伊藤生更の歌碑 甲府の夢見山中腹にある
<著者 奥山正典氏 >
北の方より駒 鳳凰 農島と我が目を移す雪の高山 生更
この歌碑は昭和三十八年六月十六日、甲府の夢見山の中腹に建立され、同日除幕式が行われた。裏面に「歌誌美知思波発刊三十周年と山梨県文化功労者伊藤生更生誕八十年を慶び門流一同これを建つ。
英知思波短歌会。昭和三十八年六月」とある。
除幕式は雨のため、甲府市立春日小学校講堂に移され、「美知思波」会員のほか、来賓として、知事代理田中県開発部長、中村星湖、許山茂隆氏等が見えられ、中村星湖氏は手づくりの杖に
「手づくりのあららぎの杖ささけまつる 八十瀬を越ゆるうた人君に」
の一首をそえて先更翁に贈られ、しみじみとした場面もあった。 「万」は「かた」と読む。
さて、先更翁は、昭和元年短歌結社「アララギ」に入会、斎藤茂吉が昭和二十八年に亡くなるまで、茂吉を絶対の師と仰ぎ、万葉を宗とする。真実一路の作歌道に終始した。昭和十年、組歌話「美知恵波」を主宰創刊し、その詠風は、荘重・枯淡・純素、県内外の六百五十名に及ぶ後進の育成に努められ、今日、全国の短歌誌でも十七、八位の会員を擁する結社の基礎づくりをしたのである。
この一首は、生更翁が散策のコースとして、こよなく愛した夢見山から、甲府盆地の北西にそびゆる駒ヶ岳、鳳凰山、農鳥岳を眺望しての自然詠で、見たまま、感じたままを、平明率直に詠じて、雪の高山の荘重、峻厳美を表出し、作者の心の姿勢までもうかがえる。生史前は生前「我が目を移すとした所に現実感があるのだ」と申され、その著「茂吉秀歌の鑑賞」「作歌道」などで、「客観は主観に即(つ)く」という歌論、芸術論を唱道されたが、これらを裏づける作品といえる。翁は歌集「草谷」「柴山」「山雲」「甲斐の国」を残し、昭和四十七年七月二十七日、八十八歳で他界される。
山梨県の著名人 相川 勇
食糧増産ひと筋 境川村出身 明治26~昭和36
日本大学卒 大正三年、農林省蚕糸試験場入り、
十一年、佐賀県庁、十一年山梨県庁入りして農業関係を歴任、
昭和十七年食糧増産のため満州に渡って山梨県報国農場長。
太平洋戦争後は県引揚者援護会長、二十二年から境川村長二期、
山梨県議会議員一期。二十四年村診療所設立、
二十五年山梨日日新聞社の新十景・新十勝に坊ケ峰を売り込む。
山梨県の著名人 穐(あき)山 篤
参議院議員(比例代表)甲府市出身 昭和2年生れ
旧制甲府工業卒 昭和十九年国鉄入口へ以来労働運動を続け、
五十工年、国鉄労組副委員長から参議院議員全国区に当選、
五十八年比例代表で再選。参議院環境問題特別委員長として都市の緑化に活躍、五十四~五十八年日本社会党山梨県本部委員長。
山梨県の著名人 秋山 幸一
山梨県議会議員 韮崎市出身 大正13年生れ
円野青年学校卒 昭和二十三年秋山商事創立、運送会社・温泉経営、
元韮崎市議会議員。四十七半紺綬褒章受章、県砂利工業組合副理事長。
山梨県の著名人秋山 真男
タバコ・生糸の改良者 市川大門町出身 明21~昭52
東京帝国大卒 平和館秋山製糸・岐南木工元社長、
大正六年東洋拓殖と朝鮮総督府の特命で北南米、マレー半島などを視察。
朝鮮でのトルコタバコの栽培を成功させる。
十一年、甲州製糸社長となり、山梨製糸業組合長、日本製糸協会常任理事と
して…東の秋山、西の有馬…といわれるほど蚕糸業に貢献。
山梨県議会議員など歴任。
山梨県の著名人 穴水 要七
元衆議院議員 旭村(韮崎市)出身 明8~昭4
明治三十四年横浜に出て,米穀、肥料・食塩商を営み、
上京して富士製紙その他の役員として実業界に雄飛、
大正七年衆議院議員補欠選挙に当選、政友会総務として活躍。
旧姓小野で甲府の穴水家の養子。
山梨県の著名人 天野 建
石和町長 大月市出身 昭3生
国立無線電信講習所高等科中退、昭和三十三年笹一酒造専務、
三十九年石和温泉病院理事長、五十四年から石和町長二期目で、
場外馬券場誘致の賛否問題を抱える。天野久元知事の三男で尺八師範。
山梨県の著名人 天野 重知(しげのり)
入会権闘争リーダー 忍野村出 明42生
都留中(都留高)卒 富士山自動車社長、忍草入会組合長。
富士山自動車の敷地(山梨県有地)は県から明け渡し訴訟を提起され、
五十六年一審敗訴。北富士演習場の入会権擁護闘争では忍草母の会などを支援
