素堂と芭蕉の俳諧
** 素堂と芭蕉の俳諧 **
二人のスタート
既に素堂と芭蕉のおいたちについては多くの人の論及愛もあり省くとして、素堂は寛永十九年(1642)一月十四日の生まれ、芭蕉は正保元年(1644)で月日は不詳の二年遅れである。生地にしても、素堂は甲州教来石村山口と云うが、本人が青定した記述が無いし、その証拠も無い。この伝説の発祥は「甲斐国志」のみである。芭蕉も伊貿上野の赤坂町とされているが、これとても別説が有って確定しがたいが、少小より藤堂藩の士大将(伊賀上野支城詰)藤堂新七郎家に子小姓(給金)として召し出されて、寛文初年(1661)頃に新七郎家の後嗣良忠の近習(陪臣)に直されたとされる。(藤堂藩からすると陪臣、石取りか給金取りかは不明
素堂も少小より林春斎の私塾に入って漢儒の学を学んだと云う(『甲斐国志』)が、『升堂記』によれば素堂が林家の門人として名が見えるのは、元禄六年のことである。素堂は、桜田家の甲州代官の一人野田氏の娘を嫁(元禄七年没)にした(素堂著「甲山記行」に記載。この記行には「甲斐は妻のふるさと」とある)。まだ山口信章と名乗っていた時代である。この信章が、いつ頃から俳諧を始めたのか定かでないが、寛文七年には貞門俳譜師伊勢の春陽軒加友編「伊勢踊」に出句した。その前書から読み取ると、素堂すでにかなり江戸の俳壇で名を占めていたようである。その後、貞門の石田未得の遺稿を息子の未啄がまとめ、寛文九年「一本草」として刊行したこの集に入集している。これからすると寛文年問の前半には、当時の江戸俳諧師の重鎮高島玄札や石田未得辺りから、手解きを受けたと考えられ、北村季吟との接触は仕官して以後のことと考えられる。(素堂の仕官先については、延宝六年の九州旅行の際唐津で春を迎え、(----二万の里唐津と申せ君が春----)と詠んでいるが、この句の持つ意味は大きい。この項については別述する。既に、京都の公家との繋がりについては、述べてあるし重複を避けたいが、仕官した事と関係があると考えられる。つまり、仕官先と二条家との間のお使い役をしていたのであろう。その関係から歌学を清水谷家^書を持明院家と習ったのであろうと考えられる。でないと延宝年間の致仕するまでに、定期的に江戸と京都を往来する意味が不明になる。
▼芭蕉
芭蕉は幼名金作の時召出されて良精の嫡子良忠に仕え、寛文の始め頃に士分として出仕となり、宗房名を名乗る事になったようである。主入の良忠は寛文五年に「貞徳千三回忌追善」を主催したことから始めは松永貞徳(承応二年没)に手解きを受けたか、貞徳に近い門人に受けていたとされる。宗房こと芭蕉も勤仕者として随行して機会があれば指導を受けていたのであろう。寛文二年の歳暮吟が初出で、良忠は蝉吟の俳号を持っているところから、寛文四年以前に北村季吟の添削教授を受け始めたようだ。宗房は良忠の小姓役とされているが、本来の役職は台所用人と伝えられるから、当主良精の奥方役で賄い役であろうか、以外とお役時以外は関職で自由がきく役職である。(大きな家ともなればお毒味役なども、小姓の中から選抜されることもある)。寛文四年蝉吟と共に松江重頼の「佐代中山集」に入集している。この時期の重頼は良いパトロンをえるため、俳諧好きの大名・良家に出入りしていたから、重頼にも措導を受けていたかもしれない。
寛文六年(1666)良忠が没し、通説では高野山に遣いをした後から同十二年まての所在が不明で、『遁世の志をいだき致仕を願うも許されず主家を出奔』の伝は疑問であり、武家社会において、出奔となれぱ武家の体面上の仕置きがある。主人が黙殺していたとしても、領内には一歩も踏入れないし、まして実家に立ち入ることも出来ない。江戸に出て家中の親類に身を寄せるなど、身分制度の厳しい時代の中では出来ない話である。高野山から復命してからは別の役を与えられ、伊賀と京都の問を往来していたのてあろう、また、この間に儒学・医術・神道や仏教.書道などを学んだと云うが、その証がみえない。さまざまな所見があるが、著者の論が先立っていて確証は得られない。
芭蕉は寛文十二年初頭、伊賀上野の天満宮に三十番発句合「貝おほひ」を奉納して、江戸に東下したらしい(辞職してかは不明)。江戸での寄寓先は今日でも論じられているが、駿河台の中坊家(藤堂家中)に身を寄せたと見るのが妥当であろう。この出府は俳諧師になるためではなく、就職が目的であった。そうでなくてはこの期の、江戸での消息が不明で有ることが埋められない、日本橋小田原町の仙風宅に寄宿した(「杉風秘話」)というのも、この期の事と考えられる。寛文十二年春に芭蕉は出府したが、その年の十二月には良忠の後を継いだ、弟の良重も若くして没し、良忠の遺子良長(後の探丸)が嫡立され、後見の良精も延宝二年(ニハ七四)五月に没した。これより先きの三月十七日附で、季吟の俳諧免許と云はれる連俳秘書「埋木」が授けられた、芭蕉が受けたものかは不明だが、「埋木」伝授の通知は良精を経由したものと考えられ、この時に呼び戻されて、職を免じられたと見るのが穏当である。
この「埋木」の奥書に季吟が.
