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山梨県 俳人 飯田 蛇笏 いいだ だこつ 青少年のための山梨県民会議会 編

2023年09月08日 18時59分40秒 | 山梨県歴史文学林政新聞
山梨県 俳人 飯田 蛇笏 いいだ だこつ
 
青少年のための山梨県民会議会 編
   昭和49年刊 
一部加筆 山梨歴史文学館
 
執筆者紹介
小抹富司夫氏略歴
 ◇ 大正六年(1917)、西八代郡六郷町岩間に生まれた。
昭和十六年(1941)より中国・青島の青島新報社に勤務、
戦後二十四年より山梨日日新聞社に勤務、
主として文化関係を担当してきた。
現在、同社論説委員・出版部長。
詩、小説の文学団体に関係している。
著書に詩集「きいろい炎」その他「甲州街道」等。
 
飯田蛇笏 略歴
 
◇明治十八年(1885)四月二十六日、東八代郡五成付(後に境川村となる)に父「宇作」、母「まきじ」
の長男として生まれた。五歳で清澄尋常小学校、(後に境川小学校)に入学、九歳のとき
「もつ花に落つる涙や墓まゐり」を作った。
◇明治三十一年(1898)に県立甲府中学校に入学、同三十五年、岡中学校を自発的に退学して東京に
遊学、翌年、京北中学校の五学年に転入学してここで森川葵村らを知り、さらに岡三十七年、早稲田大学英文科に入学、若山牧水、北原白秋、吉井勇ら多くの友人を得、俳句ばかりでなくさかんに詩作し、小説私書いた。
◇ [ホトトギス]の高浜虚子を知り、最年少者として、「俳讃散心」に参加したが、同四十二年、一切学術を捨てて帰郷、田園生活に入り、同四十四年、矢沢氏の長女菊乃と結婚した。
◇ 大正三年(1914)虚子の俳壇復活を知り、さかんに作句活動を始め、同四年、愛知県から発行された「ヤフラ」の主選を担当、同六年、モの主幹となり、岡詰を、「雲母」と改めた。さらに岡十四年一月号より「雲母」を山梨に移して編集、発行。終生、その育戒につとめつつ境川村の出廬にあって俳句文学に専念、格調高い句境をもって数多く傑作を発表、俳壇の巨匠として重きをなした。
◇ 昭和二十八年県文化功労者として表彰を受けた。
◆ 昭和三十七年(1962)十月三日、自宅において死去。
◇ 著書は「山嵐集」を始め「椿花集」に至る九句集のほか、評論、随筆等多い。門下知友によって三十八年十月、甲府・舞鶴城に「芋の露逓山影を正しうす」を刻んだ文学俳が建てられた。
 
俳句は十七文字の文学だ。季節感覚に敏感な日本人の詩心が生み、育て、国民文学としてますます幅広いひろがりを見せている。詩としての形は小さいが、その十七文字が詠み上げる文学の世界は、限りなく広く、深い。
 蛇笏は生涯、郷土にあってその俳句文学に全力を尽した。昭和三十七年十月三日、峡東境川町の自宅(文学の人たちは(山盧……さんろ……と呼ぶ)で死去したが、俳聖松尾芭蕉の詩精神をそのまま受け継ぐ正統派俳句の巨匠として高い声価を得ている。その足跡はむろん日本文学史に大きな光輝として残るものであり、そのすぐれた数多くの俳句作品と生涯は、郷土の後輩に大きな勇気を与えるものだ。蛇笏は死んだが、残された芸術作品に寿命はない。
 
 蛇笏は明治十八年(1885)四月二十六日に、東八代郡五成村(後に境川村となった)に生れた。
本名は誠治(たけはる)、父宇作は同村清水家から養子入縁して飯田家を継ぎ、四男三女を生んだが、蛇笏はその長男である。
 明治十八年といえば、まだ維新のあとで、国内は新しい時代をめざしての胎動で騒然とゆれ動いていた。自由民権を叫ぶ自由党、が全国各地に蜂起して政府との対立を深めているが、一方、全権公使井上馨による甲申事変(1884)に関する日韓善後約定の調印のあと、四月には全権大使伊藤博文が清国との天津条約に調印、そして十二月には初めて内閣制度が制定されて、第一次伊藤博文内開か発足している。社会問題としては借金党、小作党の暴動が山梨・静岡両県に拡大している。
 父宇作は、長男である蛇笏が将来、政治家になることを期待したが、その背景には、新時代を迎えた日本のこうした生々しい動きがあった。だ、が、親の意向には沿わなかったものの、蛇笏が一生の文学のなかでつらぬき通した男らしい気骨と、折り目の正しい精神には、やはり「明治」の気概がバック・ボーンとなっている。それはまた文学の上でも、死ぬまで緊張を持ち続けさせたものであり、よい意味での、美しい明治人の典型であった。
いま甲府・舞鶴城に立っている蛇笏文学碑(蛇笏の意思を尊重して、郷土山梨のこの碑以外は今後、全国のどこにも蛇笏の句碑はたてられないはずである)に刻んでいる「芋の露連山影を正しうす」、が示しているような、格調高い人生観をもって生涯を生き通した。
 日清戦争の始まったのは明治二十七年(1894)だが、その年九歳の蛇笏は、「もつ花に落つる涙や墓まゐり」という句を作っている。これは昭和七年になって初めて蛇笏が出した有名句集「山嵐集」に大事に収められている。
 清澄尋常小学校へ五歳で入学しているので、五年生のときの句である。小学校といってもまだ寺小屋時代で、当時の教育は、そんな小さな生旋たちに「大学」とか「中庸」というようなむずかしい勉強をさせている。
 その寺小屋式の小学校で、蛇笏は学校友だちの米山金作とか、のちの雨宮雨石、米山柳煙らとさかんに俳句を作り合った。放課後、日課のようにして教室の大火鉢のまわりに集まって暗くなるまで作った。
 山梨は江戸時代から俳句の盛んなところで、境川近辺でも句会がよく聞かれた。まして父の生家清水家の長屋門の右、左がしばしば会場として使われたので、つまり門前の小僧として自然に俳句の雰囲気と魅力にひかれていったものと思われる。のちに大人になってから書いた随筆などを読むと、少年時代の蛇笏は、相当、気性の張った腕白少年だ、が、そうして自由活発に付近の山野を飛び回る半面、やはり将来、それに心魂を傾けるだけの深いつながりが芽生えていたのだろう。俳句に関しては目を輝やかして夢中になる少年だった。
 
◇ やがて、山梨中学校(甲府中学校。現在の甲府第一高等学校である)へ進学してからは、急速に文学にたいする目を開いていくが、その下地は、すでに小学生のころにつくられていたというべきだろう。彼はたちまち「即興詩人」を読みふけり、そして松尾芭蕉に心酔するようになる。
◇ 明治三十四年(1901)、四年生のとき同中学校寄宿舎の学友だちと一緒に写した記念写真がある。これは最近飯田家で発見された珍しいものだが、その写真の蛇笏は、ふっくらとして頬の豊かなまさに紅顔の美少年である。ぐっと左肩を張り、表情は汗ばんでいるような多感さと、理想に対して積極的な闘魂(つらだましい)を見せている。そして、この写真のどこかには、後に内閣総理大臣になった石橋湛山や、建築学の権威・いま早稲田大学の名誉教授内藤多仲などもいるはずである。
 蛇笏はそのころさかんにアントニオの放浪の旅や、族の詩人松尾芭蕉にあこがれて、いくども旅に出ることを企てている。が、この写真を写してあと間もなく、学校に騒ぎが持ち上り、一種のストライキに発展した。持ち前の正義感と熱血をもって、彼はその中心となって活躍する。もちろん学校側と対抗しているわけだが、生徒側にストライキをする理由のあることだったので、その行動を咎(とが)めることも処分することも出来ない。
 しかし、蛇笏はその事件を機会にして自発的に退学した。その決断には平常抱いていた旅への意図、あこがれがかなり作用していたと思われる。文学と人生にたいして多感なほとばしりがそこにある。
◇ 彼は家出をして鰍沢に行き、そこから舟で富士川を下ろうとする。(中央線の開通はその翌年である) その計画は追って来た伯父に引き止められて実現しなかった。が、結局、家族との話し合いの結果、東京へ出て勉強することになった。順調に甲府中学にいたとしても、二年後には上京したはずである、か、この一件で一足早く東京に行くことになったのである。郷里を離れたいというのは、時代がどうあろうとも、少年が一度は描く特有の夢であろうか。
◇ 京北中学校は小石川区原町の鶏声ケ窪にあった。蛇笏はその五学年へ転入学した。
その中学でたちまち森川葵村、斉勝己水、近藤荻声、高村周豊、樋口登(日夏耿之介)らと親しくなり、日夜、彼らと文学を語り、文学書を読みふけるようになる。家郷を遠く離れ、気持の上でも大海へ泳ぎ出たような自由感を味わった。文学への情熱は燃え上るばかりである。
あるとき、誰いうとなく新入学の飯田武治の話が出た。彼は学校の構内にあった寄宿舎にいたが、終始黙々として校庭の一隅にたたずみ、どこか禅味のある風貌の持ち主たった。同気相求めるというか、私等は飯田を俳句の連坐(俳句を作りあう会)に誘った」と、最初の親友森川葵村は、そのころの蛇笏を振り返る。
その時、葵村はたずねた。すると蛇笏は、「蛇の骨とてもしておきましょう」と答えている。
 雅号は、だいたい花鳥風月から選んだものが多かった。例えば、花袋、桂月、白鳥、藤村、鏡花、酔花、柳虹といった按配である。やがて彼は早稲田大学時代になると、モリモリと主観的な作風の俳句をつくり出すのだが、すでにこのころ、雅号の選び方にも蛇笏的な個性を見せている。
 「剽逸というか洒脱というか、私たちには捉えどころがないように思えた」
と葵村はそのとき、すでに一目おいている。
 
