信長甲州入り仕置 『甲陽軍鑑』品第五十八
春日惣次郎著(佐渡にて)
信長は甲府へ到着した。
かねて春から計略の廻文(回状)をまわされる。
武田の家の侍大将衆は皆御礼をいたせ、という主旨の御触れとなる。
その二月末、三月初めにかけての頃、でたらめな信長父子の書状をよこされた。それには甲州一国をそのままくれるとか、信濃半国をくれてやろうとか、あるいは駿河をくれるといった書状であって、それを信じこんだ勝頼公の御親類衆をはじめとする人々は、皆領内に引きこもっていた。
この触れを誠だと思って御礼に参上したところで、武田方の出頭人の跡部大炊助は諏訪で殺された。逍遥軒は府中(甲府)において殺される。
小山田兵衛、武田左衛門(信玄弟)、小山田ハ左衛門、小菅五郎兵衛は甲府善光寺で殺される。
一条殿は甲州市川で家康の命令により殺される。
出頭人秋山内記は高遠で殺される。
長坂長閑父子は一条殿御館(甲府)で殺される。
仁科殿、小山田備中、渡辺金太夫(高天城主)この三人は高遠の城で、織田城介の旗本に攻められて、上下の者十八人で城を維持しつつ晴れの討死となる。
また小菅五郎兵衛は今まで山県三郎兵衛の軍内では大剛の者で、長篠戦の後の御旗本へ命じられて足軽大将をつとめたほどだから、仁科殿と高遠城へさし向けられたのに、卑劣な行動があって十日以前に勝頼公の御供をするというので高遠を出て甲州へ帰った。そこで小山田兵衛と一つになって逆心を企てたのだが、右のように善光寺において殺された。
高坂源五郎は沼津から、御最後となった五日前に甲府に戻り、御供いたすと申し出たが、長坂長閑の考えで、城をあけて来たような者はどんなことをするかわからぬ、それに侍二十騎ばかり雑兵百四五十人くらいが参上してもしかたがないと寄せつけなかった。そこで伊沢(石和)からすぐ信州へ出た。
屋代(左衛門尉勝永)は若かったけれども駿河をよく脱出して勝頼公への音信の役をつとめたが、高坂源五郎と同様に御供を許されなかったから、これも信州へ出た。
高坂源五郎(信州松代海津城 居城)も川中島で殺された。
山県源四郎も殺された。駿河先方衆も勝頼公の御ためと一筋に尽した者は成敗される。
甲・信・駿河の侍大将はいずれも家老衆とともに大部分殺される。
しかし信濃の真田・芦田(北佐久郡)、上野では小幡(上総介信貞)・和田(高崎)・内藤(群馬)そのほか上州衆は皆助けた。それは、滝川寄騎(与力。滝川一益)の配下につけて、三年の内に北条氏政・同子息氏直(母は信玄の娘)を討ちたやすこと、その時もしも手間がかかるようなら真田・小幡をはじめとする諸勢に北条家をまず攻めさせようとしたからであった。
山上進及という剛の侍は、もともとは東上野衆に属していた。
それがずっと浪人して武者修業しつつ諸国を歩いていたところを信長に召しかかえられた。この者に一万貫を下されたのも、北条を滅亡させたあとを滝川一益に任せるための下ごしらえである。また、下総佐倉の千葉介国胤は、これも強剛の大将であった。
この国胤にあてた信長よりの書簡が無礼な又面だと怒って、信長が贈ってきた喝の尾髪を切って追い返した。さらに信長の使者の頭髪を切りとって送り返した。
武田四郎勝頼の運もつきて没落となったのにともない、北条氏政も頭をたれて信長の被官となるとも、この国胤は北条勢が滅んでも降ることはないのだ、という心意気を示したのだった。
信長に統治が替わって、勝頼公四カ国はその後、上野は滝川(左近将監一益)、
駿河は八年前に長篠合戦で勝利した時の約束でその通り家康へ、
