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素堂と芭蕉の俳諧

2023年09月02日 08時34分17秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

素堂と芭蕉の俳諧
** 素堂と芭蕉の俳諧 **

 二人のスタート
 既に素堂と芭蕉のおいたちについては多くの人の論及愛もあり省くとして、素堂は寛永十九年(1642)一月十四日の生まれ、芭蕉は正保元年(1644)で月日は不詳の二年遅れである。生地にしても、素堂は甲州教来石村山口と云うが、本人が青定した記述が無いし、その証拠も無い。この伝説の発祥は「甲斐国志」のみである。芭蕉も伊貿上野の赤坂町とされているが、これとても別説が有って確定しがたいが、少小より藤堂藩の士大将(伊賀上野支城詰)藤堂新七郎家に子小姓(給金)として召し出されて、寛文初年(1661)頃に新七郎家の後嗣良忠の近習(陪臣)に直されたとされる。(藤堂藩からすると陪臣、石取りか給金取りかは不明
 素堂も少小より林春斎の私塾に入って漢儒の学を学んだと云う(『甲斐国志』)が、『升堂記』によれば素堂が林家の門人として名が見えるのは、元禄六年のことである。素堂は、桜田家の甲州代官の一人野田氏の娘を嫁(元禄七年没)にした(素堂著「甲山記行」に記載。この記行には「甲斐は妻のふるさと」とある)。まだ山口信章と名乗っていた時代である。この信章が、いつ頃から俳諧を始めたのか定かでないが、寛文七年には貞門俳譜師伊勢の春陽軒加友編「伊勢踊」に出句した。その前書から読み取ると、素堂すでにかなり江戸の俳壇で名を占めていたようである。その後、貞門の石田未得の遺稿を息子の未啄がまとめ、寛文九年「一本草」として刊行したこの集に入集している。これからすると寛文年問の前半には、当時の江戸俳諧師の重鎮高島玄札や石田未得辺りから、手解きを受けたと考えられ、北村季吟との接触は仕官して以後のことと考えられる。(素堂の仕官先については、延宝六年の九州旅行の際唐津で春を迎え、(----二万の里唐津と申せ君が春----)と詠んでいるが、この句の持つ意味は大きい。この項については別述する。既に、京都の公家との繋がりについては、述べてあるし重複を避けたいが、仕官した事と関係があると考えられる。つまり、仕官先と二条家との間のお使い役をしていたのであろう。その関係から歌学を清水谷家^書を持明院家と習ったのであろうと考えられる。でないと延宝年間の致仕するまでに、定期的に江戸と京都を往来する意味が不明になる。
▼芭蕉 
芭蕉は幼名金作の時召出されて良精の嫡子良忠に仕え、寛文の始め頃に士分として出仕となり、宗房名を名乗る事になったようである。主入の良忠は寛文五年に「貞徳千三回忌追善」を主催したことから始めは松永貞徳(承応二年没)に手解きを受けたか、貞徳に近い門人に受けていたとされる。宗房こと芭蕉も勤仕者として随行して機会があれば指導を受けていたのであろう。寛文二年の歳暮吟が初出で、良忠は蝉吟の俳号を持っているところから、寛文四年以前に北村季吟の添削教授を受け始めたようだ。宗房は良忠の小姓役とされているが、本来の役職は台所用人と伝えられるから、当主良精の奥方役で賄い役であろうか、以外とお役時以外は関職で自由がきく役職である。(大きな家ともなればお毒味役なども、小姓の中から選抜されることもある)。寛文四年蝉吟と共に松江重頼の「佐代中山集」に入集している。この時期の重頼は良いパトロンをえるため、俳諧好きの大名・良家に出入りしていたから、重頼にも措導を受けていたかもしれない。
 寛文六年(1666)良忠が没し、通説では高野山に遣いをした後から同十二年まての所在が不明で、『遁世の志をいだき致仕を願うも許されず主家を出奔』の伝は疑問であり、武家社会において、出奔となれぱ武家の体面上の仕置きがある。主人が黙殺していたとしても、領内には一歩も踏入れないし、まして実家に立ち入ることも出来ない。江戸に出て家中の親類に身を寄せるなど、身分制度の厳しい時代の中では出来ない話である。高野山から復命してからは別の役を与えられ、伊賀と京都の問を往来していたのてあろう、また、この間に儒学・医術・神道や仏教.書道などを学んだと云うが、その証がみえない。さまざまな所見があるが、著者の論が先立っていて確証は得られない。
 芭蕉は寛文十二年初頭、伊賀上野の天満宮に三十番発句合「貝おほひ」を奉納して、江戸に東下したらしい(辞職してかは不明)。江戸での寄寓先は今日でも論じられているが、駿河台の中坊家(藤堂家中)に身を寄せたと見るのが妥当であろう。この出府は俳諧師になるためではなく、就職が目的であった。そうでなくてはこの期の、江戸での消息が不明で有ることが埋められない、日本橋小田原町の仙風宅に寄宿した(「杉風秘話」)というのも、この期の事と考えられる。寛文十二年春に芭蕉は出府したが、その年の十二月には良忠の後を継いだ、弟の良重も若くして没し、良忠の遺子良長(後の探丸)が嫡立され、後見の良精も延宝二年(ニハ七四)五月に没した。これより先きの三月十七日附で、季吟の俳諧免許と云はれる連俳秘書「埋木」が授けられた、芭蕉が受けたものかは不明だが、「埋木」伝授の通知は良精を経由したものと考えられ、この時に呼び戻されて、職を免じられたと見るのが穏当である。
この「埋木」の奥書に季吟が.

  此書 為家伝之深秘 宗房生依俳諧執心不浅 免奪而景奥書者
  必不可有外見而巳 延宝二年弥生中七  季吟(花押)

 とあるが、この識語には真偽両説あって掲出するに止める。
 この年の十一月、公用かで上溶していたと思われる素堂は、季吟と会吟した。(「九吟百韻」、「廿会集」、--江戸より信章のぽりて興行--)この折にまだ京都に居た芭蕉を、蚕吟から紹介された素堂は、芭蕉の江戸での身の振り方を依頼されたのであろう、素堂の友入で京都の儒医の桐山正哲(俳号知幾)に「桃の字をなづけ給へ」と俳号を依顧して、『桃青』号を撰んでもらった。(「類聚名物考外」)
蓑笠庵梨一の「菅菰抄・芭蕉翁伝」に依ると、季吟の江戸の門人孤吟(後のト尺)が所用で上溶していたが、江戸え帰る時に芭蕉を誘って下ったとある。孤吟は江戸日本橋本船町の中の八軒町の長(名主)小沢太郎兵衛で、季吟門から俳号をト尺と改め江戸談林に参加、次いで芭蕉の門人として延宝八年(1680)「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加した人で、当然古くより素堂とは面識が有った。梨一が一説として「本船町の長序令が江戸行きを誘った」とも記すが、この説は未詳であるが、序令と素堂は長い付き合いで、正徳三年(1713)に素堂が稲津祇空を訪れたときの随行者の中にその名が見える。
 再出府した芭蕉の落ち着き先は本船町(船町)の小沢孤吟方とも、杉山杉風方(「杉風秘記」)とも云う。延宝五年(1677)の立机の事からすると、孤吟方とするのが穏当であろう。
**素堂と季吟**
素堂は季吟との会吟のあと難波に西山宗因を訪ねたようである。勿論、数年前から内藤風虎のサロンに出入りする事になっていたであろう宗因訪問の目的は風虎公の依頼による、宗因江戸招致であろう。宗因は寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳壇の点者に進出、貞門俳諧の古さを指摘、自由な遊戯的俳風を唱え談林俳諧を開き、翌六年(1666)に立机して談林派の開祖となった。
**風虎と宗因
 風虎と宗因との結びつきは寛文二年(1662)の磐城訪問から同四年(1664)江戸訪問と続き、門人の松山玖也を代理として「夜の錦」「桜川」の各葉の編集に関わらせた。風虎と季吟・宗因・重頼との取次ぎは役は、家臣の礒江吉右衛門盛であったが、寛文十年(1670)に没してからは.手不足を生じ、上方に明るくサロンに出入りしていた素堂に、連絡を依親していようである。因みに重頼(維舟)の選集に芭蕉廿層文四年以来取られているが、素堂は一向に取られずに延宝八年(1680)の「名取川集」に、--読み人知らず--として、同五年(1677)の風虎主催の「六百番発句合」の判者となり、その中から素堂の何を異体化して載せているのが初めてである。
**宗因と素堂**
 大分それてしまったが宗因に戻して、延宝二年(1674)は宗因の「蚊柱百韻」をめぐって、貞門と談林派新風との対立抗争が表面化して、貞門俳諧にあきたらぬ人達の注目を集めていたのである。芭蕉も談林に興味を示し、あるいはト尺も談林に興味が有ったのであろう。延宝三年五月、風虎の招致を受けて宗因は江戸に来て、『談林百韻』(「宗因歓迎百韻」)が興行され、「十一吟百韻」に素堂は信章として、芭蕉は初めて桃青号を名乗って参加した、前年に季吟より風虎公に「俳諧令法」が献じられたが、勿論素堂の口添えで芭蕉のサロン入りがなされたと見られ、続いて風虎の息の露沾の「五十番旬合」に出句と、以後内藤家のサロンに登場する事になった。
**素堂、人見竹洞**
 素堂も宮仕えの傍ら出来るだけ芭蕉と行動を共にし、芭蕉の引き立て役を務め、友入の松倉嵐蘭や榎本其角を芭蕉に紹介したのである。先述したが素堂と林家関係は正確には元禄六年(1693)に門人として名を連ねているが、これは友人で先輩の人見竹洞が大きく関与している。竹洞は元禄九年に死去するが、素堂の母の死や元禄六年の素堂亭訪問などを記していて素堂を知る上で貴重である。宝永七年(1710)の曾良宛素堂書簡には晩年まで林家と交友があったことがわかる記載がある。(別述)その竹洞は素堂を「春斎の門人の中で(素堂は)随一」と賞賛している。
〔人見竹洞墓所訪問〕
**註** 私は栃木県の足利学校を訪ね、竹洞関係の書を漁り、その後、日を改めて人見家の墓所を訪れた。山中を彷徨い辿り着いた人見家の墓所は二箇所にあり、刻字も明確で、整然としていた。しかし訪れる人もなく、蚊の集団に次から次へ襲われ閉口した。(別記)
**林家と素堂
 春斎の私塾は寛文三年(1663)十二月に、.幕府から弘文院号が与えられて準官学化した。後の昌平校に成るのだが、元禄三年には官学上して湯島に移されても、入塾にはそれほどの差異は無かったようである。素堂の仕官先は資料不足で解明できないが、役職の関係か、京都との関係が太くなり、その縁で歌学の清水谷家、書の持町院家で習ったものであろう。
 素堂が師と仰ぐ春斎は詩歌・吉典に明るく、寛文元年に江戸のト祐が「土佐日記」(注釈書か)を版行するのに序を寄せた事を聞いた季吟が、日記の十月十一日の条に『春勝(春斎)に何がわかるか』と批判を書いているが、歌学では季吟とは同門であり、その面での接触は否定出来ない。後に芭蕉の知らない季吟の話を語って(後文紹介)おり、結構緊密であった事が判明する、また漢句による聯俳は林門周辺で盛んであったから素堂も得意であろう。
**素堂・芭蕉 貞門俳諧
 素堂も芭蕉も貞門俳譜を学び、延宝初年(1673)には宗因の新風に触れて興味をしめし、同三年の「宗因歓迎百韻」に一座して傾倒して行くようになり、同四年の季吟撰の「続連珠」には芭蕉は門人であるから入集しているが、素堂は門人では無いから入集は無く、息の湖春が「信章興行に」と附旬を載せているだけで、従って素堂は季吟門ではなかった事が判る。同五年(1676)には芭蕉は宗匠と立机したようである。それと共にト尺に紹介された水方の官吏にも着いた。
**素堂の西国下り
 素堂は同六年の夏頃より公用で西国に下つた。職務については不明であるが、翌年の初夏までには復命したらしく、.五月刊行の池酉言水編「江戸蛇之酢」や未得門の岸本調和編「富士石」に、旅行中の吟が入集している。その秋突然、素堂は致任して上野不忍池のほとりに退隠したのてある。西国下りの途中大阪に立ち寄り井原西鶴に会ったり、道中では発句をしたりしており、宮仕えに倦いたものか、はたまた心境の変化がもたらしたものか、その理由は判らない。不忍の池のほとりに退いた素堂は生計を立てるため諸藩に儒学を講じたり、詩歌を教えたりしていたとされる。従って芭蕉ですら素堂を訪れるには手紙をして伺いを立ててからでなくては出来なかった位である。

