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甲斐源氏検証 北杜市歴史講座 甲斐源氏検証

2023年08月06日 12時09分34秒 | 歴史探訪

甲斐源氏検証

北杜市歴史講座 甲斐源氏検証

 鎌倉時代に源頼朝をして恐れられた力を誇示した甲斐源氏、しかし現在の山梨県に於ける甲斐源氏に対する認識は必ずしも確かではない。これは無理もない話で、武田信玄に繋がる甲斐源氏は山梨県にとっては汚れなき武将であり、地域の英雄でもあるからである。
 しかし山梨県内で発刊されている武田関係の諸書には大きな誤差が見られる。今回、甲斐の国司について調べる機会があり、甲斐源氏についても調べてみた。甲斐源氏についてもやはり『甲斐国志』の調査が群を抜いている。しかし甲斐国内の寺社や神社の由緒などの不確かな部分を正面から捉えすぎているきらいもある。
 歴史は有効な史料の積み重ねから導き出されるもので、後世の伝説に近い話を拡大解釈して正当な歴史とすることは許されない。私はこれまで私的に「山口素堂の研究」・「甲斐の御牧」・「甲斐の古道」・「甲斐の古墳」などを資料を基に研究してきた。私の歴史調査は、史料がすべてである。それも山梨県周辺の図書館や博物館にある研究史料である。県内でも私論を挟まない古文書や先人の研究書は参考にしている。
 山梨県の歴史書は私論と推論から組み立てられている書が多く見られ、真実の歴史を伝えているとは思えない。
 最近武田発祥の地といわれる現在の茨城県勝田市に訪れてみた。図書館廻りが主であったが、開発の進む中では当時の面影は見られない。しかし武田の発祥は間違いなく茨城県勝田市武田である。しかしこれは近年まで山梨県では一部の人たちしか知らなかったことである。以前から茨城県の歴史書には「源義清、甲斐配流」とあるのに、山梨では「武田発祥の地」とか「甲斐源氏発祥の地」など確かな史料に基づかない、真実を逆なでする伝説が観光の目玉になっている。
 最近の武田関係のイベントは歴史感覚を疑いたくなるものが多い。歴史関係のイベントはともすれば、一般の人々に誤った歴史認識を与えることにもなる事を主催者は留意しなくてはならない。
 古代の遺跡についても一考を要する問題である。大開発による遺跡破壊は深刻で、遺跡調査は開発の速度にはついて行けない状況であり、工事完成の期日を迫られる関係者とっては遺跡調査ほど迷惑な存在はないのである。市町村の中には古代の遺跡発掘を広報に掲載したり、子供たちと土器作りや発掘までも実施している所もあり、好ましい限りである。それは如何なる情報時代であっても、自らの住む地域を知らせ、教える事は大切な情報であると思われる。現在開発の進む中山間地こそ古代遺跡の場であることを関係者は理解して欲しい。調査報告されないで破壊されていく遺跡の中には甲斐源氏や古代解明に欠かせない遺跡・遺構は多くあるのに違いない。
 今回の『甲斐の御牧』と『異聞甲斐源氏』も、源義光の悪行や武田一族の裏切行為など正面から見ている書物を参考史料とした。
 県内の著書は意識せずに書したつもりである。将来山梨県を支える子供たちには地域や歴史を真っ直ぐに見てもらいたい、そんな気持ちである。小説的や感情的で、さらに史料を持たない説を市町村や山梨県の歴史として伝える事は歴史関係者の為すことではない。又、不確かな部分は後世の解明に委ねる勇気が必要であり。伝記的な甲斐源氏像からの脱却こそ峡北の古代及び中世の真実に近づく事となるのである。
 ここで奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』を中心に甲斐源氏関係の事蹟を抽出して見る事とする。それは、これまでの甲斐源氏のイメ-ジを一新し、再確認の機会を示唆する内容である。

 奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』
一. 天皇家多田源氏
二. 奥羽戦乱と東国源氏
三. 東国源氏の京都進出
四. 源平合戦と鎌倉三代
五. 南北朝争乱と足利一族
六. 新田諸侯と戦国争乱
 の六巻から構成されている。特に二巻と三巻が甲斐源氏について書されている。
 詳細は先生の著本を参照していただきたい。

