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元祖團十郎傳并肖像  近世奇跡考(山東京傳) 

2023年09月08日 07時14分24秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

一、元祖團十郎傳并肖像  近世奇跡考(山東京傳) 

江戸の俳優初代市川團十郎は、堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯、江戸に生る。重蔵は下総国成田の産、【割註】或云、佐倉幡谷村の産、役者大全に云ふ市川村」なり。江戸にうつり住。曾て任侠を好み、幡随院長兵衛、唐犬十右衛門と友たり。團十郎生れて七夜にあたる日、唐犬十右衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよし、【割註】今の白猿ものがたりぬ」初名を段十郎とよび、後に團十郎に更む。曾て俳諧を好み、奮徳翁才麿の門人となり俳號を才牛といふ。延寶のはじめ、和泉太夫金平人形のはたらきを見て、荒事といふことをおもひつきたるよし、【割註】『侠客傳』に見ゆ。」延寶三年五月、木挽町山村座、凱歌合曽我といふ狂言に、曽我五郎の役を始てつとむ。【割註】時に二十五才。」延寶八年不破伴左衛門の役を始てつとむ。【割註】時に三十才。」衣裳の模様、雲に稲妻のものずきは、稲妻のはしまで見たり不破の関 といふ句にもとづきたるよし、『江戸著文集』に見ゆ。貞享元年、鳴神上人の役を始てつとむ。【割註】鳴神を堕落さする女の名を、雲の絶間なづけしは、團十郎おもひつきたるよし、これらを以て其才の秀でたるをはかり知るべし。 元禄七年、六年、京にのぼり、同十年に江戸に下れり。【割註】貞享五年『役者評判記』「野郎立役二町弓」といふ書に、左のごとくあり。

○此ころのひょうばん記は、おほく半紙本なり。位付まし。元禄末横切本となり、位付あり。 此市川と申すは、三千世界にならぶなき、好色第一のぬれ男にて、御器量ならぶものなし。丹前の出立ことに見事なり。せりふ天下道具なり。およそ此人ほど出世なさるゝ藝者、又とあるまじ。實事悪人、その外何事をいたされても、おろかなるはなし。ことに学文の達者にて、仕組の妙を知らぬものなし。當世丹前役者の元祖、お江戸においてかたをならぶるものあらじ。威勢天が下にかゞやき、おそらくは末代の役者の鏡ともなるべきと、すゑずゑなほもやり玉はん。歌に、   

市川の流れの水もいさぎよく悟りすました藝者哉 

予おもふに、末代の役者鏡ともなるべきと、貞享の頃よりかきおきしは、役者の未来記ともいふべし。

○貞享年中印本(舞曲扇 )江戸狂言作者 玉井権八 南瓜與惣兵衛 宮崎傳吉 市川團十郎 かくのごとく、作者のうちにもかじへぬ。安るに、貞享、元禄中の狂言、團十郎の作おほし。 

○『江戸真砂』に云、(寛延中の写本なり) 

元禄年、勘三郎座にて、團十郎荒園の役、切り狂言に鍾馗大臣に成て、大當りせしが、その姿をゑがき、鍾馗大臣團十郎とよびて、ちまたを賣りありく、おのれ七八才の頃、めづらしく、五文ヅツに買ぬ。それよりやゝ役者繪はやりいでぬ。 

○團十郎、元禄十七年(改元宝永)二月十九日死。享年五十四才。芝三縁山中常照院に葬る。法名譽入室覺榮。 

○柳塘館蔵本に、宝永二年印本『宝永忠信物語』と云ふ、草紙五冊あり。これ團十郎一周忌追善の書なり。市村竹之丞芝居、八島壇之浦の仕組、忠信四番續の狂言に、團十郎、次信の役をつとむるうち、二月十九日五十四才にて身まかる。幼名を舛之助といひしよし見えぬ。然則星合十二段といふ狂言の時死せしと云ふ説は非歟。 

○元祖團十郎實子、二代團十郎栢莚が傳は、あまねく人のしれる事なれば、こゝはもらしつ、今巳に名跡七代におよぶは、誠是俳優の銘家と云べし。 一、小佛峠怪異の事  梅翁随筆(著者不詳) 肥前国島原領堂津村の百姓與右衛門といふもの、所用ありて江戸へ出かけるが、甲州巨摩郡龍王村の名ぬし傳右衛門に相談すべき事出来て、江戸を旅立て武州小佛峠を越て、晝過のころなりしか、一里あまり行つらんとおもひし時、俄に日暮て道も見えず。前後樹木茂りて家なければ、是非なく夜の道を行に、神さびたる社ありける。爰に一宿せばやと思ひやすみ居たり。次第に夜も更、森々として物凄き折から、年のころ二十四五にも有らんと思ふ女の、賤しからぬが歩行来り、與右衛門が側ちかく立廻る事数度なり、かゝる山中に女の只壹人来るべき處にあらず。必定化生のものゝ我を取喰んとする成べしと思ひける故、ちかくよりし時に一打にせんとするに、五體すくみて動き得ず。こは口惜き事かなと色々すれども足もとも動かず。詮かたなく居るに、女少し遠ざかれば我身も自由なり。又近寄る時は初のごとく動きがたし。かくする内に猶近々と寄り来る故、今は我身喰るゝなるべし。あまり口おしき事に思ひければ、女の帯を口にて確とくわへれば、この女忽ちおそろしき顔と成て喰んとする時、身體自由になりて脇ざしを抜て切はらへば、彼姿はきえうせていづちへ行けん知れず成にける。扨おもひけるは、此神もしや人をいとひ給ふ事もあらんかと、夫より此所を出て夜の道を急ぎぬ。其後は怪数ものに出会ずして、甲斐へいたりぬとなり。 

一、槍   本朝世事談綺正誤(山崎美成)  

【頭注】の部 甲斐名勝志四ノ十一オ、上野城跡、近比此地より、掘出せし槍、里人秋山何某が家に有。其銘に、文暦元年(1234)八月日竹光作レ之とあり。文暦は四條院の御宇にて、鎌倉北条泰時の比なり云々、下略。 

一、挟箱   本朝世事談綺正誤(山崎美成)  

【頭注】の部 挟竹にて馬乗の人を打落せしこと見ゆ。甲陽軍艦巻二十七。 一、素堂 『俳聯』  本朝世事談綺正誤(山崎美成)  


日本随筆 甲斐民話2

2023年09月08日 07時13分00秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

日本随筆 甲斐民話2

 

一、江島生島事件(秋元但馬守)  一話一言(大田南畝) 

松平保山〔大老・柳沢吉保〕御咄に荻生総右衛門申候由秋元但馬守様は御上御四代の御執政被成終に何の御しおちもなく名人と呼られし候に今度江島殿御詮議はおかどちがひと奉存候其子細は周禮と申天子の役筋を書候書に宮中の官女の姦犯の罪をさばきには物静なる物かげにてひそかに糺明するものと見へ申候其上女の科は天下へ掛りたる謀叛がましき事は先に希に候多は先に色情までの事にて候此年九月は秋元侯には御死去可被成候そのわけは年久しくあやまちなき御政事になれ給ひたる御事なれば此度の評定さはき(裁き)大造過たる事は必御後悔可有候さりながら夏のうちは陽分にて候へば人の気も淋しからぬ時なればさして御病気も出まじく候九月は肅殺の頃なれば此時に至りて数十年の勤労も出此度の御後悔も出會て御病気つかれ候はゝ御平癒有まじくといひたる総右衛門はじめ御はなし申たる時うらや算にては有まじとて果してその九月御死ありしを安藤仁右衛門かたりき候。云々 

一、喧嘩傘(武田信玄の冑)  一話一言(大田南畝) 

是は武田信玄の家にて號する冑( )の名なり、天草島原両日記は松平伊豆守信綱の嫡子甲斐守信綱の記されし記録也、予所持なす所也、其日記に 四日大磯 小幡勘兵衛景憲遂行 自江戸来賜ル 冑一首於 武田信玄 號 喧嘩笠 。 

一、阿福傳   一話一言(大田南畝) 

阿福。甲州都留郡忍草村庶女也。家世仕於村民五郎右衛門者。有恩舊。不幸蚤喪夫。獨撫遣孤。事主癒謹。誓而不更志。以貞純稱焉。五郎右衛門。世業農桑。頗豪于閭里。中年患癩。資斧耗於巫醫。且亡妻。獨餘孩兒于襁褓。煢々形影相吊。於是世族奴卑。皆棄而不顧。唯阿福留而不去。竭力供給。一夕人定鐘。詣山神祠。號泣悲求資冥助而救主病。忽然風雨震雷。大木顛于側。阿福神色不撓。黙祷自若。須 天霽斗皎。 氛自消。邦俗毎月念三夜。香燭不寐。以祈天佑。阿福嘗當季冬廿三夜。候主就寝。竊出祓浴深渓。因端坐水心。以遅月出。寒水噛腋。霜雪襯肌。神色不撓。黙祷自若。凡所以祈以身代主。發於懇誠惻恒。無所不至。既而主病彌留不寐。加之遭歳不易。田園盡沒于息。宝如懸磬。莫所依頼。先是遺孤稍長。名六右衛門。鬻身於峡南八代郡末木村遂家焉。於是阿福背負病主。手挈幼主。艱苦跋渉。遠寄末木村。結一蝸慮寓之。毎晨夙炊。躬出傭作隣里。晝間少暇。電奔□存数次。至夜伏侍牀頭。以軟語慰愉其心。祁寒以躯煦其足。暑日負就美蔭清之。宵間以代 □。徹明不懈。以為常。會出得一食獲尺帛。持帰奉主。己則糟糠不厭。鵠衣不属。行年五十有八。未嘗稍老。動作自若也。主嘗欲使兒學書。而憂匱楮筆。阿福日夜倍緜。購而得之。須之主又自語曰。文房諸友粗具。獨奈缺几案何。阿福乃托工匠造一卓子。為之賃傭。以讎其價。凡所願欲。多方營辨。以適其志。皆類此。六右衛門性朴素廉直。非其力不食不衣。力養積年。以孝聞焉。其妻亦能事夫姑。是以雖貧擧家敦睦。无些間言。此来父老里正等。具状告官。懸尹武島氏遣吏驗覈。私領俸金。賞賚天明戊申春二月既望也。里人源子謙見余于櫻水藩邸。審語始末。且請余為著小傳以公世。余聞之慨然而嘆曰。鳴呼僻邑庶賎之女。目無丁宇。非有諷誦教訓之素。而秉彜良心。發於天眞。一失所天。不曰人皆夫。知有主而忘其可不請盛事哉。實風教之所関係。不可以不文而固辭。因敍梗慨。應需如此。前肥佐喜後學鶴山石有撰  甲州人志村禮助忠女傳を著す。 

一、蓬莱   一話一言(大田南畝) 

