八月四日 長短解 也有
萩原井泉水 著 昭和7年 刊 春秋社
「五百八十七年まわり」と云って、長寿の祝いの言葉である。」
大はよく小をかね、短は長にまかるゝためし、世にそのたぐひ多かり。
たゞ君を賀し人を壽くにぞ、よはひを長濱の鶴にたぐへ、
あるは鮑の尾山の尾を引て、五百八十七曲(まはり)と祝ひものするには、あくかたあらじかし。
その余はひたぶるに十八さゝげのゆたけきにならへば、独活(うど)梶だの大木の謐を逃れず。
矮雛(ちゃぼ)の足はみじかきを愛し、禿が返辞はながきにのどけし。
出る杭は頭うたれてつゐの益なく、下手の談議のとまりかねては、軒の柳もねむり顔なり。
ただ女の髪こそめでたくてあらましを、手ながき人は一門にも遠ざけられ、
鼻の下の伸び過たるは、大事の相談にもらされて、其夜の饂飩のながきをしらず。
されば必ながきはみじかきが上にも立がたし。
物はただ秋の夜のながくてよからむは長く、
難波瀉みじかき芦の長からずしてよきはみじかくてあらなん。
さるを聖人も右の袂の自由を物申ずけり。
世に式法をこまかにさだめて、かね合極まるものもあれど、そのむづかしき境は人の製作なり。
天地もと窮屈ならず、長短は自然にそなへて、寸分の詮議はなし。
摺粉木は両手に握るを程とし、杓子、さい槌はかた手にたれり。
下ざまの物ながら天理のまゝなるぞたうとけれ。
我友田氏、過し比、かりそめの旅のつとに煙管を財れり。その短きこと掌にかくすべし。
我この秋西郊にあそぶ事ありて、調寶はなはだ長きにまされり。
これを咥えて手をからず、久くして歯を労せず、行く行く野上に雲を吹,あく時は袖にむさむ。
張子が馬を懐にするがごとし、ここにおいて感あり。
つゐに長短の解をつくりて、茫をむくふの詞にかふ。
其辞の長過たるはまた才のみじかき放ならし。 (鶉衣)
山中の湯 芭蕉
北海の磯硫づたひして加州やまなかの湧き湯に浴す。
里人の曰く、このところは扶桑三の名湯のその一なりと。
まことに浴する事しばしばなれば、
皮肉うるほひ筋骨に通りて神心ゆるく、偏に顔色をとゞむるこゝちす。
彼桃源も舟をうしなひ、慈童か菊の枝折もしらす。
やまなかや菊はたおらじ湯のにほひ (加賀山中、醫王寺所見)
瓢の銘 芭蕉 素堂
一瓢重黛山 自咲称簑山
莫慣首陽山 這中飯顆山
顔公の垣穏におへるかたみにもあらず。恵子がつたふ種にしもあらで、
我にひとつのひさごあり。是をたくみにつけて、花入るゝ器にせむとすれば、
大にしてのりにあたらず。さゝえに作りて、酒をもらんとすれば、かたちみる所なし。
あるひとのいはく、草庵のいみじき糧入つべきものなりと。まことに蓬のこゝろあるかな。
やがてもちゐて隠士素翁(素堂)にこふて、これが名を得さしむ。
そのことばは右にしるす。其句みな山をもてむくらるゝが故に、四山とよぶ。
中にも飯顆山は老杜のすめる地にして、李白がたはぶれの句あり。
素翁、李白にかはりて、我貧をきよくせむとす。
かつ空しきときは、ちりの器となれ。
得る時は、一壷も千金をいだきて、黛山もかろしとせむことしかり。
ものひとつ瓢はかろき我よかな (隨斎諧話)
【註】
此瓢は所謂、芭蕉庵六物。二見の文臺・大瓢(米入り、号四山)・小瓢(帯はさみ)
桧笠・萄の繪・荼の羽織折……の一つで、文政年間には市川團十郎が家にあり、
文は成美の家に傳つてゐたと成美白身が、その著「髄斎諧話」にその真蹟のまゝを寫して載せてゐる。
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