して…天野天皇…といわれるほどの指導力を発揮。太平洋戦争中、軍や警察の輸送機関統合に反対して何度も留置場入り、その時着用していた紺の国民服が闘争時のトレードマーク。
山梨県の著名人 天野 久
山梨県知事の在任記録者 塩山市出身
明23~昭43 高等小卒 田辺酒造店支配人から
大正九年、北都留郡笹子村吉久保(大月市)に酒造会社を創設、
太平洋戦争後笹一酒造に改編。
昭和二十六年知事に当選して以来、連続四期十六年間、官・公選時代を通じて
山梨県での最長在任記録。
この間…富める山梨…を標榜して野呂川林道(南アルプス林道)、早川電源開発、笹子トンネル・御坂トンネル・富士山容有料道路の開設など県士開発に力を入れた。
田辺酒造酒時代、田辺七六元政友会幹事長の影響を受ける。
民主党から衆議院議員に当選三回、建設政務次官など歴任。
山梨県の著名人 網倉 平輔
元貴族院議員 塩崎村(双葉町 現甲斐市)出身
明3~昭22 専修大卒 峡北地方大地主。北巨摩郡会議員三期、
塩崎村長など歴任、民政党に属し大正四年貴族院議員に当選。
山梨県の著名人 石橋 湛山(たんざん)
山梨県から唯一の首相 増穂町出身
明17~昭48 早稲田大卒 大正十三年、東洋経済新報社主幹・社長、
昭和二十一年、以来衆議院議員当選六回、
大蔵大臣、経済安定本部長官、通商産業大臣などを歴任、
三十一年暮れ総理大臣となったが病を得て翌年早々辞任、
辞は政治家の出所進退の鑑として賞揚。日本国際貿易促進協会総裁、
立止大学名誉学長などを歴任。
父、杉田日布は久遠寺第八十一代法王・日蓮宗管長。
山梨県の生んだ唯一の総理大臣で経済学者、
「石橋沢山全集」「日本経済の針路」などの著があり。
石橋湛石記念財団の手で五十五年から石橋湛山賞を制定。
勲一等旭日大授章受章。
山梨県の著名人 今井 新造
剣道代議士 甲府市出身 明27~昭37
甲府中(甲府第一高)卒 大正六牛甲府市青年団の初代団長、
甲府革新党の創立に参画、昭和二牛年以来山梨県議会議員三期のあと、
十一年から衆議院議員三期。
少年のころから剣を川崎善三郎、島田喜之助、中山博道らに学び範士七段。
斎藤隆夫代議士の粛軍演説には除名を主張する立場をとるが、戦後は一切の公職を辞し、政運ひと筋。
山梨県の著名人 上野 孝作
ロス上山梨の橋渡し 山梨市出身 明治15~昭和39
サンフランシスコ公学校卒、明治三十三年移民として渡米、
サンフランシスコで三年間学んだのち、
同郷出身の鈴木徳治と美術店を共同経営、ロサンゼルスヘ進出して総支配人。太平洋戦争後、オリエント協会を創立、
山梨県海外協会副会長として山梨県からの商業実習生十散人を引き受け訓育。
山梨県の著名人 内田 常雄
元厚相:自民党幹事長 甲府市出身 明40~昭53
東京大卒 大蔵省管財局長を最後に官界から政界に転じ、
昭和二十七年から衆議院議員に当選九回。
通産・科学技術庁政務次官、衆議院商工・大蔵各常任委員長を歴任、
厚生大臣、科学技術庁長官就任。
自由民主党の党務では国会対策副委員長、税務調査会長などを歴任し、
五十一年三木武夫総裁のもとで幹事長。
政権政党の幹事長は、
山梨県人としては昭和十四年政友会の田辺七六(塩山市)以来。
経済閣僚としては第一次石油ショック後の混乱収拾に働き、銀行
預金の歩積み両建て割に批判的だった。
党内では…鵞鳥 ガチョウ…といわれるほどの弁舌は時に国会答弁などで「一言多い」の声も。生家は甲府の旅館、珠美公園に五十八年銅像が建てられた。
山梨県の著名人 大崎 清作
元衆議院議員 甲西町出身 明9~昭32 陸軍砲兵工科学校卒
明治四十年東南湖の村松家から東京・白山の大崎家の婿養子に。
小石川区会議員から東京市議会議員四期。
昭和三年から衆議院議員三期、政友会に属し野呂川疎水反対運動に活躍。
製材・製水会社社長。
山梨県の著名人 大柴 滋夫
民主社会連合副代表 明野村出身 大6生
早稲田大卒 昭和二十年日本社会党結党に参加、
二十五年党中央委員、二十八年組織部長、三十九牛国民運動局長、
四十三年選挙対策委員長、
五十二年離党して阿部昭吾らと社会民生連合を結成、
五十八年、田 英夫代表のもとで副代表。東京二区から衆議院議員当選五回。
山梨県の著名人 大森 慶次郎
元貴族院議員 南八代村(八代町)出身 明4~昭37