甲州半国と信州諏訪を合わせて川尻与兵衛、甲州西郡(中巨摩・西八代)は今度の忠節にかんがみ穴山(梅雪)へ、そのほか以前からの根拠地だった下山(身延)をそえて下さる。信州川中島を森少蔵(長可・武蔵守)に、木曽はそのまま木曾義昌に、松本も今度の忠節ということで含める。それから信長公は萱屋九右衛門を呼んで曾禰下野という者はどこにいるか、再三にわたり当方に書状をよこして信長公の御被官になると申して、内々に忠節心をみせておったが。
信玄他界後十年このかたになるから奉公させよと命じられる。
菅屋九右衛門が、富士の高国寺(駿河駿東郡)という城におりますと報告すると、
その城に加えて川東南(富士川)の地をそえてこの曾禰にくれるということで、曾禰下野は富士川下流をすこし領有した。
このように、御譜代として以前から仕えたのに、それなりの処遇がなかったのは、長坂長閑・跡苔大炊助そのほかの出頭衆が私欲にはしり、賄賂におぼれて大事なことをかくしていこからだ。だから国は滅び、自身も処刑されるはめになったのだ。
信長公の威勢、同父子は明智の為に弑(しい)せられる
信玄公御他界十年以来、謙信他界五年このかた織田信長に続く弓取りは、日本では勿論唐国を見渡しても稀なる名将といえるのに、さらに勝頼公を亡くし、その領国四カ国をそれぞれ分割してこの頃は飛騨の国も乎に入れ、旗下の北条氏政の駿河の領分を浜松の家康にくれ、これらの国併せて三十六ヵ国となった。前巳の年(天正九年)に伊賀を占拠した
から、信長の支配の国は全部で三十七カ国だけれども、勝頼公がすでに御切腹なさってしまったから、東は奥州までそれほど領有するのに支障はあるまい。安芸の毛利もやがて倒しなさるであろうとは、信長衆の間の当然の風聞であった。
とくに四国は信長三番目の子息三七殿(織田信孝)を派兵して四国退治の準備をしていた。(中略)
信長は駿河筋を上り遠州浜松へたち寄り、家康の歓待を受けて目出度い帰陣となった。そこで家康は義理堅く考えて今川氏真にかねて約束してあったから駿河を進呈した。
氏真の軍勢がわずか三千ばかりであるのを信長は知って、家康に約束してあった通り駿河を渡したのだが、何の役にもたたぬ氏真にくれた駿河を取り返すべきだという信長の意向であったから、ふたたび駿河は家康の手に渡ったのだ。
したがって氏真公は流浪の身となり、結局は三州の作手(南設楽郡 山家三方の一)の
山家に身を寄せたが、西国一帯が鎮圧される頃には、今川氏真は成敗される運命にあった。
さて家康は穴山梅雪をつれて安土城へ御礼に参上した。
そこで信長は京都まで、家康・穴山両大将を案内して馳走のため猿楽の名人たちを集めて能を演じさせ、家康・穴山に御覧に入れて、それから堺へおもむかれた。都のあたりから河内・和泉・摂津・五畿内にかけて信長衆の各軍勢は目をみはるほど多く陣をしいていたのに、
六月二日の朝、明智十兵衛(光秀)という、信長の家中では弓矢巧者、俸禄も三番手の侍大将で、その勢八千の将が、都の本能寺という法華寺において信長を何の困難もなく殺した。
このことを子息の城介殿が聞きなされて、妙覚寺に陣取っておられたのだが、ここでは堀もない平地であるからといって二条殿の御館へ逃けこまれた。信長の旗本衆も城介殿に合流して旗本侍は合わせて甲の緒をしめた正式の武士八百人あまり、雑兵一万人たったけれども、一戦も交える態勢ができずに二条御所へ立て籠もった。それを知って、明智はすぐに攻め込んで来て殺した。
