◇甲州河浦村薬王寺八宮様御文 甲斐甲府 一話一言(大田南畝)
甲州河浦村薬王寺八宮様御文
ゆうふべは御出これはさてなにと
鳴海潟しだれ柳の葉の露おちて
淵となるまで御身に添はで
名残おしきはふじの山はたちばかりか
そへてもたらずかたるまも
なつの夜山郭公はつねに戀しや みやけ
八兵衛
はつもし様
◇山口素堂 瓢銘 芭蕉庵家蔵 立軸(紙地)臺表具
一話一言(大田南畝) 白字不詳
瓢銘 芭蕉庵家蔵
一瓢重泰山
自笑稱箕山
勿慣首陽山
這中飯顆山
貞享三年秋後二日
素堂山子書 我思古人
◇山口素堂 杉風画 素堂賛 一話一言(大田南畝)
立軸 紙地 杉風畫素堂賛
寒くとも三日月見よと落葉かな 素堂
横軸
別紙に申達候其以後堅圍之番所に承及候
江戸表變地先々驚候事共に御座候
此度萬句廻状所々へ出申候所別而貴翁
御事御取持奉頼候此筋文艸出来候地
地上□在打つづき御果候而
今は殊更心細き折節何事も先輩
失候てちからなき心地仕候
此度萬句巻頭に深川御連衆にて
出し申し度願望に御座候
尤先師奮住之地と申貴翁先達之よしみ
旁々難默止奉頼度存候此旨
猶萬千公へもなげき遺候此序の事は
此方に御入候間素堂へ頼候へば
書て可給候旨に御座候
返事萬部ひとつ御発句にて頼上候以上
三月十八日 支考
杉風 様
◇山口素堂 随庵諧語抄
一話一言(大田南畝)
随庵諧語(二巻)夏成美輯録
上野館林松倉九皐が家に芭蕉庵再建勧化簿の序
素堂老人の眞跡を蔵す。
所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。
九皐は松倉嵐蘭が姪孫なりとぞ。
はせを庵裂れて芭蕉庵を求む
十□を二三年たのまんや
めぐみを数十生を侍らんや
廣くもとむるは
かつて其おもひやすからんと也
甲をこのまず乙を耻る事なかれ
□各志の有所に任すとしかいふ
これを清貧とせんやはた狂貧也と
貧のまたひん許子之貧
それすら一瓢一軒の
もとめ有雨をさゝへ
風をふせぐ備なくは
鳥にだも及ばず
誰かしのびざるの心なからぬ
是草堂建立のより出る所也
天和三年秋九月□汲願主之旨
濺筆於敗荷之下 山素堂
◇甲斐七不思議 寛政三年、甲斐国に六奇異あり 兎園小説(瀧澤馬琴)
寛政三年、甲斐国に六奇異あり。遠江に一奇異あり。
合わせて七奇異とす。
★当時ある人の消息に云く、甲州善光寺の如来。
當春二三月汗かき、寺僧数人づゝにて日夜拭ひ候事。
★甲州切石村百姓八右衛門家の鼠、
大さ身一尺餘、為猫之聲候事。
★右村より一里許山に入石畑村に而、
馬為人話候事、尤一度切りにて後無其事
★ 八日市場村切石村荊澤村にて、牝鶏各化為牡鶏候事。
★ 東郡一町田中邊三里四方許之間、
五月雹降り深さ三尺餘、鳥獣被打殺候事。
★七面山鳴御池の水濁渾候事。
★遠州豊田郡月村百姓作十郎方の鍬に草生候事、
刃先より三寸、一本枝十六本、如杉形三日にて花を開、
似桜花枝木花共に皆鍬のかねなり。
◇甲斐 根わけの後の母子草 兎園小説(瀧澤馬琴)
文政四年の春二月晦日の黄昏ごろ、
元飯田町の中坂にゆきたふれたるおうな(老女)ありとて、
これを観るもの堵の如し。(中略)
旅寝すること九年に及べり、
今は既に巡り盡して、廻国すべきかたもなけば、
ふたゝび江戸をこゝろざして、岐岨(木曽)路をくだり、