**芭蕉、水吏の事務方
 芭蕉は延宝五年(尺語りによれば六年)俳諧宗匠の傍ら水吏の事務方を勤めていたが、同八年冬の初め頃か、職を辞めて深川に隠れてしまった。後に門人の森川許六等の説では、
  「修武小石川之水道 四年成 速捨功而深川芭蕉庵出家」
(本朝文選・作者列伝)
 などとある。幕末の馬場錦江が云う通り、当時の水道工事は町奉行所の管轄で、町方は資材・人夫等の分担調達が義務付けられ、その事務方に芭蕉は就いていた訳で、閑職に近い仕事だが、調達した物を現場に行って員数を調べ記帳するのが役目で、工事が追い込みになると大変な忙しさであったようである。延宝度の改修工事は小石川堀の上を樋を渡す物も(神田上水へ)加わっていたようで、完成年度の記録は未見だが翌年まで続いたらしい。

梨一の「ト尺語り」では「縁を求めて水方の官吏とせしに、風人のならひ、俗事にうとく、其の任に勝へざる故に、やがて職を捨てて深川といふ所に隠れ、云々」とあり、初代ト尺(元禄八年没)が息子の二代目ト尺に物語った話は、ほぼ真相を伝えていると考えられる。
**素堂の退隠
 さて、素堂は何を目的に退隠したのか、甥の黒露が『摩詞十五夜』(素堂五十回忌集)で、
  『ある御家より、高禄をもて召れけれど不出して、処子の操をとして終りぬ』
 と書している。二君に見えずと云う事であるらしい、元禄初めの事のようである。芭蕉は素堂と共に宗因の談林風をうけてドップリと浸り、漢詩文調の句を作り、門人たちと荘子の学習会を開いたりとし、蘇東披や杜甫の詩にひかれ、深川の庵にも杜甫の詩よりとった「泊船堂」を号するが、延宝ハ年には「坐興庵桃青」の外に「素宣」の印を用いている。 勿論素堂の素仙堂から二字を取って「素宣」としたようで、素堂はこの年の春がら信章名を「来雪」と改めている。芭蕉が「素宣」の印を用いたのは判らないが、退隠した素堂は延宝八年当初から、来雪号を改めて「素堂」を名乗っているから、この辺りであろうか--。芭蕉は漢学者である素堂に、改めて漢詩などの解説を求めていたと考えられる。随分と長い枕になってしまったが、二人のスタートはこの位に止め、貞門俳諧を少し触れて置く。

**貞門俳諧 連歌
 俳諧は連歌の派生体で、滑稽あるいは戯れなどと称されている。室町時代の歌学者頓阿は歌学書「丼蛙抄」で「俊成卿の和歌肝要に俳諧歌は狂歌なり云々」と述べ、同中期の歌人で連歌師の心敬は歌道と仏道を一体視する歌論を展開し、同末期の遵歌師飯尾宗祇は心敬に学んで連歌を大成させ、その高弟宗長は一休禅師に参禅し、師の旅に随伴して各地を遍歴。同後期の連歌師山崎宗鑑は宮仕えから隠棲して、機知滑稽を主とする俳諧の連歌を作り初め、年齢的には後輩の伊勢宮の神官荒木田守武(和歌・連歌を良くして滑稽の中にも上品さを湛え、俳諧の連歌を唱える)と共に俳諧の祖と称され、宗砥の門下・牡丹花肖柏(連歌論書『肖柏口伝』注釈書『伊勢物語聞抄』など)の末に、里村紹巴(連歌論書』『運歌至宝抄』など、子孫は江戸幕府の御用連歌師となる)の門の松永貞徳(勝熊)が江戸期の初め俳諧の方式を定めて、近世俳諧の祖となった。貞徳は京都の人で和歌を細川幽斎に連歌を紹巴に学び、古い連歌の仕来り(法則)を簡単なものに改め、俳諧連句)の方向付けをした。
**連歌とは
 もう少し連歌について解説しておくと、連歌は和歌の上下両句を二人で令詠むもので、応答歌一首の遊戯で、奈良朝以降平安期に盛行する。これを短連歌と云い、素堂はこの応答を好んで用いた。平安院政期以後この応答一首が遊戯的なものに移行し、短連歌を三十六句続ける「歌仙」や五十句の「五十韻」と呼び、百句・千句などの長路歌が成行し又室町期に最盛期を迎えて連歌師も登場し、初期の遊戯的なものから、文学の一様式にと完成したものである。連句は俳諧の連句とも云い、江戸期に盛行し、発句に付句をして長く続けるもので、連歌の作法を引き継ぎ色々と制約があり、後で触れるが例えば「恋の句」は三句まで五句以上続けることは禁など。種類には百韻・千句・歌仙(三十六句のほか表・裏八句、三つ物など。聯句は漢詩の一つの体で、詩一句づつ作って一編にまとめるもので、鎌倉.室町期に流行して詩連句とも云うが、江戸期の林門周辺で盛んで有ったのは俳連で、林羅山・春斎観子も貞徳に指導を受けていた。

 さて、諸書に解説される俳諧についての語句は、その趣味は通俗の滑稽に有り、貞徳については、古事や古歌を多用して言語上の縁や掛けを主とし、俳論書「後傘」(慶安四年刊、御傘とも)で規則として挙げているのは、
  一、俵言を用いること
  二、一句にその理りあること
  三、用附・同意の禁止
 の三点が主な処である、
(一、)の俳言は、和歌・連歌には用いない言葉の、漢語や俗語など一切を網羅するごと。
(二、)理りは、俳諧が謎のような難解なものより、有意義の物として文学的な物とする。
(三、)用付・同意の禁は、俳諧を変化に富むものにするためである。
 とに要約される。通俗を旨とする貞門は、文章も平易なものにすることに努めた。これも後には堅苦しい(古い)と感じる者も出た。西山宗因の提起した談林俳諧である。宗因は運歌を里村肖巴に、俳諧を貞門の松江維舟に学び、難波天満宮連歌所宗匠(正保四年)承応頃から俳諧を始あ、北村季吟が俳諧宗匠として立机した明暦二年、宗因は俳諧活動を開始したのである。恐らく宗因は季吟が貞徳の後継者として、当時の停滞した貞門の俳諧に新風を起こすものと期待していたらしい。季吟が立机の前年に俳諧書「埋木」を著述して、新風を吹き込もうとしていたことは知つていたのであろう。処が宗因の期待に反していたのであろう、寛文五年に宗因は点者として立ち、同十年には連歌所宗匠の地位を子息に譲り俳諧に専念すると、翌年には談林新風を唱導し始めたのである。宗因の新風は、事象の面白いものを材料とし、俳諧の法式を度外に置き、貞徳の法則を全て守らず、奇抜な着想と破格の表現をするもので、俳諧は滑稽の遊びであるから絶対に自由であるとした。宗因の晩年には談林を標ぼうする者たちが、唯だ新を壱とうとんで、常識では解せないものが生じた。つまり、宗因の意に反して通俗性の修辞上の正当な注意を欠いた、杜撰なものも多くなり、天和二年(1682)宗因の死によって次第に衰亡に傾いていったのである。
 一方季俳諧宗匠の傍ら寛文初年頃から古典文学に傾斜し、同元年「古典注釈書」をかわきりに、延宝二年の「枕草紙春曙抄」「源氏物語湖月抄」等と発表し、俳諧の宗匠は子息の湖春(寛文七年後継)に任せ、歌学と古典研究に勤しんだようである。

**素堂の俳論
 芭蕉も素堂も共に貞門俳諧を学んで出発した。つまり従来の俳諧は、すべて修辞上の滑稽によっていた。素堂が後年に「続の原季合」の抜文に「狂句久しくいはず」「若かりし頃狂句をこのみて」(「続虚栗序」)と云う如く、貞門・談林の風調時代を回顧して述べている如く、俳諧は滑稽・遊びと捉えていたと見られる。従つて自分の知識である古典文学、故事来歴・古典和歌・漢詩・漢籍などを駆使して作句した。いつ頃から自分の作句法を模索し始めたかは判らないが、季吟と会吟し、宗因との会吟の後ち談林風に吹かれて傾斜したが、信章時代の素堂と桃青時代の芭蕉との会吟では、談林風に引かれた芭蕉に合わせたものの、延宝五年頃から談林調に飽足らずと思い始めていたようである。素堂が『継承すべき伝統の発見と自覚』に目覚め始めたのは、俳号を信章から来雪に改めた頃」延宝六年辺りと考えられる。この年は三月に高野幽山が立机し、それを信章が後援したことに依るのであろう。
 延宝六・七年の九州長崎への旅行後に致仕して退隠し、翌八年来雪より素堂と改号、高野幽山の編『誹枕集』の序文に、自分の俳諧感を述べて、冒頭に諜枕とは「能因が枕をかってたはぷれの号とす」として、中国唐代の司馬遷の故事、李白・杜甫の旅、円位法師(西行)や宗祇・肖柏の「あさがほの庵.牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ、是皆此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅の遍歴を良しとして「されば一見の処々にて、うけしるしたることぜのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌.連歌.俳諧等の一貫した文芸性を指摘し「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の埋木花さかぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。つまり、後の影情の融合と情(こころ)の重要性を説いている。