一時の間に信長父子の軍を討ちとった攻めに、上下一万あまりの兵は屏堀をとび越え皆逃げて、城介殿は反撃する間もなく討たれることになった。三番目の子息三七殿(織田信孝)は四国への征伐も投げすて、伊勢の居城へ早々に逃避してこもり、天下はたちまちに乱れて信長の諸勢はただ驚きあきれ、諸侍間で互いに気をつかいながら、それぞれの勢が居城にこもってしまった。
家康・穴山は和泉の境から東をさして落ちのびたことだ。かつて高坂弾正存生の時に常に言っていたことだが、主君へ逆心するような者は三年と無難でいられない、との言のように、山城の宇治田原(京都)というところで雑人の手勢を廻されて穴山梅雪の首は討ち取られた。家康は無事に国へ帰られたのだった。
北条氏政父子は信長の死を聞いて、今や敵となっている滝川(一益)勢を攻めた。上野衆の小幡・内藤をはじめ勝頼家が助けられた先方衆が談合して応戦いたし、北条衆を全面
的に追い崩し討ちとる「そのあとへ小田原から氏直(氏政の長男)一家の総軍が三万人あまりで攻めこんだので、滝川は剛勇だったといっても、わずかに三千の軍勢で再度の戦いとなっては、それに上野先方衆へ恩に対する返礼だとして戦ったが、松田尾張(憲秀。北条家の老臣)の一軍にやられて、滝川軍は敗北して前橋へ退却した。(中略)
こうして北条氏直は上野・信濃の領内へも手をのばし、五万ばかりの軍勢で信州川中島へ進行して、上杉景勝の軍三千ほどを追い払い、川中島一帯を長尾景勝から手に入れた。
そのあと北条殿は甲州を攻め取ろうと乙事、葛窪(富士見町)に進出し甲府へと軍旗を向けた。甲州郡内へは北条右衛門佐が約八千の兵で侵入した。甲州の恵林寺方面へは北条安房守が七千ほどで進撃した。
浜松の徳川家康は信長衆に蜃われて尾州の清州(愛知県西春日居郡)まで出ていたが、信長より進呈された駿河をまだしっかりとは統治していないから進攻は無理だ、と信長衆に断わってから、早々に駿河に打って出てから、甲州へと進出した。川尻与兵衛は死に物狂いで家康の家老の一人を策謀により殺した。
甲州の百姓、町人はこれを聞いて川尻をせめ殺したが、川尻の首は山県源四郎の被官・三井弥一郎が討ちとった。その後、家康は甲府の一条殿御屋敷に居て札をたてて治め、甲州・
信濃・駿河衆をかかえて、恵林寺筋へは曾禰下野の鳥居彦右衛門に三宅惣右衛門という家老の面大将合わせて百三十騎、雑兵六百ばかりをさし向けられる。
家康は駿河・伊豆の国境にも軍勢を配し、あと三河にも軍を配備していたから、七千ほどで北条氏直に対し、甲州の新府中(韮崎)で対陣となった。そして鳥居彦右衛門は甲州の卑賤な侍は除いて総勢は敵より二千不足するものの、北条右衛門佐の八千の軍と黒駒にいた所で合戦となり、鳥居彦右衛門が勝って、北条八千あまりの兵のうち三千を討ちとる手柄となった。また恵林寺方面でも曾禰下野が北条衆を三千ばかり六七百の雑兵とともに討ち取ったから、北条氏直はかなわずに和睦を結び、駿河・甲州・信濃は家康に渡し、北条家は上野の領内を残らず領有すること、さらに家康の婿に氏直がなることで約束が成り、両方とも退いた。
それから家康は五カ国の主となられたから、武田殿衆、すなわち甲州・信濃・駿河三カ国の侍は、あらかた家康に仕える身となったのである。
家康は慈悲深い大将で、勝頼公御最期の所に寺を建てよ、と甲州先方衆に命じられたので、田野という所に勝頼公の御墓寺(景徳院)があるわけであるが、それは家康公のそういう大慈大悲のおかげである。小宮山内膳(立び器)が勝頼公に憎まれても、殉死をした由を聞かれて、内膳の弟である坊主(釈枯橋)をその寺の住職になされた。信玄公の菩提