およそ日本にて蓬莱と稍する所多し。或熊野、日本僧傳の説、或曰富士、義楚六帖富士縁起の説。或曰熱田、曉月集瓊華集の説、或曰加賀白山、日本霊異記の説。或摂津住吉、六家抄注説。或曰伊予三島、椽樟記の説。むかし蓬莱方丈瀛洲の三島うかび出たる故に號す。或曰安芸厳島、源平盛衰記高倉帝願文の説。或曰在丹後国 、丹後地志の説。云々 

一、鶴郡鶴羽記   一話一言(大田南畝) 

鶴郡属峡中。乃在富士嶽之北。當初人王第七世。孝霊帝七十二年。秦始皇遣徐福。發童男女数十人。入海求仙。其所謂蓬莱者。盖吾富士嶽是也。徐福既至。而知秦之将亂也。留而不帰。遂死于此矣。後有三鶴。盖福等魂之所化云。其鶴常在於郡。故名焉。郡分上下二郷。上者曰大原庄。下者曰羽置庄。又有九山八湖。皆仙境也。元禄十一年春三月二十九日。一鶴死於大原。吉田村之民以白官。官遣川井渡部二吏 看之。以其肉之両翼献東都。葬其骨於村之福源寺。謚曰浄鶴。客歳寛政甲寅春三月。雙鶴下吉田村。自以觜抜羽。翩翩乎如白蓮之墜落。犬群吠之。人集觀之。則聯翩沖天去。而不複下。後遍求諸九山八湖之間。遂失其所在。盖登仙去耳。今歳卯春正月。州之等力村萬福寺主得其一羽。以珍之。請之記。予聞晉太元中。武陵漁者入桃源。蓬避秦人。傳以為奇事也。然而重往。則遂迷不複得。亦蕉鹿之夢哉。今秦人之所化鶴。亦雖既登仙去。而不可複見。其羽依然而存。則實是奇事。實是奇物。豈可不珍焉乎。豈可不記焉乎。寛政乙卯夏六月甲辰 黒浦霊松龍菴義端撰 右之記及甲州等力村萬福寺主三車上人携来 

一、甲府宰相殿御加増  一話一言(大田南畝)   

寛文年中日帳写 寛文十戌年六月十日 甲府宰相殿へ三千石づゝの御加増にて岡野長十郎戸田作右衛門両人被進候。 

一、白石書簡  一話一言(大田南畝)  

大久保半五郎様 新井筑後守 先日考被思食御芳訊忝奉存其後御近所過候事有之候へ共御約束に任せわざと不申入候き其後又満次郎様御出被下久々にて得御意候騒然その日は内容有之故に満々とも不申承千萬御残多次第候其節に御物語被成候閑家之系図御携御惜し被下熟覧候此方にて先年古文書のまゝにて見候時にうつしとめ候ものと考合候に系図の詞書符合候事もなく不審のものに候御心得のためにもと存候故に手前にうつしとめ候うち要文共少々うつし進し候御覧合せらるべく候甲州にて後閑の地を宛行はれ候よりして後閑と改めそのゝちまた上条とも稍せられ候事かと見へ候當時も後閑と申す地定めて可有之廐橋邊かいづれの郡に属し候やらむ此流はいかにも京兆家にて永禄の初年に本領を失はれしと見へ候彼本領は甲州より小幡に宛行られしと見へ候へば甲州の為に本領うしなひ降参の事に候ひしがまた北条家のために本領うしなひ候て甲州へ降参候又そのゝち北条へ属せられ候やらむ後閑の地までうしなはれ候はたしかに天正十八年北条亡ひ候時の事と見へ候本家にて古文書の終りと永禄の初年までとの間は三四代ほどの間にも可之候やらむよく御考御覧可被成候。 御物語の西上野の寺尾の地の郡はいかに寺の名いかに候歟秋元鳴瀬と同返候月齋家譜はわすれ候いつにても御次手に御書付可被下候。 満次郎殿いまだ御滞留に候はゞよろしく奉頼候桃井の家系の事被仰候き御帰郷之後御心がけ被下候様に申上度後閑系図即今返上候條御傳達可被下候此使は詰所へつかはし候故に御報を申請候に及ばず御取次にたしかに預置罷帰候へと申付候間不及御既報候以上 正月十五日  右得高橋氏所蔵写の府中   寛政戊午年正月念八   杏花園叟 

一、甲斐国山梨郡磬銘  一話一言(大田南畝)   

遠山(按に鹽山の事歟) 磬銘 紹與貳拾捌年四月十日經明州都税務刊字訖合於丙申淳熙参拾貳月拾五日重新才造幹置童祖顔祖義與合山童行等謹題 

一、八宮御文 一話一言(大田南畝)  

甲州河浦村薬王寺八宮様御文ゆうふべは御出これはさてなにと鳴海潟しだれ柳の葉の露おちて淵となるまで御身に添はで名残おしきはふじの山はたちばかりかぞへてもたらずかたるまもなつの夜山郭公はつねに戀しやみやけ八兵衛  はつもし様 

一、當時碁名人名  一話一言(大田南畝)  

三段 渡辺多宮 三段石原八十八  

一、義士絶纓書〔再三考之〕  一話一言(大田南畝) 

惣而良雄(大石)ガ為レ人温寛ニシテ度量アリ、剛毅ニシテ沈勇ナリ、曾テ小幡景憲ノ流ヲクミテ武田ノ淵流源新羅公ノ兵法ニ通暁セリ、然而赤穂ノ城壘ハ、小幡景憲ノ門生混同三郎左衛門ガ築城ノ法ヲ用ヒ、山本道鬼ガ小圓ノ規矩ニ合テ築ル城ト云々。

一、角倉了以 一話一言(大田南畝)

慶長十三年京都大仏殿御造営に付大材木牛馬の運送なりがたく、了以光好に命ぜられ、京都加茂川の水を堰分け新川をつけ、右の材木を引上る。よりて十六年より伏見より二条まで高瀬船通行す。十九年また富士川塞りしにより、忰與一玄之に命ぜられ是をひらく。三月より七月に至りて普請なる。同年七月十二日死す。六十一、法名了以、城州嵯峨の二尊院に葬る。其子與一貞順はしめ玄之のち義庵といふ。大阪御陣のとき上方處々の川を切り落としまたは水をせきいれる。 角倉與七光好は宇多源氏の末流吉田意庵法印宗桂が惣領なれども、水理を好み醫師を好まず、弟に家をゆづりのち了以とあらたむ。年月しれず、東照宮のまみえ奉り、慶長八年上意を受け安南国へ通船し、同十年また仰をうけ、丹波国紫殿田村より深津嵯峨大井まで山間三里があいだ川中に大石多ありて往古より通船なりがたきを切ひらき、翌る午年八月より高瀬舟通行す。慶長十二年また命によえり富士川へ高瀬舟を入れ、駿州岩淵まで通船し、十三年また仰により信州諏訪遠州掛川塚まで通船なす。よりて書を給ふ。 

一、法勝寺古瓦甲斐権守加茂季鷹 一話一言(大田南畝)月影と名をおほせし法勝寺の古瓦を見て 古にかはらぬ付の影を見てかつこひかつはあほがざらめや 

一、柳澤出羽守 湯原氏日記  一話一言(大田南畝)  

元禄四年三月廿日辰の下刻柳澤出羽守亭へ始て被為 成 

一、南条山人手書詩稿    甲陽道中  

曾堤鐵騎倚 關。叱吐軍前刀抜山。安識千秋曠原暮。哀歌唯有牧童還。 

一、山口素堂立軸(紙地)臺表具 一話一言(大田南畝) 

白字不詳  瓢銘  芭蕉庵家蔵   

一瓢重泰山 自笑稱箕山 勿慣首陽山 這中飯顆 

山貞享三年秋後二日  素堂山子書我思 古人 白地 

一、山口素堂  一話一言(大田南畝)   

立軸 紙地 杉風畫素堂賛  寒くとも三日月見よと落葉かな素堂   

横幅   別紙に申達候其以後堅圍之番所に承及候 江戸表變地先々驚候事共に御座候此度萬句廻状所々へ出申候所別而貴翁御事御取持奉頼候此筋文艸出来浪地地上□在打つづき御果候而今は殊更心細き折節何事も先輩失候てちからなき心地仕候此度萬句巻頭に深川御連衆にて出し申し度願望に御座候尤先師奮住之地と申貴翁先達之よしみ旁々難默止奉頼度存候此旨猶萬千公へもなげき遺候此序の事は此方に御入候間素堂へ頼候へば書て可給候旨に御座候 返事萬部ひとつ御発句にて頼上候 以上三月十八日支考  杉風様 

一、山口素堂 随庵諧語抄  一話一言(大田南畝)

随庵諧語(二巻)夏成美輯録 上野館林松倉九皐が家に芭蕉庵再建勧化簿の序素堂老人の眞跡を蔵す。所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。九皐は松倉嵐蘭が姪孫なりとぞ。□は庵裂れて芭蕉庵を求十□を二三年たのまんやめぐみを数十生を侍らんや廣くもとむるは□つて其おもひやすからんと也甲をこのまず乙を耻る事なかれ□各志の有所に任すとしかいふこれを清貧とせんやはた狂貧也と貧のまたひん許子之貧それすら一瓢一軒のもとめ有雨をさゝへ風をふせぐ備なくは鳥にだも及ばず誰かしのびざるの心なからぬ是草堂建立のより出る所也 天和三年秋九月□汲願主之旨 濺筆於敗荷之下   山素堂 《以下略》 

一、平岡平八郎  一話一言(大田南畝) 

甲州代官の弟也。法花宗善立寺の甥異名をめうはちと申候。 

一、集千家註批點杜工部詩集  一話一言(大田南畝)  

巻之一七八ノ巻 信州主将 永禄二年菊月日 板垣駿河守信方 三四ノ巻 甲州  春圓房 右は堀口幽谷の家蔵なり其書古訓點にて板垣信方の手書とみえたり亂世にかゝる風がもめづらし闕巻あり全からす 

一、鎧巧明珍家譜并功拙之評  一話一言(大田南畝) 

元祖 明珍出雲守紀宗介 十六代甲上頬中 住相州鎌倉 

文明之頃 左近大夫義通 又四郎勝義 武田信玄令作諏訪星盛冑此時賜信字   十七代甲上頬中上中 住上州白井或甲州府中永世享禄弘治大永天文頃 同左近将監信家   

永世の頃 住甲州府中 信忠清七郎                  弘治の頃 住甲州府中 信光                       大永の頃 住甲州府中 信綱丹下 住甲州府中 

一、七不思議(甲斐七不思議)  兎園小説(瀧澤馬琴)

 寛政三年、甲斐国に六奇異あり。遠江に一奇異あり。合わせて七奇異とす。当時ある人の消息に云く、

一、甲州善光寺の如来。當春二三月汗かき、寺僧両人づゝにて  日夜拭ひ候事。

一、甲州切石村百姓八右衛門家の鼠、大さ身一尺餘、為猫之聲候事。

一、右村より一里許山に入石畑村に而、馬為人話候事、尤一度切りにて後無其事。

一、同八日市場村切石村荊澤村にて、牝鶏各化為牡鶏候事。

一、同東郡一町田中邊三里四方許之間、五月雹降り深さ三尺餘、鳥獣被打殺候事。一、同七面山鳴御池の水濁渾候事。

一、遠州豊田郡月村百姓作十郎方の鍬に草生候事、刃先より三寸、一本枝十六本、如杉形三日にて花を開、似桜花枝木花 共に皆鍬のかねなり。 

一、根わけの後の母子草  兎園小説(瀧澤馬琴) 