**芭蕉、深川へ
この後ち芭蕉(桃青)は前述の如く水吏の職を辞め、杉山杉風の計らいで深川に退隠してしまった。素堂の「漢詩にしろ和歌にしろ、すべての情は景情一敦である」との主張に接し、心が動いたのであろう。素堂は一派に属さずをモットーに、世の風潮に合わせて談林調や天和調と云う漢詩文調の句も盛んに作った。勿論漢学者であり詩人であるから得意でもある。素堂が天和調に火を付けたとか、指導的役割を果たしたと云う事はなかろう。寧ろ求めに応じて作ったと考えられる。

**談林調や派生した素堂の漢詩文調の句を紹介すると
 ・素堂号 信章 ➡ 来雪 ➡ 素堂
〇延宝四年 梅の風俳諧国に盛なり    信章 「江戸両吟」
〇延宝五年 鉾ありけり大日本の筆はじめ  々 「六百番発旬合」
      茶の花や利休が目にはよしの山 々 「々」
〇延宝六年 目には青葉山郭公初鰹     々 「江戸新道」
      遠目鑑我をおらせけり八重桜  々 「江戸広小路」
〇延宝七年 鮭の時宿は豆腐の雨夜哉   来雪 「知足伝来書留」
      塔高し梢の秋の嵐より     々 「々」
○延宝八年 宿の春何もなきこそなにもあれ素堂 「江戸弁慶」
      髭の雪連歌と討死なされしか  々 「誹枕」
      武蔵野や月宮殿の大広問    々 「々」
      蓬の実有功経て吉き亀もあり  々 「俳諧向之岡」
〇延宝九年 王子啼て三十日の月の明ぬらん 々 「東日記」
      宮殿炉女御更衣も猫の声    々 「々」
      秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠 々 「々」
〇天和二年 舟あり川の隈ニタ涼ム少年歌うたふ  々 「武蔵曲」
      行ずして見五湖煎蠣の音を聞  々 「々」
〇天和三年 山彦と埠ク子規夢ヲ切ル斧   々 「虚栗」
      浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらむ  々 「々」
○貞享二年 みのむしやおもひし程の庇より 々 「々」
      余花ありとも楠死して太平記  々 「一棲賦」
      亀とならじ先木の下の鐸ならん 々 「俳諧白根」
○貞享三年 市に入てしばし心を師走哉   々 「其角歳旦帖」  
      長明が車に梅を上荷かな    々 「誰袖」
      雨の蛙声高になるむ哀哉    々 「芭蕉庵蛙合」

 以上、知られている句を全て掲出することは出来ないが、素堂は時に応じて詠んでいるが、相変わらず字余りも多い。これも余す事で詩情や余韻を良くするなど、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂的高踏らしさの感動を顕しているのである。恐らく素堂自分一代の俳諧と達観していたと考えられる。一方芭蕉は深川に退隠してから、京都の伊藤信徳らの『七百五十韻』を受けて、『俳諧次韻(二百五十韻)』を出したりして、句の工案したりと、素堂の「誹枕序」に触発されて新風を興す模索を続けていた。天和二年暮の江戸大火で類焼した芭蕉は、誘われて甲斐谷村に流寓し、江戸に帰ってから其角の『虚栗』に跋を著し、貞享元年には帰郷の目的で「のざらし」の旅に出た。その途中の名古屋で『冬の日』の五歌仙を巻いて、漢詩文調を脱する新風興起の手応えを感じて、翌年江戸に帰った。貞享四年十月、素堂は不ト(岡村氏)に請われて『続の原』句合の判を芭蕉等とすることになった。この「春の部跋」で生涯で一貫した俳論の底に流れる規範を吐露して、

 古き世の友不ト子、十余里ふたつかひの句合を袖にし来りて判を
もとむ、狂句久しくいはず、他のこころ猶わきがたし。左蛮右触
あらそふことはかなしや、これ風雅のあらそひなればいかがはせ
ん。世に是非を解人、猶是非の内を出ず、我判にかかはらじ、と
すれど、人またいはん。無判の判もならずやと。
丁卯之冬素堂書
 この論は晩年の「とくとくの句合」自跋にある
  『汝は汝をせよ、我はといひてやみぬ』
 の態度と同じである。
 芭蕉が「卯辰紀行(笈の小文)」に出発した直後、榎本其角が『続虚栗』を編んで、その序文を素堂に頼んで来た。この「続虚栗序」は幽山の『誹枕序』に続く素堂の『俳諧感(俳論)』で、芭蕉にとっては俳風の転機になって行く序文でもある。


素堂 出生から林家まで 間違いが多い記載事項

2023年09月02日 08時32分16秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

▽一、 素堂の出生地
(1)甲斐国巨摩郡教来石村字山口(『甲斐国志』他)
(2)甲斐国山梨郡府中魚町(『山梨県の地名』他)
   ○素堂は甲府魚町に生まれ先祖は教来石山口の出身。
(3)○江戸----『風俗文選犬注解』他)
(4)○不明----(『連俳睦百韻』寺町百庵の言)
(5)それの年甲斐の山ぶみをおもひける…亡妻のふるさとなれば、   …外舅野田氏をあるじとする。云々
(素堂自著『甲山紀行』・元禄八年)
(6)国より帰る
 われをつれて我影帰る月夜かな 素堂  (元禄二年)
(7)山口家は、その祖山口勘助良侫(蒲生氏郷の家臣)以来、甲
斐国巨摩郡教来石山口に土着した郷士であった。(『国語国文』
「山口素堂の研究」荻野清氏著)
*註 この項は『連俳睦百韻』に『甲斐国志』をプラスした記述。
(8)素堂は江戸の人、云々(『俳諧奇人談』、玄々一著)
素堂は本系町屋にして世々倣富の家なり。云々
(『奥の細道解』、後素堂著)

▽二、素堂の生日
(1) 寛永十九年五月五日(『甲斐国志』)
(2) 寛永十九年一月四日(『連俳睦百韻』)

▽ 三、素堂の生家  
(1)甲斐国山梨郡府中魚町、山口屋市右衛門家(『甲斐国志』)
  (ただし、『甲斐国志』には酒造業とはない)
(2)山口家は甲府に於いて、魚町西側の本宅を構え、酒造業を営
みて巨富を擁し、
 (功刀亀内氏蔵、写本酒之書付及び貞享上下府中甲府細見に依る)
…この項、『国語国文』「山口素堂の研究」荻野清氏著による。
(3)家頗ル富ミ時ノ人山口殿ト稱セリ(『甲斐国志』)
(4)素堂の鼻祖は蒲生氏郷の家臣山口勘助良侫、町屋に下る。
(『連俳睦百韻』)
北巨摩郡蓬莱(正しくは鳳来村)に生まれる。
幼名重五郎、父を市左衛門と呼び、幼時に一家甲府魚町に移
転して酒造業を営む。(『甲州俳人傳』)

▽四、素堂の名前
姓については「山口」で確定出来る。これは『甲斐国志』ばかりでなく、書俳書に使用している。名については、
(1)『甲斐国志』 重五郎・信章・通称官兵衛
     素道(堂=道)・市右衛門
(2)『甲斐国志』以前の書
(3)『連俳睦百韻』 太郎兵衛・素堂(素仙堂の略)
(4)『とくとくの句合跋』 松兵衛
(5)『俳諧錦繍緞』 序文名 山松子。(山口松兵衛)
(6)『奥の細道解』 俗名太郎兵衛・名は信章。
(7)『升堂記』 素堂
(8)『竹洞全集』 素堂
(9)『地子屋敷帳』 素堂 (この文書は国会図書館に現存する)

註…素堂の生存中に資料からは官(勘)兵衛の名は見えない。『甲斐国志』以後の書に現れるようになる。

▽四、素堂と林家
(1)自少小四方ノ志アリ。屡々江戸に往還シテ受章句於春齋 (『甲斐国志』)
(2)元禄六年(素堂、五十三歳)林家の門人となる。
(『升堂記』門人名記載)
 
▽五、素堂の仕官先  
(1)舎弟ニ家産ヲ譲リ、使襲称 市右衛門自改官兵衛、時ニ甲府ノ御代官桜井孫兵衛政能ト云者能ク其ノ能ヲ知リ頻ニ招キテ為 僚属 居ル数年、致任シテ寓東叡山下 (『甲斐国志』)

(2)青年時代江戸出府以後、寛文末まで彼の消息は甚だ明瞭を缺き、いかに穿鑿するも要するに憶測に止まり、云々(『国語国文』「山口素堂の研究」荻野清氏著)
 
(3)弱冠ヨリ四方ニ遊ビ、名山勝水或イハ絶レタル神社或イハ古跡
ノ仏閣ト歴覧ザルハ無シ。(『素堂句集』子光編)
 
 ▽六、号、今日庵
(1)茶ハ今日庵宗丹ノ門人号今日庵ハ盖シ宗丹ガ授カ(『甲斐国志』)(2)宗旦筆「今日」の掛軸。(『通天橋』「素堂六物」)山田宗偏か
ら譲り受ける。
 
▽七、素堂の妻の死
(1)元禄七年(「素堂、曾良宛て書簡」)芭蕉の死に際しての書簡。
(2)人あるひは妻を迎へん事をすすむるを、固辞してやみぬ。
(『俳諧奇人談』)  

▽八、素堂の母の死 
(1)元禄三年説、甲府尊躰寺山口家の墓所にある墓石刻字による。
  『国語国文』「山口素堂の研究」荻野清氏著)
(2)元禄八年夏、人見竹洞著
素堂山処士養八旬 老萱堂至孝乙亥之夏 忽然遭喪哀
        (『竹洞全集』「素堂の母に捧げる挽歌」)