早稲田大卒 大地主の長男で、甲府に大森銀行を創立して頭取に就任。
明冶二十三年、貴族院多額納税者議員互選人となり、
大正七年貴族院議員に当選。
山梨県の著名人 岡 三郎
元参議院議員 一宮町出身 大正3生
山梨師範卒 昭和八年、日野原小・藤井小訓導
二十八年、日本教職員組合執行委員長から日本社会党中央委員
・教育制作調査特別委員長、
神奈川県本部委員長は十選で、日本民主教育敢冶連盟全国会長。参議院議員は二十九才から三期連続。ILO日本労働主席代表ののち日本墓園理事。
山梨県の著名人 荻野豊平
元衆議院議員藤田村(若草町)出身 明24~昭36
甲府中(甲府第一高)中退 家業の士仕業荻野組を興して甲府市へ移転、
昭和十一年から山梨県議会議員三期で議長。
太平洋戦争中の大政翼賛会山梨県中央協力会議長の時、
二十二年公職追放となるが二十六年解除、二十七年から衆議院議員二期。この聞、県建設業協会会長、県小中学校PTA連合会会長。
山梨県の著名人 小野 光洋
元参議院議員 石和町出身 明33~昭40
立正大卒 大正十三年、大正新修大蔵経刊行会入り、立正学園石川台高女校長から立正学園理事長、
昭和二十一年、日本私立中学高校連合会理事長となり、
翌年自由党から参議員全国区に当選、二十三年文部政務次官。
立正大理事長・立正学園女子短期大学長在任中に死去。
芭蕉の時代の旅はどんなものだったか(商業史・交通史から)
今田洋三氏(こんた・ようぞう)著
『国文学』「奥の細道とは何か」平成5年刊
学燈社5月号 第34巻6号
一、遥なる堤を行
芭蕉と曽良は、北上川沿いに北上し
「袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱原などよそめにみて、遙なる堤を行」ったのである。二人の眺め、かつ、歩いた「逼なる堤」こそ、当時の伊達領内の経済開発の象徴であった。それはまた、十七世紀日本の新田大開発時代のもたらした新しい景観であった。
すでに二人は
「数百の廻船入圧につどひ、人宮地をあらそひてかまどの煙立つづけ」
ている石巻の繁栄を眺めた。
こうした石巻のにぎわいも伊達領の径済のあり様を示すも右のであった。
斎藤月界『武功年表』寛永九年(一六三二)の条に、「『諸宮原秘録』に云ふ、
今年より奥州仙台の米穀始めて江戸へ廻る。今に江戸三分の二は奥州米の由なり」とある。江戸入津の米のうち奥州米が三分の二とはやや過ぎた表現であるが、仙台からの米の輸送が江戸の食糧事情に大きくかかわっていたのである。同時に、仙台藩の財政は江戸廻米によって保たれていたともいえる。
伊達政宗以来、仙台藩は領内の米の大増収をねらって、水田開発と川筋改修を進めたのである。かつての北上川は追波湾のほか石巻にも流下し、しかも流路がしばしば変わっていた。改宗は、測量・土木技術にくわしい長州出身の川村孫兵衛重吉なる人物を登用し、川筋を改修した。同時に石巻を一大河口港としたのである。
一方で家臣に野谷地(原野)を与えて開発させた。家臣たちは開発によって知行地からの収入を確保できるしくみであった。仙台だけでなく、十七世紀東北は方々の藩で知行取家臣による新田開発事業が進展したのである。藩直営の新田開発も進められ、伊達領内の平背部には用水路や運河が聞かれた。各地に新田村ができ、広大な田園風景が現出したのである。
芭蕉・曽良がたどった北上川沿いの遙かなる堤は、そういう意味で十七世紀東北における大開墾時代の象徴だったのである。
こうした新田開発・河川改修は関東・東北はもちろん全国で目ざましく進展し、十七世紀末の総耕地面積と米の総収量は、十六世紀末の秀吉の時代と比べるとほとんど倍増し、それにともない人口も急増したのである。
こうした生産力の大発展は、農民の家族形態、生活のあり方の変化と相関していた。中世の複合大家族の解体が進んで、夫婦と子供たちを基本メソバーとする直系小家族が一般化した。複合大家族の場合は、家長権力のもとに傍系親族が従属させられていたが、十七世紀に、この傍系親族の自立が進んだのである。それだけに家族毎の労働意欲、生活・生産の工大が向上し、新しい商品作物の栽培、農具類の発明・改良が進んだ。こうした庶民の生活力の向上は、まず上方で目ざましく現われ、芭蕉の時代、つまり寛文~元禄期に東北地方まで及び、商品流通は全国化したのである。
