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『森と人間の文化史』只木良也氏著  一部加筆 山梨県歴史文化館 山口素堂資料室

2023年08月22日 18時57分17秒 | 山梨県林政調査研究所

森林は日本文化の石油であった

 

『森と人間の文化史』只木良也氏著

 一部加筆 山梨県歴史文化館 山口素堂資料室

 

国敗れて山河あり 城春にして草木深し

 杜甫「春望詩」。戦いに明け暮れて国は疲弊したが山河だけは残された、無人の城郭に巡りきた春は草本を生い茂らせるのみ……。

戦のむなしさをしみじみと想わせる。しかし、国敗れたりといえども、そこに山河あり、草水生い茂るのはまだ幸いともいえるのである。

 戦争には負けた、だが緑の山河はそのままたった。太平洋戦争を生き抜いてきた人々にもそれは実感であった。復員船の土から祖国の緑の山々を眺めて涙した人も多かった。しかしその山河にも、戦争の爪跡は厳しかったのであるが。

 戦侍中、樹木も重要な戦力であった。建築材や燃料材としてはいうにおよばず、鉄やアルミやガソリンの代役としても重要であった。すべての物資が底をついた太平洋戦争末期には、学童生徒まで動員して松の根を掘り起こし、蒸留して航空燃料用の松根油を採るまでに至ったのであった。

文字通り根こそぎの利用であった。

 昭和二〇年終戦。戦後の復興のために、日本の森林はまた大量の木材を供給しなければならなかった。伐採した跡には植栽しなければならないということはわかっていても、誰もが食うのに精一杯の時代。昭和二三年末には、伐りっ放しの森林面積は全国で一五〇万ヘクタール(岩手県の面積に匹敵)にも及んだのである。伐り荒したままの山からは洪水禍が相次ぎ、人々は国土緑化の重要性に目覚める。昭和二五年、第一回国土緑化太会開催。いまの全国植樹祭のはじまりである。これを契機として、全国の造林熱は高まった。営々と裸山の植栽が進められ、わずか数年、昭和三一年には一五〇万ヘクタールの造林は完了した。この全国的な努力は高く評価されねばならない。

 戦中戦後の乱伐によって山々は確かに荒廃していた。しかし、そこにまだ回復能力と土地の生産力が残されていたことは幸いであった。国敗れても山河は在った。高温多湿なわが国の夏が、それを支えてくれたのである。

経済成長のかげで

 昭和三〇年代後半には経済成長期に突人。本村需要も増加して、不便なために手つかずになっていた奥地林へと伐採が進んだが、それでもまだ木材は不足であった。現在のように外国産材に多くを頼れない時代であり、木材価格は高騰し、それが引き金となって諸物価が上昇した。「木材をもっと供給せよ」「国有林はなぜ伐り惜しむのか」これが当時の新聞論調であった。隔世の感がある

論に押された国有林の伐採はますます奥地へと進み、天然林伐採跡の人工林が急増していった。しかし、一部には人工林化に失敗して、広大な笹地などになったところもあったのである

本村価格の高騰は、高い輸送費をかけても外国座付輸入が引き合う状態を生んだ。昭和三八年木材輸入自由化以来、米材、ソ連材、南洋材(ラワン材)が国内に氾濫する。

 昭和四〇年代半ば、高度経済成長の落とし子ともいうべき環境汚染が問題化する。経済成長の夢から覚めた人々の目に映じたのは、変わり果てた自然の姿であった。森林地帯も地形まで変えられて、宅地・工場・ゴルフ場・観光造園施設等に変貌し、山肌を切り裂き谷を土砂で埋めた道路、まだ緑に回復しない見渡すかぎりの伐採跡地……。世論は一変して緑志向となったが、そこには、若者流出で活力を失った過疎の山村、手入れが行き届かず荒れていく人工林の姿があった。国敗れても生産力を持つ山河はあった。しかし、一見国栄えると見えるその陰に山河は姿を失い、その生産力も奪われていったのである。山河が亡ぶということがどれほど重大なことか、じつは国が敗れるより重大なことかもしれないのだが、それに気付いている人は案外少ないようである。