▽九、素堂家墓所  
(1)素堂の墓所感応寺(天王寺)との関連。
(2)甲府尊躰寺の山口家墓所について、荻野清氏の調査では、
三十基にあまる山口一家の墓標が今も残されていて、その中でも、最も古いのは、寛文十三年六月七日、江岸詠月禅尼 と誌されたものであるという。
(2)小高敏郎氏は、この、江岸詠月禅尼 なる人物が素堂の妻だ
とすれば、素堂は寛文十三年(三十二才)、若くして妻を喪ったことになるといった。   
…この項「山口素堂の研究」筑波大学、黄東遠氏著より。      
(3) 甲府尊躰寺の山口家墓所について調査の結果、前述の荻野氏の調査とは大きな違いが判明する。山口家の正面の墓石は山口勝(藤)左衛門と読める刻字がある。肝心な主市右衛門の墓石が無い。勤番士萩原氏の刻字のある墓石がある。    
正面 元禄三年 皈眞 光誉清意禅定尼 冥位
   側面 老母 山口市右衛門尉建立
 山口氏勝(藤)左衛門  天和三年
施主山口氏の刻字墓石  年不詳
 魚町山口氏の刻字墓石  貞享元年
 施主山口氏の刻字墓石  宝永六年
 素堂の父母の墓石は不明

 この項については別記する。間単に説明すると、この墓所の古い墓石は寄せ集め墓石で甲府勤番士や他家のものもある。素堂の生家とされる「山口屋市右衛門」などの名前も無く、「側面老母 山口市右衛門尉建立」の刻字も後世のものとも考えられる。
いずれにしてもこの墓所と素堂の関与は無い。

▽九、季吟の門人
 連歌ハ再昌院法印北村季吟を師トス(『甲斐国志』)
「信章歓迎百韻」延宝二年、霜月三日信章のぼりて興行、
(季吟『廿會集』)
季吟との関係は極めて親密であるが師弟ではない。 
この項「山口素堂の研究」筑波大学、黄東遠氏著より。 
 
▽十、不易流行
(1)芭蕉、元禄二年(1689)十二月、京都滞在中、去来に「不
易流行」の理念を説く。(『去来抄』)   
(2)素堂、貞享四年(1687)十一月、『続虚栗』其角編、序文
中、
花に時の花あり、つひの花あり。時の花は一夜妻にたはぶ
るゝにおなじ、終の花は、我宿の妻となさんの心ならし。
人みな時の花にうつりやすく、終の花にはなほざりになり
やすし。云々
 芭蕉優先の俳諧世界においては致し方の無い話かも知れないが、素堂誤伝の極めつけはこの「不易流行」である。素堂が芭蕉に先駆け掲示しているにもかかわらず、多くの識者は芭蕉が唱えたものとして現在に至っている。
▽ 十一、濁川改浚工事 
これは素堂の生涯でもっとも歪められて伝えられている話で、これまでの調査でも素堂がこの工事に関与した足跡や資料はまったく見えない。甲斐国志編纂者の時の代官桜井孫兵衛の末裔などにより、挿入された創作記事と思われる。
 『甲斐国志』以来甲斐に於ける素堂は工事の指揮者に土木の神様に祀りあげられる。また甲斐国志記載全編の中で「講談調」の記述はこの素堂(国志は「道」)の項だけである。その後、素堂は河川工事責任者に祭上げられて今日に至っている。
桜井孫兵衛政能の事蹟と素堂の事蹟を重ね合わせる記述方法は『甲斐国志』の他の記述には見られない。素堂没後以来『甲斐国志』が刊行されるまでの百余年間、素堂の濁川工事関与の記事は見られない。素堂濁川関与は『甲斐国志』に突然現れた記載事項である。
宝暦二年(1752)に刊行された『裏見寒話』(野田成方著)には桜井孫兵衛の記事はあっても素堂のことは記載されていない。
(前文略)
其の頃桜井孫兵衛といへる宰臣、明知高才にてこの湖水を
濁川に切落し、其の跡田畑となす。依て今は農民業を安ん
ず。一村挙つて比桜井氏を神に祭りて、今以て信仰す。
   
▽十二、素堂の評価
(1)『俳諧の國』「芭蕉論稿」山崎喜好著。
 (略)ただ彼(素堂)が蕉風完成の初頭に於て、換言すれば詞から心へと深まり行こうとした頃には芭蕉に多くの影響をば与えたであろうと思う。即ち芭蕉に彼の教養をなしている漢詩の詞句やその中に籠る精神を通じて清新な息吹を与えた功は沒し難いに違いないが、芭蕉の晩年に至もなお連続的に寄与し得ることはできず、芭蕉は漸次素堂との世界以上に高まって行った。云々

(2)『芭蕉の肖像 百影』「素堂との交友」乾憲雄氏著
 貞享期の素堂の発句が、その気品の高遇さにおいて、当時の芭蕉をしのいでさえいるという評価は、(略)決して過褒ではない。

▽十三、「勘兵衛」類似の氏名
 甲府城の城番は寛永十三年より、上級旗本二名宛にこれを命じ、
毎年五月四日を交代の期とした。その旗本の中に素堂が生まれた前年に城番であった人物が「山口勘兵衛」である。
*寛永十八年(1641)四000石 山口勘兵衛
この城番制度は寛文元年(1661)まで続く。

▽十四、山口屋市右衛門 
素堂は山口屋の長男として市右衛門を名乗ったと『甲斐国志』にあるが、
 *寛文十三年(1673)「魚町丑ノ二月中宿取之覚」に
当月九日ニ西郡筋いますわ村拙者母
毛色悪敷御座候故いしゃにかゝり于今羅有候。
     (魚町)四丁目 市右衛門
のような記事も見える。
*元禄十年(1697)「山梨郡府中分酒造米高帳」
 魚町 山口屋市右衛門 造高 四十五石
 これは享保九年(1723)の調べで、この年まで山口屋市右衛門は健在である。『甲斐国志』以外には素堂と山口屋を結ぶ記述は見えないし、国志は素堂の家が酒屋とは記載されていない。
 
▽『甲斐国志』「素道」巻之百二 士庶之部
〔読み下し〕
素道 山口官兵衛と云ふ。姓は源、名ハ信章。字ハ子晋。一に公商とも云ふ。其の先は州の教来石村山口ニ家ス。因って氏と為す。
後に居を府中魚町に移す。家頗る富ミ、時の人は山口殿と称ス。
信章は寛永十九年壬午五月五日生ル、故ニ重五郎を童名トス。
長ジテ市右衛門と更ム。蓋シ家名ナリ。
少々自り四方ノ志アリ。屡々江戸に往還して章句を林春斎に受く。亦京都を遊歴して書を持明院家に学び、和歌を清水谷家に受け、連歌は再昌院法印北村季吟ヲ師トス。松尾芭蕉ト同門なり。俳諧を好みて宗因梅翁と号す大阪の人、信徳伊東氏京都の人等ヲ友トシ、假リニ来雪ト号ス。亦今日庵ト号ス。蓋シ宗旦ノ授クル所カ。
遂舎弟某ニ家産ヲ譲り、市右衛門を襲称使め、自らは名を官兵衛と改むる。
時に甲府殿ノ御代官桜井孫兵衛政能ト云ふ者、能く其の能ヲ知り、頻ニ招キテ僚属と為す。
居る事数年、致任シテ東叡山下に寓し、専ラ儒を以て售ル。  
人見友元ヲ学友トシ、諸藩ニ講ジテ詩歌ヲ事トス。
傍ら茶、香、聯俳、演劇、平家等ニ及ベリ。
一旦世外ノ思ヲ発シ家ヲ葛飾安武ニ還ス。是れ芭蕉庵桃青    伊賀の人松尾甚七郎、初風羅坊、元禄中没、年五十三ノ隣ナリ。
 二人ノ者、志し同じふして先師季吟ノ教エヲ奉ジテ、正風体の俳諧ヲ世ニ行ハントシ、名を素堂と更め堂又道に作る(同じ)實に天和年間ノ事ナリ。
 元禄八乙亥素堂年五十四、帰郷シテ父母の墓を拝す。且つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢され御代官触頭の為め府中に在り、政能素堂を見て喜び、抑留シテ語リ濁河の事に及ぶ。嘆息シテ云ふ。濁河ハ府下汚流ノ聚る所、頻年笛吹河瀬高ニナリ、下ノ水道の壅ガル故ヲ以テ、濁河ノ水山梨中郡に濡滞シテ行かず。本州諸河砂石漂流して其の瀬年々高シ。民は溢決に苦しみ、今に至る尚爾リ国ノ病と為す。實に甚し。山川の部ニ委シ
 水禍を被る者十村中に就き、蓬澤、西高橋二村最モ卑地ニシテ田畠多く沼淵トナリ。此の時に当たり、村人魚を捕へて四方にていし食に換へる。蓬澤の鮒魚于州に名ト云ふ。雨降レバ釜を釣リ床重なる田畠も腐敗シテ収稼は毎二十のうち二三ニ及ばず。前ニ居を没する者数十戸は、既に新善光寺の山下ニ移レリ、餘民は今猶堪へザラントス。
政能屡々之ヲ上ニ聞スレドモ言未だ聴カレズ。夫レ郡の為め民の患いを観乃之を救うコト能ずヤ。吾辨じテ去らント欲ス。然れドも閣下に一謁して自の事由を陳べ、可否を決すべく望ミ、謂フ足下ク此ニ絆サレテ補助アランコトヲ。
素堂答テ云フ。人者コレ天地ノ役物ナリ。可を観て則ち進ム、素ヨリ其分ノミ。况や復父母ノ国ナリ。友人桃青モ前ニ小石川水道ノ為ニ力を尽セシ事アリキ。僕謹みテ承諾セリ。公のおうせにこれ勉て宜しくト。
政能大ニ喜ぶテ晨ニ駕すことを命ず。十村ノ民庶蹄泣シテ其の行を送る。政能顧て之れ謂を云ふ。吾れ思ふ所アリ、江戸に到りて直ちに訴ヘントス。事就ざるトキハ汝輩を見るコト今日ニ限ルベシ。構ヘテ官兵衛が指揮ニ従ひ、相叛くナカレト云々。
素堂は剃髪ノママ双刀を挟み、再び山口官兵衛を称す。
 幾程ナク政能許状を帯して江戸ヨリ還ル。村民ノ喜び知リヌベシ。
 官兵衛又計算に精シケレバ、是れ自リ夙夜ニ役夫を勒して濁河ヲ濬治ス。高橋自リ落合に至る堤を築き、二千一百有余間を導キテ、  笛吹河の下流に會セ注グ。明歳丙子月日落成ス。悪水忽チ流通シ沼淵涸レ、稼穡蕃茂して民は窮患ヲ免ル。以て前に他は奔たる者も皆な舊居に復シ、祖孝墓を修コトヲ得タリ。
是レニ於て生祠を蓬澤村南庄塚ト云フ所ニ建テ、桜井明神と稱へ山口霊神と併せ歳時の祭祀今ニ至るまで怠り無く聊でか洪恩に報いんト云ふ。
 素堂は其の事畢リ蚤ク葛飾ノ草庵ニ還リ去リ、亦宿志述し、遂に桃青と共に俳諧専門ノ名ヲ成セリ。
 享保丙申元年八月十五日逝ス。歳七十五。谷中感應寺ニ葬す。甲府尊躰寺ニモ碑アリ。法諱は眞誉桂完居士。
 政能は同十六辛亥年二月十四日逝ス。歳八十二歳素堂ヨリ少ナキ事八歳
 元文三戊午年七月、政能姪斎藤六左衛門正辰ト云ふ者、役を奉じテ本州ニ来リ、御勘定方毛見の鑒札ヲ奉ハル。是より先享保十八丑年ニモ来リキ祠前に石を樹て其の事をす。  
和漢二章の前文は附録にアリ。

