芭蕉『奥の細道』
旧庵をわかるゝ時、素堂松嶋の詩あり。
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず、もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里の灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅に移るに
草の戸も住替る代ぞひなの家
面(おもて)八句を庵の柱に懸置。弥生も末の七日。明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽(かすみ)にみえて、上野、谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは、宵よりつどひて舟に乗て送る、千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪
これを矢立の初として、行道をなをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。
(略)
松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭西湖を恥ず、東南より海入て江の中三里浙江の潮をたゝふ。
(略)
江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ
時、素堂松嶋の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解てこよひの友とす。且、杉凧、濁子が発句あり。
素堂送別松島の詞
夏初松島自清幽 雲外杜鵑声未聞
願望洗心都似水 可隣蒼翠対青眸
送芭蕉翁、
西上人のその如月は法けつたれば我願にあらず、
ねがはくば花のかげより松のかげ、
はるはいつの春にても我ともなふ時
松島の松かげに春死なん
**** 素堂と芭蕉について ****
芭蕉と同時代文壇について 小高敏郎氏著
『国文学』「解釈と鑑賞」昭和三十四年二月号
「芭蕉俳句便覧」
旧庵をわかるゝ時、素堂松嶋の詩あり。
(前文略)
たとえば奥の細道で松嶋の条に、
旧庵をわかるゝ時、素堂松嶋の詩あり。原安適松がうらしまの和歌を贈らる。
とある。ここで何故松嶋といわず「松がうらしま」と言つたか、これは勿論安適の歌に「松がうらしま」とあつたのを、そのまま芭蕉がひいたのであろうが、やはり気にかかる筒所である。しかし安適が歌人であり大名から文臣として召抱えられたことを思うと、安適はここでは意識して枕草子の「島は」の条に「松が浦島」とあるのによっているのだと思われる。そう考えればここも気にかからなくなる。
また芭蕉と当時の歌人たちとの交渉も、やはり究明すべき問題であると思われる。芭蕉は長嘯子について「挙白集」を愛読していたらしいし、長嘯子の与えた影響については既にしばしば言及されてもいる。
しかし、その門下で芭蕉とはほぼ同時代の文壇で活躍していた山本春正、清水宗川、或は戸田茂睡とは、どのような関係にあつたか。春正とはその門下の安適が彼の詞友であったから知っていた筈であるし、茂睡とも素堂が共通の友人であったから知っていたはずである。云々
〔人見竹洞と芭蕉の関係について次のような記事が見える〕
また素堂を介して二人(竹洞と芭蕉)の交友を考える説もある。竹洞は素堂と同じく鵞峰林春斎の門人だが、素堂より二十二才年長で、素堂が春斎の門に入つた時は既に一家をなしている。また竹洞は秀才で、幕府の儒官として重きをなしていたが、素堂は春斎門で頭角をあらわすことが出来なかつたようである。年齢からいつても学者としての地位からいつても、両者の交友がさして密接だつたとは考えられない。
〔虚栗調の説明文中〕
虚粟調が漢学の素養の深い素堂によって提唱されたという説は、荻野清氏によって否定され、其角、杉風、宮水らの若い人々…がこの詞の先駆であり、素堂は「むしろ追随的な立場にあつた」という(山口素堂の研究)。また荻野氏は「芭蕉が素堂に儒学を学んだといふ説は疑はしいとしても」、「少くも素堂の学識に推服してゐたのは紛れない事実であつたと考へられる」(同上)と、注目すべき意見をのべられている。