文政四年の春二月晦日の黄昏ごろ、元飯田町の中坂にゆきたふれたるおうな(老女)ありとて、これを観るもの堵の如し。(中略)旅寝すること九年に及べり、今は既に巡り盡して、廻国すべきかたもなけば、ふたゝび江戸をこゝろざして、岐岨路をくだり、甲斐が峰をうち遶り、よんべは両郷(ふたご)の渡りとかいふ川邊のあなたなる里に宿とりつ。かゝりし程に、あの御坂のほとりにて、俄に足の痛み出でゝ、一歩も運ばしがたければ、思はず倒れ侍りきといふ。 按ずるに、ふたごの渡りは、江戸を距ること西のかた四里許りにあり、この地は甲州街道にあらず。大山道なり。かゝれば甲斐より相模路を巡りて、江戸へ来つる成るべし。 

一、甲斐国の百姓が名歌よみたる話 松屋叢話(小山田與清) 

享保の頃、甲斐国の民がよめれし歌に  

おもひかね心の花のしをれつゝ 夢にわけゆくみよしのゝ山 といへるは、こよなうめでたきよし、世にもてはやしとぞ。

 一、新羅三郎義光 笙の事  松屋叢話(小山田與清) 

清和天皇四代満仲之子曰頼信。其子頼義。于時将軍任ス伊豫守。其子有四人。一人出家快誉。一人義家。鎮守府将軍號ス八幡太郎。一人義綱。號加茂次郎。一人號 義光。是新羅三郎也。この義光は、かくれなく笙に得たる名人也。豊原の時元の子時秋といひし、幼稚にして父をうしなひければ、秘蔵の事をもえきかで有しに、時秋道に深くや有けむ。永保のとし、義光、武衡、家衡を責んとし、戦場に趣給ひしとき、江州かゞみの宿まで跡をしたひて馳参じ、御供仕むといひけるを、義光深く諫給ひけれども、猶参まゝに足柄山もでこえてけり。義光仰られしは、此山は関所もきびしく有べければ、かなひがたかるべきと懇に申給ふをもきかで、さらにとゞまるべくもあらねば、義光かれが思ふ所をしろしめし、馬よりおり人を退、芝をはらひ、楯など敷て、大食調の譜を取出して、時秋につたへ給ひけり。時秋相うけて帰り、豊原の家を興しけるよし、橘の季茂が記にみえぬ。むかしの人の、道のこゝろふかゝりける事、かくまで殊勝にこそ有けれ。 

一、進言の玉言の事  松屋叢話(小山田與清) 

武田信玄大夫晴信の金言に、人は大小によらず、七八歳より十二三歳までに、大名ならば、能き大将の行儀作法を、語りきかせて、育てるがよく。また小身ならば、大剛のものが、武勇の働き、其外忠心の善き業作を語りきかせて育つべし。総じて人の心は、十二三歳の時聞入て本附たることが、一生の間失ずして、谷水が川水になり、川水が海の水になるごとく、人の智慧も、若輩のとき聞たることが、次第に廣大になる計也。十四五歳より後は、婬欲をさへたしなめば、人になるもの也とぞ。 

一、大河内藤蔵記事、丙戌三月九日異聞兎園小説外集(瀧澤馬琴) 

私儀生国甲斐国山梨郡藤木村御代官小野田三郎右衛門様御支配、百姓甚左衛門忰にて、去々申年中御當地へ罷出、知人深川八幡前佃町家主彦兵衛世話にて、去酉年八月中、一橋様御小姓組頭瀧川主水方へ侍奉公罷出、相勤罷在候處、傍輩中間三平と申者、常々手荒成者にて口論等仕、其上博奕致候に付、當三月五日、主人より暇差出候處、衣類等にも差支候間、差置呉候様取計の儀相頼候に付、主人方へ取繕いたし遣し差置候處、主人用向相辨兼候に付、右體の儀にては難差置候間、其趣當人へ申聞候様、一昨七日主人申付候間、其段三平へ申聞候處、取用不レ申、其上今朝帰り不レ申候に付、奥方へ其段申聞候へば、先私挟箱持市助に草履を為レ持、両人計、迎に罷越候様申付候に付、則同道仕神田橋中屋敷へ罷越、主人退散を相待候處、三平罷越候に付、何方へ罷趣越候哉と承候處、一旦暇出候身分の儀に付、何れへ罷越候共、勝手次第の儀に有レ之旨申、主人始私儀を悪口雑言等申掛候へ共、平日手荒成者敢不レ申、程能及挨拶候處、猶々聲高に申募り候故、種々理解申聞候へ共聞入不レ申、若年者と侮り、理不盡に打掛り打擲に逢、殊に主人外聞にも相 り候に付、餘り残念に存、不レ得巳事刀抜放し候處、猶又罵り打掛候故、腕切落し候得ば、門外へ欠出し候間、追懸か罷出候處、又候私へ打掛り、其上御屋敷前溝の下水へ蹴込候に付、旁心外に存起上り、無是非打果申候。此外可申上儀無 御座 候。以上。   

三月九日 瀧川主水家 大河内藤蔵 戌十七歳 御徒士目付 依田源十郎殿   神谷昇太夫殿瀧川主水草履取三平戌四十四歳 疵所左り二の腕臂際より切落、 面部左りの方、竪に三寸程切下げ、同所横三寸程一カ所、胸 に突疵二カ所、右の腕中指の間より竪三寸程切割、止め咽一カ所、(中略)         一、藤蔵みずからうふ。享保九子年以前は、松平美濃守吉保同伊勢守吉里、甲州府中領主の節迄、藤蔵先祖は二百五十石にて家来なりしよし、柳沢国替以来郷士に被レ成候。今は百姓になりしとぞ。云々 

一、文政九年、著作堂展覧目録(抜粋)兎園小説外集(瀧澤馬琴)   

甲州巨摩郡韮崎合戦図写本 甲州巨摩郡新府中城図写本 武田流采配 写本 

一、異年號辨 兎園小説外集(瀧澤馬琴) 

甲州巨摩郡布施庄 小池圖書助 西国三十三巡禮時弥勒二年丁卯吉日(文安四年の丁卯か、永禄十年の丁卯なるべし)足利の季世、天下に亂れ、菅家の人々諸国に縁をもとめて、流客となり給ひしこと多くありければ、京家の人の甲斐国に住したるならんか。 武田家の侍の中に、小池主計助、(山懸衆)小池玄審など云人、甲陽軍艦に見えたりといへり。(中略)又甲斐国都留郡妙法寺奮記に永正四年を弥勒二年としるしたり。云々 

一、甲州祐成寺の来由  新著聞集(著者不詳) 

ある旅僧、独一の境界にて、複子を肩にかけ、相州箱根山をこしけるに、日景、いまだ午の刻にならんとおぼしまに、俄に日くれ黒暗となり、目指もしらぬ程にて、一足もひかれざりしかば、あやしくおもひながら、是非なくて、とある木陰の石上に坐し、心こらして佛名を唱ながら、峠の方をみやるに、究竟の壯夫、太刀をはき手づからの馬のくつ草鞋をちり、松明ふり立て、一文字に馳くだる。跡につゞき若き女おくれまじとまかれり。あやしく守り居るに、壯夫のいはく、法師は甲斐国にゆくたまふな。われ、信玄に傳言すべし。通じたまはれ。某は曽我祐成にてありし。これなるは妻の虎、信玄は我弟の時宗なり。かれは、若年より此山にあって、佛經をよみ、佛名を唱るの功おぼろげにあらずして、今名将なり。あまたの人に崇敬せられ、又佛道にたよりて、いみじきあり様にておはせし。某は愛着の纏縛にひかされ、今に黄泉にたゞよひ、三途のちまた出やらで、ある時は修羅鬪諍の苦患いふばかりなり。願くば我為に、精舎一宇造営して、菩提の手向たまはれよと、いとけだかく聞えしかば、僧のいはく、安き御事に侍ひしかど、證據なくては、承引いかゞあらんとありければ、是尤の事也とて、目貫片しをはづし、これを持参したまへと、いひもあへぬに、晴天に白日かゝり、人馬きへうせてけり。僧思ひきはめて、甲陽に越て、それぞれの便をえて、信玄へかくと申入れしかば、件の目貫見たまふて、不審き事かなとて、秘蔵の腰物をめされ見たまへば、片方の目貫にて有しかば、是奇特の事とて、僧に褒美たまはり、頓て一宇をいとなみ、祐成寺と號したり。しかしより星霜良古て、破壊におよびしかば、元禄十一年に、共住持、しかじかの縁起いひ連ね、武江へ再興の願たてし事、松平摂津守殿きこしめされ、武田越前守殿へ、其事、いかゞやと尋たまひしかば、その目貫こそ、只今某が腰の物にものせしと、みせたまふに、金の蟠龍にてありし。 


江戸時代の甲斐の伝説と民話    『日本随筆』より抜粋 

2023年09月08日 06時55分30秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

江戸時代の甲斐の伝説と民話   

『日本随筆』より抜粋 

 

一、遊女八千代が噂  羇旅漫録(瀧沢馬琴)

 八の宮は、遊女八千代にふかく契りたまへり。日夜をかきらず、放蕩その度に過ぎたれば。その頃の所司台板倉侯。屡々諫言すといへども。もちひたわず。板倉止むことを得ず。若干金を以て八千代を身請けし。この八の宮の献じ。しかし後八の宮を配流せらる。則ち八千代もともに配所に至らしむ。こゝをもて八千代が名。吉野より高し。     

註…直輔親王は、後陽成帝第八皇子、幼くして智恩院に入らせたまひ、元和元年、徳川家康猶子として、同き五年剃髪、名を貞純と改め給ふ。寛永二十年、甲州天目山に配流せられしとき、

 ふるゆきもこの山里はこゝろせよ  竹の園生のすゑたわむ世に

  万治二年帰洛し給ひ、帰属して以心庵と號し、北野に住わび給ひ、寛文九年八月御年六十六にして、薨し給ふ。  

(橋本肥後守経亮話)  

追考…甲州一円は夏ほとゝぎす啼ず。かの国の人の説に。八宮甲州にましましけるとき。

 なけばきくばきけは都のなつかしき 此里すぎよ山ほとゝぎすこれより杜鵑なかずといふ。(実兄羅文の話) 程へて八の宮帰洛したまひぬ。

  

一、秉燭翁像  桂林漫録(桂川中良)

 

 近来、甲州酒折宮の(日本武尊を祭る)本社の傍らに祭る所の。秉燭翁の社の扉に刻する像なりとて。流布する図あり。 

 秉燭翁像図(略)