 生産力の源は土壌。

土壌は、その土や中に生育する生物たちが有機物を加え、分解し、また侵食を防いで、長年月かけて造り上げたものである。その土を、ほんの最近地球上に現れたばかりのヒトという動物が、道具を使い機械力を駆使して破壊し、その表面をコンクリートなどの異物でおおってしまう。地球の新参者らしく、もう少し謙虚に土を使わせていただく態度がないかぎり、ヒトという生物の未来は暗い。

森林国か貧林国か

 

 降水量が多く、暑い夏を持つわが国は、全国土のほとんどで森林が育つ条件を備えているが、永い歴史の間に、また最近の「開発」によって、平他地のほとんどは田や畑に、街にと変えられて森林は姿を消してきた。しかし、全国統計ではまだ国土の六七パーセントは森林が占めている。これに匹敵するのは、フィンランド、スウエーデン、ブラジル、マレーシア、インドネシアなどで、国の数はそんなに多くない。この数字からいえばわが国は世界有数の森林国である。

 しかし、何分にもわが国は国土面積が狭いから、森林率は高くとも実際の森林面積がそんなに多いはずはない。約二五二〇万ヘクタールで世界の森林面積の〇・六パアーセント。そこに一億二〇〇〇万の国民が住んでいるのであるから、国民一人当たりの森林面積は世界平均〇・八七ヘクタールを遙かに下回る〇・二一ヘクタール、六三〇坪にすぎない。この数字に関しては「貧林国」と呼ぶにふさわしい。

 わが国は木材消費の多い国である。古くから身の周りに普遍的にあった木材を主要な資材として使い、「木の文化」を築いてきたからである。かつての木材用途は、鉄、コンクリート、プラスチックなどによってかなり置き換わったが、実際の木材消費量はそんなに減っていない。わが国で毎年使用する木材量は一億立方メートル弱、これは全世界の使用量の三パーセント強に当たる。これだけの量を自国の森林だけではとても賄い切れず、その三分の二が海を渡ってくる外国産材なのである。いまのわが国の木材は山からではなく、海から採れるのである。

農業を支えた森林

 さて、わが国の森林が使われてきた歴史を振り返ってみよう。

 太古の昔、雨の多い日本列島はほとんど全部森林におおわれていたに違いない。まだ農耕と呼べるほどのものがなかった頃、人口も少なく、人々は森に入って鳥獣を狩り、柔らかな植物の葉や果実、根などを採り、水辺に魚介を求める生活であった。

 農耕文化が発達しだすのが二千年あまり昔のことである。農耕のためには何よりも土地が必要で、そのためには平地の森林を壊すことは当然の成り行きであった。それのみならず、農耕をともなった定住生活は、その周辺の森林から、住居を建てるための、また道具を作るための木材、炊事をしたり暖を採ったり、土器を焼いたりするための燃料林を採る必要があった。

もう一つ重要なことは、農地や農村集落周辺の森林が、農地すなわち田や畑の地力を養ったことである。

 森林の樹木は、枯れ棄や枯れ枝を落とす。それは徐々に腐りながら上の中へ混ざり込み、栄養分豊かで柔らかな構造を持つ土壌を生成していく。したがって、森林を開拓して農地にすれば、しばらくの間は長年かかって森林が創ってきた豊かな地力が農業生産を支えてくれるが、森林と違って毎年の生産物をそこから採り出す一方の農地では、地力は年々低下してくる。

そこで、生産力維持のための手段をこうじる必要が生じる。もっとも簡単な方法は、地力の衰えた農地は放棄して、別の場所へ移ってそこの森林を農地に変える方法である。このような転々と移動して耕作する方法は、森林を農地化するために樹木を伐採焼却するのが普通であったため、移動耕作というのとほぼ同義語として、焼き畑と呼ばれた。放棄農地跡は、また自然に森林に戻り、数十年後に再び農地化可能なまでに地力を回復する。肥料もなく、農具も未発達、人口密度も低かった時代には、天然の回復力を利用するこの方法はなかなか合理的なものであったといえるかも知れない。しかしこの方法では、定住生活は営めない。そこで、農地周辺近在の森林から青草や落ち葉を採ってきて、直接農地へすき込む技術が生まれた。この技術はすでに弥生時代にあったというが、時代はずっと下って森林の落ち棄や下草を直接田畑へ入れるのではなく、積み上げて腐らせてから施用する堆肥化の技術が生まれた。また鎌倉時代末頃からは、落ち葉や下草を家畜の敷料(家畜舎の床に散く材料)として利用した後の厩肥(きゅうひ)を用いるようにもなった。有機肥料である。これらはじつに素晴らしい技術であった。

