作家になっていたろうと借しまれる。彼女の死は両親にとっても後半生の一番大きな悲しみであったようだ。
わたしが氏から一度だけ大変叱られたことがある。
終戦が昭和二十年の八月であったから、その年の五、六月の晩春の一日だった。久々振りで氏夫妻に会った。戦災のことなど話しているうちに、わたしが、
「早く戦争を終えてしまわねばいけないと思いますね。敗けたことが判っているのにぐずぐずしていては犠牲を多くするだけで無意味です。」
と述べると、氏はやや色をなして
「そんなことを云うから早稲田の若い者はよろしくない。」
と私をしかった。
終戦後になって間もなく再び柳田家に赴くと、考夫人が、
「おじさんもあの時はあなたの考えはわかっていらしたのよ。でもあの場合はそう云わなければならなかったのだと思います。」
と語られた。終戦を早くしろなどと戦時中平気で云うわたしの不注意を戒める気持があったにちがいない。だが、氏にも明治の中年に育った人々の持つ特有なナショナリズムが燃えていたという印象も否定できない気がする。
大東亜戦争が始まる数カ月前、秋の或る目、柳田家を訪れたわたしは、三国同盟を今やめればこの戦争は一応しないで済むのじゃないですかと陳べると、氏は
「戦争は余りよくないが、戦争というものが全然悪いとも云えない。戦争を三角形に例えてみよう。三角形のBCを底辺だとする。戦争の開姶の時がBとし、終戦の時をCとするならば、庭辺BCだけの距雛は戦った国は進歩するものだ」
と説かれたことがある。その時は氏の考ええ方を理解出来なかったが、今日になってみると戦争の大きな犠牲を浙立外とするならば、庭辺BCだけの進歩があるという説はうなずけないことはない。
最後に柳田のおじさんにお会いしたのは悪くなられる一ヵ月位前のことだった。おばさんから前以て注意があったのだが、あれほどの記億のよい人が話の間に同じことを幾度もききかえされるのが悲しかった。
だが茅ヶ崎のことを大変なつかしがって話されたので、休暇にでもなったら車でお迎えに来ますと申したら、「行ってみよう。」と約されてお別れした。だがその約束を果たさぬうちに訃報が来てしまった。
(早大演劇博物館長)
芭蕉の俳諧観 俳隠逸の芭蕉翁
二代目市川団十郎、俳名栢筵(はくえん)の随筆『老のたのしみ』の中に、芭蕉門の破笠からの聞書として、
嵐雪なども、俳情の外は翁(芭蕉)をはづし、
逃などいたし候由。殊の外気がつまり、
おもしろからぬゆへ也。とかく翁は徳の高き人なり。
とのエピソードが記されている。芭蕉をして
「草庵に梅・桜あり。門人に其角・嵐雪有り。」
といわしめた嵐雪においてすら、日常生活においては芭蕉を敬遠気味であるのが面白い。
また、他門談林の俳論書、団水綿『特牛 こというし』(元禄三年刊)は、芭蕉を「俳隠逸の邑蕉翁」と呼んでいる。
「とく(徳)の高き人」「俳隠逸の芭蕉翁」―芭蕉にたいするこれらの評価は、芭蕉が志向した俳讃美が何故「さび」「しほり」「ほそみ」であったのかということを窺わしめるに十分である。「さび」は、現象としての「渋さ」と、それにまつわる「さびしさ」との複合美であり、「しほり」は、一句における「あはれ」の文学的完成度にたいする評価の美であり、「ほそみ」は、「繊細さ」と「悲しび」との融合美である。が、かかる俳讃美をもってしてのみでは、芭蕉の俳諧観は十全には把握し得ない。「さび」にしても、あるいは「しほり」「ほそみ」にしても、どちらかというと和歌性と緊密な関係にある美である。たいして、芭蕉が携わった文芸は俳諧であり、芭蕉はあくまでも俳人・俳諧宗匠である。それ故、芭蕉にたいして、一方で「其ノ性嗜滑稽潜心於俳諧者」(横月『貝おほひ』後序、寛文十二年刊)との評価があることは、当然といえば当然である。