 深衣の如き服を左巻まきに著。 (或人、続日本記養老三年の詔を引。上古は左まきなりし證とす。笑う可し。左まきの詔。愚考あり。)幅広の如き物を頭に頂き。渡唐の天神と称する物の形に似たり。甲斐名勝志(甲州、萩原元克著)見に。彼像の説を載せさる故。彼邦より薬石を鬻に来る。阿蔵なる者に質(たた)せしに。果して跡形も無き譌物なり。此像を見んとて。好古の人間尋来る事侍りと語りき。全く奇に誇らんと欲る。好事者の所為と見ゆ。憎む可く冤(うら)む可し彼社。尊の燧袋(ひうちぶくろ)を神体とする由。是は虚説にあらず。阿像帰国の後。其図を送り越す可しと約しぬ。  

 

一、向火

 酒折宮の因みに記す。日本武尊。駿河国に至り給へる時、夷等尊を欺きて野中に出し奉り。枯草に火を着て。焼き失ひ奉らんとす。時に尊。御姨。倭比売命( )の賜ひたる火打袋より。(是酒折宮の神体なり)燧( )を取出し。御剣を抜て草を薙拂ひ。火打ちにて火を打。向火を着て焼退け。還出て夷どもを切滅し給ふ事。云々    

 一、近代俗書真偽   蘿月庵国書漫書(尾崎雅嘉) (前略)百年以後にかきたる印行の記録、諸家よりいでたるは、各自の事故連続せざるより、すたり行になろこそ残多けれ。甲陽軍艦あやまり多しといへども、質にして事実多し。しかし是は甲州流、北条流、山鹿流など、小幡氏の跡をふめば今にすたるに、是さへ武田三代記出るになりぬ。甲陽軍艦にあはすれば、通俗のもの見るやうにて、二度とは見るべくあらず、云々  

 

一、六郷の橋   柳亭筆記(柳亭種彦) 

 

(前略)『小田原記』永禄九年武田信玄小田原に人数少なき隙をうかゞひおもひよらざる方より小田原へ押し寄せるといふ條に、「橋を焼き落として甲州勢を通さず。信玄品川の宇多河石見守鈴木等を追散して六郷の橋落ちければ池上へかゝり」とあり、この時橋を焼き捨てし事のあれば、北条家の盛りなりし頃そめしにや。云々  一、誰やらのはなし  八水随筆 著者未詳 予がしれる大井佐太夫殿の申せし御方、甲州の族にて、花菱を紋とす。此家に勝頼の備前徳あり。先祖の器とては是ばかりなれども、用なしとてわらはれぬ。  

 

一、大磯小磯   金曾木 (大田南畝) 

 

相模刻の大磯小磯は人みな知る所なり。甲斐八代郡川内領に大磯小磯村と云うあり。山田茂右衛門御代官處なり。  

 

一、秋元但馬守   半日閑話(大田覃)

   

若君様御着袴御規次第 若君様御名代 秋元但馬守(他二名)右紅葉山 御宮え参詣右御太刀目録秋元但馬守二月三日御能組 時服六つ 秋元但馬守     

 

一、西本願寺輪番(の内)  半日閑話(大田覃) 甲州山梨郡初鹿野村禅宗五山派栖雲寺所化宗省 二十(歳)  一、四家由緒   半日閑話(大田覃) 秤師守随は武田義信後也。 

 

一、甲州古鐘銘   半日閑話(大田覃)  

甲斐国牧庄法光寺 奉鑄施鐘一口  建久二年辛亥八月廿七日   従五位下遠江守源朝臣義定   又云建治元年乙亥十二月八日   願主比丘尼新阿  當修理大勧進沙彌性光   建武三年丙子三月廿七日  重修理大勧進僧都清尊   定治五年丙午十二月廿七日   大 工 道 全  

一、天野氏証文    半日閑話(大田覃) 頼朝御自筆御判は、甲州一乱の砌、同国南部の建中寺和尚に預置候處、其刻御判計紛失申候。日付際よりたちは抜被レ申候。  

一、身延山七面堂焼失   半日閑話(大田覃) 十月十一日の夜、甲州身延山七面堂炎上、参籠の者六十人程死すといふ。  

一、惣領御番入書付   半日閑話(大田覃)安永五年十二月十九日町奉行 曲淵勝次郎 甲斐守惣領  

一、甲州米    半日閑話(大田覃) 甲州米三斗俵は陣々え渡す兵糧三十人え壹俵宛にて、其後算用仕能積也。 古来諸国の米壹俵五斗入、甲州辺同断之所、信玄三斗俵に計り入取廻しよしとて改めらる。 

一、角力上覧  半日閑話(大田覃)  寛政六年甲寅四月九日   

甲ケ嶽 甲斐嶽 八ツ峰  雷電 谷風  駒ヶ嶽 

一、山口素堂筆 芭蕉庵米櫃(瓢銘)寸錦雑綴(作者不明)  

四山の銘 芭蕉庵米櫃 

柏莚所持五粒傳へ今又三桝 蓋木黒ヌリ 傳懇望〆一見写之       一瓢重泰山 自笑称箕山  莫慣首陽山 這中飯顆山   葛飾隠士素堂書 

一、下御霊社司板垣民部談  遠碧軒記(黒川道祐) 

(前略)さて社家は代々春原なり(中略)これが中絶の時に甲斐の板垣信方の子、(信方は病死、子の彌次郎者為信玄 被レ害て跡絶ゆ)同彌次郎が遣腹の子が、母とも京に流れ落て後は丹波に閑居す。この子成長して南禅寺の少林寺へ遣し、出家して正寅と云。これを室町より肝煎してをとして社司とす。これが中比の社僧寿閑の親なり。云々

一、宝永二年二月常憲院将軍六十賀和歌  遠碧軒記(黒川道祐) 

この御賀に松平美濃守吉保御杖をまいらするとて、君にいまさゝぐる杖のふしておもひ  あふぎていのる萬世の春 此美濃守甲斐国を給り、甲府の城へ初めてまかりまふでける とき、

としを経て君につかふるかひがねや 雪のふる道ふみ分てみん       ふる道ふみ分るとよめるも、甲斐の武田餘流なるよしのあればなるべし。 

一、馬場三郎兵衛  閑憲瑣談(佐々木高貞) 

(前略)實は本国三州、生国は甲斐にて、即ち物奉行馬場美濃守が妾腹の末子、幼名三郎次と申す者にて候、領主(信玄)逝去の後、世継ぎ(勝頼)は強勇の無道人、其上、大炒、長閑の両奸人、国の政道を乱し、諸氏一統疎み果候始末は、甲陽軍艦に書記したる十双倍に御座候。されば□(長篠)の合戦の節も、先主以来の侍大将ども、彼是の諫言を一向用られず、美濃守を始めとして覚えの者ども大勢討死。夫より段々備えも違ひ、終には世継も滅亡致され、其頃私は十歳未満の幼少故に、兄にかゝり罷在候へども、甲州の住居も難レ叶、信州に母方の由緒有レ之故、玉本翫助が末子、八幡上総が甥等申合、三人ともに、信州に引込、往々は中国へ罷出、似合敷奉公をも仕らんと、年月を送り候所へに不レ慮難波鎌倉鉾楯にて、難波籠城是天の与えと手筋を以て間も無く城中へ召出され、千邑繁成が組与力となり、云々 

一、高芙蓉  蒹葭堂雑録(木村孔恭) 

煎茶に用ゆる「キビシヤウ」といへる器を、高芙蓉の検出して大雅堂に語られしが、殊に歓びて是を同士の徒に知らしめんとて、其事を上木し弘められしとぞ。風流の親切といふべし。右次て丙子冬十月、大雅堂印施と有。この丙子は宝暦六年にして、大雅山人三十四歳、高芙蓉は三十五歳の時なり。

芙蓉は名は孟彪、字は孺皮、芙蓉はその号なり。甲州高梨の人にして、高氏なり。父を尤軒といひて、かって徳本氏に従ひて醫を業とす。芙蓉醫を好まず。弱冠の頃より京師に遊び書画を愛す。好事の一奇人なり。篆刻の妙絶にいたり、海内に其名を知らざるものなし。俗称後に大島逸記といふ。天明四年四月二十四日東武に没す、行年六十三歳。〈芙蓉の生年は逆算すると、没年…天明四年(1784)、生年…享保六年(1721)の生まれとなる〉   

一、名醫徳本の奇事   閑憲瑣談後編(佐々木高貞) 

世に名高き甲斐の徳本は、和漢古今に珍らしき恬澹の人なり。本性は長田氏、知足斎と号し、三河州大浜村の人、其先祖を知る者なく、不詳所出 。勢利を欽ずして、四方に周遊し、去就任意いさゝかも諛なし。 大永享禄の頃(1521~1532)は甲斐の州に遊び、醫道を以て武田信虎の家に為レ客。抑々徳本翁の醫術は、即効を専らとし、其療治いさゝか烈しきに似たり。然ば病に依って峻剤毒薬機宣不誤、攻撃瞑眩避世諠 、(これは病気の様體によっては、峻しき薬を用ひ、毒を服せ、病を強く攻撃、瞑眩てもかまわず、世の人々が諠しくいっても不レ避、存分に療治する事なり)富貴なる輩は、俗諺の如く古方家と忌恐れて信ぜず。却って山野僕質の民に尊信せられ、殊に貧しきを憐みて、療養を信切にし、居所の悪敷きを厭わず。天文年中(1532~1555)には甲州を去りて、信濃国諏訪郡東掘村に住し、天正の乱に武田氏亡て後、再び甲州に還り、自ら草廬を構、號て茅庵といふ。他に出る時、頸に薬袋を掲て、牛の背に跨り、彼薬入の表に一服十八銭と書付たり。富貴を顧みず、貧賤を嫌わず、偶々権家の招きに応じて、病を治し効ありても、薬の價を取事十八銭に過ぎず。盖世の中の醫の勢利に赴き、慾に務むる者を折く。於此翁の清情なる事、十方に聽へ、漸々に諸州の領主に召るゝ事すくなからず。其頃或諸侯何某の君病痾ましましけるが、其臣下兼て徳本の良醫なる事を知らるれば、則徳本翁の診治を伝達し奉らる。因って命じて翁を召さる。徳本翁此時に百十有餘才、例の如く頸に袋を掛、牛に踞、ゆふゆふと東都に到る。厳々廣々として尊むべき錦殿に、麁服を不レ耻登り、一診を許されて後、便峻き劑欲上衆醫其麁忽を論じて不背、時に徳本翁は少しも憚らず、衆醫に対して其可否も辨ず。其君又戦国を経玉ひし勇壮の仁君、聴明にして疑念ましますれば、決断速かに翁の良醫なる事を信じ玉ひ、薬を調進なさしめられ、御服薬数日ならずして、功を奏し、御全快ましましければ、賞を賜ふ事尤も厚し。されども徳本翁は、固く辞し奉り之を不レ受、帰るに及んで薬の價一服十八銭の定めを以て政府に乞請瓢然として立去ぬ。於レ是翁の聲名天下に高く、是を慕ふて門人となる者数十人、其中にしも馬場徳寛、今井徳山の二人、殊更に醫業を励み、翁の禁方を受たりとぞ。猶翁の醫療に付て、古今希代の妙説あり。ことごとく次編に記す。徳本傳の再記には、於竹大日如来の因縁等、希代の話ありて面白し。 