此書 為家伝之深秘 宗房生依俳諧執心不浅 免奪而景奥書者
必不可有外見而巳 延宝二年弥生中七 季吟(花押)
とあるが、この識語には真偽両説あって掲出するに止める。
この年の十一月、公用かで上溶していたと思われる素堂は、季吟と会吟した。(「九吟百韻」、「廿会集」、--江戸より信章のぽりて興行--)この折にまだ京都に居た芭蕉を、蚕吟から紹介された素堂は、芭蕉の江戸での身の振り方を依頼されたのであろう、素堂の友入で京都の儒医の桐山正哲(俳号知幾)に「桃の字をなづけ給へ」と俳号を依顧して、『桃青』号を撰んでもらった。(「類聚名物考外」)
蓑笠庵梨一の「菅菰抄・芭蕉翁伝」に依ると、季吟の江戸の門人孤吟(後のト尺)が所用で上溶していたが、江戸え帰る時に芭蕉を誘って下ったとある。孤吟は江戸日本橋本船町の中の八軒町の長(名主)小沢太郎兵衛で、季吟門から俳号をト尺と改め江戸談林に参加、次いで芭蕉の門人として延宝八年(1680)「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加した人で、当然古くより素堂とは面識が有った。梨一が一説として「本船町の長序令が江戸行きを誘った」とも記すが、この説は未詳であるが、序令と素堂は長い付き合いで、正徳三年(1713)に素堂が稲津祇空を訪れたときの随行者の中にその名が見える。
再出府した芭蕉の落ち着き先は本船町(船町)の小沢孤吟方とも、杉山杉風方(「杉風秘記」)とも云う。延宝五年(1677)の立机の事からすると、孤吟方とするのが穏当であろう。
**素堂と季吟**
素堂は季吟との会吟のあと難波に西山宗因を訪ねたようである。勿論、数年前から内藤風虎のサロンに出入りする事になっていたであろう宗因訪問の目的は風虎公の依頼による、宗因江戸招致であろう。宗因は寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳壇の点者に進出、貞門俳諧の古さを指摘、自由な遊戯的俳風を唱え談林俳諧を開き、翌六年(1666)に立机して談林派の開祖となった。
**風虎と宗因
風虎と宗因との結びつきは寛文二年(1662)の磐城訪問から同四年(1664)江戸訪問と続き、門人の松山玖也を代理として「夜の錦」「桜川」の各葉の編集に関わらせた。風虎と季吟・宗因・重頼との取次ぎは役は、家臣の礒江吉右衛門盛であったが、寛文十年(1670)に没してからは.手不足を生じ、上方に明るくサロンに出入りしていた素堂に、連絡を依親していようである。因みに重頼(維舟)の選集に芭蕉廿層文四年以来取られているが、素堂は一向に取られずに延宝八年(1680)の「名取川集」に、--読み人知らず--として、同五年(1677)の風虎主催の「六百番発句合」の判者となり、その中から素堂の何を異体化して載せているのが初めてである。
**宗因と素堂**
大分それてしまったが宗因に戻して、延宝二年(1674)は宗因の「蚊柱百韻」をめぐって、貞門と談林派新風との対立抗争が表面化して、貞門俳諧にあきたらぬ人達の注目を集めていたのである。芭蕉も談林に興味を示し、あるいはト尺も談林に興味が有ったのであろう。延宝三年五月、風虎の招致を受けて宗因は江戸に来て、『談林百韻』(「宗因歓迎百韻」)が興行され、「十一吟百韻」に素堂は信章として、芭蕉は初めて桃青号を名乗って参加した、前年に季吟より風虎公に「俳諧令法」が献じられたが、勿論素堂の口添えで芭蕉のサロン入りがなされたと見られ、続いて風虎の息の露沾の「五十番旬合」に出句と、以後内藤家のサロンに登場する事になった。