俳諧根本の滑稽
芭蕉の門弟許六は「滑稽のおかしみを宗とせざれば、俳諧にあらず」(『歴代滑稽伝』)と述べ、「俳諧根本の滑稽」(『俳諧問答』)なる言葉を残している。「俳諧の古今集」(『宇陀の法師』)といわれ、「さび」「しぼり」「ほそみ」を形象化し得ている撰集として著名な『猿蓑』にたいしてすらも「猿蓑ハ芭蕉翁滑稽之首□(音景)頷」(丈草『猿蓑』跋)との評価が与えられているのである。
そこで、芭蕉にとって俳諧とは何であったのかを確認しておく必要があろう。芭蕉が「誹無言先(まづ)よろしかるべし」と語ったという梅翁の『俳諧無言抄』(延宝二年門)には、
俳はたはぶれ也。(中略)諧もたはぶれ也。(中略)唐にても俳-諧体の詩あれば、即チ日本にでも此語を用てたはぶれたる歌の躰の名とせられたり。奥儀抄には、これを滑稽になぞらへらる。
と記されている。もう一つ、これも芭蕉の読書範囲に入っていたであろうと思われる談林俳人岡西惟中の『俳諧蒙求』(延宝三年刊)も、俳諧を、俳諧といふは、たはぶれたること葉のひやうふつと目よりながれ出て、人の耳をよろこばしめ、人をしてかたりねらはしむるのこゝろをいふなり。
と説いた上で、「俳諧と滑稽とひとしき名なり」と述べている。要するに、俳諧とは「たはぶれ」であり、「滑稽」であるとの理解である。芭蕉の俳諧理解も、梅翁や惟中と逕座ないところにあったと思われる。
その俳諧を芭蕉は「詞」「心」「作意」に求めているが(『三冊子』)、中で一番重視したのは「心の俳諧」であったようである。それは、門弟土芳の「詞いやしからず心ざれたるを上句とし、詞いやしう心のざれざるを下の句とする也」(『三冊子』)との発言にも窺える。『去来抄』も、つぎのごときエピソードを伝えている。
夕涼み痛気おこしてかへりけり 去来
予が初学の時、ほ句の仕やうを窺けるに、先師日、
「ほ句は句つよく、作意たしかに作すべし」
と也。こころみに此句を賦して窺ひぬれば、叉是にてもなしと、大笑し給ひけり。
芭蕉がここでいうところの「作意」とは、「心の俳諧」、すなわち心の「たはぶれ」、心の「滑稽」、心の「ざれ」の謂(いい)である。去来は「夕涼みをしていたが、夜風が冷たかったせいか、腹痛をおこして帰ってきてしまった」との滑稽の一句を作ったのであるが、芭蕉から「叉是にてもなし」と一蹴されてしまったのである。芭蕉が求めた「たはぶれ」「滑稽」「ざれ」が、質的にかなり高いものであることが窺知できる。芭蕉が求めたものは浅い笑いではなかったのである。それでは、芭蕉の求めた「作意」とはいかなるものであったのであろうか。
「たはぶれ」の中の「あはれ」
ただ釈阿(藤原竣成∵西行のことばのみ、かりそめに云ちらされしあだなるたはぶれごとも、あはれなる所多し。
芭蕉の俳文「許六離別の詞」(元禄六年成)中の一節である。これによって芭蕉の俳諧感がかなり明瞭に窺える。芭蕉の求めた「たはぶれ」とは「あはれ」をも包摂しているところの「たはぶれ」だったのである。
ところで右の一箇中の「たはぶれごと」、従来、単に「言い捨ての吟」と解釈されてきたが、芭蕉の頭の中には、今少し具体的なイメージがあったと思われる。
西行の「たわぶれ歌」がそれである。芭蕉披見の可能性が十二分にある(寛文五年刊の板本があるので。)『夫木和歌抄』には、所行の五首の「たはぶれ歌」が見える。芭蕉俳諧の解明に援用されるのははじめてであると思われるので、列挙してみる。
たはれ歌とてよみける中に
○うなゐごがすさみに鳴すむぎぶえの 声におどろく寝のひるぶし 西行上人
さがに住けるにたはぶれうた人々よみけるに