 京北中学時代は、その誰もが、我こそはと文学に気負って巣立ちした少年時代の夢に満たされていた。欲も得もなくひたむきなその憧れの時代だった。そして葵村は証言する。
「ひとり飯田だけは焦らず、倦まず、着々と自分の道を歩いていた。……」
 
明治三十七年(1904)に蛇笏は、早稲田大学の英文科へ進んだ。
 この年には、日本海と満州の野を血で染めた日露戦争が勃発している。近代日本が国運をかけた、たちまち突入した二つの大きな戦争を、感じやすい時代に蛇笏は続け様に体験する。そしてさらに大正の第一次大戦、昭和へ入ってからの満州事変、上海事変。やがて日華事変から太平洋戦争。明治、大正、昭和の三代を生きた蛇笏は、そのたびたびの戦争がひき起こす惨苦をすべて目撃しなければならない。日本を敗戦にみちびいた第二次大戦では、愛児二人を戦場で死なして、血涙をしぼるほどの犠牲を強いられている。
 
だが、早稲田大学へ入った蛇笏は、その初めての夏休みに、一ツ橋に入学した葵村を連れて境川村へ帰省し、一緒に富士山へ登山した。そして、毎日、飽きる事なく詩について、文学について語り合い、また議論をかわした。
 葵村は猛烈に詩を書いていた。二、三年後には彼は「夜の葉」という詩集を出していて、麒麟児的存在になるのだが、その友人への共感もあって、蛇笏自身も当時はさかんに詩を書き、白蛇幻骨その他のペンネームで「文庫」や「新声」などという文学雑誌へ次々に油ののり切った詩作品を発表している。
 後に作家となった長田幹彦もやはり英文科の学生だったが、
「彼は羽織の紐に、いつもインク瓶をぶら下げて教室へ入って来た」
となつかしく語るが、そのころはまだ早稲田の角帽もない時代で、つまり制服も制帽もない時代で、みな鳥打ち帽子(ハンチング)にかすりの着物で通学していたのである。羽織の紐にインク瓶をつるした蛇笏。文学青年ではあったが、しかし決して青白い学生ではなかった。その風采、挙措動作には一つの気概があった。めめしいことは大嫌いな青年だった。
 「芳水詩集」を世に送って、いまでいうベストセラー、若い人たちの胸をわき立たせた詩人有本芳水も語っている。
 
「彼はこんなことをいった。詩の世界は広い。花鳥風月だけが詩の対象ではない、道ばたにころがった馬の糞にも、濁ったドブ川にも詩、がある、おれはこの方面に心を向けて詩を作りたい。……六十年をへた今日でも蛇笏のこの言葉は忘れられない」
 
 早稲田時代は、彼の詩心、文学への才能がさかんにその可能性をためし、開花していく時期だ。
詩人富田酔花や川路柳虹とも親しくつき合い、やはり早稲田大学へ進んだ目夏耿之介とも京北中学以来の交友である。
大学ではさらに多くの文学上の友人を得て、蛇笏の文学への気持はいっそう刺激され、触発された。同じ英文科には詩人北原白秋がおり、歌人古井勇がおり、作家葛西善蔵、坪内士行、長田幹彦らがいた。科は違う、が、広津和郎、土岐哀果、若山牧水もおり、上級生の秋田雨雀(劇作家)とも親しかった。
 
小説「少年行」を発表して一躍、学生作家として世に躍り出た中村星湖は南都留郡河口湖町の出身である。
 
甲府中学校でも互いに名前は知っていたが、学年か一年違っていた関係で当時は深い関連を持っていない。大正の初め、蛇笏が所属していた「ホトトギス」へ星湖も小説「わか者連」(大正三年)を書いているが、親交は、戦争のため星湖が郷里の河口湖畔へ帰ってからに持ち越されている。
 
敗戦直後、旧河口村の道端にころがっていて、通行人の下駄の雪を落す役目をしていた石を、星湖が注意深く見たことがその端緒だ。「芭蕉の句碑ではないか?」と驚いた星湖は蛇笏に連絡をとって鑑定を頼んだのである。
 二人して、その句碑を調べた。
 いつのころか、「川口連中」が建てたものである。「芭蕉翁」と碑石の中央に大きく彫り、そして、
「雲霧にしばし百景をつくしけり」
と、一句刻んである。
「尊重すべき句碑だ。いかに世が乱れているとはいえ道端で蹴飛ばされているとは情ない」
 蛇笏は手の平で、その碑を撫でて、しみじみとつぶやいた。
 
◇ 芭蕉は天和二年(1682)十二月の駒込大円寺を火元とした大火で芭蕉庵を焼かれ、身をもって江戸を逃れて五ヵ月間、郡内で疎開生活をしている。その折、谷村や初狩にばかりじっとしていた訳ではあるまい。そしてその三年後の貞享二年(1685)四月、「野晒(のざらし)紀行」の途中、木曾路から諏訪を経て、甲州道中信州路を東に向って再び入峡している。決して甲州に縁のない俳人ではない。無論、星湖は村の人たちに呼びかけて、その泥まみれの句碑を洗って、産屋ケ埼の美しい環境へ移して再建した。河口湖のすぐそばで、富士山の全容を真向いにした絶景の場所である。 
 以来二人は折にふれて会い、文通し、郷土文化界の先輩として後進の人たちの指標となってきた。
 
◇ 早稲田大学に入ってからは、さらに蛇笏は文学の道へ強く踏み出したのだが、郷里の父宇作はそれを黙認した。政治家になることに父親として、ひとたびは一つの夢を托したのだったが、そのころは独自の力で将来へ向って歩き始めた蛇笏を、遠くからみつめている。母、まきじは、すでに愛児の希望を理解して、暖かい言葉を寄せていた。
 
◇ 二十一歳のときであった。蛇笏は学友四方呉檜にすすめられて、俳句の早稲田吟社に参加した。なんとなく詩作が間遠くなっていた。メンバーには白石実三、上山草人、中塚一碧楼などがいた。
 彼は次第に句作に励み始める。何時とはなく早稲田吟社の中心人物となったが、内面にはほとばしるものを持っている。作品の発表にさかんな意欲をみせて、虚子、が選をしていた「国民俳壇」へ投句したり、「ホトトギス」俳句会へ顔を出すようになった。そして、はっとさせるような作品を矢つぎ早に発表して周囲の注目を浴びた。やがて新しい世界が開けて来る。
 俳壇のチャンピオンであった高浜虚子とはじめて面識をもったのは明治四十一年(1908)、二十三歳の時だった。そして、自然に虚子の下に入門の形になり、その八月には虚子を中心とする俳句鍛練の場である「俳諧散心」に最年少者として参加することになった。彼がいかに虚子とその周囲から注目されたかがわかる。むろん、情熱はいっそう燃え上がった。
 その夏、彼は暑中休暇にも帰省しないで、毎日、富士見町遊就館裏通りにあった虚子庵に通いつめて、年長者にまじって作句に集注した。「俳諧散心」は毎日正午から始まる。東京の炎暑の中を、汗をふきふき一日もかかさず通いつめた。苦しくはあった、が、それを吹き飛ばすだけのこころの高まりがあった。
 そうしながらも半面、蛇笏は小説の筆もとって習作を続けていた。当時は花やかな自然主義文学の興隆期で、それが文壇の新風であった。尊敬する虎子も句作と併行して小説も書いていた。蛇笏の才能は躍動し、鮮やかな開花を見せつつあった。
 
◇ だが、この「俳諧散心」のあと、虚子は突然、俳壇引退を声明して、国民新聞社に入社することになる。この変動は、「よし、やるぞ」と気負い立っていた蛇笏にとっては、非常なショックだった。うつぼつと燃え上がっていた意欲、か、ポキンと出鼻をくじかれた。といってもよい。が、さかんな作句熟をさますわけにはいかない。
 彼は若山牧水が主宰していた雑誌「創作」に拠って、そこに気ままな俳壇を設けて作品の発表を続けた。とにかく青春の魂は熱っぽい。多くの文学仲間と肌をすり合わすようにして文学を論じ、人生を語り、学問を論じて尽きなかった。
 そのころの東京には、飲み屋はあったが、喫茶店はもとより酒場などはまだ出現していない。潔癖な蛇笏は、学業と文学の余暇を寄席に求めて、しきりに寄席めぐりをした。ことに神楽坂の牛込亭が近かったので一番足繁く通っていた。
 有本芳水も長田幹彦もその点を異口同音に語っている。
「ある夜、一緒に散歩しているとき、蛇笏が急に浪曲を唄い出した。それは実に堂に入ったものだった」と、芳水はそんなエピソード伝えている。
 