**素堂、人見竹洞**
素堂も宮仕えの傍ら出来るだけ芭蕉と行動を共にし、芭蕉の引き立て役を務め、友入の松倉嵐蘭や榎本其角を芭蕉に紹介したのである。先述したが素堂と林家関係は正確には元禄六年(1693)に門人として名を連ねているが、これは友人で先輩の人見竹洞が大きく関与している。竹洞は元禄九年に死去するが、素堂の母の死や元禄六年の素堂亭訪問などを記していて素堂を知る上で貴重である。宝永七年(1710)の曾良宛素堂書簡には晩年まで林家と交友があったことがわかる記載がある。(別述)その竹洞は素堂を「春斎の門人の中で(素堂は)随一」と賞賛している。
〔人見竹洞墓所訪問〕
**註** 私は栃木県の足利学校を訪ね、竹洞関係の書を漁り、その後、日を改めて人見家の墓所を訪れた。山中を彷徨い辿り着いた人見家の墓所は二箇所にあり、刻字も明確で、整然としていた。しかし訪れる人もなく、蚊の集団に次から次へ襲われ閉口した。(別記)
**林家と素堂
春斎の私塾は寛文三年(1663)十二月に、.幕府から弘文院号が与えられて準官学化した。後の昌平校に成るのだが、元禄三年には官学上して湯島に移されても、入塾にはそれほどの差異は無かったようである。素堂の仕官先は資料不足で解明できないが、役職の関係か、京都との関係が太くなり、その縁で歌学の清水谷家、書の持町院家で習ったものであろう。
素堂が師と仰ぐ春斎は詩歌・吉典に明るく、寛文元年に江戸のト祐が「土佐日記」(注釈書か)を版行するのに序を寄せた事を聞いた季吟が、日記の十月十一日の条に『春勝(春斎)に何がわかるか』と批判を書いているが、歌学では季吟とは同門であり、その面での接触は否定出来ない。後に芭蕉の知らない季吟の話を語って(後文紹介)おり、結構緊密であった事が判明する、また漢句による聯俳は林門周辺で盛んであったから素堂も得意であろう。
**素堂・芭蕉 貞門俳諧
素堂も芭蕉も貞門俳譜を学び、延宝初年(1673)には宗因の新風に触れて興味をしめし、同三年の「宗因歓迎百韻」に一座して傾倒して行くようになり、同四年の季吟撰の「続連珠」には芭蕉は門人であるから入集しているが、素堂は門人では無いから入集は無く、息の湖春が「信章興行に」と附旬を載せているだけで、従って素堂は季吟門ではなかった事が判る。同五年(1676)には芭蕉は宗匠と立机したようである。それと共にト尺に紹介された水方の官吏にも着いた。
**素堂の西国下り
素堂は同六年の夏頃より公用で西国に下つた。職務については不明であるが、翌年の初夏までには復命したらしく、.五月刊行の池酉言水編「江戸蛇之酢」や未得門の岸本調和編「富士石」に、旅行中の吟が入集している。その秋突然、素堂は致任して上野不忍池のほとりに退隠したのてある。西国下りの途中大阪に立ち寄り井原西鶴に会ったり、道中では発句をしたりしており、宮仕えに倦いたものか、はたまた心境の変化がもたらしたものか、その理由は判らない。不忍の池のほとりに退いた素堂は生計を立てるため諸藩に儒学を講じたり、詩歌を教えたりしていたとされる。従って芭蕉ですら素堂を訪れるには手紙をして伺いを立ててからでなくては出来なかった位である。
**芭蕉、水吏の事務方
芭蕉は延宝五年(尺語りによれば六年)俳諧宗匠の傍ら水吏の事務方を勤めていたが、同八年冬の初め頃か、職を辞めて深川に隠れてしまった。後に門人の森川許六等の説では、
「修武小石川之水道 四年成 速捨功而深川芭蕉庵出家」
(本朝文選・作者列伝)
などとある。幕末の馬場錦江が云う通り、当時の水道工事は町奉行所の管轄で、町方は資材・人夫等の分担調達が義務付けられ、その事務方に芭蕉は就いていた訳で、閑職に近い仕事だが、調達した物を現場に行って員数を調べ記帳するのが役目で、工事が追い込みになると大変な忙しさであったようである。延宝度の改修工事は小石川堀の上を樋を渡す物も(神田上水へ)加わっていたようで、完成年度の記録は未見だが翌年まで続いたらしい。
梨一の「ト尺語り」では「縁を求めて水方の官吏とせしに、風人のならひ、俗事にうとく、其の任に勝へざる故に、やがて職を捨てて深川といふ所に隠れ、云々」とあり、初代ト尺(元禄八年没)が息子の二代目ト尺に物語った話は、ほぼ真相を伝えていると考えられる。