物的人的移動の活性化に加え、情報の流通有また全国化した。日本社会は交通諸関係の躍進の時代に入ってきたのである。
俳諧を楽しむ地方俳人の続出や、俳諧撰集入句者の全国的の広がりより、こうした交通諸関係の躍進の文化的現象にはかならない。芭蕉の旅はこうした情況をふまえ、かつこの現実を超越する形で芸術化されたのである。
二、都にも折々かよひて
出羽国村山郡は、むかし俗に「最上」とよばれた。文芸・経済の資料中に最上とでてくると最上郡と解する人もいるようだが、ちょっと注意を要する。最上郡・村山郡あわせて、大づかみに最上と称する場合が多かったのである。上方人には、最上といえば紅花・青苧の産地として、また米どころとして知られ、繰綿・古着・茶・農具などの売弘め先であった。酒田港から最上川をさかのぼると最上に出る。そこは大石田の河岸があり、尾花沢・谷地(やち)・天童・寒河江などの在郷町が、城下町山形とはり合ってしる、豊饒の地と見えていたのである。
西鶴は世之介を酒田に逗留させ、さらに寒河江にかつての心友を尋ねさせたりもしている。
尾花沢の鈴木清風は、地元最上で金融によって利益をあげ、青草・紅花の集荷・出荷で活躍していた。
「富める者なれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知る者」
と讃えられている。折々かよった都とは、京都か江戸か。そのいずれにも出かけたであろうが、紅花問屋の有力なのは京都、青草の需要の多いのは奈良晒(さらし)・近江晒の原料としてであったから、やはり出かけたのは京都の方が多かったであろう。残念ながら旅行の記録は残していない。
延宝年間、奈良西大寺の弥勒菩薩像修理に当たって、最上の商人と奈良の商人たちが協力して修理費用を献納した。修理完成に当たって、費用献納結縁の人々の名簿が弥勒像の胎内に納められたのである。先年発見されたその名簿には、出羽・奈良の商人とその一族の者のほか、敦賀・海津・大津などの荷揚げ問屋や馬指(人馬組立の差配に当たる宿場役人)の名前なども記されている。この結縁者名簿には清風は入っていないが、最上・上方間の荷物輸送や商用の旅には、港町や宿場の人々との親しい人間関係が伴っていたことが窺われるのである。
十七世紀目本の旅は信用と安全に裏うちされていたともいえよう。もちろんその背後に
は、幕府の全国支配体制の瀧立のためにとられた交通組織と交通路の整備の政策もあった。
清風は俳諧撰集三部……『おくれ双六』『稲亘』『一橋』……を世に出したが、とくに『稲莚』には入句者の住所が肩書きされているので、清風の直接・間接の俳友の分布をたどることができる。その分布は上方・関東はもとより中国・九州にまで及んでいるが、奥州街道の宿駅…桑折・須賀川・白河・宇都宮などの俳人の句が納められ、なかでも須賀川の等躬の句十一句も採用され、清風・等躬の親密な間柄が窺える。酒田の不玉・不白と芭蕉を歓待した俳人、さらに、加州金沢の一笑・北枝・万子・流志・牧童らの句が多いのも、清風の経済的文化的交通ルートを示すものであろう。
近江・美濃・伊勢の商人が東北各地に行商の形で進出し、また出店経営で東北市場に活気を与えつつあった。家業で忙しい清風に代って芭蕉を接待した素英(村川伊左衛門)は「尾花の系譜」(星川茂彦氏『芭蕉と清風』所収)では伊勢出身とされる。清風の俳諧連衆の中には、同じく伊勢出身と考えられる三井宗知(宗智・崇知とも)・村川残水がいる。宗知・残水は芭蕉には会わなかったが、大淀三千風の『松島眺望集』『日本行脚文集』等に見えている。
三千風は伊勢飯野郡射和村の三井家の出である。岡本勝氏の『大淀三千風研究』によれば、三井宗知は三千風の次兄と判断され、最上に出店を経営していた者という。残水は通称村川九郎兵衛で、三千風のすぐ上の兄(つまり宗知の弟)で、村川家に養子に入り、最上楯岡に店を構えていた者と考えられるという。しかも、芭蕉を接待した素英は村川残水の子ではないかと岡本氏は推定している。三千風は仙台に十五年間とどまり、天和三年(一六八三)から元禄二年(一六八九)の七年間に、東北・近畿・中国・九州を巡歴したが、天和三年はまず秋田へと歩を進め、角館では村川残本宅に泊っている。貞享三年会津から最上へと北上した時には尾花沢で残水・宗知らと俳席をもっている。残水は秋田・最上にまたがる商圏をもって、伊勢商品(茶・木綿など)の販売と出羽商品(紅花・青草・魁)の集荷に活動していた者といえよう。