◇ だが、やがて蛇笏に二度目の一身上の転機が訪れる。二十四歳の明治四十二年、一切の学術を捨て所蔵の書籍全部を売り払って、突然、境川村に引き揚げて来る。
 
この郷里への引き上げの理由について、舵笏自身は一言も語っていない。それだけに蛇笏研究にはいくつかの推測が見られるが、やはり体が丈夫でなかったことと、家庭への責任感、家族の要請………が大きな理由に違いない。それに大きな衝撃だった虚子の俳壇引退と、青春の一種の厭世観がからみ合って、急に彼自身に田園生活へ帰ることを決断させたと思われる。
 蛇笏が山峡の村へ帰るのは、たしかに宿命ではあった。苗字帯刀の家系の旧家を守るべき責任感は深く潜在していた。
 それにしても当時、選ばれた者として学識を身につけ、文化の中心の空気を体一杯に吸収した青年が、学業を中途で捨てて草深い郷里へ帰る決意は、並みたいていのことではなかったろう。飯田橋を離れるときは、悲愴な心情だった。親友の若山牧水は
「山の中でうずもれるのか。東京で頑張れ」
と最後まで引き止めたが、彼は、手を握りしめてその好意に応えはしたが、やはり振り切って帰郷した。
 蛇笏は意志の強い人である。この経緯については、ついに何事も語らなかった。その「年譜」の明治四十二年の頃に二行、そのことをしごく簡略に記しているだけだ。そして、終生、一片の愚痴ももらさなかった。
 やがて、
落葉踏んで人道念を完うす
大江戸の町は綿々草枯るゝ
 
などの句が、境川村小黒坂の実家で朝夕を過すことになった蛇笏の句帳に書き込まれるようになる。
 現在、富国生命社員の森武臣は、蛇笏の実弟であるが、十七歳年下の彼にとって「親父がわりだった」という。この兄弟は実にしっくりと理解し合い、心の支えになり合った。が、蛇笏が東京から帰って来たころ、武臣はまだ小学生だった。                           ‘
 
「兄貴は表の蔵の二階を書斎にして、そこでほとんど本を読んでいて、甲府や東京へ出るというようなことはあまりしなかった。やはり兄貴をしばったのは、土へ帰るべきだという考えだったと思う。嫂(あによめ、菊乃夫人)をもらってからは養蚕に熱心になり、ぼくらも命じられて桑を撒いたり、蚕の掃除をしたことがある」
 
 と回想する。そして、
 
「私が十歳になったころのことだったか、朝顔型の蓄音機を東京から買って来た。野良仕事から帰って夜、家へ聴きに来る近所の人たちに雲右衛門の浪曲とか、呂升の義太夫、二三吉の端唄などを聴かせて喜ばせていた」
 
という。
 二十四歳から二十七、八歳ごろへかけての、若い蛇笏の小黒坂生活が目に見えるようである。
「わが敬愛する友よ」
という感動的な書き出しで、昭治四十三年八月二十二日に東京市牛込柳町から若山牧水は、蛇笏あてに長い手紙を寄せている。
 
旅へのあこがれを書き、近く旅に出ることを予告し、そのとき境川を訪ねたい、君に逢いたいと詩のような内容の手紙である。
 
やがて九月初旬、
辻々に山はせまりて甲斐の国 甲府の町はさびし夏の日」
 
………牧水は甲府経由で境川の産廬を訪ねて来た。そして十日間、蔵二階の書斎へ泊り込んで、さらに「東京へ出ろ、文壇へ出ろ」と強硬に説得を続けた。蛇笏が俳句といわず、詩においても、また小説を書いても必らず頭角を現わす人物であることを信じての友情だった。
 しかし、蛇笏はその友情にはうたれながらも、牧水の人生観に同調できず、意思を替えない。結局、牧水はむなしく帰るのだが、恋愛問題で悩みをかかえていた彼は、そのまま信州へ向い、やがて例の
『幾山河越えさりゆかば 寂しさのはてなむ国ぞ けふも旅ゆく」
の旅へ出ていく、蛇笏は坂の上から暗然と見送るのだが、牧水との青春の出合いは、憂いを含み、汗ばむようなロマンチシズムに彩られている。
 
◇牧水の滞在中から母屋で重態を続けていた祖母は、その三日後、
「一家にいてくれ、家を守っておくれ」
と、蛇笏にその手を預けながら息をひきとる。むろん家へ帰って来るときからそのつもりだ。
……蛇笏の文学と生活をつらぬいている道念と人温か、そこにある。蛇笏は常にゆるぎない精神をもって生きようとした人だ。それを詩の世界で昇華させるとき、格調の高い調べを奏でる名吟佳吟となった。
 
◇ 後年、蛇笏が満を持して第一句集「山廬集」を世に送り出しだのは昭和七年(1932)であったが、その時すでに若山牧水は世を去っていた。
 その句集出版祝賀会の席上、あいさつに立った蛇笏は、会を催してくれた多数の詩友に謝辞をのべたが、心の中では、そこに見えない牧水の霊に対して、しみじみと陳謝した。
「私の人生でもっとも悲しい涙だった」
と述懐した。
 
◇「出廬集」は、むろん蛇笏文学の確立を示し、俳壇に対して声価を決定的にしたものだった。しかし、「四十七歳にして出すとは、遅かった」ことが悔やまれた。二十余年前あれほど
「こんな草深いところで埋もれるのか、文壇をめざせ!」
と、牧水はすすめてやまなかった、が……、彼にこそ真っ先に見てもらいたい句集だった。……
 その蛇笏の涙には、東京文壇から孤立しながら、山中でひとりひたすら文学にすがり、孤独に耐えてきたわが身の苦難に対する労わりもこめられている。
                                                              
◇ とにかくそうして郷里で鳴かず飛ばずの沈潜した日々を過していたが、明治四十四年(1911)、塩山の矢沢氏の長女菊乃と結婚、大正元年には長男聡一郎が生れた。そして大正三年、「ホトトギス」の仲間・長谷川零余子らから、「蛇笏が俳壇に復帰した」と、中央の消息を伝えてきた。東京を去って五年の年月が過ぎていた。早速「ホトトギス」を取り寄せてみると、同誌は俳句に重点をおき、その雑詠欄では未知の新人が活躍を始めている。
 燃えかけていた作句熱が、勃然と燃えあがった。蛇笏は、虎子の例の「春風や闘志抱きて丘に立つ」に眉を上げて呼応していく。力強く足を踏み出して行く。
 
◇ こうして「ホトトギス」の再興をきっかけとして、大正俳句界は新しい息吹をもって絢爛と開幕した。新傾向派に対立して立てた虚子の旗幟の下、蛇笏をはじめ渡辺水巴、前田普羅、村上鬼城、原石鼎等々、主観派が羽ばたき始める。殊に蛇笏は颯爽と、堰を切ったように独得の重厚な調べをもって充実した世界を押し拡げた。「ホトトギス・標註」の巻頭、次席を月々飾り、これから昭和七年の句集「山盧集」へかけて終生ゆるがぬ蛇笏文学は、格調高く着々と形成されたのである。繊細な感受性、濁りのない視点、山嶽のようなしっかりした姿勢をもって、後世に残る作品が、次々と生み出される。
  
芋の露連山影を正しうす
  籠火赫っとただ秋風の妻を見る
  落葉踏んで人道念を完うす
  葬り入歯あらはに泣くや曼珠沙華
  死病得て爪美しき火桶かな
  たましひのしづかにうつる菊見かな
 
その当初からして完ぺきな句風をもって、すぐれた句の数々、がどっと吐き出されていった。
 
◇ 俳句を単に花鳥諷詠にとどめず、自然主義的、あるいは小説的材料を大胆にもちこんで、ユニークな美しさを発揮する、彼は「地方」に居る不利を撥ね飛ばして、一歩も退かなかった。
◇ 大正七年(1918)、芥川竜之助は「癆咳の頬美し今冬帽子」という句を作ったが、これは蛇笏の「死病得て……」からヒントを得たものである。そのことは竜之介の「飯田蛇笏氏」という文章でも明らかで、彼が、いかに蛇笏に傾倒していたかがわかるが、大正十二年(1923)十二月の蛇笏あての手紙の中でもそのことを芥川自身書いている。
手紙による二人の交友は大正五年ごろからだったが、やがて、昭和二年(1927)の夏、蛇笏は新聞のニュースで竜之介の突然の死・自殺を知る。竜之介と蛇笏は会って話し合ったことはなかったが、親密な文通を続けていた。会おうと思えばいつでも会える……という気持ちがお互いにあった。その死は、まったく思いがけないことだった。どれほど芥川の才能を借しんだかしれない。
  たましひのたとへば秋のほたるかな
 は、そのときの悲しみを詠ったものだ。
 