**延宝二年(一六七四)(この項『俳文学大辞典』角川書店)
**素堂、(三十三才)十一月上洛、二十三日季吟らによる歓迎百韻に臨む(廿会集)
**露通(二十六才)このころ乞食となり漂泊の旅に出る。
(返店の文)。
**嵐雪(二十一才)このころ芭蕉に入門。
**其角(十四才)このころ芭蕉に入門。
*
*季吟『埋木』刊》
*
*宗因『蛙柱百韻』に対し、貞門の『渋団』が駁し、さらに翌年惟中の『渋団返答』が反駁する。
素堂と芭蕉の俳諧
◇延宝 三年(1675)☆素堂34才 芭蕉、32才
素堂の動向
宗因歓迎百韻(談林百韻)西山宗因編 三年京都刊
鎌倉内藤風虎邸で興行(梅翁俳諧集―早大本)
領境松に残して一時雨 信章(素堂)
一生はたゞ萍におなじ 信章 (萍―うきくさ)
芭蕉の動向
▼5月、東下申の西山宗因歓迎の百韻に桃青号で一座。
連衆、宗因・幽山・桃青・信章・木也・吟市・少才・似春。
▼広岡宗信編『千宜理記』に「伊州上野宗房」として発句六句。
▼内藤露沽判『五十番句合』に発句二句入集(『芭蕉翁句解参』)。
芭蕉発句
人毎の口にある也したもみぢ
針立や肩に槌打つから衣
▼この年、夏、帰郷、猶子桃印を連れて江戸に下る。北村季吟編『続連珠』に発句六句、付句四句。巻末句引の「武蔵国」の部に「松尾氏、本住伊賀、号宗房桃青」と見える。
【註】この時代俳諧世界は大きな展開に際会していた。微温的な貞門俳諧の退屈なマンネリズムは、徳川の安定期の時代背景の中で育った新しい作家達の関心を繋ぎとめることはできなくなった。もっと無遠慮な、荒唐無稽な非合理の中に放笑を求めるような新風がおこり、それが非常な勢で俳壇を風扉した。
新風は文壇の長老、大阪天満宮の連歌宗匠西山宗因を担ぎ上げて大阪で起こった。芭蕉は『貝おほひ』を奉納した次の年、寛文十三年には、井原西鶴が『生玉万句』を興行刊行して、新風の峰火をあげ、その異風の故に「阿彌陀流」とよばれた。
翌延宝二年には宗因の『蚊柱百韻(かばしらのひゃっく)』をめぐって旧態派からの攻撃があり、宗因流の方からは、翌三年に論客岡西惟中が登場してこれを反撃、さらに惟中の『俳諧蒙求(はいかいもうぎゅう)』が出て、新風はあらたな論的根拠を得ることになる。すなわち、俳諧の本質を寓言にありとし、「かいてまはるほどの偽をいひつづけるのが俳諧」だといい、「無心所着」の非合理、無意味の中に俳諧があるという奔放な詩論が生れる。
そしてこの年宗因の東下によって江戸俳壇にも宗因流が導入されることになるのであるが、この五月、深川大徳院で興行された宗囚を迎えての百韻には、「宗房」を「桃青」と改めた芭蕉も、幽山・信章(素堂)似春などとともに、一座している。
芭蕉年譜 櫻井武次郎氏著
○この春、 時節嘸伊賀の山ごえ華の雪 杉風
身は宴元に霞む武蔵野 桃青
以下の両吟歌仙成るか。翌年帰郷の際の餞別とする説もある。
〇五月、江戸大徳院礎画事典行の宗因歓迎百韻に一座。
天理図書館蔵『談林俳諧』(写本)に「延宝三卯五月 東武にて」と端作りしてみえるもので、連衆は、宗因・磁画・幽山・桃青・信章(素堂)・木也・吟市・少才・似春・又吟。
これが文献にみえる桃育号の初めである(顕原退蔵「宗因一座の芭蕉連句」『頴原退蔵著作集』二)。
〔周辺の動き〕
▽季吟ら『花千句』 ○宗信『千宜理木』 ▽高政『誹諧絵合』
▽『信徳十百韻』 ▽松意『談林十百韻』▽『大坂独吟集』
▽重徳『新続独吟集』 ▽西鶴『独吟一日千句』
▽難波津散人『糸屑』 ▽胡今『到来集』
○惟中、四月京坂に上り任口・宗因に会い、任ロの跋を得て『俳諧蒙求』を刊。貞門俳諧および「軽口俳諧」を批判。
『しぶ団返答』(九月序)では『蚊柱百句』を批判した去法師の『渋田』に反駁。
○宗因、江戸から帰坂の途、京に立ち寄り、六月二十九日、重頼を訪ねる。
○似船、六月二九日、万句興行。
○北峯正甫、この年没か。
○露沾判『五十番発句合』(原本不明。『芭蕉翁句解参考』によ
る)に発句二以上入集。
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