**素堂の退隠
さて、素堂は何を目的に退隠したのか、甥の黒露が『摩詞十五夜』(素堂五十回忌集)で、
『ある御家より、高禄をもて召れけれど不出して、処子の操をとして終りぬ』
と書している。二君に見えずと云う事であるらしい、元禄初めの事のようである。芭蕉は素堂と共に宗因の談林風をうけてドップリと浸り、漢詩文調の句を作り、門人たちと荘子の学習会を開いたりとし、蘇東披や杜甫の詩にひかれ、深川の庵にも杜甫の詩よりとった「泊船堂」を号するが、延宝ハ年には「坐興庵桃青」の外に「素宣」の印を用いている。 勿論素堂の素仙堂から二字を取って「素宣」としたようで、素堂はこの年の春がら信章名を「来雪」と改めている。芭蕉が「素宣」の印を用いたのは判らないが、退隠した素堂は延宝八年当初から、来雪号を改めて「素堂」を名乗っているから、この辺りであろうか--。芭蕉は漢学者である素堂に、改めて漢詩などの解説を求めていたと考えられる。随分と長い枕になってしまったが、二人のスタートはこの位に止め、貞門俳諧を少し触れて置く。
**貞門俳諧 連歌
俳諧は連歌の派生体で、滑稽あるいは戯れなどと称されている。室町時代の歌学者頓阿は歌学書「丼蛙抄」で「俊成卿の和歌肝要に俳諧歌は狂歌なり云々」と述べ、同中期の歌人で連歌師の心敬は歌道と仏道を一体視する歌論を展開し、同末期の遵歌師飯尾宗祇は心敬に学んで連歌を大成させ、その高弟宗長は一休禅師に参禅し、師の旅に随伴して各地を遍歴。同後期の連歌師山崎宗鑑は宮仕えから隠棲して、機知滑稽を主とする俳諧の連歌を作り初め、年齢的には後輩の伊勢宮の神官荒木田守武(和歌・連歌を良くして滑稽の中にも上品さを湛え、俳諧の連歌を唱える)と共に俳諧の祖と称され、宗砥の門下・牡丹花肖柏(連歌論書『肖柏口伝』注釈書『伊勢物語聞抄』など)の末に、里村紹巴(連歌論書』『運歌至宝抄』など、子孫は江戸幕府の御用連歌師となる)の門の松永貞徳(勝熊)が江戸期の初め俳諧の方式を定めて、近世俳諧の祖となった。貞徳は京都の人で和歌を細川幽斎に連歌を紹巴に学び、古い連歌の仕来り(法則)を簡単なものに改め、俳諧連句)の方向付けをした。
**連歌とは
もう少し連歌について解説しておくと、連歌は和歌の上下両句を二人で令詠むもので、応答歌一首の遊戯で、奈良朝以降平安期に盛行する。これを短連歌と云い、素堂はこの応答を好んで用いた。平安院政期以後この応答一首が遊戯的なものに移行し、短連歌を三十六句続ける「歌仙」や五十句の「五十韻」と呼び、百句・千句などの長路歌が成行し又室町期に最盛期を迎えて連歌師も登場し、初期の遊戯的なものから、文学の一様式にと完成したものである。連句は俳諧の連句とも云い、江戸期に盛行し、発句に付句をして長く続けるもので、連歌の作法を引き継ぎ色々と制約があり、後で触れるが例えば「恋の句」は三句まで五句以上続けることは禁など。種類には百韻・千句・歌仙(三十六句のほか表・裏八句、三つ物など。聯句は漢詩の一つの体で、詩一句づつ作って一編にまとめるもので、鎌倉.室町期に流行して詩連句とも云うが、江戸期の林門周辺で盛んで有ったのは俳連で、林羅山・春斎観子も貞徳に指導を受けていた。
さて、諸書に解説される俳諧についての語句は、その趣味は通俗の滑稽に有り、貞徳については、古事や古歌を多用して言語上の縁や掛けを主とし、俳論書「後傘」(慶安四年刊、御傘とも)で規則として挙げているのは、
一、俵言を用いること
二、一句にその理りあること
三、用附・同意の禁止
の三点が主な処である、
(一、)の俳言は、和歌・連歌には用いない言葉の、漢語や俗語など一切を網羅するごと。
(二、)理りは、俳諧が謎のような難解なものより、有意義の物として文学的な物とする。
(三、)用付・同意の禁は、俳諧を変化に富むものにするためである。