◇ そのころ、「ホトトギス」は毎号、小説をのせた。虚子も書き、蛇笏も「二十目前後」「石を砕くにほひ」その他を書いているが、小宮豊隆、守山草平、近松秋江、正宗白鳥、徳田秋声、田山花袋、野上弥生子、中村星湖ら、が花々しく小説作品を寄せている。
 つまり、蛇笏は小説にも詩にも、それを続ければ続けられるゆたかな才能のすべてをかけて、結局、もっとも短い文学形式・俳句によってそれを表現し、定着させようとしたのである。
 そして、
くろがねの秋の風鈴鴫りにけり
秋風やみだれてうすき実の端
おりとりてはらりとおもきすすきかな
秋たつや川瀬にまじる風の音
 
絶唱といわれる傑作を次つぎと、中年期に生み出していく。
 
◇ 山梨県境川村の蛇笏は、次第に日本俳壇の高い峰としてかくれもない存在になった。
ところで、蛇笏、が生涯、心をこめて編集し、指導してきた句誌「雲母」について触れなければならない。「雲母」は、もと「キララ」という誌名で愛知県家武村で大正四年に創刊されたが、蛇笏は当初から『主選者』としてその指導に当たっている。その「キララ」の編集者長谷竜北、岡安一松等の懇請で大正七年に主幹として迎えられ「雲母」と改題、さらに大正十四年から発行所を山梨に移すようになって、「雲母」はいよいよ充実した発展を見せた。門下は全国に拡がり、雲のようにすぐれた俳人を輩出した。
 第二次大戦の昭和十九年七月、甲府が空襲をうけて焼け野原となり、印刷を担当していた又新社も焼失したので休刊。敗戦後の翌年三月、東京から復刊するまでの八ヵ月間は休んだが、戦後はさらに大きな飛躍期を迎えた。
 
◇ 昭和二十四年にはその四百号記念大会、昭和二十九年には創刊四十周年記念の催しを東京、大阪、甲府でそれぞれ盛大に開き、同三十四年には五百号記念俳句大会を開いた。
 その間、蛇笏は「山盧集」をはじめ「霊芝」「山響集」「白嶽」「心像」「春蘭」「雲峡」の七句集を出し、「穢穢土寂光」「土の饗宴」「美と田園」「旅ゆく颯詠」その他の随単集、[俳句文学の楽園]「俳句文学の秋」「現代俳句秀作の鑑賞」その他多くの評論を出している。そして全集収載、文庫本などは一々あげきれない。その風格、重量感は常に堂々として、俳壇の指標となり、山中の境川・山盧は調べ高い正統派俳句のメッカとして昭和俳壇聳えた。しかも、そのおびただしい名句佳吟の作品群は、松尾芭蕉にじかに連なる大きな『蛇笏山脈』を形成したのである。
 その俳句の強固な美しさは、しかし結局、蛇笏の風土、山梨の自然があってのことだ。
 
「山嶺を詠うことにおいて俳壇で私の右に出る者はない、出獄―文学。もはや身についた宿命的なものだ」
……郷土にあくまで土着して生き、一歩もたじろがず、その恩恵を高々と文学に生かした確信の言葉である。そして蛇笏俳句もまた山獄のように四季のすばらしさを持って、どっしりと動かない大業績となった。
 
◇ 蛇笏は終戦前後、手痛い精神的な打撃を受けた。
昭和十六年六月・二男病歿、
同十一月・母死去、
十八年一月・父死去、
十九年十二月・長男は比島レイテで戦死、
二十一年には三男が外蒙で戦病死。
 
……三代を生き、その最後の戦争でしたたか不幸に見舞われている。一連の愛息追悼の作品は測々として悲傷を伝えてやまないが、しかし、蛇笏はひとことも口に出して、その嘆きを語らなかった。頑として無言で、それに耐え続けた。精神に、みごとな節度が光っている。
 すぐれた作家は剛直である。蛇笏もその稀有の一人だが、その剛直さは、ふっと匂うようだ。そしてほのぼのとしたあたたかさを持っている。
 
◇ 昭和三十一年
 
炎天を槍のごとくに涼気過ぐ
 
おく霜を照る目静かに忘れけり
 
等の傑作を収録した句集「家郷の霧」を出した、が、そのころから時々健康の不調を自覚するようになり、ついに昭和三十六年(1963)四月末から腹部大動脈瘤併発のため病床についた。
 昭和三十七年、一年余の病床生活ですでに体力は極度に衰えていた、が、大きな発作に襲われ昏睡におちいる二日前の七月一日、子息龍太に背中を支えられ、体を斜めに起して色紙をしたためた。
  
いち早く目暮るゝ蝉の鳴きにけり
 
はからずもこの句が、筆書きの絶筆となった。
 死を予想し、静かに死をみつめている「いち早く……」にこめられた万感、巨匠の七十今年の年月とて一瞬の出来事だったに違いない。
 やがて小康をとり戻すと、枕もとの句帳へ鉛筆を走らせる、文字はクチャクチャで判読に苦しむほどであっても、なお蛇笏は俳句を手許に引寄せようとする。日常の生活でもそうであったが、蛇笏は他所見のできない人であった。少しでも自然とこころのそよぎを自分の詩型に練り込もうと、全身の力をこめて心魂を煩ける。俳句に志して以来の心の姿勢が絶えずそうであったが、死の床においてもその執念は少しも衰えなかった。最後の最後まで、柔軟な感性と格調をもち続けて、絶唱を続けた。
  
竹落葉午後の日幽みそめにげり
  藪高木鴉がとびて山に月
  ゆく水に紅葉をいそぐ山祠
  金扇の雲浮かしたる冬の翳
 
そして、次の句で七十年間、そのためにこそ生まれてきたように、吐露され続けた蛇笏の句作はピリオドを打つ。その句境は、宗教的世界にまで高められている。
  
誰彼もあらず一天自尊の秋
 
しかし、深い昏睡状態の中でも、巨匠の手は宙をまさぐり、ちょっと手首を筆持つあんばいに曲げて、なおかつ、何かを書き止めようとする仕草をやめなかった。……
 昭和三十七年十月三日午後九時十三分。蛇笏は、家郷・境川村小黒板の山盧で静かに永眠した。七十七歳。流れていく水のように静かな、大往生であった。うたかたの肩書きなどは一切不用、俳句十七文字ひとすじに執念して、生き抜いた生涯であった。同月六日の自宅での葬儀には全国から多くの俳壇、雲母の人々、そして井伏鱒二、三好達治、中村星湖、木俣修ら多くの知友も参列し、山盧を菊の香りで埋め尽した。
 故人は晩年、ことに椿を好んだ。戒名は、
 
真観院悟道椿花蛇笏居士
 
死の一カ月半ばかり前、近づく死を承知した蛇笏は「真観院悟道椿花蛇笏居士」と戒名の下の半分を自分で決めて実弟・森武臣に示し、上の方は憎職に委ねておいた。
 翌年三十八年十月三日、全国の俳人、知友によって甲府市・舞鶴城跡の山梨の山々がそのまま見渡せる場所に、
芋の露連山影を正しうす
の句を刻んだ文学俳が立てられた。
 

伊藤生更の歌碑 甲府の夢見山(愛宕山)中腹にある   <著者 奥山正典氏 >

2023年09月08日 18時46分58秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

伊藤生更の歌碑 甲府の夢見山中腹にある

 

<著者 奥山正典氏 >

 

北の方より駒 鳳凰 農島と我が目を移す雪の高山  生更

 この歌碑は昭和三十八年六月十六日、甲府の夢見山の中腹に建立され、同日除幕式が行われた。裏面に「歌誌美知思波発刊三十周年と山梨県文化功労者伊藤生更生誕八十年を慶び門流一同これを建つ。

英知思波短歌会。昭和三十八年六月」とある。

 除幕式は雨のため、甲府市立春日小学校講堂に移され、「美知思波」会員のほか、来賓として、知事代理田中県開発部長、中村星湖、許山茂隆氏等が見えられ、中村星湖氏は手づくりの杖に

「手づくりのあららぎの杖ささけまつる 八十瀬を越ゆるうた人君に」

の一首をそえて先更翁に贈られ、しみじみとした場面もあった。     「万」は「かた」と読む。

 さて、先更翁は、昭和元年短歌結社「アララギ」に入会、斎藤茂吉が昭和二十八年に亡くなるまで、茂吉を絶対の師と仰ぎ、万葉を宗とする。真実一路の作歌道に終始した。昭和十年、組歌話「美知恵波」を主宰創刊し、その詠風は、荘重・枯淡・純素、県内外の六百五十名に及ぶ後進の育成に努められ、今日、全国の短歌誌でも十七、八位の会員を擁する結社の基礎づくりをしたのである。

 この一首は、生更翁が散策のコースとして、こよなく愛した夢見山から、甲府盆地の北西にそびゆる駒ヶ岳、鳳凰山、農鳥岳を眺望しての自然詠で、見たまま、感じたままを、平明率直に詠じて、雪の高山の荘重、峻厳美を表出し、作者の心の姿勢までもうかがえる。生史前は生前「我が目を移すとした所に現実感があるのだ」と申され、その著「茂吉秀歌の鑑賞」「作歌道」などで、「客観は主観に即(つ)く」という歌論、芸術論を唱道されたが、これらを裏づける作品といえる。翁は歌集「草谷」「柴山」「山雲」「甲斐の国」を残し、昭和四十七年七月二十七日、八十八歳で他界される。