清風連衆の中には谷他の年玄(田宮五右衛門)なる人物がいた。かれの竹馬の友に章山なる人がいて、その父は福田四郎左衛門といい、伊勢山田の商人で最上谷地に留まった人であった。年玄・章山が少年の頃ともに学んだ師が松本一笑軒という先生で、この松本氏は近江日野の出身であった。年玄の家は三十余名の使用人をもつ豪商であり、谷地は紅花の集荷拠点の一つ、松本氏は近江商人に連がりのある人でもあったであろう。なお章山は長じて本拠を京都に移して、谷地との間を往来し、その養嗣子が伊勢屋理右衛門と称して京都紅花問屋仲間の有力者となったのである(今田信一氏『河北町の歴史』上巻)。
十七世紀最上地方の商人のうち、有力な途中は山形城下でも在郷町でも、近江・伊勢を出身地とする者が多いのである。かれらの発展期は寛文~元禄期であり、ちょうど芭蕉の時代なのであった。
酒田も上方・伊勢など各地の商人の活動拠点であった。西鶴の『日本永代蔵』巻二「舟人馬かた鎧屋の庭」には、大問屋鎧屋惣左衛門の繁昌ぶりとともに泊客の旅商人たちの形気が活写されている。
酒田に至った芭蕉を迎えた人びとの中に詮道寺島彦助かいた。藤井康夫氏の示唆に富む見解(藤井氏「随筆寺島彦助」、酒田古文書同好会『方寸』第一号所収)によれば、詮道は尾張鳴海の知足(下垂勘兵衛、法号康照)の俳諧連衆、業言(寺島伊右衛門安規)・安信(寺高高右衛門)の同族ではないかという。
業言寺島氏は鳴海の本陣を経営する者で、知足の母永彦尼の弟である。嘉右衛門安信は業言の分家である。芭蕉は元禄二年六月十九日、不玉邸において、杉風・寂照・越人宛ての書状を書いて、江戸に赴くという彦助に托した(『曽良旅日記』。彦助が寂照・越人宛ての手紙を托された事情は、鳴海寺島氏の出身と解することによって、はじめて無理なく理解されるというのである。
藤井氏は、八月十六日伊勢長島の大智院に曽良を訪ねた何人かの人の中に「寺助」がいるが、これは寺高音助ではないかと考えている。寺昌彦助は、元禄二年当時、酒田において何をしていたのか明確でないが、幕府差廻しの浦役人として酒田にあったと解されている。とすれば、寛文十二年の西廻航路の整備に功のあった河村瑞軒に関係ある者で、酒田に定着するに至った者かも知れぬ。なお、清風の『稲菰』に尾州寺嶋安通なる人物の句が一句人っているが、この安通も、鳴海寺島氏であり、寺島蛮的ゆかりの者であろう。
六月十六日、芭蕉を追って象潟に至り、以後八日間も随身した美濃国の商人低耳は、奥筋鋸商に従事していた者で、かれもまた余程旅なれた、かつ、志いやしからぬ者であったにちがいない。酒田俳人の一人玉志(近庄屋三郎兵衛)も屋号からみて近江出身の者であろう。
このように、芭蕉のたどった奥筋いたる所に、努力と才覚で経済活動を展開し、遠い郡への旅もほとんど苦にしない、かつ旅の情を知る者たちがいて、芭蕉の旅の芸権化をささえていたのである。
三、武江東叡に属して
羽黒山・月山・湯殿山を出羽三山という。
「当寺武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頂融通の法の灯かかげ……繁栄
長(とこしなへ)にして、めで度御山(たきおやま)」であった。しかし、月山登山、湯殿参拝を実行するとは、並々ならぬ行者ぶりである。奥羽の人々の信仰世界への実践的参入というべきであろう。
奥州街道・出羽街道は、まず講大名の参勤交代往還の通路として、幕藩の必要にもとづいて経営されてきたものであったが、三山詣での道としてもにぎわいつつあった。最上谷地郷(現西村山郡河北町)大町村の念仏講(実は契約講)の記録簿「大町念仏講帳」享保十八年(一七三三)の条に、つぎのような記事がある。
今年は丑年で湯殿参詣の年である。おびただしい参詣人で白岩(現寒河江市)から本道寺ロ(湯殿山登り口の一つ)に至る村々は十年ばかり寝て食うほどもうけたそうだ。湯殿出への八日(八つの登山口)を通った人は十五万七千人だそうだ。