とに要約される。通俗を旨とする貞門は、文章も平易なものにすることに努めた。これも後には堅苦しい(古い)と感じる者も出た。西山宗因の提起した談林俳諧である。宗因は運歌を里村肖巴に、俳諧を貞門の松江維舟に学び、難波天満宮連歌所宗匠(正保四年)承応頃から俳諧を始あ、北村季吟が俳諧宗匠として立机した明暦二年、宗因は俳諧活動を開始したのである。恐らく宗因は季吟が貞徳の後継者として、当時の停滞した貞門の俳諧に新風を起こすものと期待していたらしい。季吟が立机の前年に俳諧書「埋木」を著述して、新風を吹き込もうとしていたことは知つていたのであろう。処が宗因の期待に反していたのであろう、寛文五年に宗因は点者として立ち、同十年には連歌所宗匠の地位を子息に譲り俳諧に専念すると、翌年には談林新風を唱導し始めたのである。宗因の新風は、事象の面白いものを材料とし、俳諧の法式を度外に置き、貞徳の法則を全て守らず、奇抜な着想と破格の表現をするもので、俳諧は滑稽の遊びであるから絶対に自由であるとした。宗因の晩年には談林を標ぼうする者たちが、唯だ新を壱とうとんで、常識では解せないものが生じた。つまり、宗因の意に反して通俗性の修辞上の正当な注意を欠いた、杜撰なものも多くなり、天和二年(1682)宗因の死によって次第に衰亡に傾いていったのである。
一方季俳諧宗匠の傍ら寛文初年頃から古典文学に傾斜し、同元年「古典注釈書」をかわきりに、延宝二年の「枕草紙春曙抄」「源氏物語湖月抄」等と発表し、俳諧の宗匠は子息の湖春(寛文七年後継)に任せ、歌学と古典研究に勤しんだようである。
**素堂の俳論
芭蕉も素堂も共に貞門俳諧を学んで出発した。つまり従来の俳諧は、すべて修辞上の滑稽によっていた。素堂が後年に「続の原季合」の抜文に「狂句久しくいはず」「若かりし頃狂句をこのみて」(「続虚栗序」)と云う如く、貞門・談林の風調時代を回顧して述べている如く、俳諧は滑稽・遊びと捉えていたと見られる。従つて自分の知識である古典文学、故事来歴・古典和歌・漢詩・漢籍などを駆使して作句した。いつ頃から自分の作句法を模索し始めたかは判らないが、季吟と会吟し、宗因との会吟の後ち談林風に吹かれて傾斜したが、信章時代の素堂と桃青時代の芭蕉との会吟では、談林風に引かれた芭蕉に合わせたものの、延宝五年頃から談林調に飽足らずと思い始めていたようである。素堂が『継承すべき伝統の発見と自覚』に目覚め始めたのは、俳号を信章から来雪に改めた頃」延宝六年辺りと考えられる。この年は三月に高野幽山が立机し、それを信章が後援したことに依るのであろう。
延宝六・七年の九州長崎への旅行後に致仕して退隠し、翌八年来雪より素堂と改号、高野幽山の編『誹枕集』の序文に、自分の俳諧感を述べて、冒頭に諜枕とは「能因が枕をかってたはぷれの号とす」として、中国唐代の司馬遷の故事、李白・杜甫の旅、円位法師(西行)や宗祇・肖柏の「あさがほの庵.牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ、是皆此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅の遍歴を良しとして「されば一見の処々にて、うけしるしたることぜのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌.連歌.俳諧等の一貫した文芸性を指摘し「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の埋木花さかぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。つまり、後の影情の融合と情(こころ)の重要性を説いている。