山梨県の著名人 (あ)

2023年09月08日 16時19分53秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

山梨県の著名人 相川 勇 

食糧増産ひと筋 境川村出身 明治26~昭和36 

日本大学卒 大正三年、農林省蚕糸試験場入り、

十一年、佐賀県庁、十一年山梨県庁入りして農業関係を歴任、

昭和十七年食糧増産のため満州に渡って山梨県報国農場長。

太平洋戦争後は県引揚者援護会長、二十二年から境川村長二期、

山梨県議会議員一期。二十四年村診療所設立、

二十五年山梨日日新聞社の新十景・新十勝に坊ケ峰を売り込む。

 

山梨県の著名人 穐(あき)山 篤 

参議院議員(比例代表)甲府市出身 昭和2年生れ 

旧制甲府工業卒 昭和十九年国鉄入口へ以来労働運動を続け、

五十工年、国鉄労組副委員長から参議院議員全国区に当選、

五十八年比例代表で再選。参議院環境問題特別委員長として都市の緑化に活躍、五十四~五十八年日本社会党山梨県本部委員長。

 

山梨県の著名人 秋山 幸一 

山梨県議会議員 韮崎市出身 大正13年生れ 

円野青年学校卒 昭和二十三年秋山商事創立、運送会社・温泉経営、

元韮崎市議会議員。四十七半紺綬褒章受章、県砂利工業組合副理事長。

 

山梨県の著名人秋山 真男 

タバコ・生糸の改良者 市川大門町出身 明21~昭52 

東京帝国大卒 平和館秋山製糸・岐南木工元社長、

大正六年東洋拓殖と朝鮮総督府の特命で北南米、マレー半島などを視察。

朝鮮でのトルコタバコの栽培を成功させる。

十一年、甲州製糸社長となり、山梨製糸業組合長、日本製糸協会常任理事と

して…東の秋山、西の有馬…といわれるほど蚕糸業に貢献。

山梨県議会議員など歴任。

 

山梨県の著名人 穴水 要七 

元衆議院議員 旭村(韮崎市)出身 明8~昭4 

明治三十四年横浜に出て,米穀、肥料・食塩商を営み、

上京して富士製紙その他の役員として実業界に雄飛、

大正七年衆議院議員補欠選挙に当選、政友会総務として活躍。

旧姓小野で甲府の穴水家の養子。

 

山梨県の著名人 天野 建 

石和町長 大月市出身 昭3生

国立無線電信講習所高等科中退、昭和三十三年笹一酒造専務、

三十九年石和温泉病院理事長、五十四年から石和町長二期目で、

場外馬券場誘致の賛否問題を抱える。天野久元知事の三男で尺八師範。

 

山梨県の著名人 天野 重知(しげのり)

入会権闘争リーダー 忍野村出 明42生 

都留中(都留高)卒 富士山自動車社長、忍草入会組合長。

富士山自動車の敷地(山梨県有地)は県から明け渡し訴訟を提起され、

五十六年一審敗訴。北富士演習場の入会権擁護闘争では忍草母の会などを支援

して…天野天皇…といわれるほどの指導力を発揮。太平洋戦争中、軍や警察の輸送機関統合に反対して何度も留置場入り、その時着用していた紺の国民服が闘争時のトレードマーク。

 

山梨県の著名人 天野 久 

山梨県知事の在任記録者 塩山市出身 

明23~昭43 高等小卒 田辺酒造店支配人から

大正九年、北都留郡笹子村吉久保(大月市)に酒造会社を創設、

太平洋戦争後笹一酒造に改編。

昭和二十六年知事に当選して以来、連続四期十六年間、官・公選時代を通じて

山梨県での最長在任記録。

この間…富める山梨…を標榜して野呂川林道(南アルプス林道)、早川電源開発、笹子トンネル・御坂トンネル・富士山容有料道路の開設など県士開発に力を入れた。

田辺酒造酒時代、田辺七六元政友会幹事長の影響を受ける。

民主党から衆議院議員に当選三回、建設政務次官など歴任。

 

山梨県の著名人 網倉 平輔 

元貴族院議員 塩崎村(双葉町 現甲斐市)出身 

明3~昭22 専修大卒 峡北地方大地主。北巨摩郡会議員三期、

塩崎村長など歴任、民政党に属し大正四年貴族院議員に当選。

 

山梨県の著名人 石橋 湛山(たんざん)

山梨県から唯一の首相 増穂町出身 

明17~昭48 早稲田大卒 大正十三年、東洋経済新報社主幹・社長、

昭和二十一年、以来衆議院議員当選六回、

大蔵大臣、経済安定本部長官、通商産業大臣などを歴任、

三十一年暮れ総理大臣となったが病を得て翌年早々辞任、

辞は政治家の出所進退の鑑として賞揚。日本国際貿易促進協会総裁、

立止大学名誉学長などを歴任。

父、杉田日布は久遠寺第八十一代法王・日蓮宗管長。

山梨県の生んだ唯一の総理大臣で経済学者、

「石橋沢山全集」「日本経済の針路」などの著があり。

石橋湛石記念財団の手で五十五年から石橋湛山賞を制定。

勲一等旭日大授章受章。

 

山梨県の著名人 今井 新造 

剣道代議士 甲府市出身 明27~昭37 

甲府中(甲府第一高)卒 大正六牛甲府市青年団の初代団長、

甲府革新党の創立に参画、昭和二牛年以来山梨県議会議員三期のあと、

十一年から衆議院議員三期。

少年のころから剣を川崎善三郎、島田喜之助、中山博道らに学び範士七段。

斎藤隆夫代議士の粛軍演説には除名を主張する立場をとるが、戦後は一切の公職を辞し、政運ひと筋。

 

山梨県の著名人 上野 孝作 

ロス上山梨の橋渡し 山梨市出身 明治15~昭和39 

サンフランシスコ公学校卒、明治三十三年移民として渡米、

サンフランシスコで三年間学んだのち、

同郷出身の鈴木徳治と美術店を共同経営、ロサンゼルスヘ進出して総支配人。太平洋戦争後、オリエント協会を創立、

山梨県海外協会副会長として山梨県からの商業実習生十散人を引き受け訓育。

 

山梨県の著名人 内田 常雄 

元厚相:自民党幹事長 甲府市出身 明40~昭53 

東京大卒 大蔵省管財局長を最後に官界から政界に転じ、

昭和二十七年から衆議院議員に当選九回。

通産・科学技術庁政務次官、衆議院商工・大蔵各常任委員長を歴任、

厚生大臣、科学技術庁長官就任。

自由民主党の党務では国会対策副委員長、税務調査会長などを歴任し、

五十一年三木武夫総裁のもとで幹事長。

政権政党の幹事長は、

山梨県人としては昭和十四年政友会の田辺七六(塩山市)以来。

経済閣僚としては第一次石油ショック後の混乱収拾に働き、銀行

預金の歩積み両建て割に批判的だった。

党内では…鵞鳥 ガチョウ…といわれるほどの弁舌は時に国会答弁などで「一言多い」の声も。生家は甲府の旅館、珠美公園に五十八年銅像が建てられた。

 

山梨県の著名人 大崎 清作 

元衆議院議員 甲西町出身 明9~昭32 陸軍砲兵工科学校卒 

明治四十年東南湖の村松家から東京・白山の大崎家の婿養子に。

小石川区会議員から東京市議会議員四期。

昭和三年から衆議院議員三期、政友会に属し野呂川疎水反対運動に活躍。

製材・製水会社社長。

 

山梨県の著名人 大柴 滋夫 

民主社会連合副代表 明野村出身 大6生 

早稲田大卒 昭和二十年日本社会党結党に参加、

二十五年党中央委員、二十八年組織部長、三十九牛国民運動局長、

四十三年選挙対策委員長、

五十二年離党して阿部昭吾らと社会民生連合を結成、

五十八年、田 英夫代表のもとで副代表。東京二区から衆議院議員当選五回。

 

山梨県の著名人 大森 慶次郎 

元貴族院議員 南八代村(八代町)出身 明4~昭37 

早稲田大卒 大地主の長男で、甲府に大森銀行を創立して頭取に就任。

明冶二十三年、貴族院多額納税者議員互選人となり、

大正七年貴族院議員に当選。

 

山梨県の著名人 岡 三郎 

元参議院議員 一宮町出身 大正3生 

山梨師範卒 昭和八年、日野原小・藤井小訓導

二十八年、日本教職員組合執行委員長から日本社会党中央委員

・教育制作調査特別委員長、

神奈川県本部委員長は十選で、日本民主教育敢冶連盟全国会長。参議院議員は二十九才から三期連続。ILO日本労働主席代表ののち日本墓園理事。

 

山梨県の著名人 荻野豊平

元衆議院議員藤田村(若草町)出身 明24~昭36

甲府中(甲府第一高)中退 家業の士仕業荻野組を興して甲府市へ移転、

昭和十一年から山梨県議会議員三期で議長。

太平洋戦争中の大政翼賛会山梨県中央協力会議長の時、

二十二年公職追放となるが二十六年解除、二十七年から衆議院議員二期。この聞、県建設業協会会長、県小中学校PTA連合会会長。

 