一、清和源氏の家系
 清和源氏は、清和天皇の六男貞純親王の子孫だということになっている。一書には親王が生まれる十二年以前に親王になったとまで記されている。また、父清和天皇がまだ二歳だった時に生まれたとする系図もある。
 生年・没年・生涯の経歴などあまりにも謎が多すぎる。
 明治十三年(一九〇〇)に発表した星野恒の論文では、清和源氏の祖は清和天皇ではない、貞純親王も清和源氏には関係ないという論文であった。この根拠は永承元年(1046)付けの源頼信の告文で、それは、
  《石清水八幡宮の納めた願文で頼信自身が「自分は陽成天皇の末裔である」》
と明瞭に断定していたのである。  

 『清和源氏の全家系』
清和天皇―陽成天皇―元平親王―経基―満仲―頼信―頼義―義光―

 『定本甲斐源氏系図』
清和天皇―貞純天皇―源経基―満中―頼信―頼義―義光―
 山梨ではこの『定本甲斐源氏系図』が多く用いられている。陽成天皇を祖とすることを嫌う理由は以下述べる理由があるからである。

二、清和源氏の祖陽成天皇

陽成天皇は清和天皇の第一子である。元慶元年(877)正月三日、九歳で即位。藤原基経が摂政に就任した。陽成天皇が十六才の時、宮中で嵯峨源氏の源益が殴り殺されるという殺人事件が起きた。史料を検証してみると犯人は自ずと浮かび上がってくる。摂政基経はその責任を取ることを天皇に強要して退位に追い込む。当時の史料では陽成天皇が「乱国の主」、「悪君の極み」などと呼ばれていることがわかる。これが陽成天皇ではなく一代繰り上げて清和源氏と呼ぶことなる。

三、清和源氏の家系 元平親王《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 陽成天皇が不名誉なかたちで退位したので、その系統から皇位を嗣ぐことはなかった。しかし経済的には裕福で生涯弾正尹・式部卿などを歴任(親王任官)位階も三品を与えられた。元平親王の子経基も王号をあたられた。

四、清和源氏の家系 清和源氏の初代《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 事実は陽成源氏であったにもかかわらず、これを清和天皇と偽称したため、いくつかの疑問が生じた。清和天皇の第六皇子貞純震央がこの系統の中に含まれたため、生没年があわなくなったのはその一例である。
 そして事実に於いて基平親王の子であった経基王を貞純親王の子であると系図を偽造したため、経基王の没年も不明確になり、ひいてはその生涯もまた矛盾に満ちたものとなった。承平八年(938)経基王は武蔵介に任じられた。武蔵国の国司の次官である。遙任ではなく赴任した。経基王は多くの財産を築き上げるために激しいばかりの徴税・収奪を実施した。その結果安達郡司武蔵武芝らの徴税される側から痛烈に反抗されたのである。
 この時、下総国豊田荘の豪族平将門が調停にたった。やがて和解が成立。小心ものの経基王は自分が襲われると思い、京都に逃げ帰り「将門、謀叛の企、必定なり」と報告してしまった。取り調べの結果将門の謀叛は無実と知れた。経基王の臆病ぶりは一度に世間にひろがった。直後本当に将門が叛乱した。《天慶の乱》である。とたんに、経基王の評価が逆転した。やがて将門追討軍が編成されたとき、副将の地位を与えられたが、直接戦うことはなく、すでに田原藤太と平貞盛との連合軍が将門を討ち取っていた。それでも経基王の武勇は世上に喧伝され《天性、弓馬に達し、武略に長ず》ということになった。
 こうして清和源氏は部門の家柄ということになった。この時期には清和源氏は存在しない。基経王が皇族を去り、晩年臣籍の降下し、源姓を賜る。清和源氏の成立である。

五、清和源氏の家系 源満仲《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 摂関政治を布いて財務の人権を掌握していた藤原氏北家は本来武力を持たない公卿であった。政権維持のために一定の武力を必要としていた。この役を引き受けたのは、清和源氏であり、経基王の跡を嗣いだ満仲であった。
 満仲は数多くの受領を歴任して巨富を得た。満仲は《摂津国河辺郡大神郷多田を本拠として、《多田源氏》となった。五弟満快の系統は、多く信濃国に繁栄した。