寺はもともと恵林寺であるから、この寺にもそれと同様に寺領を、この田野寺にも田野の村々を含めるよう命じなされる。
信長は武田信玄に自分の居城である岐阜の間際まで焼かれた口惜しさから、墓所まで焼けというので、恵林寺の快川和尚・智勝国師をはじめ、高山和尚、大綱和尚、睦庵和尚そ
のほか、すぐれた出家を五十人ばかり焼殺しなさったのに、この家康は敵の為に寺を建てられたのだ。
北条殿が家康に負けて退いた時に、甲州や信濃の庶人は落書に次の歌を書きつけた。
″渡すべき海の朽木の橋おれて 浮名をながす千曲川かな
(千曲川を渡って一度は侵攻した北条氏直も、朽ちた橋から落ちるように、悪評を流して退去したことだよ。)
高坂弾正が健在だったころ申された。
国持ち大将の力量の強弱というものは死後になってはじめてわかるものだ。謙信の弓矢の強い威光というのも、上杉景勝の最近五月の戦いに武勇となってあらわれている。能登国内に景勝がかかえる城がある。
甲州勝頼公が三月十一日に御切腹となってから、信長は越後の景勝を攻めたてた。柴田修理を大将にして前田又左衛門、佐々内蔵助、佐久間玄蕃、徳山五兵衛、柴田伊賀といったそうそうたる顔ぶれで、全部で四万五千の軍が加賀、越中、能登、越前と進撃しては景勝の城をとりまいていた。
景勝はこの年二十八歳で後陣であった。兵力は五千である。甲州勝頼公が切腹して、大国の北条家まで信用することなく、信長勢は一気に奥州にまでも手をのばしていた。京から離れている大身の国々までが策を失って力を落した感じでいたのに、景勝公は越後と佐渡のニヵ国だったのにすこしも憂色がみえなかった。いよいよとのような合戦になろうとも、その時来たると心に決めて、七日路ほどのところを後陣として出陣し、天神山(魚津市 東方)大岩寺野に陣を敷いて防戦した。(中略)
この頃拙者春日惣次郎は新保殿(越中の豪族)家中を頼って越中に出、こうした事情を信長側から見ていた。この間に、河中島から森勝蔵が活動を始め、昔高仮弾正が焼きうちし
て廻った越後へて帰った。その次の日に信長の死が伝わった。それよりすこし前に景勝がかかえている城を立ち退くにあたって佐々内蔵助の策略にあって全滅した城もあった。
とかく名門の家で武道が衰えるのは、その家が滅亡する前兆である
勝頼公も、明智十兵衛がこの二月より謀叛を企てる旨を伝えて聞いて居たのに、長坂長閑の判断で、謀略をたくらんで明智と一つに組み実行に移さなかったために、武田勝頼公の御滅亡となったのだ。
三月十一日より(本能寺の変)六月二日までは、四月・五月は小の月だったから、八十日目に信長父子は御切腹となったわけだ。
信長二番目の子息(織田信雄。北畠具教の養子)は伊勢の国司になり御本所と申したが、伊勢の半国、伊賀一国を所持していて御年は二十五歳だったけれとも、出陣して明智を亡ぼすところまではいかなかった。
信長・城介の父子を殺したのだから、安芸の毛利か、せめては四国の長宗我部が敵ならばともかく、この場合は深く考えて出陣すべきたったのだ。自分の家老の明智が、終姑内幕を知っていて、父信長と兄の城介とが殺されたのにかかわらず動く気配がなかった。
それは御本所ばかりでなく、弟の三七殿も、信長の弟上野介(織田信包)、源五(織田長益、剃髪して有楽)も、阿野津あるいは神戸といったところも伊勢一国の内にいながら、明智を討つ覚悟が各々方ともすこしもなかった。こうした中で羽柴筑前守(秀吉)という者が出てきて、主君の敵、明智を討って都を占拠したのだった。