一、つみの御牧   燕居雑誌(日尾荊山) 

かげろふの日記、御堂道長の長歌に、  

かひなきことは甲斐の国、つみの御牧あるゝ駒のいかでか  

人は影とめむ、と思ふ者からたらちねの云々、 坂仲文が解環には、かひの国みつの御牧と直して、さて其説に、みつの御牧原本「つみ」とあり、契本に「つ」を「へ」と直して、和名抄甲斐国巨摩郡逸見郷を引り。今は則原本の「つみ」を倒せしと見て、昔より歌に詠馴し、小笠原美豆の御牧の義にとれり。且は原のまゝを倒して「みつ」とよまるまれば也。そのうへ六帖の歌、小笠原美豆のみ牧に荒る駒もとればぞ馴るゝ子等が袖はもとあり。今は其意をとりて可ならむか。され共藻鹽草を関するに、顕昭が説にも、忠岑が十體にも、小笠原は甲斐の国なり。「みつ御牧は山城国淀の渡り也」。しかれども證歌には、「小笠原へみのみまき」と侍り。能因歌枕に「へみの御牧」とは、蛇に似たる色の麻の生ずる故にと。然るを堀河院百首に、顕仲が春雨の歌に、「小笠原みつのみまき」と詠みたり。是僻事歟云々。古よりこれらの説あるにより、契沖は且き本義を正さむ為に、「へみ」に直されたらむなり。又契本の内一本に、六帖の歌を引けるも「へみ」とあり。流布の六帖誤多きものなれば、今の印本をも直して引かれしにや、されど原本に依て再案ずるに、沖にしたがへば何れの僻字の、へに取ても點畫の形最遠し、「つみ」を打かへせば「みつ」なり。且本義にあらず共、詠習ひたるままに、詠むことも、昔より其例なきにしも非るべければ、此長歌を公の詠れしをり。何れに付かれたるも、今には計りがたけむ。今原本を直すの少きにとり、又は本義には背くとも、詩の和順なるによりて、姑く余が思のまゝに直せし、今此二説を挙置きれば、読人の好む方にしたがひ給ひなむと云れたり。瑜案ずるに、仲文此「つみ」の僻字の「へ」に取ても、點畫の形いと遠しとて、契沖師の定めしをさへに疑ひて、顕昭が僻心得をし、歌を徴にして打ちかへしたるぞ可咲き。こは原来「へみのみまき」なる事、和名抄にいへる如く、疑ふべきことに非ず。又「つ」と「へ」まがふべきも、いちじろき僻字あるをば知らでや有けむ。こはまさしく倍の草體□により誤て□と成りたる者也。萬葉にしきたへを敷多倍、とこしへを常之倍などの類あぐるに暇なし。此僻字だに知らずして、契沖を疑ひしは、いと鳴呼ならずや。 

一、目黒の餅花    骨董集(岩瀬京傳)

昔目黒不動尊の門前にて、ごふくの餅といふを売るもとはお福の餅なるを、呉服のもちとあやまれりと、云々『江戸八百韻』延宝六年板  前句

   ちゃうらかす風よりつの瀧の音 青雲 

 附句 目黒の原の犬がとびつく    来雪(山口素堂) 

一、提灯 骨董集(岩瀬京傳) 

『甲陽軍艦』巻之一、永禄元年の令に、不断不可燃挑灯とあり。云々  

一、赤染衛門の古墳 宮川舎漫筆(宮川政運) 

爰に奥田某といえる者、天明年中(1781~1789)甲州に勤ごとありし折、甲州韮崎、扨寺の名も忘れたり。右脇堂の所に苔むしたる古墳あり。其頃中門建立の節、右の古墳を取拂わんとせし前夜、住僧の夢に、夫人来り、此塚を取こぼつ事を歎き、一ひらの短冊を置と夢見しが、目覚めて見れば、古きたんざき枕のもとに残れり。取り上げて見れば、なき跡のしるしとなれば其儘に  とはれずとても有てしもかな 右ゆへ古墳は其儘にて中門をば塚の脇の方に寄せて建しといふ。右の短冊奥田方へ持参りしかば、奥田より古筆に出さし處、赤染衛門の筆よし。珍しき事共なり。この一條は奥田の一家のもの、予がむつみし長崎氏の物語なり。 

一、甲斐国都留郡の縫之丞のこと  閑田次集(伴 蒿蹊) 

享和二年(1802)十二月の末つかた、甲斐国都留郡小明見村の民縫之丞なるもの、其隣人の黄疸に悩みけるを、両親ふかく悲しみ、又代るべき兄弟もなければ、いかにもして病を癒しめんとおもふに、蜆は此病の良薬ときけば、もとめて給はれとたのまれて、三十里を経て、駿河の原よし原まで来るしに、年の終りなれば、さしもの街道も往来まれなるに、さるべき武士共二三人計具したるが、遙先に見えたれば、追付んと急ぎ、尿しながら行けるを、彼士見咎て、いかなる者ぞととふ、農民なりしとこたへしに、いか農民ならば大路に尿すべからず、畑ならば麦を養ふべし。道の傍ならば草肥えて秣によからん、大路にて穢を人に及ぼすべしやといはれて恥入、唯大人に追付まゐらんといしぎての仕業なりと侘ぬ。さて背に負けたる薦包は何ぞととふに、しかじかのよしを答へて、此比海荒て、やうやう此ほとりまで一升を得て負たるなりといへば、さる病に一升ばかりにては足じ、江戸に行て求むべし。いざつれ行んといへれば、故郷よりここ迄遙なり。また是より江戸まで、四十里をへてはいかゞはせん、年せまりて帰ることを急よしいふ。さらばわれ江戸に帰らば、速におうるべしと、其郷里荘官の名まで委しくとひきく、こはいかなる御方ぞととへば、それはいふに及ばずとて、沼津駅にて別ぬ。 其年は暮てあくる正月、病者は病おもりて十日に終りぬれば、野辺に送り、翌日僧に請じ齋行ひける折から、所の長のもとへ薦に包たるもの、江戸芝よりと計記して、甲斐国都留郡小明見村庄屋仁兵衛といふ札をさし、谷村といふ所の官所より送り、其便は谷村より小明見までの賃をとりて帰りぬ。 開きて見れば 蜆( )なり一首の歌有り、   

見もしらぬ山のおくへも心だにとどかば病癒ぬべらなり 

仁兵衛其故をしらず、親に付て縫之丞を呼て、そのよしを聞きゝ感に堪ず。彼齋の所へ持行、士の志を牌前へ供しぬ。夫より皆志をたうとがりて、江戸芝といふたよりに、尋けれどもそれぬば、せんかたなきに、あるもの此士歌を添られしかば、何にても歌を勧進して、芝明神の社に捧げ、せめて其志しに報ぜんとはかりけるとぞ。同国の一老僧、此ごろ語りき。 

一、社中と云事  《文化三年板》 鳴呼矣草(田宮仲宜)  

山口素堂  社中と云事、此頃俳諧者流の徒これをいえり。社中と云は、廬山の恵遠法師、庭際の盆地に白蓮を植て、その舎を白蓮社と云。劉遣民雷次宗宗炳等の十八人、集会して交をなす。これを十八蓮社といふ。謝靈運、その社に入んことを乞ふ。恵遠い謝靈運が心雑なるを以、交わりゆるさず。斯る潔白なる交友の集会をなさしより、蓮社の交と云。然るに芭蕉の友人山口素堂師、致仕の後深川の別荘に池を穿、白蓮を植て交友を集、蓮社に擬せられしより、俳諧道専ら社中と云事流行しぬ。夫遠師は、謝靈運をだに社に入る事許されず。然るに今の社中、旦( )にには断金をとなへて、夕に冠讐のごとく、反復常ならず。呉越と隔ることを梭をなぐる間のごときも嘆かはし。嗟々俳諧は狎て和せざるの道なり。 一、武野紹鴎(でうおう) 鳴呼矣草(田宮仲宜)武田印旛守仲村は、武田信光の裔なり。退隠して武野紹鴎と云へり。家宅は戎の社に隣し故、大黒庵と自称す。其滑藝見つべし。 

一、奇人(かたわ)  齋諧俗談(大朏東華) 

相傳へて云、甲斐の武田信玄の家臣山形三郎兵衛は兎唇なり。山本勘助といふ人は眇( )なり。云々  

一、賜一字  昆陽漫談(青木昆陽) 先年甲州よ出だせる書に、一字を賜ふときの書あり。其文左の如く。   

實名君好 天正四年丙子七月六日   信君 判 

これは武田信君と云へり。 

一、甲州金   昆陽漫談(青木昆陽) 

老人曰く、古き甲州金に竹流し金、六角極印小判あり。 竹流し金長さ二十七八分、横八分ほど、厚さ中にて三分ほど、縁にて一分ほど、長きは幅狭く、短きは幅廣し。重さ四十目十両と云ひて通用す。形圖の如し。中の極印は極の字、上下の極印は見えがたし。鳥目金重さ一匁一分と云ひて通用す。極印なし形図の如し。(略)六角極印小判重さ四匁。形圖の如し。上の六角打ちに桐あり。下の六角の内に菊あり。裏極印なし。甲州金、甲州略記に載すれども、其後此説を聞くゆへ、これらを記す。その三金いまだ見ず。 

一、川口湖   昆陽漫談(青木昆陽) 

三代実録に云く、貞観六年七月、甲斐国言。駿河国富士大山忽有暴火 。焼 碎崗巒 。草木焦熱。土鑠石流。埋八代郡本栖并セ両水海。水熱如レ湯。魚鼈皆死。百姓居宅與レ海共埋。或有レ宅無人。其数難レ記。両海以亦有水海 。火焔赴向 河口海本栖セ海。未 焼埋 之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難辨。然後有 此災異焉ト。  

これにて見れば、富士山の焼くる時は、砂ありて人家を埋めきと見ゆ。さて今も川口村に湖水あり。古の河口海なるべし。元文元年(1736)敦書命を蒙りて、甲州を行り、古書を求むる時、勝山村より河口湖を舟にて、川口村へ渡る。一里ありと云ふ。此湖水水落なく、伏水にて一里ほど脇へ。水ふき出ずるなり。 

一、石和  昆陽漫談(青木昆陽) 

甲州の石和(いさわ)を倭名鈔に石禾(いさわ)と言ひがたきゆへ、古より石禾と云ふと見へたり。 

一、甲斐之字義  南嶺遺稿(多田義俊) 