 農地農村付近の森林、すなわち里山林が農地へ肥料として提供したのは、落ち葉や下草だけではなかった。里山林から採られたものには薪や柴があった。薪や柴は農家のかまどやいろりで常に燃やされ、燃えた後に残った木灰は、蓄えられてやはり農地に施され、カリやリンなどを補給する無機首肥料として役立ったのである。採暖、炊事、家族だんらんの場として、いつも農家の中心的存在であったいろりは、じつは無機質肥料生産の役目も持っていたのであった。堆肥の材料は、稲から、麦わら、その他草地の植物でも対応できるが、木灰という無機質肥料を大量に得る原料は、森林に求めるほかはなかったのである。木灰施用は平安末期以降に一般化したという。

お爺さんは山へ柴刈りに

 堆肥厩肥や木灰という手近な里山林から得られる材料による肥料は、農地の地力維持のうえで農家にとって非常に重要であった。いうならば、里山の森林が農地と農村を支えていたわけで、農家の人々は暇を見つけては近在の山へ、落ち葉採りに、柴刈りにと出かけたものであった。「昔々お爺さんとお婆さんがありました。お爺さんは山へ柴刈りに……」誰もが知っているこの文句は、農村の日常の姿を描いている。

 蛇足ながら、わが国では「森林」と「山」とはしばしば同義語として扱われる。山には木が生え、森があって当たり前というわが国らしい使い方である。関東あたりの平地林でも、森林作業を山仕事と呼ぶし、東北地方には、大鷹森というような、山の代わりに森の字のついた山の名も多い。だから、お爺さんが柴刈りに行くのは、森林へ行ったのだと誰もがわかっていて、山といっても違和感はない。お爺さん加山へ柴刈りに行けば、お婆さんが川へ洗濯に行くのも日常の姿であった。

 農村集落を流れる川は、生活用水供給の上水道であり、農業用水であった。その水源は多くの場合森林であり、森林に降った雨はその柔らかな上に席み込み、ゆっくりと時間をかけて川に出るため、水源に豊かな森林があれば、晴天が続いても川の水はいつも絶えることなく、また上の中を通過してくる間に浄化されて、水は清浄良質になっている。同時に、川の水の中には森林の土から溶け出したミネラルが含まれ、これが農業用水として使われるときには、若干量ながらも農地に養分を供給する役割も果たしたのであった。

 一方、川は生活廃水の下水道でもあった。「三尺流れて水清し」と、川の流れの浄化能力が信じられ、実際にその能力を発揮してきた。人々は「水に流す」ことですべてきれいに処理してきたのである。ごく最近、人間社会の構造が複雑となり、浄化能力を超えた量と質の廃棄物を流し込まれるまで、川にたいした破綻もなかったのであったが。

自力まかないシステム

 森林の樹木が落とした枯れ葉や枯れ枝は徐々に腐りながら土の中へ混ざり込み、栄養分豊かで柔らかな構造を持つ土壌を生成していく。つまり自分で自分を肥やす「自賄いのシステム」を森林は持っているわけであるが、その自賄いのシステムに割り込んで、落ち葉を採り、薪や柴を採る人間の行為があった。その人間の行為が過度であれば、森林は荒れていくことになるが、繰り返される人間の収奪によって、後で述べるように部分的には破綻を見せながらも、わが国の森林がなんとか維持できたのは、降水量が多くて暑い夏を持つわが国の自然条件と、自己再生可能な森林の自賄いのシステムそれ自体のおかげであった。