甲斐が峰をうち遶り、よんべは両郷(ふたご)の渡りとかいふ
川邊のあなたなる里に宿とりつ。
かゝりし程に、
あの御坂のほとりにて、俄に足の痛み出でゝ、
一歩も運ばしがたければ、思はず倒れ侍りきといふ。
按ずるに、ふたごの渡りは、
江戸を距ること西のかた四里許りにあり、
この地は甲州街道にあらず。中山道なり。
かゝれば甲斐より相模路を巡りて、江戸へ来つる成るべし
◇甲斐 安田遠江守義定後裔 松屋叢話(小山田與清)
余が實父は武蔵国多摩郡小山田の里人にて、
田中忠右衛門源本孝といふ。
安田遠江守義定の子、田中越後守義資(よしすけ)の後にて、
世々越後国に住めりしが、
永世元年に、大炊介義綱はじめて武蔵国にぞ移り住みける。
義綱より
弾正義昌、和泉義純、宗右衛門某。喜四郎政喜、佐次右衛門政勝まで、
六代歴て本孝にいたれり。
本孝字は笠父。號をば添水園とぞいひける。
この庵に名づくる説は橘千陰が書たり。詞はわすれたり。
歌は、
小山田の山田のそぼかくしつゝ
秋てふ秋にたちさかえなん
本孝和漢の書にわたりて、詩歌俳諧に心ぞふかめたる。云々
◇甲斐国の百姓が名歌よみたる話 松屋叢話(小山田與清)
享保の頃、甲斐国の民がよめれし歌に
おもひかね心の花のしをれつゝ
夢にわけゆくみよしのゝ山
といへるは、こよなうめでたきよし、世にもてはやしとぞ。
◇新羅三郎義光 笙の事 松屋叢話(小山田與清)
清和天皇四代満仲之子 曰頼信 。
其子頼義。于時将軍任す 伊豫守に 。
其子有四人 。一人出家快誉。一人ハ義家。鎮守府ノ将軍號ス 八幡太郎 。
一人義綱。號 加茂次郎 。
一人號義光。是新羅三郎也。
この義光は、かくれなく笙に得たる名人也。
豊原の時元の子時秋といひし、
幼稚にして父をうしなひければ、
秘蔵の事をもえきかで有しに、
時秋道に深くや有けむ。
永保のとし、義光、武衡、家衡を責んとし、
戦場に趣給ひしとき、
江州かゞみの宿まで跡をしたひて馳参じ、
御供仕むといひけるを、義光深く諫給ひけれども、
猶参まゝに足柄山もでこえてけり。
義光仰られしは、
此山は関所もきびしく有べければ、
かなひがたかるべきと懇に申給ふをもきかで、
さらにとゞまるべくもあらねば、
義光かれが思ふ所をしろしめし、
馬よりおり人を退、芝をはらひ、
楯など敷て、大食調の譜を取出して、
時秋につたへ給ひけり。
時秋相うけて帰り、豊原の家を興しけるよし、
橘の季茂が記にみえぬ。
むかしの人の、道のこゝろふかゝりける事、
かくまで殊勝にこそ有けれ。
【註】この伝説は、義光と時秋の年代が合わない。
◇甲州祐成寺の来由 信玄は我弟の時宗なり 新著聞集(著者不詳)
ある旅僧、独一の境界にて、複子を肩にかけ、
相州箱根山をこしけるに、
日景、いまだ午の刻にならんとおぼしまに、
俄に日くれ黒暗となり、目指もしらぬ程にて、
一足もひかれざりしかば、あやしくおもひながら、
是非なくて、とある木陰の石上に坐し、
心こらして佛名を唱ながら、
峠の方をみやるに、究竟の壯夫、
太刀をはき手づからの馬のくつ草鞋をちり、
松明ふり立て、一文字に馳くだる。
跡につゞき若き女おくれまじとまかれり。
あやしく守り居るに、壯夫のいはく、
法師は甲斐国にゆくたまふな。