かひがねといふは、山のするどく立て、諸山に勝れ目立たるみねをいふ。山のかひより見ゆる白雲などよむも、絶頂にあるしら雲なり。甲州はするどく高き山多き故、かひの国といへりとぞ。或人の仰られしにつきて、よくおもへば、俗語に甲斐甲斐敷といふ詞有。又かひなきといふ詞有。甲斐々々しきは、しかと其功の見えたるを、山の高く見えたるに准らへ、甲斐なきは功もなきといふ心なるべし。植松宗南といへるは、甲斐産れの人にて、此人の語に、甲斐の国は、諸国に勝れて木の實のよき国なりといふ。斐の字、このみとよます字なり。夫故、斐にかうたりといふ心にて、甲斐の国と號。甲たるは第一たるの心なりとぞ。むかし斐仲太といふものありし事、宇治拾遺に見えたりと覚し也。斐たる君子ありと、詩経にあるも、其實有る君子也。論語に、斐然成一章をも、其實を備へて、しかと文章を成なりと心得べし。 山のかひといふも、此心得にてよむべきか。 

一、武田番匠   秉穂録(岡田挺之) 

通志に、今之庸俗以ク船輸善揄レ材。凡古屋壮麗ナル者、皆曰魯船造ルト。殊不レ知、船為何代之人と、此士にも、飛騨の工、武田番匠が建たるといふ事多し。似たる事なり。 

一、甲州升   秉穂録(岡田挺之) 

甲州にては、京ます三升をもて一升とす。金は一分判、二朱判、一朱判、しなか判、四種あり。其形圓なり。一分は銀十二、匁にあたる。今、諸国通用の金銀に比するに、銀一匁五分は、甲銀一匁にあたる。 

一、御茶壺  嘉良喜随筆(山口幸充) 

公儀の御茶壺は、宇治を出る晩か、社山一宿木曾路を御通、下諏訪より甲州に入、土用の二日ほど前に天目山下へゆき着を程にて直に山上に預ける。云々 

一、悪瘡解  嘉良喜随筆(山口幸充) (前略) 

右論弁甲斐国小笠原住人大醫法眼柿本之述作也、門弟親聴謹書諸冊後 。  一、近衛殿姫甲府へ御祝言の道具の内、 嘉良喜随筆(山口幸充)  衣架、机帳、鏡、二階棚、二階、火取、□(ハンサウ)、香辛、硯、料紙箱、筆持セ、亂箱モ木地、見臺 (各説明、図有り) 近衛殿姫君、甲府ヘ婚礼ノ時、品川ヘ御着ト、公方ヨリ乗物並傘ヲ遣サル。江戸入ノ時、右ノ傘ヲ乗物ノ上ニサシカクル。云々 

一、 古竹   耽奇漫録(瀧沢馬琴) 

甲州八代郡上曽根村農家河野吉右衛門云々。   

一、珍奇筐目録  一話一言(大田南畝) 

第一筐  甲州身延山七面山御池の土々                      甲州地蔵嶽団子石 第三筐  甲州石中玉 

一、松平西福寺   一話一言(大田南畝) 

浅草西福寺、此寺の本願良雲院殿を此所に葬し奉りぬ。その因縁にて公儀御由緒あつきよし色々申立剰太神君及台徳尊公良雲院尼の御影を拝させたり、予も四月三日かの寺へ参詣して拝せり、此良雲院殿は武田萬千代信吉君の御母堂にて、武田信玄の女たる様にかの寺僧ども本尊開帳の節靈寳の席にて申立る也。 予於心中甚不審をこるによりて、大久保忠寄にかたらひかの實否を分明せん事を欲す。忠寄諸録を引考左の一帖を授與あり、因て其所以分明を得たり。良雲院殿天譽壽清大姉 寛永十四年丁丑三月十二日卒去葬浅草西福寺附札寫州葬所入口の門の上に浅野家の紋ありと覚え候今に浅野家の崇敬もある歟 右良雲院殿と申すは大神君の御妾にて、市川十郎右衛門女也、此良雲院一女を産し給ふ、此姫君蒲生秀行の室とならせ給ひ、後に浅野但馬守長晟に嫁し給ひたりと云々、左あれば竹田萬千代は良雲院殿の参し給ひたるにあらず。長慶院殿〔或〕妙眞院日上 天正十九辛仰年十月六日卒去 水戸光国卿賜造建碑下総国葛飾郡小金邑今にあり、かの碑の文に、か下総国葛飾郡小金邑の采地にて病卒也、葬于郡之本土教寺  云々日蓮宗身延山檀越也、法名號妙眞院日上とあり、且かの墳上に一松あり、土人呼曰日上松とみへたり。 

一、いぐち   一話一言(大田南畝) 

缺唇に勇士ありといふ事をかたる人の曰、(中略)武田信玄に山懸三郎兵衛昌景(中略)いぐちなり、いつれも大剛の士也。 

一、天明四年十二月廿六日火事  一話一言(大田南畝) 

夜四半時頃八代州河岸より出火候處西北風烈数左之通焼失翌廿七日暮六時過火鎮り申候。《甲斐関係のみ抜粋》町奉行  曲淵甲斐守 同六年正月廿二日火事、同廿三日火事 御小姓組 白須甲斐守組 松平典膳 御小姓組 白須甲斐守組 羽根伊織 甲府勤番支配  戸田下総守 御小姓組 白須甲斐守組 小出右膳  同八年正月晦日京都大火諸書付写  覚 松平甲斐守 京都御所向并二条御本丸其外炎上に付京都へ被遣候旨於御右筆部屋掾頬若年寄衆御出座安藤対馬守殿被仰渡之金十五枚 高家 武田安芸守 

一、中世分銭の法   一話一言(大田南畝) 

中世分銭の法何貫文といふは天正の石なをし、東国は一貫九石にあたる、天文の頃三州辺は一貫文十石にれたる、天文十九年天野賢景三州大浜にて五十貫文の采地総領納得五百石の地なり、其後東海道五貫文百石ならし也。甲州辺は少し漸一貫文四五石にあたると云々 甲陽軍艦など千貫は一萬貫石なり、云々 一、秋山源蔵   一話一言(大田南畝) 

秋山源蔵〔天正十年三月十二日〕甲州田野にて武田勝頼公の御供にて討死の時、辞世の句  春散て秋山の實はなかりけり


信長甲州入り仕置 『甲陽軍鑑』品第五十八 春日惣次郎著(佐渡にて)

2023年09月07日 17時34分47秒 | 山梨県歴史文学林政新聞
信長甲州入り仕置 『甲陽軍鑑』品第五十八
春日惣次郎著(佐渡にて)
 
信長は甲府へ到着した。
かねて春から計略の廻文(回状)をまわされる。
武田の家の侍大将衆は皆御礼をいたせ、という主旨の御触れとなる。
その二月末、三月初めにかけての頃、でたらめな信長父子の書状をよこされた。それには甲州一国をそのままくれるとか、信濃半国をくれてやろうとか、あるいは駿河をくれるといった書状であって、それを信じこんだ勝頼公の御親類衆をはじめとする人々は、皆領内に引きこもっていた。
この触れを誠だと思って御礼に参上したところで、武田方の出頭人の跡部大炊助は諏訪で殺された。逍遥軒は府中(甲府)において殺される。
小山田兵衛、武田左衛門(信玄弟)、小山田ハ左衛門、小菅五郎兵衛は甲府善光寺で殺される。
 一条殿は甲州市川で家康の命令により殺される。
出頭人秋山内記は高遠で殺される。
長坂長閑父子は一条殿御館(甲府)で殺される。
仁科殿、小山田備中、渡辺金太夫(高天城主)この三人は高遠の城で、織田城介の旗本に攻められて、上下の者十八人で城を維持しつつ晴れの討死となる。
また小菅五郎兵衛は今まで山県三郎兵衛の軍内では大剛の者で、長篠戦の後の御旗本へ命じられて足軽大将をつとめたほどだから、仁科殿と高遠城へさし向けられたのに、卑劣な行動があって十日以前に勝頼公の御供をするというので高遠を出て甲州へ帰った。そこで小山田兵衛と一つになって逆心を企てたのだが、右のように善光寺において殺された。 
高坂源五郎は沼津から、御最後となった五日前に甲府に戻り、御供いたすと申し出たが、長坂長閑の考えで、城をあけて来たような者はどんなことをするかわからぬ、それに侍二十騎ばかり雑兵百四五十人くらいが参上してもしかたがないと寄せつけなかった。そこで伊沢(石和)からすぐ信州へ出た。
屋代(左衛門尉勝永)は若かったけれども駿河をよく脱出して勝頼公への音信の役をつとめたが、高坂源五郎と同様に御供を許されなかったから、これも信州へ出た。
高坂源五郎(信州松代海津城 居城)も川中島で殺された。
山県源四郎も殺された。駿河先方衆も勝頼公の御ためと一筋に尽した者は成敗される。
甲・信・駿河の侍大将はいずれも家老衆とともに大部分殺される。
 しかし信濃の真田・芦田(北佐久郡)、上野では小幡(上総介信貞)・和田(高崎)・内藤(群馬)そのほか上州衆は皆助けた。それは、滝川寄騎(与力。滝川一益)の配下につけて、三年の内に北条氏政・同子息氏直(母は信玄の娘)を討ちたやすこと、その時もしも手間がかかるようなら真田・小幡をはじめとする諸勢に北条家をまず攻めさせようとしたからであった。
 山上進及という剛の侍は、もともとは東上野衆に属していた。
それがずっと浪人して武者修業しつつ諸国を歩いていたところを信長に召しかかえられた。この者に一万貫を下されたのも、北条を滅亡させたあとを滝川一益に任せるための下ごしらえである。また、下総佐倉の千葉介国胤は、これも強剛の大将であった。
この国胤にあてた信長よりの書簡が無礼な又面だと怒って、信長が贈ってきた喝の尾髪を切って追い返した。さらに信長の使者の頭髪を切りとって送り返した。
武田四郎勝頼の運もつきて没落となったのにともない、北条氏政も頭をたれて信長の被官となるとも、この国胤は北条勢が滅んでも降ることはないのだ、という心意気を示したのだった。
信長に統治が替わって、勝頼公四カ国はその後、上野は滝川(左近将監一益)、
駿河は八年前に長篠合戦で勝利した時の約束でその通り家康へ、
甲州半国と信州諏訪を合わせて川尻与兵衛、甲州西郡(中巨摩・西八代)は今度の忠節にかんがみ穴山(梅雪)へ、そのほか以前からの根拠地だった下山(身延)をそえて下さる。信州川中島を森少蔵(長可・武蔵守)に、木曽はそのまま木曾義昌に、松本も今度の忠節ということで含める。それから信長公は萱屋九右衛門を呼んで曾禰下野という者はどこにいるか、再三にわたり当方に書状をよこして信長公の御被官になると申して、内々に忠節心をみせておったが。
信玄他界後十年このかたになるから奉公させよと命じられる。
菅屋九右衛門が、富士の高国寺(駿河駿東郡)という城におりますと報告すると、
その城に加えて川東南(富士川)の地をそえてこの曾禰にくれるということで、曾禰下野は富士川下流をすこし領有した。
このように、御譜代として以前から仕えたのに、それなりの処遇がなかったのは、長坂長閑・跡苔大炊助そのほかの出頭衆が私欲にはしり、賄賂におぼれて大事なことをかくしていこからだ。だから国は滅び、自身も処刑されるはめになったのだ。
信長公の威勢、同父子は明智の為に弑(しい)せられる
 