湯殿山は弘法大師が延暦四年(七八五)乙丑の年に関いた霊地とされる。それで丑年は湯殿山詣の年となったのであろう。風雅の旅のなかで、こうした庶民信仰にふれることがあっても当然であろう。しかし月山への登山は相当な難行である。これは並々ならぬ出羽三山への係わりというべきであろう。
芭蕉の奥筋の旅のうち、日光東照宮、平泉中尊寺、最上の立石寺、羽黒山など寺社関係で主なる巡礼先は、いずれも、当時天台宗総本山たる東叡山寛永寺の管掌の寺社である。
曽良は清水寺(せいすいじ 江戸浅草の宝聚院清水寺~寛末寺末―といわれる)の書状を日光義源院に持参し、東照宮に参拝したのであった。こうした寛末寺に係わる書状を、中尊寺・立石寺・羽黒山に提示したかどうかは、『おくのほそ道』からも『曽良旅日記』からも窺いえない。
しかし、羽黒山の場合、別当代会寛の歓待ぶりからみて、寛末寺庇護下の旅であることを示す何かがあったような気がしてならない。
貞享四年(一六八四)、奏者番寺社奉行の松平忠勝(上総佐貫城主)が
「公の紀綱をも弁知してありながら、ゆへなき下ざまの者と消息を通はしたり」
(『徳川実記』)とて改易、会津配流に処された。「下ざまの者」とは「邪法の祈祷」を行う釈了覚・光明院某であった。了覚が忠勝に、八月二十八日は何か大事あるべしと予言をしてみせたが、果してこの日江戸城内で大老堀田正俊刺殺事件が起きた。忠勝は、羽黒山に行っていた了覚に、予言的中を告げ、足下の予言は今後も頼母しく思っているとの手紙を書いて、寛永寺の羽黒向け使に入れてもらおうと依頼した。
かねて了覚に不審をもっていた寛永寺宿坊の者がこの手紙を内見して公儀へ届け出たのである。この結果、忠勝は改易、了寛らは八丈遠島となった。了見とはいかなる人物か、羽黒山と了覚とはいかなる関係にあるのか不明だが、羽黒山にとっては迷惑な事件であった。羽黒山としてもいついかなることで将軍の逆鱗にふれるかわからない。
この事件の噂は広く江戸町方まで流れ(戸田裳茂睡「御当代記」、寺社問題にくわしい曽良が知らなかったわけがない。
しかるに羽黒山で芭蕉は別当代会覚の頼みに応じて天宥府法印追悼の文を書いたのである。天宥法印は羽黒山第五十代別当として羽黒中興に功のあった傑僧である。しかし、庄内藩酒井家との対立、山内の分裂等さまざまな問題を起こし、寛文八年(一八六八)伊豆大島に流され、許されることなく病没した。
こうした人物を一介の俳諧師が追悼するとは、綱吉時代には危険なことであったに違いない。芭蕉には一介ならざる何かがあったのではないか、つまりは東叡山の何らかの御墨付を示しうる旅ではなかったかと考えたくなるのである。
田中丘隅は川崎の村役人であったが吉宗によって幕吏に抜擢された者である。その著『民間省要』の中で、東海道中の権柄では東叡山関係の一行ほど怖いものはないといっている。東叡山の札は街道筋では絶大な威力をもっていた。もとより芭蕉がこれをもって奥羽を旅したかどうか、それは不明である。しかし宗教界に詳しい曽良であれば、師の安全のために配慮する所があって当然の気もするのである。
芭蕉らは羽黒山でさまざまな人と会った。近江飯道寺の憎円入、京都の観修坊釣雪、南部殿御代参の憎珠妙などで、俳諧興行を共にする機会をもっている。ほかにも羽黒山には諸国の旅憎が逗留していたであろう。
この時代の寺院・宗教界は本末・師檀、そのほかさまざまな関係で、一大ネットワークを作っていたのである。有力寺院の荷物の宿場継立は、有力大名の荷物と同じように優先であった。特定寺院と係わりのある民間人が、寺院のもつ交通機能をうまく利用して、商用の荷物等を送ったりすることもあったろう。寺院交通網は経済的交通網と補いあって、この時代の交通を支える有力なシステムであった。
四、捨子の哀げに泣あり
オランダ商館医師ケンペルは元禄四年(一六九四~同五年の二度、カピタンの江戸参府旅行に随行し、詳細な旅行記録を書いている。おそらくこの記録は芭蕉時代の旅について最も詳しく言かれたものであろう。しかし監視付き外国人の書いたものであるから、旅における庶民の姿はあまり窺いえない。ただ、ケンペルは日本の一般の旅行者は「扇面に里程や宿屋や食物の値段等が旅行案内書のように刷り込んである道中扇子を使用する。道中、往来で物乞いする子供らが、この扇面に書いてあるような事柄を記した小さな本を廉い値段で売りつける。だが外国人は、少なくとも公然とはこの種の案内書を買うことを許されない」