われ、信玄に傳言すべし。通じたまはれ。
某は曽我祐成にてありし。
これなるは妻の虎、信玄は我弟の時宗なり。
かれは、若年より此山にあって、
佛經をよみ、佛名を唱るの功おぼろげにあらずして、
今名将なり。
あまたの人に崇敬せられ、
又佛道にたよりて、いみじきあり様にておはせし。
某は愛着の纏縛にひかされ、
今に黄泉にたゞよひ、三途のちまた出やらで、
ある時は修羅鬪諍の苦患いふばかりなり。
願くば我為に、精舎一宇造営して、
菩提の手向たまはれよと、
いとけだかく聞えしかば、僧のいはく、
安き御事に侍ひしかど、證據なくては、
承引いかゞあらんとありければ、
是尤の事也とて、目貫片しをはづし、
これを持参したまへと、いひもあへぬに、
晴天に白日かゝり、人馬きへうせてけり。
僧思ひきはめて、甲陽に越て、それぞれの便をえて、
信玄へかくと申入れしかば、件の目貫見たまふて、
不審き事かなとて、秘蔵の腰物をめされ見たまへば、
片方の目貫にて有しかば、
是奇特の事とて、僧に褒美たまはり、
頓て一宇をいとなみ、祐成寺と號したり。
しかしより星霜良古て、破壊におよびしかば、
元禄十一年に、其の住持、しかじかの縁起いひ連ね、
武江へ再興の願たてし事、
松平摂津守殿きこしめされ、
武田越前守殿へ、其事、いかゞやと尋たまひしかば、
その目貫こそ、只今某が腰の物にものせしと、
みせたまふに、金の蟠龍にてありし。
◇小佛峠怪異の事 梅翁随筆(著者不詳)
肥前国島原領堂津村の百姓與右衛門といふもの、
所用ありて江戸へ出かけるが、
甲州巨摩郡龍王村の名主 傳右衛門に相談すべき事出来て、
江戸を旅立て武州小佛峠を越えて、
晝過のころなりしか、
一里あまり行つらんとおもひし時、
俄に日暮て道も見えず。
前後樹木茂りて家なければ、
是非なく夜の道を行に、神さびたる社ありける。
爰に一宿せばやと思ひやすみ居たり。
次第に夜も更、森々として物凄き折から、
年のころ二十四五にも有らんと思ふ女の、
賤しからぬが歩行来り、
與右衛門が側ちかく立廻る事数度なり、
かゝる山中に女の只壹人来るべき處にあらず。
必定化生のものゝ我を取喰んとする成べしと
思ひける故、ちかくよりし時に一打にせんとするに、
五體すくみて動き得ず。
こは口惜き事かなと色々すれども足もとも動かず。
詮かたなく居るに、女少し遠ざかれば我身も自由なり。
又近寄る時は初のごとく動きがたし。
かくする内に猶近々と寄り来る故、
今は我身喰るゝなるべし。
あまり口おしき事に思ひければ、
女の帯を口にて確とくわへれば、
この女忽ちおそろしき顔と成て喰んとする時、
身體自由になりて脇ざしを抜て切はらへば、
彼姿はきえうせていづちへ行けん知れず成にける。
扨おもひけるは、
此神もしや人をいとひ給ふ事もあらんかと、
夫より此所を出て夜の道を急ぎぬ。
其後は怪数ものに出会ずして、甲斐へいたりぬとなり。
◇素堂 『俳聯』 本朝世事談綺正誤(山崎美成)
素堂遺稿、享保十二年刻(拙著『山口素堂の全貌』所収)
飽マデ遣江戸風 知幾
萩相顔色麗 同
薜女口紅□ナリ 素堂
遊女薄雲の紋、丸に薜なり、其事歟。
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