歴史展望 日本と朝鮮 その真実
朝鮮 独立の叫び 1919(大正8年)
朝鮮での日本の残虐行為
1919年3月1日,ソウルや平壌にはじまった「独立万歳」の叫びは,たちまち全国にひろがり,きびしい弾圧にもかかわらず,ほぼ1年にわたってつづいた。全体としては特定の指導者をもたないこの運動は,女学生から老人まで,無名の民衆たちが自発的にくりひろげたもので,日本側の資料によっても、1919年3月から5月の間に,217の本部で1491回のデモや「暴動」があり,延べ200万人の民衆が参加したとされている。
独立への熱い想い
日本に抵抗する意志を見せたため1907年以来軟禁状態に置かれていた高宗(こちょん)が,1919年1月21日,急死した。
独立宣言書は,高宗の葬儀を機に,33名の「民族代表」によって書かれたもので,朝鮮の独立が,アジアや世界の平和にとっても大きな意義をもつことを訴える格調高い文章であった。
3月1日,ソウルのパゴダ公園で発表・配布されたこの宣言書は,たちまち人々の心を捉えた。ソウルでのデモ行進は,高宗の葬儀を見物にきていた地方の農民や市民をまきこんで,たちまち数十万にふくれあがっていった。
は,目をおおうような弾圧によって,すぐにはその目的を達することができなかったが,朝鮮の歴史のうえでも,アジアの反植民地闘争のうえでも、大きな意義をもつ闘いであった。
宣 言 書
われらはここに,わが朝鮮国が独立国であること,および朝鮮人が白山の民であることを宣言する。このことを世界万邦に告げ,人類平等の大義を開明し,これをもって子孫万代に告げ,民族自存の正当なる権利を永久に有するものである。……
旧時代の遺物たる侵略主義,強権主義の犠牲となって,有史以来累千年,はじめて異民族に箱制される痛苦を言めてから,ここに十年を経過した。わが生存の権利を剥奪したのは,およそいくばくであろうか。精神の発展の障碍となったのは,およそいくばくであろうか。民族の尊厳と栄光の毀損したことは,およそいくばくであろうか。……
自己を鞭励するのに急なわれわれは,他人を怨み咎めるいとまはない。現在の問題を絹謬するに急なわれわれは,過去を懲弁するいとまはない。こんにちわれわれの専念するところは,ただ自己の建設にあるだけで,決して他を破壊するものではない。厳粛なる良心の命令により,自国の新たな運命を開拓しようとするものである。けっして旧怨および一時の感情によって他を嫉逐排斥するものではない。……
こんにちわれわれが朝鮮独立をはかるのは、朝鮮人に対しては,民族の正当なる尊栄を獲得させるものであると同時に,日本に対しては,邪悪なる路より出でて,東洋の支持者たるの重責をまっとうさせるものであり,中国に対しては,夢麻にもねすれえない不安や恐怖から脱出させんとするものであるかつまた,世界の平和,人類の幸福を達成するには,東洋の平和がその重要な一部をなし,そのためにはこの朝鮮の独立が,必要な段階である。……(姜徳相訳)
……父は,朝鮮の金海の出身だと聞いています。母もまた,金海の人です。父も母も,その生まれ故郷である金海では生きてゆけなくなって,この日本に渡って来たのでした。
これは叔母たちの笑い話の一つすが,母が父との結婚を承諾したのは、ひと足先に日本に来ていた父から,日本ではお米のご飯が食べられると聞かされたからだといいます。父と母は,それほどまでに貧しかったのでした。しかも,やっとの思いで日本に渡って来た母でしたが,ここでもやはり,満足にお米のご飯が食べられることはなかったのでした。
カミ一枚 ハシー本 クギ一本
トッテクルナ モラッテクルナ ヒロッテクルナ
これは,父がいつも口にしていた鉄則です。わたしたちが,みじめになったり,ゆがんだり,いじけた子にならないようにという父の願いが,きっとこの鉄則になったのです。このほかにも,父がしばしば口にしていた教えがあります。
人ヲナグル者ハ,背中ヲチヂメテ眠ルガ,
人ニナグラレタ者ハ,手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。
わたしたちは,幼いときから、これらのことばを何回となく言い聞かされてきました。父はこのわが家の鉄則を,わたしたちのからだに細い竹のむちでもってたたきこんだといえるでしょう。そして父は,この鉄則を自分自身でもきびしく守っていました。それは貧しい朝鮮人である父が,朝鮮人の誇りをもって,人間らしく生きようとした姿勢のあらわれだったと思います
とうとうがまんしきれなくなって言いました。
「それは,いったい,どこの国の旗だよ」
すると,父はまっすぐわたしの目を見つめて言ったのでした。
「朝鮮ノ国旗ダヨ。キマッテルジャナイカ」
「朝鮮の国旗だって?」
わたしは驚きの声をあげました。わたしには,朝鮮の国旗という父の言い方が奇妙にひびいたのです。朝鮮に国旗といわれるものがあるということは,かつて聞いたことがなかったのでした。
「朝鮮にも,国旗があるの! 日の丸が,朝鮮の国旗じゃないの」
瞬間,父は,はっと表情をこわばらせました。わたしたちに向けた目が,急に暗くしぼんでゆきます。
「ウン……」
しばらくして,父は低くうなずきました。しかし,不意に首を左右に振り動かすと,しわがれたきびしい声を出して言いました。
「コノ話ハ,コレデヤメダ。イイカ,朝鮮ニ国旗ガアルトカ,ナイトカ,ホカノ人ニイウンジャナイゾ。コノ話ハ,モウ忘レロ」