 では、森林の自賄いのシステムについて考えてみよう。

 自然界には、常に物質の移動と集積が繰り返されており、その流れは循環的である。森林では、大小様々な木や草などの植物が光合成をする。光合成とは、大陽エネルギーを用いて大気中の二酸化炭素(炭酸ガス)、土中の水や各種の養分元素などの無機物から有機物を合成する作用である。合成された有機物は、構物の生活に用いられ、また一部は自分で光合成できない動物たちの食料になる。構物の枯れ葉・枯れ枝・枯死体や動物の排泄物・死体などの生命を失った有機物、すなわち生物遺体は主として地表に落ち、小動物がこれらを順み砕いて絹かくし、それに微生物が取り付いて腐らせる。腐るということは、有機物がまたもとの無機物に還元されることであり、大気中や土壌中に戻された無機物は再び光合成に用いられる。

 植物はそれを取り巻く環発から無機物を取り入れて有機物をつくる生産者である。自分で生産できない動物は生産者に依存した消費者である。そして微生物は生産者・消費者の廃棄物の分解還元者である。このような生物たちと環境とを経由する物質の動きのことを物質循環という言葉で表現しているが、物質が循環する一方で、光合成で取り入れられたエネルギーは物質循環のそれぞれの段階で消費されていく。

 物質循環は、自然界のどこにでもあるものであるが、それが大規模かつスムーズで比較的完全な形に近いのが森林である。これが自賄いのシステム、つまり自給自足の経済なのである。

 しかし、森林といえどもそれは大白然の大循環の中の一部である。無数の部分が集まって大自然を成し、部分それぞれには嫌でも相互の関連があるから、一つの森林で完全な物質循環系が成り立っているわけはない。二酸化炭素は開放的な大気から取り入れられ、また、そこへ返っていくわけであるし、雨に溶け、また粉塵として持ち込まれる物質があり、水に溶けて流出していく物質もあれば、森林を出入りする動物を経由するものもある。同じ物質がその森林の中だけで循環しているわけではないのである。

 物質循環という言葉から、東京の山手線のような循環を想像しがちであるが、決してそうではなく、一つの森林という単位で考えれば、それは森林の生物とそれを取り巻く環境との出入りを通じた物質の収支とみるべきであろう。

金は天下のまわりものというが、その「まわり」の意昧での循環なのである。いま財布から一万円札が出ていったとしても、同じお札が返ってくる必要はない、ほかの番号の一万円札でも、五千円札二枚でも戻ってきてくれれば、財布は安泰なのである。

自然の状態では、森林の収支はマイナスにならないのが普通である。これが自賄いということである。そこへ例えば人間の収奪といった余計な出費が強いられれば、森林の収支は赤字に転じる。

しかし、その赤字は赤字のままふくらんでいくわけではなく、雨が多く、生育期に十分な気温があるようなところならば、その赤字をいつしか黒字に変える修復能力を森林は持っている。

 

森林生態系                                  

 物質循環を通じた生物相互の関係は密接である。しかし生物は、それだけでは生きられない。それらの生活空間を埋めて、物質の供給源であり、排出先であり、流通経路でもある非生物的環境もまた重要であって、生物と環境は相互に影響しあっている。

「あるまとまった地域に生活する生物のすべてと、その生活空間を満たす非生物的環境とが形成する一つの系」

には生態系という名が与えられている。生物がいるところには必ず環境かおるはずであるから、極端なことをいえばボーフラの湧いた竹の切り株も生態系である。しかし、その生態系の安定性あるいは永続性ということになれば話は別である。

  では、生態系の安定のための条件を考えてみよう。

 まず、第一の条件は、太陽エネルギーが十分に供給されること。太陽エネルギーは光合成に不可欠のもので、それは生態系全体の活動を支えるものである。そして、植物が固定したエネルギーは、生態系内の物質循環の各段階で消費されていくから、常に十分にエネルギーが供給され続けなければならない。

 第二は、その生態系が存立するための環境条件が満足されていること。   例えば、森林が成立するには降水量が十分で、森林の種類に応じた気温が必要である。森林に乾燥害や寒害が起こるのは、その条件が撹乱されたためだからである。もともとそこの環境条件に適合した生態系がもっとも安定性が高いわけで、環境の変化はその生態系自体の変化、ときには破壊を招くことになる。