*斎藤正辰建立 地鎮碑名 甲斐国志 附録の部  
〔読み下し〕                                           
 甲州の蓬澤・西高橋両村、濁河の剰水を受け大半は沼となって数十年、近隣の七邑も亦た同じである。ことに両村は甚だしい。雨が降れば則ち船に非ずば行くべからず。民は荷物を担いて出づ。河魚の疾いは但に与にするを焉禾黍も実らず、饑□野に盈ツ。将に不毛の地と為らんとす。
 元禄甲戊桜井孫兵衛源政能郡の為に于邑に至る。民庶は蹄泣して濬治の計を請う。政能は諾し明る年乙亥帰りて老臣に遡へて其の事甚勤した。国君はこれを恤し、明る年丙子新に政能に命じて検地の功を鳩じ西高橋より落合村に至る堤二千一百余間と泥を開いて塞を决き濁河の流れを導いて笛吹川に会せ遂ちて止む。
 是に於て土地は沃乾き、家穡は蕃蕪す。民は以居すべく、租も以て入るべしと。政能の死してから久しい。而して両村の民は愈々その恩を忘れることは能はず。乃ち、政能を奉じて地の鎮めと為し、  祠を建て毎歳これを祀る。あゝ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るはいにしえの典也。余、後来其の所由を失うを恐れ、遂に書を石に勒すとかく云ふ。


▼芭蕉の生まれと周辺 この項(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)

2023年09月02日 08時30分45秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

▼芭蕉の生まれと周辺

   この項(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)

 素堂も芭蕉も江戸で活躍する以前の動向は定かではない。それは阿部氏の「松尾芭蕉」の展開で理解できる。
*生まれた年
芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。
正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。
ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書『天水抄』の稿を書きあげた年である。

*偉人伝説
芭蕉に限ったことではないが、偉人の伝記にはその賛仰・顕彰の気持から生ず余計な詮索や付会、伝説・異説がつきまとう。
たとえば、僧文暁編著『俳諧芭蕉談』『芭蕉翁反故文』(一名、花屋日記)『次郎兵衛物語』『凡兆日記』などは有名だが、虚構的作品。
*芭蕉伝記いろいろ
芭蕉伝書といわれる『芭蕉翁二十五条』・『桐一葉』『幻住庵俳諧有也無也関(うやむやのせき)』などの、俳論書あるいは作法書も信じられない。
『翁反故』は二百二十余通を含む「偽書簡集」。芭蕉の書簡で信用できるものは今のところ百五十通ほどであるが、あやしいものの数は、「翁反故」も含めて、その三倍強ほども管見に入っている。
発句についても頴原退蔵校註.山崎喜好増補『芭蕉旬集』(『日本古典全書』)で見ると、存疑句が五三九、誤伝句が二〇四句もある。その他、詠草・画賛・短冊の類にもあやしいものがおびただしくある。まったく油断はできないが、そうしたものの中にも考慮すべきものがないでもない。こうした資料をかきわけながら、なるべく正確な芭蕉伝を書きたいと思う。

*芭蕉の先祖・家系
芭蕉の先祖・家系については門人支考が享保三年(1719)刊『本朝文鑑』に載せた「芭蕉翁石碑ノ銘」序に「その先は桃地の党とかや」といつたが、同じく門人土芳稿『蕉翁全伝』には記載がない。土芳の門人で伊賀上野(三重県上野市)の藤堂采女(うねめ)家の家臣竹人が師の稿をうけて、宝暦十二年(1762)に書いた『芭蕉翁全伝』には、
「弥平兵衛宗清の裔孫にして、伊賀の国柘植の郷、日置・山川の一族松尾氏也。中頃の祖を桃司(ももじ)某郁証某といふ」
とし、松尾家系略図を載せる。そのころ同じく上野の藤堂新七郎家臣安屋冬李(とうり)が上柘植の富田杜音に送った『蕉翁略伝』にも同様に見え、杜音と交渉のあった蝶夢の『芭蕉翁絵詞伝』に至って、この説が詳説された。

*芭蕉の先祖
あずまかがみすなわち、芭蕉の先祖は『平家物語』『源平盛衰記』『東鑑』(吾妻鏡)などに見える平宗清で、その一族が柘植に住みつき、その子孫になるというのである。どこまで正確なのかはよく測定しかねるが、そのころ以後の芭蕉伝の諸書はこれを認め、宗清の子孫が柘植付近に住んでいることは今でも認められる。それで、芭、蕉が生まれた所は柘植だとする説も出たのである。

*故郷
拓殖は三重県上野市の東北方約十五キロ、芭蕉柘植誕生説は利一ちの『芭蕉翁伝』(「奥の細道菅菰抄」)、竹二坊の『芭蕉翁全伝』(寛政10年)等これを採るものが多いが、この説の弱点は芭蕉白身の書いたものの中にそれと明らかに認められるものが一向にないことである。
路通の『芭蕉翁行状記』(元禄8年)に「芭蕉老人本土は伊賀国上野にあり」と記し、竹人の『芭蕉翁全伝』は「上野の城東赤坂の街に生る」と記す。芭蕉の書いたものも故郷とするのはこの地であった。たとえば、「伊陽の山中」に帰るといい、
「ふるさとや膳の緒に泣く年の暮」(貞享4年)
とよんでいるのは赤坂町の兄の家で、ここに芭蕉の臍の緒も保存されていたのであろう。
家系説も拓殖誕生説も後年の付会だとする説もあるが、厳密に生まれたところを突き止めるためには、松尾家が赤坂町に住み着いた時期究明する必要がある。だが、それは今では明確にはなしがたく、芭蕉のよんでいる故郷の意味で、それは伊賀上野赤坂町と認めていかなければならない。

*芭蕉の父
芭蕉の父名についても異説があるが、与左衛門とするのがよい。土芳の『蕉翁全伝』に「上野赤坂住」とあるから、この人の時からそこに住んでいたと認められる。柘植の福地家系図には慶長のころ上野に移住したとある。慶長といえば、その十三年(1608)に藤堂高虎がその辺の領主となって、上野城およびその城下町を経営し始めたころであるから、そのころ柘植の農士松尾与左衛門が志を抱いて、そこに移住したことを考えても不自然でない。
その父は、貞享五年二月十八日に三十三回忌が催されているので、逆算して明暦二年(1655)同日、芭蕉十三歳の時に死んだと考えられているが、年齢はわからない。冬李の『蕉翁略伝』に「手蹟の師範」と伝えるが、それも確かにはわからず、どこに出仕したという伝えもない。
母は土芳の『蕉翁全伝』に、伊予宇和島、桃地氏女」とあり、竹人の『芭蕉翁全伝』に「伊予の産、いがの名名張に来りて其家に嫁し、二男四女を生す」とある。高虎は伊予から伊勢・伊賀に転封されて来たので、それにつれて伊予から移住して来た桃地(あるいは百地・百司)氏の娘であったろうと考えられている。
天和三年(1683)六月二十日、芭蕉四十歳の時に死んでいるが、年齢はわからない。前記支考の桃地、その他桃青・桃印・桃隣の桃をこの母の縁に考え寄せる説があり、名張より上野に近い友生(とものう)村喰代(おうしろ)の百地家かと考える説もある。
また、元禄七年(1694)九月二十三日付兄半左衛門宛芭蕉書簡に「はは様」とあるので、父与左衛門に権妻(妾)があったかとする説や、これを「ばば様」とよみ、祖母とする説もある。
兄は一人説がよい。この人が手蹟師範だったとの説もあるが、はじめ藤堂内匠家に、のち藤堂修理長定に仕え、上野における松尾家の菩提寺愛染院の過去帳によると、元豫十四年(1701)三月晦日に死んでいる。年齢はわからない。
右の内匠家は食録二千石、津に本城を置いた藤堂藩の伊賀付藩士で、上野城二の丸に邸宅があったが、天和二年(1682)十二月に修理家と交替して、津に移った。修理家は食録千五百石、長定は俳号を橋木と称し、芭蕉の門に遊んだ人である。半左衛門は農家から引続いて修理家に仕えたわけで、後述するが、身分は低いものであったらしい。
この兄に宛てた芭蕉の書簡に、依頼された援助をことわったり(貞享年間八日付書簡)年末の送金ができなかったと謝ったり、(元禄二年正月付書簡)正月の餅代としてもらった金を送ったたり、また去来宛書簡(元禄四年七月十二日付)にもその配慮が見えるので、芭蕉は時々この兄へ送金していたとが考えられる。
この芭蕉の送金はその妻子を兄の家にあずけていたからだと考える説があるが、そのことは(後述もするが)確められない。事情はよくわからないが、兄の家の経済が楽ではなかったことは考えなければなるまい。
愛染院の過去帳によると、半左衛門の妻は宝永二年(1705)に死んでいるが、元禄元年(1688)九月十日付卓袋宛芭蕉書簡に「姉者人」の死が見えるのを、半左衛門の妻のことと考え、過去帳に見える妻は後妻だろうとする説もある。
また、同過去帳に元藤十二年十月十七日没とある松尾又右衛門をも、芭蕉の兄とする説があるが、これは土芳の「蕉翁全伝』によると、半左衛門の子で、それが死んだので、末妹およしを半左衛門の養女としたと考えるのがよいであろう。妹は三人であるが、末妹は上記のごとく、兄の養女となり、一人は片野氏へ、一人は堀内氏へ嫁した。片野氏は家号を幹.彫屋といった伊賀上野、宮の前の商家。芭蕉の妹の夫は通称を新蔵・俳号を望翆といって、芭蕉の門人となり、俳譜をたしなんだ。宝永二年八月二十四日没、九品寺に葬る。同寺の過去帳によると、その妻(芭蕉の妹)は元禄九年に死んでいるらしい。堀内氏も家号を丸屋といった伊賀上野、本町の商家。もと伊予から移住して来た家というから、芭蕉の母方の知りあいであったか。同家の菩提寺西蓮寺の過去帳によると、芭蕉の妹は宝永二年に没したらしい。