 信玄公御他界十年以来、謙信他界五年このかた織田信長に続く弓取りは、日本では勿論唐国を見渡しても稀なる名将といえるのに、さらに勝頼公を亡くし、その領国四カ国をそれぞれ分割してこの頃は飛騨の国も乎に入れ、旗下の北条氏政の駿河の領分を浜松の家康にくれ、これらの国併せて三十六ヵ国となった。前巳の年(天正九年)に伊賀を占拠した
から、信長の支配の国は全部で三十七カ国だけれども、勝頼公がすでに御切腹なさってしまったから、東は奥州までそれほど領有するのに支障はあるまい。安芸の毛利もやがて倒しなさるであろうとは、信長衆の間の当然の風聞であった。
とくに四国は信長三番目の子息三七殿(織田信孝)を派兵して四国退治の準備をしていた。(中略)
 信長は駿河筋を上り遠州浜松へたち寄り、家康の歓待を受けて目出度い帰陣となった。そこで家康は義理堅く考えて今川氏真にかねて約束してあったから駿河を進呈した。
氏真の軍勢がわずか三千ばかりであるのを信長は知って、家康に約束してあった通り駿河を渡したのだが、何の役にもたたぬ氏真にくれた駿河を取り返すべきだという信長の意向であったから、ふたたび駿河は家康の手に渡ったのだ。
したがって氏真公は流浪の身となり、結局は三州の作手(南設楽郡 山家三方の一)の
山家に身を寄せたが、西国一帯が鎮圧される頃には、今川氏真は成敗される運命にあった。
 
さて家康は穴山梅雪をつれて安土城へ御礼に参上した。
 
そこで信長は京都まで、家康・穴山両大将を案内して馳走のため猿楽の名人たちを集めて能を演じさせ、家康・穴山に御覧に入れて、それから堺へおもむかれた。都のあたりから河内・和泉・摂津・五畿内にかけて信長衆の各軍勢は目をみはるほど多く陣をしいていたのに、
六月二日の朝、明智十兵衛(光秀)という、信長の家中では弓矢巧者、俸禄も三番手の侍大将で、その勢八千の将が、都の本能寺という法華寺において信長を何の困難もなく殺した。
 このことを子息の城介殿が聞きなされて、妙覚寺に陣取っておられたのだが、ここでは堀もない平地であるからといって二条殿の御館へ逃けこまれた。信長の旗本衆も城介殿に合流して旗本侍は合わせて甲の緒をしめた正式の武士八百人あまり、雑兵一万人たったけれども、一戦も交える態勢ができずに二条御所へ立て籠もった。それを知って、明智はすぐに攻め込んで来て殺した。
一時の間に信長父子の軍を討ちとった攻めに、上下一万あまりの兵は屏堀をとび越え皆逃げて、城介殿は反撃する間もなく討たれることになった。三番目の子息三七殿(織田信孝)は四国への征伐も投げすて、伊勢の居城へ早々に逃避してこもり、天下はたちまちに乱れて信長の諸勢はただ驚きあきれ、諸侍間で互いに気をつかいながら、それぞれの勢が居城にこもってしまった。
家康・穴山は和泉の境から東をさして落ちのびたことだ。かつて高坂弾正存生の時に常に言っていたことだが、主君へ逆心するような者は三年と無難でいられない、との言のように、山城の宇治田原(京都)というところで雑人の手勢を廻されて穴山梅雪の首は討ち取られた。家康は無事に国へ帰られたのだった。
 
北条氏政父子は信長の死を聞いて、今や敵となっている滝川(一益)勢を攻めた。上野衆の小幡・内藤をはじめ勝頼家が助けられた先方衆が談合して応戦いたし、北条衆を全面
的に追い崩し討ちとる「そのあとへ小田原から氏直(氏政の長男)一家の総軍が三万人あまりで攻めこんだので、滝川は剛勇だったといっても、わずかに三千の軍勢で再度の戦いとなっては、それに上野先方衆へ恩に対する返礼だとして戦ったが、松田尾張(憲秀。北条家の老臣)の一軍にやられて、滝川軍は敗北して前橋へ退却した。(中略)
 こうして北条氏直は上野・信濃の領内へも手をのばし、五万ばかりの軍勢で信州川中島へ進行して、上杉景勝の軍三千ほどを追い払い、川中島一帯を長尾景勝から手に入れた。 
そのあと北条殿は甲州を攻め取ろうと乙事、葛窪(富士見町)に進出し甲府へと軍旗を向けた。甲州郡内へは北条右衛門佐が約八千の兵で侵入した。甲州の恵林寺方面へは北条安房守が七千ほどで進撃した。
 
浜松の徳川家康は信長衆に蜃われて尾州の清州(愛知県西春日居郡)まで出ていたが、信長より進呈された駿河をまだしっかりとは統治していないから進攻は無理だ、と信長衆に断わってから、早々に駿河に打って出てから、甲州へと進出した。川尻与兵衛は死に物狂いで家康の家老の一人を策謀により殺した。
甲州の百姓、町人はこれを聞いて川尻をせめ殺したが、川尻の首は山県源四郎の被官・三井弥一郎が討ちとった。その後、家康は甲府の一条殿御屋敷に居て札をたてて治め、甲州・
信濃・駿河衆をかかえて、恵林寺筋へは曾禰下野の鳥居彦右衛門に三宅惣右衛門という家老の面大将合わせて百三十騎、雑兵六百ばかりをさし向けられる。
家康は駿河・伊豆の国境にも軍勢を配し、あと三河にも軍を配備していたから、七千ほどで北条氏直に対し、甲州の新府中(韮崎)で対陣となった。そして鳥居彦右衛門は甲州の卑賤な侍は除いて総勢は敵より二千不足するものの、北条右衛門佐の八千の軍と黒駒にいた所で合戦となり、鳥居彦右衛門が勝って、北条八千あまりの兵のうち三千を討ちとる手柄となった。また恵林寺方面でも曾禰下野が北条衆を三千ばかり六七百の雑兵とともに討ち取ったから、北条氏直はかなわずに和睦を結び、駿河・甲州・信濃は家康に渡し、北条家は上野の領内を残らず領有すること、さらに家康の婿に氏直がなることで約束が成り、両方とも退いた。
それから家康は五カ国の主となられたから、武田殿衆、すなわち甲州・信濃・駿河三カ国の侍は、あらかた家康に仕える身となったのである。
 
家康は慈悲深い大将で、勝頼公御最期の所に寺を建てよ、と甲州先方衆に命じられたので、田野という所に勝頼公の御墓寺(景徳院)があるわけであるが、それは家康公のそういう大慈大悲のおかげである。小宮山内膳(立び器)が勝頼公に憎まれても、殉死をした由を聞かれて、内膳の弟である坊主(釈枯橋)をその寺の住職になされた。信玄公の菩提
寺はもともと恵林寺であるから、この寺にもそれと同様に寺領を、この田野寺にも田野の村々を含めるよう命じなされる。
 
信長は武田信玄に自分の居城である岐阜の間際まで焼かれた口惜しさから、墓所まで焼けというので、恵林寺の快川和尚・智勝国師をはじめ、高山和尚、大綱和尚、睦庵和尚そ
のほか、すぐれた出家を五十人ばかり焼殺しなさったのに、この家康は敵の為に寺を建てられたのだ。
 
北条殿が家康に負けて退いた時に、甲州や信濃の庶人は落書に次の歌を書きつけた。
 ″渡すべき海の朽木の橋おれて 浮名をながす千曲川かな
 (千曲川を渡って一度は侵攻した北条氏直も、朽ちた橋から落ちるように、悪評を流して退去したことだよ。)
 
 
高坂弾正が健在だったころ申された。
国持ち大将の力量の強弱というものは死後になってはじめてわかるものだ。謙信の弓矢の強い威光というのも、上杉景勝の最近五月の戦いに武勇となってあらわれている。能登国内に景勝がかかえる城がある。
甲州勝頼公が三月十一日に御切腹となってから、信長は越後の景勝を攻めたてた。柴田修理を大将にして前田又左衛門、佐々内蔵助、佐久間玄蕃、徳山五兵衛、柴田伊賀といったそうそうたる顔ぶれで、全部で四万五千の軍が加賀、越中、能登、越前と進撃しては景勝の城をとりまいていた。
景勝はこの年二十八歳で後陣であった。兵力は五千である。甲州勝頼公が切腹して、大国の北条家まで信用することなく、信長勢は一気に奥州にまでも手をのばしていた。京から離れている大身の国々までが策を失って力を落した感じでいたのに、景勝公は越後と佐渡のニヵ国だったのにすこしも憂色がみえなかった。いよいよとのような合戦になろうとも、その時来たると心に決めて、七日路ほどのところを後陣として出陣し、天神山(魚津市 東方)大岩寺野に陣を敷いて防戦した。(中略)
この頃拙者春日惣次郎は新保殿(越中の豪族)家中を頼って越中に出、こうした事情を信長側から見ていた。この間に、河中島から森勝蔵が活動を始め、昔高仮弾正が焼きうちし
て廻った越後へて帰った。その次の日に信長の死が伝わった。それよりすこし前に景勝がかかえている城を立ち退くにあたって佐々内蔵助の策略にあって全滅した城もあった。
 
とかく名門の家で武道が衰えるのは、その家が滅亡する前兆である
 
勝頼公も、明智十兵衛がこの二月より謀叛を企てる旨を伝えて聞いて居たのに、長坂長閑の判断で、謀略をたくらんで明智と一つに組み実行に移さなかったために、武田勝頼公の御滅亡となったのだ。
三月十一日より(本能寺の変)六月二日までは、四月・五月は小の月だったから、八十日目に信長父子は御切腹となったわけだ。
信長二番目の子息(織田信雄。北畠具教の養子)は伊勢の国司になり御本所と申したが、伊勢の半国、伊賀一国を所持していて御年は二十五歳だったけれとも、出陣して明智を亡ぼすところまではいかなかった。
信長・城介の父子を殺したのだから、安芸の毛利か、せめては四国の長宗我部が敵ならばともかく、この場合は深く考えて出陣すべきたったのだ。自分の家老の明智が、終姑内幕を知っていて、父信長と兄の城介とが殺されたのにかかわらず動く気配がなかった。
それは御本所ばかりでなく、弟の三七殿も、信長の弟上野介(織田信包)、源五(織田長益、剃髪して有楽)も、阿野津あるいは神戸といったところも伊勢一国の内にいながら、明智を討つ覚悟が各々方ともすこしもなかった。こうした中で羽柴筑前守(秀吉)という者が出てきて、主君の敵、明智を討って都を占拠したのだった。
 