といい、また
「旅人は、つぬに仮刷りの道中案内記を携行し、どこにどんな名物があり、どこで最もいいものを最も廉く食べられるかを調べ」るともいっており(ケンペル『日本誌』)、この時代道中記出版の盛行を語っていて面白い。ケンペルは、日本研究の資料として、道中案内記の類を集め持ちかえっていた。それらは、ほかのケンペル旧蔵書とともに現在大英図書館に保存されている。
『道中回文絵図』(延宝頃刊、小本、二冊)、
『元禄改今様道中付』(元禄三年刊、豆本、一冊)、
『江戸道中記』(貞享三年刊、横小本、一冊)、
『江戸道中記』(同四年刊、同上、一冊)などがあり、また、
『家内重宝記』(元禄二年刊、横小木、一冊)の中の「日本国諸道中」の部にはケンペルの書入れが多くあり、この書はケンペルも最も重宝にしていたことを窺いうるという(川瀬一馬氏「大笑図書館のケンペル将来本」、『書誌学』復刊新三十五二八号所収)。ケンペル将来本の中には、また、江戸・京都・大坂・長崎の地図や日本国太絵図の類も各種含まれている。これらはほとんど寛文~元禄期の刊行物で、この時代のベストセラーズであった。こうした旅行実用書の出版の盛行にも、庶民的交通の発展状況が窺われる。
庶民的交通の発展状況を書いたものといえば、何といっても西鶴の『日本永代蔵』であろう。西鶴は三井九郎右衛門・藤市・川端九助ら寛文―元禄期の新しい人間像の典型を描くとともに、上方商人が東国・北国に乗り出して出店経営や鋸商いで成功する話(巻三「紙子身袋の破れ時」、巻四「祈る印の神の折敷」)を語る。さらに、北国市場の開拓で重荷な役割を果たしているのは海運の発展であることをくり返し指摘している。
こうした交通諸関係の画期的な発展が、芭蕉の時代の旅をとりまく歴史的環境であった。
しかし反面、元禄絹江これまで伸展の一途をたどって来た庶民の生活にさまざまなかげりのでる時期でもあった。尾形功氏は、大和の治の弾圧政策、天和飢饉の惨状、そこからくる時代相の暗さ、人心に与えた打撃の深さ―こうした中でこそ「芭蕉・西鶴らの人間凝視の文学」が展開すると指摘されている(「元禄文学の成立 概説」、有斐閣選書『近世の文学』)。たしかに寛文・延宝年間の全国商品流通の活性化現象は、天和の大飢饉の中でかげりをみせ、綱吉政権三十年間に改易・減封に処せられた大名が四十六家、没収された領地百六十万石余、改易・滅封をうけた旗本百余家という徹底した強圧政策の中で、街道筋の旅の雰囲気も変化してきたであろう。さらに重要なことは、宿場の困窮と、助郷役の過重負担で街道に近い農民の生活の困窮とが同時に道行しはじめたことであろう。心ともと宿場の設置は幕藩の政治的必要にもとづいてなされた心ので、宿場自体過重な負担をおしつけられていたのである。その負担を助郷農民に転化していく構造があるかぎり、寛文・延宝期に完成の域に達した交通施設は、それ以上の繁栄をとげることはむずかしい。あとは飯盛のような風俗営業でカバーし、表面の華やかさと陰の貧困とのギヤップをひろげていくことになるのである。
貞享元年八月、芭蕉が富士川の辺で開いた捨子の哀れげに泣く声は、かげりのでた街道筋O旅の雰囲気の象徴であった。
……近畿大学教授・日本史……
一、元祖團十郎傳并肖像 近世奇跡考(山東京傳)
江戸の俳優初代市川團十郎は、堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯、江戸に生る。重蔵は下総国成田の産、【割註】或云、佐倉幡谷村の産、役者大全に云ふ市川村」なり。江戸にうつり住。曾て任侠を好み、幡随院長兵衛、唐犬十右衛門と友たり。團十郎生れて七夜にあたる日、唐犬十右衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよし、【割註】今の白猿ものがたりぬ」初名を段十郎とよび、後に團十郎に更む。曾て俳諧を好み、奮徳翁才麿の門人となり俳號を才牛といふ。延寶のはじめ、和泉太夫金平人形のはたらきを見て、荒事といふことをおもひつきたるよし、【割註】『侠客傳』に見ゆ。」延寶三年五月、木挽町山村座、凱歌合曽我といふ狂言に、曽我五郎の役を始てつとむ。【割註】時に二十五才。」延寶八年不破伴左衛門の役を始てつとむ。【割註】時に三十才。」衣裳の模様、雲に稲妻のものずきは、稲妻のはしまで見たり不破の関 といふ句にもとづきたるよし、『江戸著文集』に見ゆ。貞享元年、鳴神上人の役を始てつとむ。【割註】鳴神を堕落さする女の名を、雲の絶間なづけしは、團十郎おもひつきたるよし、これらを以て其才の秀でたるをはかり知るべし。 元禄七年、六年、京にのぼり、同十年に江戸に下れり。【割註】貞享五年『役者評判記』「野郎立役二町弓」といふ書に、左のごとくあり。