**芭蕉の姉
土芳や竹人の記す姉は一人である。その姉は山岸重左衛門、俳号半残に嫁したとの説があるが、半残は芭蕉より年下なので、その父同重左衛門、俳号陽和の妻だったろうとの説が出た。また、山岸家は五千石の藤堂玄蕃家の臣で、陪臣ではあるが三百石前後の家であり、家柄から見て松尾家と格差がありすぎるとし、この婚姻関係を否定する説もある。
芭蕉との関係で半残は最も親しかった伊賀蕉門の一人と見受けられ、妻といっても、このころは正妻ならぬ妻も考えられるから、山岸家との姻戚関係も全然否定し去ることもできないように思うが、土芳はこの姉は早死したと記している。ほかに中尾氏に嫁したとの説もあるが、これも証左なく、この辺はどうもはっきりしていない。 なおまた、芭蕉の書簡中にはこの姉とは思えない別の姉の存在が考えられる点が出てくるので、それについて異母姉を考えたり、次に述べる寿貞の姉や桃印の母を推量したりする説がある。

**寿貞尼
問題の女性、寿貞のことは芭蕉の最晩年の元禄七年の文献上にあらわれてくる。すなわち、
(一)同年五月十六日付曾良宛芭蕉書簡中に、留守にしている深川の芭蕉庵について述べるところに、「寿貞も定而移り居可申」とあり、
(二)、閏五月二十一日付杉風宛中に、病人の寿貞が芭蕉庵中にいることが見え、
(三)六月三日付猪兵衛宛中にも寿貞のことを心配しているが、(四)六月八日付猪兵衛宛中には、寿貞が、まさ・おふう・理兵衛らを残して死んだことが見える。
(五)芭蕉はその七月に寿貞たまの死を悲しんで、「数ならぬ身とな思ひそ魂(たま)祭り」とよみ、
(六)十月の遺言状の中にも、奮の世話をしてくれた猪兵衛の感謝の言葉をのこしている。
そして、後年の文献(「小ばなし」)でではあるが、門人野坡の回顧談中に「寿貞は翁の若き時の妾にて、とくに尼になりしなり。其子次郎兵衛もつかひ被申し由」と見える。
次郎兵衛が寿貞の子であることは、其角の「芭蕉翁終焉記」の中にもすでに書かれているが、その次郎兵衛は元禄三年には江戸にいたと認められる(曾良芭蕉宛書簡)から、寿貞もそのころには江戸にいたらしい。ほぼ以上のような文献から、寿貞に関する諸説があらわれている。すなわち、
(一)芭蕉の故郷亡命説に結んで、藤堂家出仕時代に関係の生じた女性とする説。
(二)芭蕉の「閉関之説」から考えて、芭蕉の遊蕩時代に関係の生じた玄人女(遊女)とする説。
(三)次郎兵衛を芭蕉との間の子とする説。
(四)次郎兵衛のみならず、理兵衛・まさ・おふうも芭蕉との間の子とする説。
(五)理兵衛は寿貞の父、まさ・おふうは芭蕉と別れた後の夫との間の子とする説。
(六)猪兵衛を寿貞の姉の夫とする説。
(七)次郎兵衛も芭蕉との間の子ではないとする説。
(八)寿貞は後述する桃印の妻であったとする説。
(九)まさ、が桃印の妻、おふうが猪兵衛の妻であったとする説。
(十)寿貞はその子らと共に長く芭蕉の故郷の兄の家に同居していたとする説。
(十一)寿貞は元禄六年には再建の芭蕉庵に同居していたとする説。
(十二)右の芭蕉庵同居説を否定する説。
(十三)門人野坡談を信じ得ぬとし、芭蕉との妻妾的関係を認めない説。
その他、詳細に及んではここに書きつくせない。

**若き時の妾
故郷上野の念仏寺の過去帳、二日の条に「松誉寿貞中尾源左衛門」とあるのが指摘され、寿貞は元禄七年六月二日没、芭蕉在郷時代の女性と考える説がことに有名であるが、今日ではその説にも弱点があげられて来ている。すなわち、諸説紛々としていずれとも決しがたいが、上記の文献類から、寿貞は芭蕉との特別な関係があった女性とは認められよう。野坡談の「若き時の妾」というのは、同談の他の部分から類推しても、ほぼ信じてよさそうであり、芭蕉の在郷時代、あるいは江戸に下った初期のころには、正妻とまではしなかったであろうが、特に親しんだ女性が在存したことを考えても不自然ではない。
だが、その女性が家族的に関係を持ち続けたとまで考え得名根拠はなはだ弱い。おそらく、関係に中断があり、芭蕉が有名になり、生活も安定した晩年のころに再び芭蕉の周辺に近づくようになり、芭蕉にも特別な愛着があったし、寿貞も尼になり病身になっていたので、元禄七年の留守になる芭蕉庵にはこれを入れることも許したのであろうが、そのころの関係は、「若き時の妾」という以上ではなかったと思われる。

**次郎兵衛
それで、次郎兵衛が寿貞の子だったからといって、すぐに芭蕉の子でもあったと考えることも承認はしかねる。芭蕉は晩年の芭蕉庵生活では次郎兵衛を身近かに置き、これを使い、元禄七年の最後の旅にはこれを同伴し、途中この若者を気にして労わったさまは、その旅から猪兵衛や曾良へあてた書簡中によくうかがわれる。この辺から芭蕉の父としての姿を読みとろうとする説もある。しかし、次郎兵衛のことを記した門人らの記事中には、これについて敬称が全く用いられていない。次郎兵衛は芭蕉の臨柳身終の病床にも侍し、葬式にも参列しており、そのことを特に其角も記しており、かつ、遺言状等を江戸へとどける使者ともなっているが、支考は「芭蕉翁追善之日記」に「従者二郎兵衛……この者はみな月の頃母を失い、此度は主の別をして」と記している。それに、芭蕉没後の次郎兵衛の消息は消えてしまう。多くの門人が非常に敬慕した芭蕉の子であるならば、こうした状態はおかしい。次郎兵衛は芭蕉の子とは見なしがたい。まして、まさ.おふうや理兵衛もそうである。結局、芭蕉には妻子があったとは認めがたい。後述するように、かれが多くの人々から尊敬された理由の根本には、よく孤独.貧寒な生活を堅持したという点のあったことも考慮せずにはいられない。

**猶子、桃印
桃印については芭蕉自身が元禄六年四月二十九日付、荊口宛書簡中で「猶子」と書いており、同年三月二十日ころの許六宛申に、「旧里を出て十年余二十年に及び候て、老母に二度対面せず、五~六才にて父に別候て、其後は拙者介放にて三十三に成候」といい、三月十二日付公羽宛中にも「手前病人」として見え、肺結核で、その春に芭蕉庵内で死んだ事実が認められる。
猶子には養子・義子の意もあるが、ここは甥の意であろうか。すると、その父母のことも考えねばならないが、それは明らかでない。ともかく右の芭蕉の手記によると、桃印は寛文十年(芭蕉十八歳のとき)に生まれ、同五~六年に父と別れ、延宝二年ころ(二十年前)故郷を離れ、以後芭蕉が世話をした。別に元禄三年に江戸にいたことがわかるが(曾良宛芭蕉書簡)、その桃印が同六年春に芭蕉庵で死んでいるのである。

**猪兵衛・桃隣
某その他、芭蕉の縁辺で考えられる人に桃隣がある。
天野氏・通称を藤太夫といい、太白堂・呉竹軒、晩年は桃翁と号した。芭蕉と同郷人で、芭蕉より年長であるが、芭蕉の門に入り、俳人として活躍した。また、前出した猪兵衛は伊兵衛とも書き、その山城の加茂にあった実家を芭蕉もたずねているが(元禄七年閏五月二十一日付書簡)、「真澄の鏡」によると、芭蕉の甥であり、一時杉風方の番頭をつとめたが、のち高山ビジの世話で武士となり、松村真左衛門と名乗り、本郷春木町(文京区)に住んだという。『芭蕉翁真跡集』などを著わした桃鏡はこの人の子孫だという。なお、望翠。半残のことは既述したが、故郷で芭蕉を親しくかこんだ俳人たちの中には、土芳・雪芝・卓袋。意専らにも縁辺関係が考えられるという。
こうした点は上記のようにまだ不明なところが多いのであるが、芭蕉伝にとっては見過しえないことであるので、あえてこの序章に述べておくのである。(以下略)

 一方素堂について最も多く引用紹介されている『甲斐国志』の素道の項については多くの間違いが指摘され、その間違いを訂正することなく今日まで紹介され碑まで建立されている。