環境の変化は、なにも異常気象等に限られるものではない。最近は人為的な環境汚染などによる生態系破壊の例も多い。

 第三は、生物相が豊かで相補的であること。多種多様な生物で構成されていれば、その生態系内でお互いに過不足を補いあうことができる。生物相示豊かであるほど、その物質循環のネットワークは複雑で、循環経路のどこかに支障が生じても、他の経路がバイパスとして働き、生態系全体の機能麻蝉には陥らない。

 第四は、生物量それぞれ適量であること。多様な生物相互間には、量的な平衡状態が保たれていること示必要で、ある特定の生物の量示少なすぎればそれは物質循環のネックになり、逆に多すぎれば循環系がそこでパンクしてしまう。後者の例としては、いわゆる害虫の大発生を考えればよいであろう。

 最後に、生物と環境とのバランス。生物が環境に支配されていることは誰でも知っているが、それだけではなく、生物は環境に働きかけて環境を維持したり変化させたりする。例えば、二酸化炭素は大気中に十分量示確保されていて潤沢に植物に供給されているわけではない。生物自体の呼吸や土壌中の生物が行う分解作用によって大気に戻されて、その大気中の量示維持されている。また落葉落枝と土壌動物・徹生物の共同作業によって土壌の栄養や構造の状態を維持・改善する土壌生成作用は、まさに生物が環境を作る作用である。生態系は、生物と環境相互間の作用・反作用のバランスのうえに成り立っているものなのである。

 以上を要約すれば、生態系の安定性、維持条件とは、いかに完全に近い物質循環系が存在するか、ということに帰すようである。そして森林は、その理想のかたちに近い生態系といえるのである。巨大な生物量と豊かな生物相、それらが作る複雑な構造が生む大きな生産量、そして大規模でスムーズな物質循環、森林は「究極の生態系」といえよう。

 自然の生態系の構造と機能は、人間社会にとっても大切な情報を与えてくれる。例えば都市を生態系として見てみよう。そこでは生産と消費の段階が極度に発達している。そのために外部から大量の持ち込みがあるのであるが、分解還元の段階が格段に弱い状態にあるのが都市である。こうした状態の生態系は、不安定であることはいうまでもない。もし都市がその永続を願うならば、なによりも分解還元の段階を強化しなければならないのである。

 それは単にゴミを集めて山に埋めたり、海に島を作ったりするだけではない。自然が行っているのは、廃棄物を分解し、次の生産の原料へと還元する有限資源の循環的有効利用だということを忘れてはならないのである。

 

落ち葉の役目

 風に誘われてはらはらと舞い落ちる葉、カサコソと踏みゆく一面に散り敷いた落ち葉。秋の風情の代表格の落ち葉であるが、それは森林にとって単なる衣替えでもなく、使い捨てでもないのである。森林の地表にはいろいろなものが落ちてくる。葉・枝・幹・樹皮・花・実等々、これらのうちで圧倒的に量が多いのは落ち葉である。

落葉量は、熱帯などの暑いところの森林では多くなるが、わが国あたりの気候帯の森林では樹種や場所とはあまり関係なく平均して年間ヘクタールあたり三トン前後である。よく発達した森林では葉以外の落下物の量も増える。

 地表に落ちた枯れ薬や枯れ枝は、土壌動物によって細かくされ、微生物がこれらを化学的に分解する。したがって地表に枯れ葉や枯れ枝が積もる一方ということはない。分解は時間とともに進むが、分解されにくいリグニンなどが残り、もはや薬や枝の原形を留めない黒い腐植となる。

分解・循環等についての研究を続けてきた農林省林業試験場の河原輝彦博士によると、気温の高いところほど落ちた薬の分解速度(重量減少)は早く、年間の落葉分解率は亜寒帯針葉樹林で一~三パーセント、照葉樹林で五~九パーセント、熱帯林では二五パーセントぐらいで、これから計算すると落ちた薬が完全に分解消失するまでに亜寒帯林では三〇~一〇〇年かかるのに対して、熱帯林では四年ぐらいであるという。熱帯林での分解の速さには驚かされるが、そのために、落葉供給量が多いにもかかわらず、熱帯林の土は有機物の少ない、やせた土なのである。