山梨県の著名人 小野 光洋 

元参議院議員 石和町出身 明33~昭40 

立正大卒 大正十三年、大正新修大蔵経刊行会入り、立正学園石川台高女校長から立正学園理事長、

昭和二十一年、日本私立中学高校連合会理事長となり、

翌年自由党から参議員全国区に当選、二十三年文部政務次官。

立正大理事長・立正学園女子短期大学長在任中に死去。


芭蕉の時代の旅はどんなものだったか(商業史・交通史から) 今田洋三氏(こんた・ようぞう)著

2023年09月08日 10時52分38秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

芭蕉の時代の旅はどんなものだったか(商業史・交通史から)

 

今田洋三氏(こんた・ようぞう)著

『国文学』「奥の細道とは何か」平成5年刊  

学燈社5月号 第34巻6号

 

一、遥なる堤を行

 

 芭蕉と曽良は、北上川沿いに北上し

「袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱原などよそめにみて、遙なる堤を行」ったのである。二人の眺め、かつ、歩いた「逼なる堤」こそ、当時の伊達領内の経済開発の象徴であった。それはまた、十七世紀日本の新田大開発時代のもたらした新しい景観であった。

 すでに二人は

「数百の廻船入圧につどひ、人宮地をあらそひてかまどの煙立つづけ」

ている石巻の繁栄を眺めた。

こうした石巻のにぎわいも伊達領の径済のあり様を示すも右のであった。

斎藤月界『武功年表』寛永九年(一六三二)の条に、「『諸宮原秘録』に云ふ、

今年より奥州仙台の米穀始めて江戸へ廻る。今に江戸三分の二は奥州米の由なり」とある。江戸入津の米のうち奥州米が三分の二とはやや過ぎた表現であるが、仙台からの米の輸送が江戸の食糧事情に大きくかかわっていたのである。同時に、仙台藩の財政は江戸廻米によって保たれていたともいえる。

 伊達政宗以来、仙台藩は領内の米の大増収をねらって、水田開発と川筋改修を進めたのである。かつての北上川は追波湾のほか石巻にも流下し、しかも流路がしばしば変わっていた。改宗は、測量・土木技術にくわしい長州出身の川村孫兵衛重吉なる人物を登用し、川筋を改修した。同時に石巻を一大河口港としたのである。

一方で家臣に野谷地(原野)を与えて開発させた。家臣たちは開発によって知行地からの収入を確保できるしくみであった。仙台だけでなく、十七世紀東北は方々の藩で知行取家臣による新田開発事業が進展したのである。藩直営の新田開発も進められ、伊達領内の平背部には用水路や運河が聞かれた。各地に新田村ができ、広大な田園風景が現出したのである。

 芭蕉・曽良がたどった北上川沿いの遙かなる堤は、そういう意味で十七世紀東北における大開墾時代の象徴だったのである。

 こうした新田開発・河川改修は関東・東北はもちろん全国で目ざましく進展し、十七世紀末の総耕地面積と米の総収量は、十六世紀末の秀吉の時代と比べるとほとんど倍増し、それにともない人口も急増したのである。

 こうした生産力の大発展は、農民の家族形態、生活のあり方の変化と相関していた。中世の複合大家族の解体が進んで、夫婦と子供たちを基本メソバーとする直系小家族が一般化した。複合大家族の場合は、家長権力のもとに傍系親族が従属させられていたが、十七世紀に、この傍系親族の自立が進んだのである。それだけに家族毎の労働意欲、生活・生産の工大が向上し、新しい商品作物の栽培、農具類の発明・改良が進んだ。こうした庶民の生活力の向上は、まず上方で目ざましく現われ、芭蕉の時代、つまり寛文~元禄期に東北地方まで及び、商品流通は全国化したのである。

 物的人的移動の活性化に加え、情報の流通有また全国化した。日本社会は交通諸関係の躍進の時代に入ってきたのである。

俳諧を楽しむ地方俳人の続出や、俳諧撰集入句者の全国的の広がりより、こうした交通諸関係の躍進の文化的現象にはかならない。芭蕉の旅はこうした情況をふまえ、かつこの現実を超越する形で芸術化されたのである。

 

二、都にも折々かよひて

 

出羽国村山郡は、むかし俗に「最上」とよばれた。文芸・経済の資料中に最上とでてくると最上郡と解する人もいるようだが、ちょっと注意を要する。最上郡・村山郡あわせて、大づかみに最上と称する場合が多かったのである。上方人には、最上といえば紅花・青苧の産地として、また米どころとして知られ、繰綿・古着・茶・農具などの売弘め先であった。酒田港から最上川をさかのぼると最上に出る。そこは大石田の河岸があり、尾花沢・谷地(やち)・天童・寒河江などの在郷町が、城下町山形とはり合ってしる、豊饒の地と見えていたのである。

西鶴は世之介を酒田に逗留させ、さらに寒河江にかつての心友を尋ねさせたりもしている。

 尾花沢の鈴木清風は、地元最上で金融によって利益をあげ、青草・紅花の集荷・出荷で活躍していた。

「富める者なれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知る者」

と讃えられている。折々かよった都とは、京都か江戸か。そのいずれにも出かけたであろうが、紅花問屋の有力なのは京都、青草の需要の多いのは奈良晒(さらし)・近江晒の原料としてであったから、やはり出かけたのは京都の方が多かったであろう。残念ながら旅行の記録は残していない。

 

 延宝年間、奈良西大寺の弥勒菩薩像修理に当たって、最上の商人と奈良の商人たちが協力して修理費用を献納した。修理完成に当たって、費用献納結縁の人々の名簿が弥勒像の胎内に納められたのである。先年発見されたその名簿には、出羽・奈良の商人とその一族の者のほか、敦賀・海津・大津などの荷揚げ問屋や馬指(人馬組立の差配に当たる宿場役人)の名前なども記されている。この結縁者名簿には清風は入っていないが、最上・上方間の荷物輸送や商用の旅には、港町や宿場の人々との親しい人間関係が伴っていたことが窺われるのである。

十七世紀目本の旅は信用と安全に裏うちされていたともいえよう。もちろんその背後に

は、幕府の全国支配体制の瀧立のためにとられた交通組織と交通路の整備の政策もあった。

 

 清風は俳諧撰集三部……『おくれ双六』『稲亘』『一橋』……を世に出したが、とくに『稲莚』には入句者の住所が肩書きされているので、清風の直接・間接の俳友の分布をたどることができる。その分布は上方・関東はもとより中国・九州にまで及んでいるが、奥州街道の宿駅…桑折・須賀川・白河・宇都宮などの俳人の句が納められ、なかでも須賀川の等躬の句十一句も採用され、清風・等躬の親密な間柄が窺える。酒田の不玉・不白と芭蕉を歓待した俳人、さらに、加州金沢の一笑・北枝・万子・流志・牧童らの句が多いのも、清風の経済的文化的交通ルートを示すものであろう。

 

 近江・美濃・伊勢の商人が東北各地に行商の形で進出し、また出店経営で東北市場に活気を与えつつあった。家業で忙しい清風に代って芭蕉を接待した素英(村川伊左衛門)は「尾花の系譜」(星川茂彦氏『芭蕉と清風』所収)では伊勢出身とされる。清風の俳諧連衆の中には、同じく伊勢出身と考えられる三井宗知(宗智・崇知とも)・村川残水がいる。宗知・残水は芭蕉には会わなかったが、大淀三千風の『松島眺望集』『日本行脚文集』等に見えている。

 三千風は伊勢飯野郡射和村の三井家の出である。岡本勝氏の『大淀三千風研究』によれば、三井宗知は三千風の次兄と判断され、最上に出店を経営していた者という。残水は通称村川九郎兵衛で、三千風のすぐ上の兄(つまり宗知の弟)で、村川家に養子に入り、最上楯岡に店を構えていた者と考えられるという。しかも、芭蕉を接待した素英は村川残水の子ではないかと岡本氏は推定している。三千風は仙台に十五年間とどまり、天和三年(一六八三)から元禄二年(一六八九)の七年間に、東北・近畿・中国・九州を巡歴したが、天和三年はまず秋田へと歩を進め、角館では村川残本宅に泊っている。貞享三年会津から最上へと北上した時には尾花沢で残水・宗知らと俳席をもっている。残水は秋田・最上にまたがる商圏をもって、伊勢商品(茶・木綿など)の販売と出羽商品(紅花・青草・魁)の集荷に活動していた者といえよう。

 清風連衆の中には谷他の年玄(田宮五右衛門)なる人物がいた。かれの竹馬の友に章山なる人がいて、その父は福田四郎左衛門といい、伊勢山田の商人で最上谷地に留まった人であった。年玄・章山が少年の頃ともに学んだ師が松本一笑軒という先生で、この松本氏は近江日野の出身であった。年玄の家は三十余名の使用人をもつ豪商であり、谷地は紅花の集荷拠点の一つ、松本氏は近江商人に連がりのある人でもあったであろう。なお章山は長じて本拠を京都に移して、谷地との間を往来し、その養嗣子が伊勢屋理右衛門と称して京都紅花問屋仲間の有力者となったのである(今田信一氏『河北町の歴史』上巻)。