六、清和源氏の家系 源頼光《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 三代の天皇の外戚として権勢をふるった藤原道長に仕え、道長の新築祝いのときに、家具調度の一切を献上して世人を驚かせた。

七、清和源氏の家系 源頼信《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 多田満仲の三男で頼信が清和源氏の系統を継承した。宮廷武家で早くから東国に目を向けていた。長元元年(1028)に起こった平忠常の乱を平定した。

八、清和源氏の家系 源頼義《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 すでにして頼義は東国の棟梁であった。さらに東国の覇権を奥羽両国に及ぼそうと図った。かくして《前九年の役》が始まった。苦戦でようやく勝利を収めたものの、奥羽に於ける覇権は得られず、野望は宿題として子孫に残された。頼義の弟頼清は信濃源氏になった。

九、清和源氏の家系 源義光(残忍酷薄の心なきもの)《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 頼信の三男義光は、長兄義家の八幡太郎、次兄の加茂次郎という例に従って新羅三郎と名乗った。けだし、大津園城寺の新羅大明神の社壇で元服したからである。母は二人の兄と同じ上野介平直方の娘であった。
 永保三年(1083)頃、ようやく左兵衛尉になっていた。時に三十九歳である。この時後三年役が起こった。長兄義家が陸奥国で苦戦清原一族と戦い苦戦を重ねていた。このことを京都にいて知った義光は、すぐ上奉して身暇を乞うた。しかしこの戦いは義家の私闘であると見做されていたので、義光は暇を与えられなかったが、義光は身暇は与えられず、出京の許可なく義家の軍陣に馳せ参じた。兄義家は感涙して喜んだ。また、義光は豊原時元に師事して笙曲を学んだ。『奥州後三年記』には前述の他に、この時元の子時秋に義光が足柄山で秘曲の伝授をしたという挿話がある。(この寛治元年には時秋は生まれていない…『源氏と平氏』渡辺保氏著)
 後三年役終了後、義光は京都に戻った。身暇の件については不問に付された。その後義光は、まず左衛門尉に返り咲き、続いて右馬允、さらに兵庫助と歴任してやがて刑部丞に昇進した。
 その時一つの事件が起こった。六条修理大夫藤原顕季との間に訴論が持ち上がった。顕季の修理大夫は従四位下で義光の刑部丞は六位である。藤原顕季は院政を敷いた白河法皇の近臣であった。義光はこの訴訟で勝訴した。
 その内容は陸奥国菊田荘が義光の領地であるとの主張であった。押領を図ったのである。白河法皇の裁決内容は「このたびの訴訟のこと、汝(顕季)に理あることは明白なり、汝の申すところ、まことにいわれあり。されど我思うに、その荘を去りて義光に取らせよかし」というものである。法皇は「義光は夷のゆな心なき者なり」として義光に顕季の土地を与えることを諭した。顕季は法皇の言に従い、義光に譲状を与えた。義光は「義光」と書いて差し出した。これで主従関係は成立したが、義光は主顕季に従うことはなかった。その後、顕季の身辺を義光の随兵が確認された。この時、義光は「館の刑部卿殿」あるいは「館の三郎」と呼ばれていた。
 五十台の後半になったころ、受領の職にありつき、常陸介(国司次官)に任じられた。遙任ずに現地に赴任した義光は、その地の大豪族大掾家と手を結んだ。大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に館を構えた。この間義光は勢力を伸ばし、常陸北東部一帯に定着する。佐竹郷、大田郷、岡田郷、武田郷(勝田市武田)などがそれである。常陸介の任期が終わると嫡男義業を残した。これが常陸源氏として繁栄する。
 嘉承元年(1106)六月頃、常陸国内で合戦があり、相手は義家の三男、義国だった。義光は息子義業の嫁の実家である常陸大掾家と結んで、義国に立ち向かった。合戦 の内容は不詳である。
 常陸を去った義光は、京都に立ち戻り除目を待つ間、近江円城寺に住む。
 やがて義光が補任されたのは甲斐守であった。当時多くの貴族が補任されても任地に赴任することなく、遙任と称して目代を差遣していたのがこの甲斐国である。義光は遙任することなく甲斐国司としての職務を果たしたであろう。果然甲斐国内にいくつもの義光の私領が成立し、一条郷、上条郷、下条郷、板垣郷、吉田郷、青木郷、岩崎郷、加々美郷、長坂郷、大蔵郷、田中郷、泉郷、等等がそれである。それらの諸郷のうちのあるものは立荘されて荘園になっていった。。加々美荘、逸見荘、甘利荘、塩部荘、石和御厨、原小笠原荘、一宮荘、八代荘、奈胡荘等がそれである。
 