天正十一年未(一五八三)には浜松の家康から小田原北条氏直へ御婚礼がとりおこなわれた。そういうことから川中島へ家康がみえる旨が、叶坊という山伏が使いとなって伝え
られた。大蔵大夫(信玄猿若衆)の子の藤十郎に家康が命じて、拙者にも出仕の要請があったが、病気のため参上しなかった。
 
信州侍大将、芦田・真田・保科甚四郎・小笠原掃部大夫・諏訪・下条・知久・松岡・屋代は、すでに前年から降って家康の被官になっていた。
信州へ派遣された家康譜代の大将は、大久保七郎右衛門・菅沼大膳・柴田七九郎であった。家康勢の配下とならない信州の岩尾・穴小屋・前山といった衆へは、甲州で家康についた侍衆をさしむけた。曾根下野・玉虫・津金衆・駒井一党・今福和泉・工藤一党・遠山右馬助といった甲州先方衆の面々であった。信州の地を舞台に、それら家康勢との間でたびたび戦いがあった。なかでも曾禰下野と横田甚五郎は大いに活躍した。横田は敗走する後勢の武者などを馬上からやっつけて、自分の親類筋の若手に討たせたりした。あるいは今福求之助という山県三郎兵衛家中のすぐれた若手に、討ちとった首をくれたりした。原美濃守の孫は、横田十郎兵衛子息に似た活動をしたと伝え聞く。曾禰下野は、山下部大夫という竹と鑓を合わせたという。高坂弾正衆は、同心被官ともにみな上杉景勝の御被官になったから、甲州・信濃の様子や家康の模様が川中島衆にも伝わってきたのでわかるのである。
 
家康、秀吉の取合い
 
天正十二(一五八四)年に、天下を掌握されておる羽柴筑前守と家康とが、尾州の小牧というところで合戦をした。
井伊兵部(直政)を赤鬼と上方の侍は言った。その時は家康勢を上杉景勝勢がおびやかしていたので、信州勢を一帯の配備につけておいた。北条殿と縁者たったけれども、北条氏政は裏切りかねないから、甲州に平岩七之介・鳥居彦右衛門・武川衆、長久保に牧右馬丞(牧野康成)、沼津に松平因幡守、光国寺に松平玄蕃、そのほか江尻、田中、掛川といった各所に留守の軍を配し家康は一万五千の軍勢で出陣した。
羽柴は安芸の毛利家、備前の宇喜多氏といった中国の各勢を結集して十八万の大軍といわれたが、かたくみても十五万の軍ではあったろう。家康軍と強引には対陣せずに土手を築いて陣をしいた。
家康方は十分の一の軍でありながら、柵の木を一本打ちこまず、何か備えをする気配さえなかった。そこで羽柴筑前守の陣場の土手際へ軍を進め、穴山衆の有泉大学助信閑(穴山梅雪の陣代)は上方衆を討ちとった。その年のうちに九度も筑前守を家康勢は破ったものだ。家康衆の酒井左衛門は前年の三月三日に尾州羽黒山で森勝蔵に勝っていたから、上方の軍勢丁三万に対し家康一万三千で対しても、何とか敵を痛めつけることができるとの算段であった。
 大軍を土手に築かせておいた事。小口、楽田の砦を撃破した事。そして大合戦に森勝蔵・池田父子(池田恒興と元助)を討ちとり、三好孫七郎(秀吉の甥)・堀久太郎を追い散
らして勝利した事。家康内の本多平八郎(忠勝)が千程度の軍でもって筑前守三万余の軍をひき出して平八郎が攻めかかり、そのおり筑前守はこの平八郎の攻勢をみて退却した事。
また、滝川(一益)を家康が攻めなされて、滝川は死をのがれようと自分の従弟の罪もない蟹江(海部郡)の城主・前田与十郎を切ってさし出した事。その節、駿河先方衆の朝比奈金兵衛という者が、滝川の甥の滝川長兵衛を生捕にした事。
家康勢は白子筋(鈴鹿市白子町)に進行した事。
その年家康は偽の和睦をむすび、浜松に入らせておいて出し抜き、筑前守が清州に出動している間に、九月に家康は三河・遠州勢八千をひきつれて夜を徹して出馬し、大久保次右衛門という武士を偵察に出し、足軽二十三人を騎馬で蹴散らしたことから羽柴筑前守は大いに敗北をこうむって、筑前の方から家康に手をのべて和睦となった事。
以上のような戦勝ぶりは信玄公、謙信公、信長公以来、家康公が日本一の弓矢の誉れ高い名大将であることを証するものである。
 
この合戦で筑前守秀酉勢の中で討死した某侍大将は(池田勝家かという)、信長の乳母の子息である。武功も多くてとりたてられ、大身の地位に昇って信長の先陣をつとめた。
また堀久太郎、長谷川秀一といった地位の低い者を信長はとりたてた。それらの者は信長が他界したその年より同輩の羽柴筑前守を主に、まことに恩をうけられた信長の子息御本所(織田信雄)を敵にして攻めかかる。羽柴筑前の配下だけでなく、信長の弟の織田上野介(信包)までが、甥にあたる御本所を敵にして、被官筋に当る筑前守を中心にして謀られたことは、まったく武道にたずさわるものとしては卑劣なことだ。
甲州の穴山梅雪も、勝頼公に恨みがあって、天下を掌握した大身の信長へ寝返ったが、そのため殺された時は屍の上にまでむちうたれたという。その例よりも十数倍も理に合わないのは、同輩を主にみたてて恩をうけた主君の子息を倒したりすることだ。だいたいがこのあたり武道は節操がなく、上方武士は大合戦などには買首をしても、自分が贔屓を多くする者の方を手柄にしてしまうから、ますますでたらめになって味方討ちも平気でするといわれる。
ことに作州上月の城への支援の時も、敵が多かったから逃げ帰り、上月城を守っていた尼子一党(尼子勝久)の信長勢が毛別家に攻略されてしまったが、その程度でも手柄とされる。
そんなわけで、信長の幸運の勢いもあって上方では一合戦で城を十も二十も明け渡して退散し、反乱もなかった。しかも二代目に替わった武道の未熟な衰えた国を多く占拠して、大身になって行ったが、それはたとえば大風が吹いたような感じで一時的だった。運も尽きて信長が死になされてからは、武田四郎殿が長篠敗戦以来八年このかた、残った信長の子息らは弱気で戦闘は十分の一とてもしなかった。
信長は度々戦いに勝って、すこしくらいの事は不覚だったとは反省しなかった。そういう姿勢をまねるのは感心しない。ところが家康は、我が身に直接関係しない事態でも、信長が重大なことはどのようにしても助け、さらに信長と約束したことは筋をたてた。
この合戦をはじめ唐国にまでひびく家康の立派な武勇である。どのような家中にしても、末代までも滅亡せずに栄えるには、第一に武道はいうにおよばず、分別、慈悲をそなえ、寺社債を与え、善事をすることが肝要なのであるから、武田の譜代衆もすべて家康を大切に存じ上げるのである。すでに午の年の暮れには、家康は甲州・信濃をおさえ、翌末の年には駿・甲・信の三カ国の衆を扶持し、申の年(天正十二年)の春から大敵に向いなされ、三河・遠州衆のように、駿河・甲州・信濃の者たちは家康によく従順となった。これも天が許した大将家康というわけである。武道合戦の強さにかけては、信玄、謙信、それにこの家康である。以上。(中略)
 
この軍鑑、書き継いできた我らは春日惣次郎という者である。
川中島ではことごとく皆上杉景勝に仕えたけれども、我れらは甲州が滅亡へと傾いていく頃は越中(神保氏)へおもむいていたから、景勝御とりたての衆とは離れていたのだ。
そのあと流浪して佐渡の沢田という在郷においてこれを書き置く次第だ。
三十九歳の十二月より胸をわずらい、齢四十の三月中旬に死するなり。よって件のごとし。
 天正十三乙酉三月三日 高坂弾正甥(春日惣次郎)
 

江戸隅田川界隈 石川島

2023年09月07日 09時24分50秒 | 歴史さんぽ

江戸隅田川界隈 石川島

 

『江戸名所図会』に、

  鎧島 佃島の北に並べり。今石川島と号く。

(俗にハ左衛門殿島ともいえり。

昔大猷公の御時、石川氏の先代、

この島を拝領するよりかく唱うるとなり。

寛政四年石川氏、永田町へ屋敷替えありしより、

炭置き場・人足寄場等になれり。)

旧名を森島と言う由、江戸の古図に見えたり。

 

とあり、鎧島と名付けたことについてはハ幡太郎義家が鎧を納めて八幡宮を勧請したからという説と、異国から献上した鎧が重くて誰も持てなかったが、石川氏の祖が片手で持って天賦公(徳川家光)の御前に披露したため、勧賞のあまりこの島を宅地として賜ったと大猷公いう説とを挙げている。

しかし石川八左衛門がこの島を拝領したについてあまねく伝わっている説は、寛永元年(1624)、宇都宮城主本多上野介正純が、将軍家光が日光参拝の帰途自城に立ち寄るのを機に、その寝所に釣天井を仕掛けて圧殺しようとしたが、事が露顕し、八左衛門は家光を駕籠に乗せ、ただ一人でこれを担いで夜とともに宇都宮を発ち、翌夕江戸城へ着いたが、門は既に閉ざされていたので、やむを得ず門を破って城内へ入り、家光の急を救った功によりこの島を拝領したという説である。

  棒組のない忠臣は八左衛門

  忠臣の古蹟は島の名に残り

  八左衛門とは申さぬと渡し守

  快き配所の月はハ左衛門

  住吉の隣の国は四千石

一、二句目は、説話が広く知られていたことを示している。

三句目は、島の名は八左衛門殿島といい、呼び捨てにはせぬ。

四句目は、八左衛門は一説によると江戸城の城門を破ったという咎で、禄は四百石加増になったが、石川島へ流されたという。

五句目は、住古社のある佃島の隣はもと四千石の旗本石川八友衛門の屋敷跡。

 『江戸名所図会』の引用文中に、

寛政四年(1792)の屋敷替えの後に人足寄場になったとあるが、天明の大飢饉による無宿者・浮浪人の激増は、江戸の人目に異常に影響を及ぼし、老中松平定信は適切な対策を求めて苦慮したが、火付盗賊改の長谷川平蔵宣以(のぶため)の建議により寛政三年、石川氏の隣地を埋め立て長谷川平蔵の管理の下、府内の無宿、乞食の徒、軽犯罪者をここに収容して手工業を授けた。

これが「人足寄場」と称されて幕末に及んだ。寄場には常に百数十人ほど収容され、川浚いなどの人足に出るほか、手に職のある者は大工、建具、指物、塗師などの仕事をさせ、手に職のない者は米とぎ、油絞り、炭団造り、藁細工などをさせた。毎日煙草銭十四文を与え、改悛の情が明らかになると道具と生業の元手五貫文ないし七貫文を持たせて釈放するという仕組みであった。