わたしは,父のそのきびしい声を間いて,黙ってしまいました。そのとき父の目にあらわれた恐怖の色は,わたしにとっても何か感ろしいものを感じさせるものだったのです。
高史明『生きることの意味』(ちくま少年図書館、筑摩書房、1974年)
在日朝鮮人として過した少年時代の記録。父の描写の中に、在日朝鮮人の苦しみ・悲しみ・誇り・やさしさなどをよく知ることができる。
実質的には2000万人の全朝鮮人のほとんどが,この運動になんらかの形でかかわったと考えられる。朝鮮の人々の日本に対する怒り,独立への意志が,どれほど激しく強いものであったかがうかがわれよう。
3・1独立運動の叫びは,目をおおうような弾圧によって,すぐにはその目的を達することができなかったが,朝鮮の歴史のうえでも,アジアの反植民地闘争のうえでも,大きな意義をもつ闘いであった。
過酷な弾圧
3月一日、独立運動への弾圧はすさまじく、デモ参加者の射殺や拷問が当然のことのように行われた。
とくに地方では,水原(すうおん)・堤岩里(ちえあむり)で起った、村人を
教会堂に集めて焼き殺すというような無残な弾圧が多かった。朝鮮側の資料によれば、3月から5月の間に,7500人余の人が殺されたという。
女子高等普通学校の慮永烈は,裸体で十字架の上に仰臥させられた。日本人は,後列の十字架の傍に炭炉を置き,鉄線を真っ赤に焼いて慮永烈の乳頭を三,四回刺してからその縄を解き,刀で四肢を断ちおとし,まるでまこも(真菰)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。そこでまた他の十字架にうつし,四肢と頭髪など五ヵ所を縛り,天空に懸けて仰臥させ,膏薬を火に溶かしたものを頭髪と陰門と左右両腋とにねばりつけ,冷却させた後に強い力で急に引っぱった。髪の毛も皮膚もともに剥げおちて,血があふれるように流れ,大地を染めた。日本の野蛮人どもは,大笑してこの残虐を楽しんだ。
いわゆる長官なる者が質問して,「お前はこれでもなお『万歳』を叫ぶつもりか」と言った。彼女はこれに答えて,「独立が達成できなければ,たとえ死んでもやめない」と言った。……
一朴殷植著,姜徳相沢『朝鮮独立運動の血史』(平凡社・東洋文庫、1972年)
注 写真
❖拷問を受け,血まみれになった3・1運動参加者
❖「独立万歳」を叫び腕を切り落とされる婦人の絵
❖一焼き払われた村に立ちつくす少年 堤岩里
❖焼跡に座りこんで嘆く犠牲者の家族 堤岩里
私は63年が過ぎた今でも,あの日に起ったことをはっきりと記憶している。あの日はいつもと違った風が強く吹いて,台所の板戸が絶え間なく音をたてていた。
あの日の2時,歩兵隊78連隊所属・有田俊夫中尉が率いる日本軍30余名が,堤岩里の村に入って来た。朝鮮人巡査袖垣ギチエと日本人商大佐縦旭吉が村に入って来て,しばらく演説をするから15才以上の男子は全て礼拝堂に集まれと言った。
夫は,裾をつかんで行かないように引きとめる私を,子どもを背負ったままでちょっと抱き部屋に押し込んだ。
「子どもをつれてじっとしておれ」
夫はこの言葉を最後に残して,余り健康でない体をひきずりながら礼拝堂に行った。
……夫が出て行って30分ぐらいたったか,私は畑で草取りをしていて,鼓膜を破るような銃声を聞いた。
「まさか,まさか……」どきどきする胸を抱いて,あわてて家に走って入り,裏門の割れ目から教会を眺めた。
日本の兵隊たちは村人を礼拝堂に集めておいて,窓と出入門に釘を打ちつけた。窓をこわして逃げようとした人には容赦なく弾丸の洗礼をあびせた。
彼らは教会をとりまいて銃を撃ち始めた。一人の婦人が子どもを窓の外に押し出して,「この子だけは助けて下さい」と哀願したが,日本の兵隊は子どもの頭を銃剣で刺し殺してしまった。いつもは讃美歌と折りの声が聞こえた礼拝堂は,絶叫と悲鳴がいっぱいに満ちた。教会の壁と土に血と肉が飛び惨酷な状況だった。
日本の兵隊は射撃を終えて,わら束を持って来て礼拝堂の周囲に積み重ね,石油に火をつけた。ときどきかすかなうめき声が洩れてくる礼拝堂のわら屋根の上に火が立ちのぼった。
火は丁度吹いて来る風にのって民家にひろがった。
日本の兵隊は気が狂ったように村を走り廻りながら,まだ火が燃え移らない家の軒に火のついたわら束を投げ入れた。
礼拝堂だけで28名が死亡。
姜泰成氏の花のような新妻は夫を失って礼拝堂の垣根の横で泣いていた。日本の兵隊は軍刀で彼女の首を三度ほど切りつけ,死体を火の中に投げ込んだ。
礼拝堂内で22名,外で6名が死んで,日本軍は白分たちが宿所に使っている2軒だけを残して,堤岩里の村の32軒をすべて火で燃やしてしまった。
……私は23才で寡婦になって86才になる今でも一度としてあの日を忘れたことはない。
私は死んで天国に居る夫と再び会う時まで,あの日の悪夢を忘れられない。
今でも野菜を植えるために庭の隅を掘りかえしてみれば,その日黒く焼けた米つぶが出てくる。
田同礼「忘れられない悪夢『堤岩里虐殺』「東亜日報」1982年8月4日号)
『教科書検定と朝鮮』(神戸学生・青年センター出版部,1982年,信長正義訳)
❖1919年4月15日,水原郡堤岩里で起きた虐殺事件の証言。
筆者は現在,堤岩里教会長老。
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