十、清和源氏の家系 武田義清 (二宮系図…甲斐国の目代、青島下司)《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 甲斐国における義光系の所領を伝領したのは義光の三男武田冠者義清だった。かれは市河荘を根拠とした。町内平塩の岡は彼の館址だと伝えられている。
 義光の子は常陸に嫡男義業、近江国に次男義定を配置する。甲斐に対する三男義清の配置は結果的そうなっただけで、義光がたてた計画ではなかった。もともとは義清は常陸武田郷を配分されて武田冠者と名乗っていた。
 ところが大治五年(1130)、その武田郷付近で濫行事件をおこし、甲斐市河荘に配流されたのである。まさに偶然的であった。このとき義清は武田郷にちなむ武田姓をひっさげて、甲斐に移り住んだのである。
 なお、義清が甲斐国で有名になった《武田》の名を常陸から持っていったように、後に信濃国で有名になる《小笠原》の名を甲斐国から持ち去ったのは、義清の子清光の三男遠光である。《小笠原》のちいう名は、本来甲斐原小笠原荘(櫛形町小笠原)に由来していたのである。
 甲斐国の任期を終えて再び近江円城寺に帰り住んだ頃、義光はすでに六十歳を越えていた。朝廷では義光に刑部少輔の破格の職を与えられた。しかし義光はとんでもない野望を抱いていたのである。それは源家の惣領の地位を競望したのである。すでに嘉承元年(1106)八幡太郎義家はこの世を去っていた。その嫡男義宗は死去、次男義親は西国で暴れ回って泰和の乱を起こし、朝廷の追討を受ける身になっていた。こうして源家の惣領になったのは義家の四男義忠である。
 『尊卑分脈』には義光が「甥判官義忠の嫡家相承、天下栄名を猾んだ」としており、『系図纂要』は「叔父義光、欝憤を含み」としている。そして後代に成立した『続本町通鑑』は「叔父、義光(義忠)の声価を忌む」と解釈している。 天仁二年(1109)二月三日の夜、義忠が郎党の刃傷に遭った、義忠は二日の後の五日に絶命している。ところが『尊卑分脈』には(義光が)「郎党鹿島冠者を相語らい、義忠を討たしめおわんぬ」とあり、『続本町鑑』には(義光が)「密かに力士鹿島三郎をして、義忠を刺殺せしむ」としている。自分の郎党を義忠の朗從とし、油断を見すまして暗殺させたのである。そして義忠を暗殺させた鹿島冠者を義光は極めて残忍な方法で殺したのである。
 義忠暗殺の任を果たした鹿島冠者は、その夜のうちに三井寺に馳せ帰り、ことの由を義光に報告した。義光は一通の書状を冠者に書き与えて、弟の僧西蓮房阿闍梨快誉のもとに行かせた。快誉に送った症状には、冠者を殺すように書かれていたらしい。兄からの書状を読んで、快誉はこれに従い宿坊の裏手に深い穴を掘っておき、冠者を捕えて、これに入れ、上から土を被せて埋殺したのである。(『尊卑分脈』)
 奸謀を尽くしたものの、ついに源氏の惣領にはなれなかった義光は大治二年(1127)十月二十日に死んだ。時に八十二歳。大往生の人だったと伝えられる。つまりは悪い奴ほどよく眠るということであろうか。

11、清和源氏の家系 源清光《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 『長秋記』(権中納言源師時の日記)大治五年(1130)十二月三十日条に、この日朝廷で裁決された案件の一つとして 常陸国司申す。住人清光濫行のこと
 (【濫行】らんこう。…妄りな行ない。不都合な行ない。) 