○此ころのひょうばん記は、おほく半紙本なり。位付まし。元禄末横切本となり、位付あり。 此市川と申すは、三千世界にならぶなき、好色第一のぬれ男にて、御器量ならぶものなし。丹前の出立ことに見事なり。せりふ天下道具なり。およそ此人ほど出世なさるゝ藝者、又とあるまじ。實事悪人、その外何事をいたされても、おろかなるはなし。ことに学文の達者にて、仕組の妙を知らぬものなし。當世丹前役者の元祖、お江戸においてかたをならぶるものあらじ。威勢天が下にかゞやき、おそらくは末代の役者の鏡ともなるべきと、すゑずゑなほもやり玉はん。歌に、
市川の流れの水もいさぎよく悟りすました藝者哉
予おもふに、末代の役者鏡ともなるべきと、貞享の頃よりかきおきしは、役者の未来記ともいふべし。
○貞享年中印本(舞曲扇 )江戸狂言作者 玉井権八 南瓜與惣兵衛 宮崎傳吉 市川團十郎 かくのごとく、作者のうちにもかじへぬ。安るに、貞享、元禄中の狂言、團十郎の作おほし。
○『江戸真砂』に云、(寛延中の写本なり)
元禄年、勘三郎座にて、團十郎荒園の役、切り狂言に鍾馗大臣に成て、大當りせしが、その姿をゑがき、鍾馗大臣團十郎とよびて、ちまたを賣りありく、おのれ七八才の頃、めづらしく、五文ヅツに買ぬ。それよりやゝ役者繪はやりいでぬ。
○團十郎、元禄十七年(改元宝永)二月十九日死。享年五十四才。芝三縁山中常照院に葬る。法名譽入室覺榮。
○柳塘館蔵本に、宝永二年印本『宝永忠信物語』と云ふ、草紙五冊あり。これ團十郎一周忌追善の書なり。市村竹之丞芝居、八島壇之浦の仕組、忠信四番續の狂言に、團十郎、次信の役をつとむるうち、二月十九日五十四才にて身まかる。幼名を舛之助といひしよし見えぬ。然則星合十二段といふ狂言の時死せしと云ふ説は非歟。
○元祖團十郎實子、二代團十郎栢莚が傳は、あまねく人のしれる事なれば、こゝはもらしつ、今巳に名跡七代におよぶは、誠是俳優の銘家と云べし。 一、小佛峠怪異の事 梅翁随筆(著者不詳) 肥前国島原領堂津村の百姓與右衛門といふもの、所用ありて江戸へ出かけるが、甲州巨摩郡龍王村の名ぬし傳右衛門に相談すべき事出来て、江戸を旅立て武州小佛峠を越て、晝過のころなりしか、一里あまり行つらんとおもひし時、俄に日暮て道も見えず。前後樹木茂りて家なければ、是非なく夜の道を行に、神さびたる社ありける。爰に一宿せばやと思ひやすみ居たり。次第に夜も更、森々として物凄き折から、年のころ二十四五にも有らんと思ふ女の、賤しからぬが歩行来り、與右衛門が側ちかく立廻る事数度なり、かゝる山中に女の只壹人来るべき處にあらず。必定化生のものゝ我を取喰んとする成べしと思ひける故、ちかくよりし時に一打にせんとするに、五體すくみて動き得ず。こは口惜き事かなと色々すれども足もとも動かず。詮かたなく居るに、女少し遠ざかれば我身も自由なり。又近寄る時は初のごとく動きがたし。かくする内に猶近々と寄り来る故、今は我身喰るゝなるべし。あまり口おしき事に思ひければ、女の帯を口にて確とくわへれば、この女忽ちおそろしき顔と成て喰んとする時、身體自由になりて脇ざしを抜て切はらへば、彼姿はきえうせていづちへ行けん知れず成にける。扨おもひけるは、此神もしや人をいとひ給ふ事もあらんかと、夫より此所を出て夜の道を急ぎぬ。其後は怪数ものに出会ずして、甲斐へいたりぬとなり。
一、槍 本朝世事談綺正誤(山崎美成)
【頭注】の部 甲斐名勝志四ノ十一オ、上野城跡、近比此地より、掘出せし槍、里人秋山何某が家に有。其銘に、文暦元年(1234)八月日竹光作レ之とあり。文暦は四條院の御宇にて、鎌倉北条泰時の比なり云々、下略。
一、挟箱 本朝世事談綺正誤(山崎美成)
【頭注】の部 挟竹にて馬乗の人を打落せしこと見ゆ。甲陽軍艦巻二十七。 一、素堂 『俳聯』 本朝世事談綺正誤(山崎美成)