素堂関連年表(素堂と親しい人の動向)明暦元年~

2023年09月02日 08時30分11秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

素堂関連年表(素堂と親しい人の動向)明暦元年~

◇明暦 元年(一六五五)
北村季吟が俳諧の奥書「俳諧理木」を著す。(季吟は延宝三年、素堂を招いて、京都にて「歓迎百韻」を催す)
○山田宗偏が小笠原家の茶道指南となる。(素堂の友人 「今日庵」の掛軸を素堂に贈る)
**明暦 三年(一六五七)一月、江戸の大火。林家の文庫類焼し「本朝通鑑」焼ける。同月林羅山没七十五才 
万治 元年(一六五八)
北村季吟、立机と云う。(明暦元年鋭もある)
○幕府儒官人見竹洞(林家に於ける素堂の先輩)が京都に赴き石川文山に面会する。
◇内藤義概(風虎・素堂はここで様々な俳人に出会う。また「目に青葉」の句は、内藤家菩提寺時の光明寺裏山から詠んだ句と思われる)「御点取俳諧」をこの頃から始めたか。俳諧指南には高島玄札・石田未得・野々口立圃等が当たったか。
○十二月、千宗旦京都「今日庵」にて没す。八十一才。
**万治 三年(一六六〇)
一月、甲府の大火。柳町より魚町まで焼失する。(山口屋も焼ける)
◇風虎、父忠興に従い大坂に行く。(五月~十一月)松江重頼と接触か。
**寛文 元年(一六六一)
八月、甲府城主に徳川綱重なる。江戸に在住。
◇風虎、季吟と書簡応答で接触。
○林春斎、江戸のト祐の板行「土佐日記」に序を寄せる。
◇季吟は日記に批判を記す。(十月十一日条・季吟日記)
**寛文 二年(一六六二)
「裏見寒話」に甲府の「町々も暖簾も成し云々」の記述を著す。
編者は野田成方、享保九年、甲府勤番赴任。内容は甲斐国見聞記。
◇西山宗因、内藤風虎の重ねての招請に応じる。
**寛文 三年(一六六三)
十二月、林春斎の家塾に幕府より弘文院号が与えられる。
**寛文 四年(一六六四)
二月、宗因は江戸に風虎を訪ね、その後九州に赴く。
○十一月、幕府は国史舘を忍岡に置き、春斎に「本朝通鑑」の続修を命じる。
▼芭蕉、二十一才、松江重頼編『佐夜中山』に「松尾宗房」の名で二句入集。俳書への初入集。
○元政「扶桑隠逸伝」を刊行する。(かれは母を連れ身延山詣でに甲斐に来ている。)
**寛文 五年(一六六五)
松江重頼、秋に風虎を磐城に訪ねる。
▼芭蕉、二十二才 十一月十三日、蝉吟主催の「貞徳翁士二回忌追善百韻」に一座する。連衆は、蝉吟・季吟・正好・一笑・一以・宗房、(ただし季吟は脇句を贈ったのみ。)
◇大坂天満宮連歌所宗匠西山宗因、初めて俳諧に加点。
寛文 五年(一六六五)
三月、似船、『蘆花集』を刊行し、以後京俳壇で活躍。
一 一月、『雪千句』刊、宗因を大阪俳壇の盟主に据える。
芭蕉、蝉吟主催貞徳翁一三回忌追善百韻に一座。
書『書初集』『小倉千句』『小町躍』『西国道日記』
『四十番俳諧合』『天神の法楽』『俳譜談』『都草』
『連歌新式増抄』
参七月、諸大名の人廃止。この年、山鹿素行『山鹿語類』成。
寛文 六年(一六六六)
三月、西鶴、可玖『遠近集』に初入集。
九月、重徳『誹諧独吟集』刊。
重徳は、以後俳諧出版書肆として新風を援助。
書『東帰稿』『正友千句』『名所方角抄』『夜の錦』
歿蝉吟二十五才。
参三月、了意『伽婢子』刊、怪異小説流行を招来。
内藤風虎の『夜ノ錦』集成る。
●四月二十五日、蝉吟没する(二十五才)。

▼芭蕉発句 
二十三才、内藤風虎編『夜の錦』に発句四句以上入集
(『詞林金玉集』は『夜の錦』より引用)。
  年は人にとらせていつも若夷    (千宜理記)
 ・年や人にとられていつもわかゑびす (詞林金玉集)
   *号 伊州上野松尾氏
京は九万九千くんじゅの花見哉   (詞林金玉集) 
  花は賤(しづ)のめにもみえけり鬼莇(詞林金玉集)
  時雨をやもどかしがりて松の雪   (続山井)
   *号 いが上野松尾氏 宗房
 ・時雨をばもどかしがりて松の色   (詞林金玉集)
       ・この項『芭蕉俳句集』中村俊定校注 岩波文庫刊

 


山口素堂の俳諧 松尾芭蕉

2023年09月02日 08時17分40秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

山口素堂の俳諧
はじめに
 山口素堂の俳諧資料の初出は、寛文八年刊行の「伊勢踊」(五句入集)からである。この集の編者春陽軒加友は、信章(素堂の発句を大切に扱っている所を見ると、これ以前から、何処かである人から俳諧の手ほどきを受けていたようである。また、素堂の本名は「信章」とされているのであるが、雅号であるのか本名であるのか、全く不評である。
 「素堂像の考察」でも触れている通り『甲斐国志』には

少小四方ノ志アリ。屢々江戸ニ往還シテ受章句於春斎。
亦遊歴京都、学書持明院家、受和歌於清水谷家。連歌ハ
再昌院法印北村季吟ヲ師トス。…中略…茶ハ今日庵宗丹
門人ナリ。

とある。砕いて言えば「少小」とは元服前の子供、つまり少年の事である。
子光(素堂晩年の世話人)の「素堂句集」(享保六年)序では、

自弱冠遊四方名山勝水云々
と記す。「弱冠」とは二十才を称する語で、つまり、弟に家産を譲って江戸へ出たとする頃で、寛文元年頃と云う事になる。若い頃の素堂が林家の家塾に入り、学んだ事は同門の人見竹洞が「林門三才之随一(『含英隋記』)と評しているし、甥の黒蕗の「摩詞十五夜」(まかはんや・素堂五十回忌追善集)に「学は林春斎先生の高弟」と記述する。しかし、林門名簿には元禄六年の項に見える。好意的に推測すると、林家私塾に入ったのが十二か十三才(承応三年頃)で、寛文三年(一六六三)には私塾が蔦府より弘文院号が与えられた。
この年素堂は二十二才。この頃には林家の門を離れて仕官をしていたと思われる。
素堂が俳諧に手を染めたのは寛文の中頃と推定し得るが、林家の初代羅山も俳号を持った人である。林門の中には俳諧の流れが有り、この林門周辺では素堂の得意な「和漢聯句」が盛んであった。
 素堂と芭蕉の出会いを示す適切な資料は無く、資料上からしか窺い知ることはできない。素堂は漢詩人として俳諧を捉え、常に芭蕉に新たな句作方法を提言しながら、芭蕉を見守っていた。芭蕉は素堂に寄り添いながら蕉風を切り開いていく。絶妙の二人三脚で確立した当時の俳諧世界を新たな資料を散りばめながら綴っていく。
 そこには過去の定説から抜け出した新たな素堂像が浮かび上がってくる。

系譜に見る素堂

⦁ 歴代滑稽傳 許六著 正徳 五年(1715)
素堂七十四才。 江戸 山素堂は隠士也。江戸三吟の時は信章と
云。幽山八百韵は来雪と云。芭蕉翁桃青と友トシ善シ。後正風の
体を専とす。

⦁ 綾錦 沾凉編 享保十七年(1732)
祖 北村季吟----素堂 山口今日庵。始ハ云信章又来雪トモ云。
享保二申八月十五日卒。齡七十五 住本所 有墳谷中感応寺

⦁ 誹諧家譜拾遺集 丈石編 明和八年(1771)
祖 松尾芭蕉----素堂 山口氏稱 今日菴トモ  名信章
號来雪 住東府 享保二丁酉年八月十五日歿。齡七十五。

⦁ 連俳睦百韻  寺町百庵著 安永八年(1779)
山口太郎兵衛  信章 来雪    来雨 素仙堂―仙=素堂。

⦁ 甲斐国志 松平定能編 文化十一年(1814)(別記)
祖 北村季吟----素道(堂)山口氏。
信章  来雪 字、小晋・公商


⦁ 蕉門諸生全傳 曰人編 文政中期(1818~30) 
甲斐酒折産也 神職ノ人也 葛飾隠士 信章斎来雪
號山素堂 性巧俳句及詩歌而 名品其矣。
享保元年八月十五日歿。法名廣山院秋厳素堂居士   
碑面 本所中ノ郷原町東聖寺松浦ヒゼン守隣ナリ 

⦁ 俳家大系図 春明編 天保九年(1839) 
祖 北村季吟----素堂 山口氏名信章 
字、子達・来雪・復白蓮 享保元年八月十五日谷中感応寺 

⦁ 葛飾蕉門文脈系図   錦江編 嘉永期(1848~5)   
祖、山口素堂 

⦁ 葛飾正統系図  錦江編 嘉永三年(1850) 
祖、山口素堂 


** 『日本随筆』 俳諧関係記載記事 **

□ 誹諧の誹の字  【田宮仲宣 東□子】

  誹諧の誹の字、人篇の俳の字を書事、甚可然(しかるべ)からずと。夫誹諧の字は、随書の侯白伝に見へたり。今おしなべて明板の史漢を伝へ読んで、なまこざかしき者、俳の字に改めたり。盖歴史は皆明朝にて改めしに、随書ばかりは改ざりしと也。既にぞ随唐の頃、遣唐使または遊学の往来有て、稍字法(ややじほう)も彼の国の例を用らるる事多し。
  古今集の誹諧と云に、言篇を書れしこと斯くのごとし。唐朝には正字、俗字、通字の三を混じ用ひらたり。干祿字書を見るべし。言偏の誹の字は出所正し。私に人篇の俳諧と云字、用ふる事有まじきこと也。後世鳴呼の者有て、古今集の誹の字をも人篇に書き改まじきにもあらず。是唐以前の書を見よ。と或る人の仰せたれき。

□ 誹諧の発句  【田宮仲宣 東□子】

  誹諧の発句をする徒、歳旦、歳暮の句を披露せんと、標題に両節吟、或いは除元吟などと、吟の字を書するは、忌まわしき字例なり。楽府明辨云、吁嗟慨歌悲憂深思以伸其欝曰吟(ああがいかひいうしんしそのうつをのぶるをもってぎんいふ)。又屈氏が漁父の辞に澤畔吟とあれば、歳首には遣ふまじき字例なるべし。
□ 俳言  【鳴呼矣草】

  今時俳諧者流、俳言とて新規流行言葉、不当に手爾波(てには)を用ゆること、奇を好み却ってふしくれだち、和歌連歌などの歌謡の訳に遠ざかるは拙く、道に差(たがふ)といわんか。兎角昔よりあり来たることよろし。されば和歌連歌に、流行といふことなきを見つべし。語呂のふしくれだつとは、東花坊が十論にも、畠山左衛門佐(すけ)は歴々の諸侯なれど、一転して山畠の助佐衛門といへば、小作水呑み百姓なりと云しがごとし。言葉手爾波を正しく遣ひたし。なるほど小兒の習ふ商売往来を転じて往来商売といはば、三度飛脚か雲助かとおもはるべし。奇異の言葉は遣わぬこそ。

□ 俳諧の体  【鳴呼矣草】蕉門の事

  俳諧の蕉門の徒に、付合の体を備えたは、野波、越人の両人を巧者とす。この両人の体を学がよしとかや。
  故ばせを一世の間、両吟の付合は、野波か越人なたでなかりしとなり。 
兎角この両人の風体よろしと、ばせをもいはれしとかや。今の蕉門の俳徒これおいはず、己が勝手にあしきにや。