 大治二年、新羅三郎義光はついに死んだ。この前後の頃、常陸武田郷に本拠を構えていた孫黒玄太清光は、叔父佐竹義業らの援助もあって周辺に勢力を張り、吉田神社・鹿島神社などの社領まで掠領するようになり、周辺の豪族にも恐れられ存在になっていた。『尊卑分脈』の清光の項にはたしかに、甲斐国市河荘の配流とある。やがて義清・清光父子は、やがて甲斐国岳田の地に居を卜した。甲斐に移り住んだ義清は相変わらず常陸武田郷に縁由する武田冠者の名乗りを続けたらしい。

 《【配流】はいりゅう、はいる。…流罪に処すこと。罰せられて、遠い土地に追いやられること。》

 伝説によると清光は光長・信義の二児を伴っていたという。家督を嗣いだのは信義で、本拠武田の地を領して武田太郎信義と名乗った。光長は逸見荘の領主となり、逸見太郎光長と称した。
 信義の長男有義は家督を嗣ぐべきものと期待されたらしく、武田太郎と名乗って甲斐武田の地にあった。次男忠頼は一条郷(甲府市蓬沢?)を分給されて、一条次郎と称した。三男兼信は板垣三郎と名乗り板垣郷(甲府市善光寺町)の領主、そして末子の石和五郎信光は石禾(石和)を領した。信光は北条時政から側面援助を受け、安田を凌いで甲斐武田党の棟梁になる。平家全盛の二十年間武田党では信義の嫡男有義や信義の弟加賀美遠光の子秋山光朝などは平家に臣従して厚い信頼を得ていた者もいた。
 治承四年(1180)に武田党は以仁王の令旨を受けた。以後四カ月間武田党は沈黙を守る。伊豆では源頼朝が挙兵した。緒戦の山木攻めでは勝利したが、続く石橋山の合戦では散々な敗北を喫する。
 甲斐武田党の安田義定が与党の甲斐工藤氏や市河氏などと富士北麓を移動中に平家方の大庭景親の弟俣野五郎景久らの軍勢と衝突した。これは『吾妻鏡』にあるような頼朝救出を目的にしていたとは思われない。
 九月十日甲斐武田党は挙兵した。頼朝の救出を目的としたが、すでに頼朝は逃れていた。武田党は最初駿河国進撃を変更して信濃平氏の討伐に方向を転換して、伊那谷の大田切城に殺到、城主菅冠者は自刃して果てる。その後も進撃は続き信濃半国を勢力下に置き、甲斐逸見山の谷戸城に帰り着いたのは同十五日であった。谷戸城にすでに北条時政・義時父子が参着していた。頼朝の本軍に合流させるためである。同二十四日には土屋宗達が第二の使者として石和信光の本領石和御厨に来着した。この時点では頼朝軍より武田党の勢力の方が上だった推察できる。

筆註
 《【御厨】……みくりや。古代・中世の神領。主として供膳・供祭の魚介などを献納する非農業民を支配する過程で、成立した。元来、供物を調進する屋舎をさしたが、のちその神領を意味するようになった。内容的には荘園と等しく、史料的には伊勢神宮と賀茂社に限られているが、特に前者は伊勢を中心に全国的に分布し、その数は数百ケ所に及んだ。…『角川日本史辞典
  …… 神饌を調進する屋舎。御供所。
  …… 古代・中世、皇室の供御(くご)や神社の神饌の料を献納した、皇室・神領所属の領地。古代末には荘園の一種となる。》…『広辞苑』

 十月十三日、武田党は行動を開始、同十八日武田党は頼朝軍と合流した。富士西麓や黄瀬河の戦いでの源氏は大勝利する、これは武田党の力によるところが大きい。その翌日の論功行賞で、武田太郎信義は駿河守護に、弟の安田三郎義定は遠江守護に任じられる。頼朝の勢力圏の最先端の地である。富士河合戦の総大将は頼朝ではなく武田党であった。(『玉葉』武田党四万余)
 これより先、『玉葉』の十月八日の条には、高倉宮(以仁王)必定現存、去んぬる七月に伊豆国に下着す。当時(今)甲斐国に御座という風評を記している。宇治河で死んだはずの以仁王は生きていて今は甲斐国武田党のもとにいるというのである。
 指揮権を確立したい頼朝は上総介広常を寿永二年(1183)十二月に誅殺する。
 武田党の勢力削減を目的にした頼朝の陰謀が開始される。治承五年(1181)京都の下級貴族三善康信が《世情のうわさ》として、先月七日、武田信義が頼朝の追討使に任じられることになったと、頼朝に伝える。頼朝は直ちに信義を召還して、厳しい取り調べを行なった。信義は起請文を書いて事なきを得たが、頼朝の疑念と策謀は静かに進行していた。