○竹馬をつゑにも今日は頼むかな わらはあそびをおもひいでつゝ
西行上人
たはぶれ歌とてよみ侍りける
○しのためですくめ弓はるをの原は ひたひ烏帽子のほしげなる哉 西行上人
たはぶれ歌とてよみたる中に
○我もさぞ庭のまさごの土あそび さておひ立るみにこそありけれ
西行上人
たはぶれ歌とてよめる
○高尾寺あはれなりけるつとめかな やすらひ花とつゝみうつなり 西行上人
かかる歌を所行は「だけぶれ歌」と呼んでいるのである。いずれも稚気満々で、思わずほほえまずにはいられない。その辺が「たはぶれ歌」の「たわぶれ」たるゆえんであろうか。かつ、そこにはそこはかとない幼児期へのノスタルジアも溢れている。
芭蕉は、自らが志向し携わっている俳諧との共通性をこの五首の中に見出だし歓喜したことと思われる。芭蕉がこの五首をどの時期において目にしたかは、残念ながら今の段階では明らかにし得ないが、芭蕉にとって自らが進めている俳諧の方向に確信をもつにいたった貴重な五首であったことだけは確かであろう。
不易流行
「たはぶれ」と「あはれ」、この二つの言葉に芭蕉俳諧の総てが集約されているといっても過言ではあるまい。別のいい方をすれば、芭蕉俳諧の特色は、俳諧というきわめて柔軟性に富んだに器に「和歌優先」の世界を盛り込むしことにあったということになろうか。しかして、その芭蕉俳諧の頂点に位置する撰集が『猿蓑』(元禄門四年)であったのである。『去来抄』中のつぎのエビソードは、そのことを窺うに十分である。
先師は門人に教給ふに、或は大に替りたる事あり。
譬へば、予(去来)に示し給ふには、
何々さのみ念を入れるへものにあらず。
又、一句は手強く、慥かに俳意作すべし、と也。
几兆には、一句僅に十七字、一宇もおろそかに置べからず。
はいかいもさすがに和歌の一体也。
一句にしほりのあるやうに作すべし、と也。
去来、几兆、ともに『猿蓑』の編者である。その二人の編者の内、一人には俳諧性(作意)を求め、一人には和歌性(しぼり)を求めているのである。無論、右の芭蕉の言は、去来に俳諧性が、凡兆に和歌性が、それぞれ希薄であることを指摘したものに他ならないが、その点を念頭に置いたとしても、なおかつ、芭蕉俳諧が、俳諧性と和歌性の二つながら志向していると結論することは、うべなわれてよいのではなかろうか。かくて、去来・几兆編の『猿蓑』の出来映えは、芭蕉の意に十分にかなうものであった。
『猿蓑』には、「さび」も「しぼり」も「かるみ」も、芭蕉俳諧の総ての美が形象化されているのである。「たはぶれ」と「あはれ」が、美的な均衡を保っているのである。
芭蕉俳諧における「不易流行」の理念は、一句の中に「たわぶれ」と「あはれ」の二つながらを形象化すべく考えられたものであった。
代々の歌人の歌をみるに、代々其変化あり。
また、新古にもわたらず、今見る所しかしみしに不変(かわらず)、
哀成るうた多し。是まづ不易と心得べし。
門弟土芳の『三冊子』中に見える不易流行論である。ここでもう一度、芭蕉「ただ釈阿・西行のことばのみ、
かりそめにこちらされしあだなるたはぶれごとも、
あはれなる所多し」
との言を想起したい。「たはぶれ」の中の「あはれ」、これこそが、芭蕉俳諧における「不易」の核だったのである。芭蕉俳諧の美である「さび」「しぼり」「ほそみ」そして「位」も、畢竟、一句に「あはれ」を獲得すべく摸索された美であったのである。そして、一方に「新しみなど、かろみの詮議」(去来宛芭蕉書簡)と語られるところの「かるみ」があり、これが「流行」「たはぶれ」の部分とより緊光にかかわってくるのである。
(ふくもと いちろう 静岡大学助教授 俳文学)