□ 寂しみ  【鳴呼矣草】

  俳諧者流寂しみと云処を旨とし諭す。いかなる故にや。市中交易の域にくらす腸(はらわた)無理に寂しさを絞り出(いで)さししむ。それ定家の卿哀れにさびしくは云う出でよし、兎角にぎはしくはなやかに目出度和哥こそあらまほしとて詠み給ふ。
 花見んとよそほひ車さくらにむれあそふ諸人
  となん被仰けるとかや。光廣の卿も面白がらす素人芸なりと被仰しとなり。

□ 選  【鳴呼矣草】

選は作より難しとかや。また閲は机上ん塵を拂ふと、古よりいえり。いかなれば、順評とて、初心の人の句を批判するや、于鱗(うりん)が唐詩の選に於けるや、作よりも難しと、人々これを称すれば、他の句の点評憚るべきことなり。
****年表 素堂、芭蕉の生誕から俳壇デビューまで
参考資料 『俳文学大辞典』角川書店
一部加筆 参=参考 書=俳諧関係刊行書

寛永十九年(一六四二)素堂生まれる。
七月、西武『鷹筑波集』刊、貞徳直門撰集の嚆矢。
季吟、一九歳で貞徳に入門か。

**松永貞徳発句**『犬子集』他
ありたつたひとりたつたる今年哉 鳳凰も出でよのどけきとりの年
春立つは衣の棚のかすみかな   花よりも団子やありて帰る雁
ゆきつくす江南の春の光り哉   雪月花一度に見する卯木哉
高野山谷のほたるもひじり哉   七夕のなかうどなれや宵の月
歌いづれ小町をどりや伊勢踊   酒や時雨のめば紅葉ぬ人もなし

寛永二十年(一六四三)
一月、貞徳『新増犬筑波集』刊、貞門俳諧の範を示す。
書『新撰対類』『誹諧独吟千句』歿望一五十八才
参九月、幕府編『寛永諸家系図伝』成。

正保 元年(一六四四)芭蕉生まれる。
一月、重頼、東下し江戸俳壇と交流。
一〇月、貞徳、『天水抄』を令徳に伝授、俳諧伝の基礎となる。
書『寛永廿一年俳諧千句』参一二月一六日改元。
参幕府、諸国大名に国絵図作成を命じる。

**松江重頼発句**『犬子集』他
春の日の威光をみする雪間哉  咲きやらで雨や面目なしの花
初花になれこ舞する胡蝶かな  やあしばらく花に対して鐘つく事
順礼の棒ばかり行く夏野かな  此度はぬたにとりあへよ紅葉鮒
芋豆や月も名をかへ品をかへ  生魚の切目の塩や秋の風
 
正保 二年(一六四五)
二月、重頼『毛吹草』刊。書『厳島大明神法楽連歌三百韻』
『十一韻』歿一二月、沢庵七十三没。
正保 三年(一六四六)
春、正式『郡山』、正章『氷室守』の両書、『毛吹草』を攻撃。
書『切紙秘伝良薬抄』『底抜磨』


正保 四年(一六四七)
貞徳、新年を新宅柿園で迎える。
九月、宗因、里村家の推挙で大阪天満宮連歌所宗匠となる。
書『云成俳諧独吟千句』『追福千句』『誹諧集三千句』
『誹諧集二千句』(『長崎独吟』『徳元俳諧紗』)
歿二月、小堀遠州六十九才。歿徳元八十九才。

  

慶安 元年(一六四八)
一月、季吟『山の井』刊、季蓮に例句を添えた季寄せの囁矢。
九月、『正章千句』刊。正章、俳壇における地位を確立。
書『西行谷法楽千句』 二月一五日改元。
 
** 安原貞室発句 **『正章千句』『一本草』『玉海集』他
黄鸝(うぐいす)も三皇の御代を初音かな
歌いくさ文武二道の蛙かな   葉は花の台にのぼれ仏の座
これはくとばかり花の吉野山 いざのぼれ嵯峨の鮎食ひに都鳥
松にすめ月も三五夜中納言   そちは何を射げきの森のよるの蝉   小便の数もつもるや夜の雪   涼し溝のかたまりなれや夜半の月   

** 北村季吟発句 **『続連珠』『山の井』『師走の月夜』他
一僕とぼくくありく花見哉  こゝぞ京のよしの能見よ地主の花
太郎月につぐ紅梅や次郎君   めづらしや二四八傑のはとゝぎす
夏をむねとすべしる宿や南向き 女郎花たとへばあはの内侍かな
閑なる世や柊さす門がまへ   咲くやこの今を春べと冬至梅
年の内へふみこむ春の日足哉

** 西山宗因発句 **『懐子』『宗因発句集』他
ながむとて花にもいたし頸の骨 そうよそよきのふの風体一夜の春花むしろ一けんせばやと存じ候 世の中よ蝶々とまれかくもあれ郭公いかに鬼神もたしかに聞け  なんにもはや楊梅の実むかし口
慶安 二年(一六四九)
一月、宗因、大阪天満宮月次連歌再興。
書『花月千句』『師走の月夜笥そらつぶて』『風庵懐旧千句』
『望一千句』参二月、農民の心得を記す慶安御触書発布。
三月、木下長哺子『挙自乗』刊。四月、
未得『吾吟我集』成、個人狂歌集の嚆矢。

慶安 三年(一六五〇)
一〇月、『嘉多言』刊(成)。書『伊勢山田俳諧集』『くるる』
『誹諧抜書』『歩荒神追加』『野狩集』

慶安 四年(一六五一)
四月、立圃、備後国福山藩に仕える。
七月、貞徳、『俳話御傘』に式目をまとめ俳言を説く。
一〇月、令徳『遠山集』刊、貞門俳詰最大の撰集。
参七月、由比正雪事件。八月、家綱、将軍宣下。

承応 元年(一六五二)
一月、柳営連歌、一一日に式目を変更以後、幕府瓦解まで続く。
二月、宗因、菅家神退七五〇年忌万句を興行。
三月、『尾陽発句帳』刊、尾張俳壇俳書の囁矢。
一二月、『若狐』刊、井筒屋(表紙屋)庄兵衛刊行俳書の囁矢。
書『十寸鏡』園定参六月、若衆歌舞伎禁止。九月一八日改元。
承応 二年(一六五三)
一一月、貞徳八十三才没、生前、『貞徳独吟』を遺す。
西武・正章(貞室)ら、後継を争う。
卜養、将軍に見参を許され、江戸に居宅を賜る。
この年、任ロ、西岸寺住職となる。
書『貞徳終焉記』『美作道日記』
参一月、玉川上水の工事着工、翌年完成。

承応 三年(一六五四)
一月、正章、貞徳後継を意識し貞室と改号。
一〇月、宗因、重頼らと百韻興行。
書『承応三年平野熊野権現千句』『伏見千句』
参三月、土佐光起、絵所預となり土佐派を再興。
七月、明憎隠元、長崎に来航。

明暦 元年(一六五五)
書『紅梅千句』『信親千句』『毎延俳諧集』『夜のにしき』
参四月一三日改元。この年、山崎闇斎、京都で講義を始める。

明暦 二年(一六五六)
一月、長式『馬鹿集』刊、令徳・貞室を批判。俳壇にわかに活発
化。同月、休安『ゆめみ草』刊(奥)、守武流を標榜し、反貞門
勢力の大阪・堺・伊勢俳壇が結集。宗国風流行の素地となる。
三月、季吟、祇園社頭で俳諧合を催し宗匠として独立、貞室を
攻撃。『いなご』刊(序)、絵俳書の嚆矢。
九月、宗因、天満碁盤屋町向栄庵に入り俳諧月次会を主催。
書『祇園奉納誹諧連歌合』『玉海集』『口真似草』
『崖山土塵集』『拾花集』『せわ焼草』『有芳庵記』
『吉深独吟千句注』
参汀松平直矩『大和守日記』執筆始まる(元禄八年まで)。

明暦 三年(一六五七)
一一月、蝶々子『物忘草』刊、江戸俳家による撰集の嚆矢。
この年、『嘲哢集』刊、『守武千句』を基準とする伊勢俳壇の式
目書。
書『牛飼』『沙金袋』『春雨抄』
参一月、江戸大火。遊廓新吉原に移る。
二月、徳川光圀、『大日本史』編纂に着手。

万治 元年(一六五八)
書『鸚鵡集』『尾張八百韻』『拾玉集』『俳諧進正集』
参七月二十三日改元。
七月、中川暮雲『京童』刊。

万治 二年(一六五九)
九月、胤及『飽屑集』刊(跋)、中国地方俳書の嚆矢。
この年、風虎、発句初見。江戸において諸流に門戸を開き文学
サロンを形成。
書『伊勢俳諧新発句帳』『捨子集』『貞徳百韻独吟自註』
『満目集』

万治 三年(一六六〇)
七月、『境海草』刊、堺俳壇撰集の嚆矢。
重頼『懐子』で、本歌本説取りの新風を掲げ、宗因の謡曲調を
紹介。
一二月、宗賢ら『源氏鬢鏡』成、俳家系図の嚆欠。
万治年間、河内国の重興、雑俳の起源となる六句付創案。
書『歌林鋸屑集』『木間ざらひ』『新続犬筑波集』
『誹諧画空言』『俳仙三十六人』『百人一句(重以編)』
『慕綮集』『和歌竹』
参一九月、内海宗恵『松葉名所和歌集』刊。
一二月、大蔵虎明『わらんべ草』成、能と狂言を連歌・俳諧の
関係に譬える。
このころ、浅井了意『東海道名所記』成。

寛文 一年(一六六一)
この年、在色、江戸へ下向、忠知に俳諧を学ぶ。
書『烏帽子箱』『思出草』『天神奉納集』『へちま草』
『弁説集』『水車軏・水車集』
参四月二五日改元。

寛文 二年(一六六二)
この年、西鶴、俳諧点者となる。
書『伊勢正直集』『雀子集』『旅枕』『俳諧小式』『初本結』『花の露』『鄙諺集』『身楽千句』
参二月、伊藤仁斎、京に古義堂開設。

寛文 三年(一六六三)
八月、一雪、『俳諧茶杓竹・追加幅紗物』刊、『正章千句』を攻
撃。貞室側は翌年六月刊『蝿打』で反撃する。
書『埋草』『尾蝿集』『木玉葉』『早梅集』『貞徳誹諧記』
『誹諧忍草』『俳集良材』『破枕集』
参五月、「武家諸法度」に殉死禁止を加える。