十七世紀最上地方の商人のうち、有力な途中は山形城下でも在郷町でも、近江・伊勢を出身地とする者が多いのである。かれらの発展期は寛文~元禄期であり、ちょうど芭蕉の時代なのであった。

 酒田も上方・伊勢など各地の商人の活動拠点であった。西鶴の『日本永代蔵』巻二「舟人馬かた鎧屋の庭」には、大問屋鎧屋惣左衛門の繁昌ぶりとともに泊客の旅商人たちの形気が活写されている。

 

酒田に至った芭蕉を迎えた人びとの中に詮道寺島彦助かいた。藤井康夫氏の示唆に富む見解(藤井氏「随筆寺島彦助」、酒田古文書同好会『方寸』第一号所収)によれば、詮道は尾張鳴海の知足(下垂勘兵衛、法号康照)の俳諧連衆、業言(寺島伊右衛門安規)・安信(寺高高右衛門)の同族ではないかという。

 業言寺島氏は鳴海の本陣を経営する者で、知足の母永彦尼の弟である。嘉右衛門安信は業言の分家である。芭蕉は元禄二年六月十九日、不玉邸において、杉風・寂照・越人宛ての書状を書いて、江戸に赴くという彦助に托した(『曽良旅日記』。彦助が寂照・越人宛ての手紙を托された事情は、鳴海寺島氏の出身と解することによって、はじめて無理なく理解されるというのである。

藤井氏は、八月十六日伊勢長島の大智院に曽良を訪ねた何人かの人の中に「寺助」がいるが、これは寺高音助ではないかと考えている。寺昌彦助は、元禄二年当時、酒田において何をしていたのか明確でないが、幕府差廻しの浦役人として酒田にあったと解されている。とすれば、寛文十二年の西廻航路の整備に功のあった河村瑞軒に関係ある者で、酒田に定着するに至った者かも知れぬ。なお、清風の『稲菰』に尾州寺嶋安通なる人物の句が一句人っているが、この安通も、鳴海寺島氏であり、寺島蛮的ゆかりの者であろう。

 六月十六日、芭蕉を追って象潟に至り、以後八日間も随身した美濃国の商人低耳は、奥筋鋸商に従事していた者で、かれもまた余程旅なれた、かつ、志いやしからぬ者であったにちがいない。酒田俳人の一人玉志(近庄屋三郎兵衛)も屋号からみて近江出身の者であろう。

 このように、芭蕉のたどった奥筋いたる所に、努力と才覚で経済活動を展開し、遠い郡への旅もほとんど苦にしない、かつ旅の情を知る者たちがいて、芭蕉の旅の芸権化をささえていたのである。

 

三、武江東叡に属して

 

 羽黒山・月山・湯殿山を出羽三山という。

「当寺武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頂融通の法の灯かかげ……繁栄

 長(とこしなへ)にして、めで度御山(たきおやま)」であった。しかし、月山登山、湯殿参拝を実行するとは、並々ならぬ行者ぶりである。奥羽の人々の信仰世界への実践的参入というべきであろう。

 奥州街道・出羽街道は、まず講大名の参勤交代往還の通路として、幕藩の必要にもとづいて経営されてきたものであったが、三山詣での道としてもにぎわいつつあった。最上谷地郷(現西村山郡河北町)大町村の念仏講(実は契約講)の記録簿「大町念仏講帳」享保十八年(一七三三)の条に、つぎのような記事がある。

 今年は丑年で湯殿参詣の年である。おびただしい参詣人で白岩(現寒河江市)から本道寺ロ(湯殿山登り口の一つ)に至る村々は十年ばかり寝て食うほどもうけたそうだ。湯殿出への八日(八つの登山口)を通った人は十五万七千人だそうだ。

 湯殿山は弘法大師が延暦四年(七八五)乙丑の年に関いた霊地とされる。それで丑年は湯殿山詣の年となったのであろう。風雅の旅のなかで、こうした庶民信仰にふれることがあっても当然であろう。しかし月山への登山は相当な難行である。これは並々ならぬ出羽三山への係わりというべきであろう。

 

 芭蕉の奥筋の旅のうち、日光東照宮、平泉中尊寺、最上の立石寺、羽黒山など寺社関係で主なる巡礼先は、いずれも、当時天台宗総本山たる東叡山寛永寺の管掌の寺社である。 

曽良は清水寺(せいすいじ 江戸浅草の宝聚院清水寺~寛末寺末―といわれる)の書状を日光義源院に持参し、東照宮に参拝したのであった。こうした寛末寺に係わる書状を、中尊寺・立石寺・羽黒山に提示したかどうかは、『おくのほそ道』からも『曽良旅日記』からも窺いえない。

しかし、羽黒山の場合、別当代会寛の歓待ぶりからみて、寛末寺庇護下の旅であることを示す何かがあったような気がしてならない。

 

 貞享四年(一六八四)、奏者番寺社奉行の松平忠勝(上総佐貫城主)が

「公の紀綱をも弁知してありながら、ゆへなき下ざまの者と消息を通はしたり」

(『徳川実記』)とて改易、会津配流に処された。「下ざまの者」とは「邪法の祈祷」を行う釈了覚・光明院某であった。了覚が忠勝に、八月二十八日は何か大事あるべしと予言をしてみせたが、果してこの日江戸城内で大老堀田正俊刺殺事件が起きた。忠勝は、羽黒山に行っていた了覚に、予言的中を告げ、足下の予言は今後も頼母しく思っているとの手紙を書いて、寛永寺の羽黒向け使に入れてもらおうと依頼した。

かねて了覚に不審をもっていた寛永寺宿坊の者がこの手紙を内見して公儀へ届け出たのである。この結果、忠勝は改易、了寛らは八丈遠島となった。了見とはいかなる人物か、羽黒山と了覚とはいかなる関係にあるのか不明だが、羽黒山にとっては迷惑な事件であった。羽黒山としてもいついかなることで将軍の逆鱗にふれるかわからない。

この事件の噂は広く江戸町方まで流れ(戸田裳茂睡「御当代記」、寺社問題にくわしい曽良が知らなかったわけがない。

しかるに羽黒山で芭蕉は別当代会覚の頼みに応じて天宥府法印追悼の文を書いたのである。天宥法印は羽黒山第五十代別当として羽黒中興に功のあった傑僧である。しかし、庄内藩酒井家との対立、山内の分裂等さまざまな問題を起こし、寛文八年(一八六八)伊豆大島に流され、許されることなく病没した。

こうした人物を一介の俳諧師が追悼するとは、綱吉時代には危険なことであったに違いない。芭蕉には一介ならざる何かがあったのではないか、つまりは東叡山の何らかの御墨付を示しうる旅ではなかったかと考えたくなるのである。

 

田中丘隅は川崎の村役人であったが吉宗によって幕吏に抜擢された者である。その著『民間省要』の中で、東海道中の権柄では東叡山関係の一行ほど怖いものはないといっている。東叡山の札は街道筋では絶大な威力をもっていた。もとより芭蕉がこれをもって奥羽を旅したかどうか、それは不明である。しかし宗教界に詳しい曽良であれば、師の安全のために配慮する所があって当然の気もするのである。

 

芭蕉らは羽黒山でさまざまな人と会った。近江飯道寺の憎円入、京都の観修坊釣雪、南部殿御代参の憎珠妙などで、俳諧興行を共にする機会をもっている。ほかにも羽黒山には諸国の旅憎が逗留していたであろう。

この時代の寺院・宗教界は本末・師檀、そのほかさまざまな関係で、一大ネットワークを作っていたのである。有力寺院の荷物の宿場継立は、有力大名の荷物と同じように優先であった。特定寺院と係わりのある民間人が、寺院のもつ交通機能をうまく利用して、商用の荷物等を送ったりすることもあったろう。寺院交通網は経済的交通網と補いあって、この時代の交通を支える有力なシステムであった。

 

四、捨子の哀げに泣あり

 

オランダ商館医師ケンペルは元禄四年(一六九四~同五年の二度、カピタンの江戸参府旅行に随行し、詳細な旅行記録を書いている。おそらくこの記録は芭蕉時代の旅について最も詳しく言かれたものであろう。しかし監視付き外国人の書いたものであるから、旅における庶民の姿はあまり窺いえない。ただ、ケンペルは日本の一般の旅行者は「扇面に里程や宿屋や食物の値段等が旅行案内書のように刷り込んである道中扇子を使用する。道中、往来で物乞いする子供らが、この扇面に書いてあるような事柄を記した小さな本を廉い値段で売りつける。だが外国人は、少なくとも公然とはこの種の案内書を買うことを許されない」

といい、また

「旅人は、つぬに仮刷りの道中案内記を携行し、どこにどんな名物があり、どこで最もいいものを最も廉く食べられるかを調べ」るともいっており(ケンペル『日本誌』)、この時代道中記出版の盛行を語っていて面白い。ケンペルは、日本研究の資料として、道中案内記の類を集め持ちかえっていた。それらは、ほかのケンペル旧蔵書とともに現在大英図書館に保存されている。