 落葉の分解速度は樹種によって当然違う。河原博士の測定では、ヒノキの落葉が三年間に四〇パーセント重量を減らしたのに対し、近くのブナの落葉は五六パーセント減であったという。広葉樹の落葉の方が一般に分解か早い理由として、針葉樹の落葉より樹脂やロウ質分か少ないこと、またチッ素やカルシウムなどの養分物質の多いことがあげられている。

 落葉などの有機物の中に含まれていた養分元素は、分解にともなって土壌中に移動する。元素の中では、ナトリウムやカリウムは早く分解・放出されやすく、チッ素やリンは遅い。

 土壌有機物の分解過程である腐植は、土の粒子を結びつけて団粒構造と呼ばれる土壌構造を作る。この構造は、大小多数のすき聞(孔隙)を持ち、このすき問に空気や水が保持されるために、適度

の柔らかさと湿り気があり、通気性、保水性、透水性に優れた、植物にとっても最も好ましい土壌構造である。有機物が豊富に供給されるということは、土壌に栄養を与えるだけでなく、その構造を発達させるところにも重要な意味がある。そして当然、森林土壌にその構造はよく発達する。

 また、腐植はその集積の具合や、土壌中の養分元素の量や状態、そして気候条件や地形などによって、様々なタイプの土壌を作り出す。落葉に代表される植物の有機物は、土壌生成に欠くことのできない重要な要素である。落ち葉が土を造るのである。

 

酷使に耐えてきた里山林

 話を里山林に戻そう。落ち葉や下草、薪や柴の供給源となって、農地農村を支えた里山林は、直接的な収入源として運用される場合も多かった。自家用の燃料を採るだけではなくて、商品としての薪や炭を作り出すところでもあったのである。そこでは低林作業と呼ばれる特殊な方式で、薪や炭の材料が計画的に採られていた。

 低林作業とは、ナラ類やクヌギ、シイやカシの類などの、薪や炭の材として適し、かつ萌芽すなわち伐り株から新しい幹が株立ちになって発生する性質の強い樹種の林で行われた方法で、伐採収穫した後、伐り株から自然に発生してくる萌芽を育てて次の代の林とするやり方である。普通二、三〇年で伐採を繰り返すが、この方式はかつて日本各地の里山にみられ、農村の背景として代表的な風景であった。一般に樹高は儒く、一抹から何本も幹が出た広葉樹のおり成す景観は温和で女性的、新緑、紅葉また冬枯れと魅力的な風景でもあった。

 また里山林の一部では、スギやヒノキなどの針葉樹用村林が仕立てられることもよく見られた。これら人工林からの材木は、建築用材などとして売却される場合ももちろん多かったが、本格的な林業経営というよりは、冠婚葬祭など不時の出費に対応するための、財産備蓄の意味が大きかったようである。

 さて、農地と農村を支えた里山林ではあったが、そのために絶えず落ち葉を採られ、柴を刈られたことは、絶え間なく有機物を収奪されていたということである。森林としての物質循環が大いに撹乱を繰り返されているわけで、自分で自分を養うための材料を農地に常に取り上げられてしまう里山林の土壌が、次第にやせていくのは当然の帰結であった。いうならば、わが身を削って道楽息子に仕送りを続けているようなものである。

 とくに農耕文化が早くから発達した西日本ではそうであった。それに西日本には深くまで風化か進んで崩れやすい花崗岩の地帯が多く、繰り返される収奪のために土壌が悪化していく速度も速くて、表居士の侵食も進んでいった。そうして、そのようなところでは、その土地本来の森林植生を維持できなくなり、やせ地でも育ちうる貧しい植生に代わっていったのであった。

その代表が、アカマツやクロマツのマツ林、もっとひどいところはイバラやススキあるいはコシダ、さらにはげ山の状態である。

 明治のはじめ、わが国を訪れたドイツの地理学者リヒトホーフェンはわが国の海沿いの里山の景観を次のように書き残している。

 「それらの山々は、けわしく傾斜しているとはいえ、粗削りの形はどこにもなく、針葉樹の群を含む灌木で覆われている。数多くの露出個所が赤みを帯びた分解した土壌を示しているが、その土壌ははなはだ不毛に違いない。そのために、それぞれの山は全体が、赤みがかった荒涼たる外観を呈している」

(千葉徳爾「近世の農民生活と山林の荒廃」『林業技術』四四二号、一九七九)。


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