清和源氏の家系 一条忠頼謀殺《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 元暦元年(1184)六月十六日、信義の後嗣ぎの一条次郎忠頼が、幕府営中の頼朝の面前に於いて誅殺する。直後、忠頼の家人であった甲斐小四郎大中臣秋家は、歌舞音曲の才を愛でられ、頼朝の側近に取り立てられた。
 忠頼の長男、飯室禅師をすでに僧籍にいたため縁座を免れたが、次男、甘利行忠は鎌倉で召し籠められ、僧籍に入って甘利禅師と称したけれども、常陸国に配流され、翌年配所において誅殺される。
 元暦元年五月一日、頼朝が下知を下す。「故清水冠者議高の残党、甲斐・信濃において、反幕の陰謀あり、ただちに討滅すべし』。甲斐には小笠原長時、足利義兼の両将に、多数の御家人が付けられた。武田党への残党討滅軍の下知はなかった。そして六月前述の一条忠頼の謀殺である。この事件から二カ月後の八月八日、三河守範頼を将とした平氏追討軍が鎌倉を出発、主だった諸将のうちには忠頼の弟武田兵衛尉有義らの姿があった。元暦二年(1185)正月六日の頼朝の下文、

清和源氏の家系 石和信光《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》元暦二年(1185)正月六日の頼朝の下文、
  甲斐の殿原のうちは、いさわ殿(石和信光)、かがみ殿(加賀美遠光)、ことにいとをしく申させたまふべく候。かかみ太郎(秋山光朝)は二郎殿(小笠原長清)の兄にて御座候へども、平家に付き、また木曾に付きて、心ふぜん(不善)につかひたりし人にて候へば、所知など奉るべきには及ばぬ人にて候。ただ二郎殿いとをしくて、これをはぐくみて候ふべきなり。

武田信義没。
 この間武田信義は哀れであった。文治二年(1186)三月九日、信義は死んだ。年五十九。

清和源氏の家系 板垣兼信《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 武田党の棟梁は三男、板垣三郎兼信のはずであったが、頼朝は兼信を好まず、「お前なんか死んでしまってもよい」とまで言い放っている。兼信は頼朝の真意には気づかず、頼朝により所職没収された。建久元年(1190)八月、後白河法皇の願所だった円勝寺領遠江国質侶荘において不当を働き、つきに「遺勅以下の積悪」ということで、所職没収の上に隠岐島に配流されることとなった。兼信はこれまで質侶荘(金谷町志登り呂)の地頭であった。兼信は武田党と頼朝軍は同盟関係にあるとの認識があり、頼朝は武田党は配下であると考えていた。

清和源氏の家系 武田太郎有義《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 彼の場合は、平氏全盛の頃、平清盛の嫡男重盛の御剣役を勤めた前科があった。頼朝は残酷にもその任を満座において頼朝に対して勤めるように強要したのである。文治四年(1188)三月十五日、すでに平氏は滅亡していた。この日鶴岡八幡宮において、梶原景時宿願の大般若経の供養の儀式が挙行された。頼朝は武田有義を面前に呼んで御剣役を命じた。有義はすこぶる渋った。すると頼朝は御剣役を頼朝の側近結城朝光に命じた。居たたまれなくなった有義は遂電したと伝えられる。その後有義は一般御家人の処遇となる。武田党の棟梁は有義の叔父安田義定が台頭していた。

清和源氏の家系 安田義定、安田義資《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 建久四年(1193)十一月二十三日、鎌倉永福寺の薬師堂供養の儀式に参列した義資は、女官に艶書を投げ与えた。これを伝え聞いた景時が頼朝に告げた、武田党の衰退を推し進める頼朝は、この日の夕方、義資は頼朝の下知により加藤次景廉の手により首を切られ、獄門台にさらされた。直後義資の父義定も頼朝の叱責を受けた。