天正十一年未(一五八三)には浜松の家康から小田原北条氏直へ御婚礼がとりおこなわれた。そういうことから川中島へ家康がみえる旨が、叶坊という山伏が使いとなって伝え
られた。大蔵大夫(信玄猿若衆)の子の藤十郎に家康が命じて、拙者にも出仕の要請があったが、病気のため参上しなかった。
信州侍大将、芦田・真田・保科甚四郎・小笠原掃部大夫・諏訪・下条・知久・松岡・屋代は、すでに前年から降って家康の被官になっていた。
信州へ派遣された家康譜代の大将は、大久保七郎右衛門・菅沼大膳・柴田七九郎であった。家康勢の配下とならない信州の岩尾・穴小屋・前山といった衆へは、甲州で家康についた侍衆をさしむけた。曾根下野・玉虫・津金衆・駒井一党・今福和泉・工藤一党・遠山右馬助といった甲州先方衆の面々であった。信州の地を舞台に、それら家康勢との間でたびたび戦いがあった。なかでも曾禰下野と横田甚五郎は大いに活躍した。横田は敗走する後勢の武者などを馬上からやっつけて、自分の親類筋の若手に討たせたりした。あるいは今福求之助という山県三郎兵衛家中のすぐれた若手に、討ちとった首をくれたりした。原美濃守の孫は、横田十郎兵衛子息に似た活動をしたと伝え聞く。曾禰下野は、山下部大夫という竹と鑓を合わせたという。高坂弾正衆は、同心被官ともにみな上杉景勝の御被官になったから、甲州・信濃の様子や家康の模様が川中島衆にも伝わってきたのでわかるのである。
家康、秀吉の取合い
天正十二(一五八四)年に、天下を掌握されておる羽柴筑前守と家康とが、尾州の小牧というところで合戦をした。
井伊兵部(直政)を赤鬼と上方の侍は言った。その時は家康勢を上杉景勝勢がおびやかしていたので、信州勢を一帯の配備につけておいた。北条殿と縁者たったけれども、北条氏政は裏切りかねないから、甲州に平岩七之介・鳥居彦右衛門・武川衆、長久保に牧右馬丞(牧野康成)、沼津に松平因幡守、光国寺に松平玄蕃、そのほか江尻、田中、掛川といった各所に留守の軍を配し家康は一万五千の軍勢で出陣した。
羽柴は安芸の毛利家、備前の宇喜多氏といった中国の各勢を結集して十八万の大軍といわれたが、かたくみても十五万の軍ではあったろう。家康軍と強引には対陣せずに土手を築いて陣をしいた。
家康方は十分の一の軍でありながら、柵の木を一本打ちこまず、何か備えをする気配さえなかった。そこで羽柴筑前守の陣場の土手際へ軍を進め、穴山衆の有泉大学助信閑(穴山梅雪の陣代)は上方衆を討ちとった。その年のうちに九度も筑前守を家康勢は破ったものだ。家康衆の酒井左衛門は前年の三月三日に尾州羽黒山で森勝蔵に勝っていたから、上方の軍勢丁三万に対し家康一万三千で対しても、何とか敵を痛めつけることができるとの算段であった。
大軍を土手に築かせておいた事。小口、楽田の砦を撃破した事。そして大合戦に森勝蔵・池田父子(池田恒興と元助)を討ちとり、三好孫七郎(秀吉の甥)・堀久太郎を追い散
らして勝利した事。家康内の本多平八郎(忠勝)が千程度の軍でもって筑前守三万余の軍をひき出して平八郎が攻めかかり、そのおり筑前守はこの平八郎の攻勢をみて退却した事。
また、滝川(一益)を家康が攻めなされて、滝川は死をのがれようと自分の従弟の罪もない蟹江(海部郡)の城主・前田与十郎を切ってさし出した事。その節、駿河先方衆の朝比奈金兵衛という者が、滝川の甥の滝川長兵衛を生捕にした事。
家康勢は白子筋(鈴鹿市白子町)に進行した事。
その年家康は偽の和睦をむすび、浜松に入らせておいて出し抜き、筑前守が清州に出動している間に、九月に家康は三河・遠州勢八千をひきつれて夜を徹して出馬し、大久保次右衛門という武士を偵察に出し、足軽二十三人を騎馬で蹴散らしたことから羽柴筑前守は大いに敗北をこうむって、筑前の方から家康に手をのべて和睦となった事。
