近世初期の甲斐国 武田氏滅亡後の甲斐
周囲を高峻の山岳に囲まれた甲斐国は、さらに中央を南北に走る山嶺によって、笹子峠・御坂峠を境に、西側の国中(山梨・八代・巨章三郡)と東側の郡内(都留郡)とに区分される。
郡内傾は、富士五湖の一つ山中湖に源を発する桂川が南から東北へ大きく迂回して、やがて相模川となるが、その流域に広がる地域で、戦国期には小山田氏が都留郡守護の自覚のもとに支配権を維持した、いわば領国であった。
これに対して国中は、四周の山地から釜無川・笛吹川をはじめ諸河川が流入して、甲斐国では最も生産力が高く、一国の中心となった甲府盆地と、諸河川が盆地の南西部で合流し、富士川となって南下する河谷地帯の河内地方とに分けられる。
河内領はまた、戦国期に武田親族衆の巨頭穴山氏の強固な支配権が保持された地域であった。
ところで甲斐国には、近世初頭に始まるという
九筋(万力筋・栗原筋・大石和筋・小石和筋・中郡筋・北山筋・逸見筋・武川筋・西郡筋で甲府盆地一帯)
二領(河内領・郡内領)の区分があるが、それはちょうど右のような複雑な地勢による地域区分と、戦国期武田氏の領国甲斐が、信玄の力によっても完全には直領化しえず、間接的支配地域として存置したという、武田氏と小山田・穴山二氏の実質的支配領域の結果に由来するものであったといえようか。
天正十年(一五八二)三月、武田氏が滅亡すると、織田信長は河尻秀隆に甲斐を支配させたが、武田氏崇敬の社寺の破却、旧制の廃止や遺臣の殺戮など、その暴政はたちまち民衆の怨嵯の的となり、たまたま六月に本能寺の変が伝わると、民衆が蜂起し、利尻は一揆勢によって甲府の岩窪で誅殺された。
徳川家康の甲斐経略はここから本格化する。崩壊の悲運にさらされていた武田遺臣は、家康の所領安堵によって近世封建家臣団への遺が聞かれたが、同時に家康は大須賀康高・成瀬正一・日下部定吉を急派して、空国となっていた甲斐の国事にあたらせた。まもなく家康の入国があったが、十二月には平岩親吉を甲斐郡代とし、甲斐統治の必要から、築城のため一条小山の地に縄張を命じた。(註 甲府の城は豊臣の代)また家康の所領総検地の一環として、甲斐九筋の検地は天正十七年伊奈熊蔵によって行われた。いわゆる。『熊蔵縫』と呼ばれるのがそれである。
山梨郡蔵田村(現、甲府市)に次のような伝説がある。同村内の野浅間という所から繩入が始められたが、このとき貫高を改めて一貫文に籾一石とし、上田一反二石の盛と定めて百姓に示したところ、彼らは驚き、昼夜七日詰めて訴訟に及んだ。そこで伊奈は彼らを諭していうのに、三ヵ年のうちにはここへ府城が移されるので、そうすれば町中の用水・下水が行きめぐってこの田地へかかり、美田となることは明らかである、と。百姓の申立てをきかず、起請文を書いて渡し、彼らを静謐させたというのである。
家康はこの間しばしば甲斐に入国したが、やがて天正十八年北条氏が滅びると関東に移り、家康の旧領は豊臣秀吉がこれを領し、養子羽柴秀勝を甲斐に封じた。まもなく半年後には秀勝の美濃岐阜への転封となり、その跡を受けて入部したのが加藤光泰である。
先に天正十三年繩張が行われ着手されていた築城工事は、光泰のときこの地にあった一蓮寺を替地に移したり、また鉱泉が湧出して湯田と呼ばれた民戸も南方に移して本格化し、石垣築造など普請はかなり進展したといわれている。光泰は築城普請の中途で文禄の役に渡詳し、陣没した。
加藤氏の跡を継いで甲斐を領したのは浅野長政・幸長父子である。家康の関東入国以来、秀吉が最も信頼する家臣を相ついで甲斐に配したのは、家康の動静を牽制する必要から甲斐を重視したことにほかならなかった。
浅野父子の甲斐における知行高は、入部から五年後の慶長三年(一五九八)の「甲斐国知行方目録」によると、総高二十二万五千石のうち御蔵入(秀吉の直轄)一万石を除き二十一万五千石であった。
慶長元~二年に行われた検地は、いうまでもなく太閤検地の一環でご『弾正繩』と呼ばれるものであるが、右の甲斐国の総高はその結果であろう。しかし強行された検地は、農民による逃散の抵抗をも招いていた。
甲府築城がほぼ完成したのは浅野氏の時代であった。城下の市街の建設は浅野氏によって南北二区から形成されたが、北区は古府中(武田氏時代の城下を中心とする)で、南区は新府中と呼ばれるように新たにつくられた町であった。そしてこの頃、古府中から新府中へ引越していったいわば草分けの町人たちは、坂田与市左衛門や神保佐右衛門など武田家御家人の末が多かったという。彼らの多くは、甲府の検断(後の町年寄)や各町の長人(後の名主)となる者たちであった。
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