 建久四年の十二月五日、頼朝は義定の所領をことごとく没収、遠江国の浅羽荘の地頭職は加藤次景廉に与えられた。建久五年(1194)八月十九日安田義定は梟首された。年六十一歳。

清和源氏の家系 武田有義《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 頼朝の厚い信任を受けていたと思われていた梶原一族の全滅される。すでに正治元年(1199)頼朝は死んだ。二代将軍は頼家となる。武田党の棟梁有義の名が最後に現れるのは正治二年正月二十八日である。甲斐に末弟石和信光が鎌倉に馳せ参じて、兄武田兵衛有義、梶原景時が約諾を請け、密かに上洛せんと欲するの由、その告げを聞くによって、子細を尋ねんが為に、かの館発向するのところ、先立って中言あるかの間、かねてもって逃亡し、行方知らず。室屋においては、あえて人なし。ただ一封の書あり。披見するの所、景時が状なり。同意の条もちろんと云々。
 書状は景時が武田党の棟梁武田有義を次代の将軍に擁立するというものであった。有義は行方不明とされているが、『系図纂要』では正治二年(1200)八月二十五日に有義は死んだという。

清和源氏の家系 石和信光《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》


 石和信光は、この頃から武田五郎と称するようになった。信光は源平合戦の真っ最中の寿永二年(1183)初頭のころ、東国を制覇した頼朝と北陸の覇者木曾義仲とが、いかなる関係を結ぼうとするかという時に、信光が木曾義仲の宿館に使者を送り我に最愛の娘あり、木曾殿が嫡子清水冠者義高殿を迎えんと欲す。政略結婚による同盟締結の申し入れであった。しかし木曾義仲は一言にして申し入れをはねつけた。信光は遺憾に感じ、直ちに鎌倉に向かい、木曾義仲の讒言した。特に「平氏と一つになって頼朝を滅ぼす梟悪の企てなり」の言が頼朝を動かして、軍を碓氷峠に進めた。この時は義仲は嫡男義高を人質に出して事なきを得たという。
 寿永三年(1184)頼朝は いさわ殿、ことにいとおしく申させ給うべく候。 と書状にしたためた。この時信光は三十九歳だった。信光の行動派北条氏代々の諸陰謀と微妙に交錯し、数多くの謎の渦となっている。建久三年(1230)の阿野全成事件、健保三年(1213)の和田氏の乱、承久元年(1219)の三代将軍実朝の暗殺事件などに信光は謎の行動をとっていたのである。三代実朝が甥の公暁に暗殺された直後に、真っ先に駆けつけた信光は、逃げる公暁を見失ってしまった。
 信光の墓は北条時政の創建した伊豆願成就院の裏手には信光ゆかりの信光寺がある。
 その後、これから三百年の間、石和御厨が武田党全体の本拠地となる。
 今回、奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』から甲斐源氏の動向を見てみた。甲斐源氏の祖と仰がれている、新羅三郎義光の濫行については、今まで甲斐ではタブ-視されていた。市町村誌などにも、何故か避けて書されている場合が多い。如何に群雄割拠の時代とは云え、甲斐源氏の祖とするには酷い所業である。新羅三郎義光が確かな史料に基づいての甲斐の居住地及び去住年は不詳である。
 その息子で甲斐に配流された義清にしても、常陸を追い出されて来た人物である。最初に居住したのは現在の市川である。その後逸見に居住したというのは「逸見」と地名がもたらしたもので、清光さえも寺院や神社の由緒書はあっても、居住地は史料からは見えない。志町村誌も著者の主観が先行している場合が多く、歴史の史実では無い。濫行、兄弟や親子でも裏切りや謀殺など、血塗られた甲斐源氏の歴史を今後は正しく伝えて行くことが歴史に携わる人々の責任である。こうした事は武田三代の信虎・信玄・勝頼にしても同然である。いくら神聖化して見ても、山梨県は兎も角も、長野県や信玄が侵略、殺戮を繰り返した地方に於いては、「憎くつき信玄」である。人を石垣にして、人々を城に見立て、侵略するほどに死体の山を築いた戦国武将たちは、子供の眼にどんな風に映っているのであろうか。


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