以上のような戦勝ぶりは信玄公、謙信公、信長公以来、家康公が日本一の弓矢の誉れ高い名大将であることを証するものである。
この合戦で筑前守秀酉勢の中で討死した某侍大将は(池田勝家かという)、信長の乳母の子息である。武功も多くてとりたてられ、大身の地位に昇って信長の先陣をつとめた。
また堀久太郎、長谷川秀一といった地位の低い者を信長はとりたてた。それらの者は信長が他界したその年より同輩の羽柴筑前守を主に、まことに恩をうけられた信長の子息御本所(織田信雄)を敵にして攻めかかる。羽柴筑前の配下だけでなく、信長の弟の織田上野介(信包)までが、甥にあたる御本所を敵にして、被官筋に当る筑前守を中心にして謀られたことは、まったく武道にたずさわるものとしては卑劣なことだ。
甲州の穴山梅雪も、勝頼公に恨みがあって、天下を掌握した大身の信長へ寝返ったが、そのため殺された時は屍の上にまでむちうたれたという。その例よりも十数倍も理に合わないのは、同輩を主にみたてて恩をうけた主君の子息を倒したりすることだ。だいたいがこのあたり武道は節操がなく、上方武士は大合戦などには買首をしても、自分が贔屓を多くする者の方を手柄にしてしまうから、ますますでたらめになって味方討ちも平気でするといわれる。
ことに作州上月の城への支援の時も、敵が多かったから逃げ帰り、上月城を守っていた尼子一党(尼子勝久)の信長勢が毛別家に攻略されてしまったが、その程度でも手柄とされる。
そんなわけで、信長の幸運の勢いもあって上方では一合戦で城を十も二十も明け渡して退散し、反乱もなかった。しかも二代目に替わった武道の未熟な衰えた国を多く占拠して、大身になって行ったが、それはたとえば大風が吹いたような感じで一時的だった。運も尽きて信長が死になされてからは、武田四郎殿が長篠敗戦以来八年このかた、残った信長の子息らは弱気で戦闘は十分の一とてもしなかった。
信長は度々戦いに勝って、すこしくらいの事は不覚だったとは反省しなかった。そういう姿勢をまねるのは感心しない。ところが家康は、我が身に直接関係しない事態でも、信長が重大なことはどのようにしても助け、さらに信長と約束したことは筋をたてた。
この合戦をはじめ唐国にまでひびく家康の立派な武勇である。どのような家中にしても、末代までも滅亡せずに栄えるには、第一に武道はいうにおよばず、分別、慈悲をそなえ、寺社債を与え、善事をすることが肝要なのであるから、武田の譜代衆もすべて家康を大切に存じ上げるのである。すでに午の年の暮れには、家康は甲州・信濃をおさえ、翌末の年には駿・甲・信の三カ国の衆を扶持し、申の年(天正十二年)の春から大敵に向いなされ、三河・遠州衆のように、駿河・甲州・信濃の者たちは家康によく従順となった。これも天が許した大将家康というわけである。武道合戦の強さにかけては、信玄、謙信、それにこの家康である。以上。(中略)
この軍鑑、書き継いできた我らは春日惣次郎という者である。
川中島ではことごとく皆上杉景勝に仕えたけれども、我れらは甲州が滅亡へと傾いていく頃は越中(神保氏)へおもむいていたから、景勝御とりたての衆とは離れていたのだ。
そのあと流浪して佐渡の沢田という在郷においてこれを書き置く次第だ。
三十九歳の十二月より胸をわずらい、齢四十の三月中旬に死するなり。よって件のごとし。
天正十三乙酉三月三日 高坂弾正甥(春日惣次郎)