『道中回文絵図』(延宝頃刊、小本、二冊)、

『元禄改今様道中付』(元禄三年刊、豆本、一冊)、

『江戸道中記』(貞享三年刊、横小本、一冊)、

『江戸道中記』(同四年刊、同上、一冊)などがあり、また、

『家内重宝記』(元禄二年刊、横小木、一冊)の中の「日本国諸道中」の部にはケンペルの書入れが多くあり、この書はケンペルも最も重宝にしていたことを窺いうるという(川瀬一馬氏「大笑図書館のケンペル将来本」、『書誌学』復刊新三十五二八号所収)。ケンペル将来本の中には、また、江戸・京都・大坂・長崎の地図や日本国太絵図の類も各種含まれている。これらはほとんど寛文~元禄期の刊行物で、この時代のベストセラーズであった。こうした旅行実用書の出版の盛行にも、庶民的交通の発展状況が窺われる。

 庶民的交通の発展状況を書いたものといえば、何といっても西鶴の『日本永代蔵』であろう。西鶴は三井九郎右衛門・藤市・川端九助ら寛文―元禄期の新しい人間像の典型を描くとともに、上方商人が東国・北国に乗り出して出店経営や鋸商いで成功する話(巻三「紙子身袋の破れ時」、巻四「祈る印の神の折敷」)を語る。さらに、北国市場の開拓で重荷な役割を果たしているのは海運の発展であることをくり返し指摘している。

 

 こうした交通諸関係の画期的な発展が、芭蕉の時代の旅をとりまく歴史的環境であった。

 しかし反面、元禄絹江これまで伸展の一途をたどって来た庶民の生活にさまざまなかげりのでる時期でもあった。尾形功氏は、大和の治の弾圧政策、天和飢饉の惨状、そこからくる時代相の暗さ、人心に与えた打撃の深さ―こうした中でこそ「芭蕉・西鶴らの人間凝視の文学」が展開すると指摘されている(「元禄文学の成立 概説」、有斐閣選書『近世の文学』)。たしかに寛文・延宝年間の全国商品流通の活性化現象は、天和の大飢饉の中でかげりをみせ、綱吉政権三十年間に改易・減封に処せられた大名が四十六家、没収された領地百六十万石余、改易・滅封をうけた旗本百余家という徹底した強圧政策の中で、街道筋の旅の雰囲気も変化してきたであろう。さらに重要なことは、宿場の困窮と、助郷役の過重負担で街道に近い農民の生活の困窮とが同時に道行しはじめたことであろう。心ともと宿場の設置は幕藩の政治的必要にもとづいてなされた心ので、宿場自体過重な負担をおしつけられていたのである。その負担を助郷農民に転化していく構造があるかぎり、寛文・延宝期に完成の域に達した交通施設は、それ以上の繁栄をとげることはむずかしい。あとは飯盛のような風俗営業でカバーし、表面の華やかさと陰の貧困とのギヤップをひろげていくことになるのである。

 貞享元年八月、芭蕉が富士川の辺で開いた捨子の哀れげに泣く声は、かげりのでた街道筋O旅の雰囲気の象徴であった。

  ……近畿大学教授・日本史……


元祖團十郎傳并肖像  近世奇跡考(山東京傳) 

2023年09月08日 07時14分24秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

一、元祖團十郎傳并肖像  近世奇跡考(山東京傳) 

江戸の俳優初代市川團十郎は、堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯、江戸に生る。重蔵は下総国成田の産、【割註】或云、佐倉幡谷村の産、役者大全に云ふ市川村」なり。江戸にうつり住。曾て任侠を好み、幡随院長兵衛、唐犬十右衛門と友たり。團十郎生れて七夜にあたる日、唐犬十右衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよし、【割註】今の白猿ものがたりぬ」初名を段十郎とよび、後に團十郎に更む。曾て俳諧を好み、奮徳翁才麿の門人となり俳號を才牛といふ。延寶のはじめ、和泉太夫金平人形のはたらきを見て、荒事といふことをおもひつきたるよし、【割註】『侠客傳』に見ゆ。」延寶三年五月、木挽町山村座、凱歌合曽我といふ狂言に、曽我五郎の役を始てつとむ。【割註】時に二十五才。」延寶八年不破伴左衛門の役を始てつとむ。【割註】時に三十才。」衣裳の模様、雲に稲妻のものずきは、稲妻のはしまで見たり不破の関 といふ句にもとづきたるよし、『江戸著文集』に見ゆ。貞享元年、鳴神上人の役を始てつとむ。【割註】鳴神を堕落さする女の名を、雲の絶間なづけしは、團十郎おもひつきたるよし、これらを以て其才の秀でたるをはかり知るべし。 元禄七年、六年、京にのぼり、同十年に江戸に下れり。【割註】貞享五年『役者評判記』「野郎立役二町弓」といふ書に、左のごとくあり。

○此ころのひょうばん記は、おほく半紙本なり。位付まし。元禄末横切本となり、位付あり。 此市川と申すは、三千世界にならぶなき、好色第一のぬれ男にて、御器量ならぶものなし。丹前の出立ことに見事なり。せりふ天下道具なり。およそ此人ほど出世なさるゝ藝者、又とあるまじ。實事悪人、その外何事をいたされても、おろかなるはなし。ことに学文の達者にて、仕組の妙を知らぬものなし。當世丹前役者の元祖、お江戸においてかたをならぶるものあらじ。威勢天が下にかゞやき、おそらくは末代の役者の鏡ともなるべきと、すゑずゑなほもやり玉はん。歌に、   

市川の流れの水もいさぎよく悟りすました藝者哉 

予おもふに、末代の役者鏡ともなるべきと、貞享の頃よりかきおきしは、役者の未来記ともいふべし。

○貞享年中印本(舞曲扇 )江戸狂言作者 玉井権八 南瓜與惣兵衛 宮崎傳吉 市川團十郎 かくのごとく、作者のうちにもかじへぬ。安るに、貞享、元禄中の狂言、團十郎の作おほし。 

○『江戸真砂』に云、(寛延中の写本なり) 

元禄年、勘三郎座にて、團十郎荒園の役、切り狂言に鍾馗大臣に成て、大當りせしが、その姿をゑがき、鍾馗大臣團十郎とよびて、ちまたを賣りありく、おのれ七八才の頃、めづらしく、五文ヅツに買ぬ。それよりやゝ役者繪はやりいでぬ。 

○團十郎、元禄十七年(改元宝永)二月十九日死。享年五十四才。芝三縁山中常照院に葬る。法名譽入室覺榮。 

○柳塘館蔵本に、宝永二年印本『宝永忠信物語』と云ふ、草紙五冊あり。これ團十郎一周忌追善の書なり。市村竹之丞芝居、八島壇之浦の仕組、忠信四番續の狂言に、團十郎、次信の役をつとむるうち、二月十九日五十四才にて身まかる。幼名を舛之助といひしよし見えぬ。然則星合十二段といふ狂言の時死せしと云ふ説は非歟。 

○元祖團十郎實子、二代團十郎栢莚が傳は、あまねく人のしれる事なれば、こゝはもらしつ、今巳に名跡七代におよぶは、誠是俳優の銘家と云べし。 一、小佛峠怪異の事  梅翁随筆(著者不詳) 肥前国島原領堂津村の百姓與右衛門といふもの、所用ありて江戸へ出かけるが、甲州巨摩郡龍王村の名ぬし傳右衛門に相談すべき事出来て、江戸を旅立て武州小佛峠を越て、晝過のころなりしか、一里あまり行つらんとおもひし時、俄に日暮て道も見えず。前後樹木茂りて家なければ、是非なく夜の道を行に、神さびたる社ありける。爰に一宿せばやと思ひやすみ居たり。次第に夜も更、森々として物凄き折から、年のころ二十四五にも有らんと思ふ女の、賤しからぬが歩行来り、與右衛門が側ちかく立廻る事数度なり、かゝる山中に女の只壹人来るべき處にあらず。必定化生のものゝ我を取喰んとする成べしと思ひける故、ちかくよりし時に一打にせんとするに、五體すくみて動き得ず。こは口惜き事かなと色々すれども足もとも動かず。詮かたなく居るに、女少し遠ざかれば我身も自由なり。又近寄る時は初のごとく動きがたし。かくする内に猶近々と寄り来る故、今は我身喰るゝなるべし。あまり口おしき事に思ひければ、女の帯を口にて確とくわへれば、この女忽ちおそろしき顔と成て喰んとする時、身體自由になりて脇ざしを抜て切はらへば、彼姿はきえうせていづちへ行けん知れず成にける。扨おもひけるは、此神もしや人をいとひ給ふ事もあらんかと、夫より此所を出て夜の道を急ぎぬ。其後は怪数ものに出会ずして、甲斐へいたりぬとなり。 

一、槍   本朝世事談綺正誤(山崎美成)  

【頭注】の部 甲斐名勝志四ノ十一オ、上野城跡、近比此地より、掘出せし槍、里人秋山何某が家に有。其銘に、文暦元年(1234)八月日竹光作レ之とあり。文暦は四條院の御宇にて、鎌倉北条泰時の比なり云々、下略。 

一、挟箱   本朝世事談綺正誤(山崎美成)  

【頭注】の部 挟竹にて馬乗の人を打落せしこと見ゆ。甲陽軍艦巻二十七。 一、素堂 『俳聯』  本朝世事談綺正誤(山崎美成)