**芭蕉、深川へ
この後ち芭蕉(桃青)は前述の如く水吏の職を辞め、杉山杉風の計らいで深川に退隠してしまった。素堂の「漢詩にしろ和歌にしろ、すべての情は景情一敦である」との主張に接し、心が動いたのであろう。素堂は一派に属さずをモットーに、世の風潮に合わせて談林調や天和調と云う漢詩文調の句も盛んに作った。勿論漢学者であり詩人であるから得意でもある。素堂が天和調に火を付けたとか、指導的役割を果たしたと云う事はなかろう。寧ろ求めに応じて作ったと考えられる。
**談林調や派生した素堂の漢詩文調の句を紹介すると
・素堂号 信章 ➡ 来雪 ➡ 素堂
〇延宝四年 梅の風俳諧国に盛なり 信章 「江戸両吟」
〇延宝五年 鉾ありけり大日本の筆はじめ 々 「六百番発旬合」
茶の花や利休が目にはよしの山 々 「々」
〇延宝六年 目には青葉山郭公初鰹 々 「江戸新道」
遠目鑑我をおらせけり八重桜 々 「江戸広小路」
〇延宝七年 鮭の時宿は豆腐の雨夜哉 来雪 「知足伝来書留」
塔高し梢の秋の嵐より 々 「々」
○延宝八年 宿の春何もなきこそなにもあれ素堂 「江戸弁慶」
髭の雪連歌と討死なされしか 々 「誹枕」
武蔵野や月宮殿の大広問 々 「々」
蓬の実有功経て吉き亀もあり 々 「俳諧向之岡」
〇延宝九年 王子啼て三十日の月の明ぬらん 々 「東日記」
宮殿炉女御更衣も猫の声 々 「々」
秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠 々 「々」
〇天和二年 舟あり川の隈ニタ涼ム少年歌うたふ 々 「武蔵曲」
行ずして見五湖煎蠣の音を聞 々 「々」
〇天和三年 山彦と埠ク子規夢ヲ切ル斧 々 「虚栗」
浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらむ 々 「々」
○貞享二年 みのむしやおもひし程の庇より 々 「々」
余花ありとも楠死して太平記 々 「一棲賦」
亀とならじ先木の下の鐸ならん 々 「俳諧白根」
○貞享三年 市に入てしばし心を師走哉 々 「其角歳旦帖」
長明が車に梅を上荷かな 々 「誰袖」
雨の蛙声高になるむ哀哉 々 「芭蕉庵蛙合」
以上、知られている句を全て掲出することは出来ないが、素堂は時に応じて詠んでいるが、相変わらず字余りも多い。これも余す事で詩情や余韻を良くするなど、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂的高踏らしさの感動を顕しているのである。恐らく素堂自分一代の俳諧と達観していたと考えられる。一方芭蕉は深川に退隠してから、京都の伊藤信徳らの『七百五十韻』を受けて、『俳諧次韻(二百五十韻)』を出したりして、句の工案したりと、素堂の「誹枕序」に触発されて新風を興す模索を続けていた。天和二年暮の江戸大火で類焼した芭蕉は、誘われて甲斐谷村に流寓し、江戸に帰ってから其角の『虚栗』に跋を著し、貞享元年には帰郷の目的で「のざらし」の旅に出た。その途中の名古屋で『冬の日』の五歌仙を巻いて、漢詩文調を脱する新風興起の手応えを感じて、翌年江戸に帰った。貞享四年十月、素堂は不ト(岡村氏)に請われて『続の原』句合の判を芭蕉等とすることになった。この「春の部跋」で生涯で一貫した俳論の底に流れる規範を吐露して、
古き世の友不ト子、十余里ふたつかひの句合を袖にし来りて判を
もとむ、狂句久しくいはず、他のこころ猶わきがたし。左蛮右触
あらそふことはかなしや、これ風雅のあらそひなればいかがはせ
ん。世に是非を解人、猶是非の内を出ず、我判にかかはらじ、と
すれど、人またいはん。無判の判もならずやと。
丁卯之冬素堂書
この論は晩年の「とくとくの句合」自跋にある
『汝は汝をせよ、我はといひてやみぬ』
の態度と同じである。
芭蕉が「卯辰紀行(笈の小文)」に出発した直後、榎本其角が『続虚栗』を編んで、その序文を素堂に頼んで来た。この「続虚栗序」は幽山の『誹枕序』に続く素堂の『俳諧感(俳論)』で、芭蕉にとっては俳風の転機になって行く序文でもある。