各地散策と歴史

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首長を訪ねて<山口県散策>

2020-09-11 09:44:16 | 逸材
 現在、総裁選(総理)の話題に事欠かない毎日だが、維新後の明治政府は徳川単独政権(幕藩体制)から近代・中央集権国家へと変わり、版籍奉還により土地(藩主管理)及び民(藩内領民)を朝廷(天皇)に戻して中央集権化を図った。その後、幾多の改革を掲げ、実行し各種制度の見直しを進め、明治18年(1885年)、伊藤博文氏が初代第一次内閣総理大臣となつた事は小学校で習った。この期に今回、林 利助こと、伊藤 博文の生家を訪ねた。
 伊藤 博文は周防国熊毛郡束荷村の農家「 ⇢ 書に寄っては貧農と書かれている事があるが、農村の村方三役(近々代の村長・助役・収入役)、庄屋を補佐する畔頭の家格を勤めた家で、古くは中世豪族・伊予国守護・湯築城主・海賊衆である河野 通起の子 河野 通重を林家の祖とする」の長男として、1841年(天保12年)に林 十蔵・こと(琴子)の間に誕生した。当時から家格と経済力が必ずしも一致しないのは武家同様、農家もあって生活は、とっても苦しかったようである。父 十蔵は1846年、萩に働きに出て中間 水井 武兵衛の下で下働きし、認められて伊藤家の武家株を購入し1854年(安政元年)、家族揃って下士 足軽の伊藤 直衛門の養子となり、伊藤 俊輔(名改正)<13才>となった。
 事後の人生は教科書、歴史書の通りだが有体に言えば元来、利助は地頭(じあたま)が良く機会毎に勉学に励み学力、知力を付け、企画・判断・調整・コミュニケイシヨン能力がある上に、行動・政治能力を備えた総合能力の高い人との印象を持った。特に激動のクライシス → クリティカル時期、そして現代社会と違って社会・政治背景も封建時代の門閥・家柄・世襲人が政治〖幕府⇢ 藩 ⇢ 町・村政吏員に至るまで〗を司っている時代、俊輔が武家の末端の身分を得たとは言え、政治能力を有するとは言え、政治中核の一員になるには課題が多く、成長期の彼に重く圧し掛かっただろう。
 初めてJR岩徳線の「高水駅」へ行ったが、無人駅で下りホ-ムに鶴の剥製が飾ってあつた。調べて見ると八代(シベリアからの渡来地)に、やって来る越冬鳥(渡り鳥のナベヅル)であり、興味をそそった。
 朝一番に散髪を済ませ、JR高水駅(無人駅)へ向かった。 〖お客様も誰一人、見ることは無かった〗






 現在のJR徳山駅 〖立派な駅舎になっていたが、お客様はポツリポツリ見るのみ、自粛規制の影響か~~············?。〗


伊藤公資料館(旧伊藤博文邸 明治43年竣工)


伊藤公の両親肖像 (林 十蔵・こと<琴子>)


林家(産湯に使った井戸は当時のまま)




庄屋を補佐する村方三役の「畔頭」家屋(幕末当時は母屋、納屋、作業場、雪隠等があったが崩れている。幕末時、家屋が破損し大正期に復元されて、さらに改修されている。現在は母屋だけとなっている。なお、土地の方にお話を聞くと幕末当時は母屋の前は小高い丘状であったが削られたとの事)


【参考 家屋建築】
他藩の庄屋宅  (半世紀以上前に歴史書に掲載された写真で、庄屋家屋は幕末当時の様子を残していると説明されている。)


庄屋家屋


ついでに旧武家屋敷を紹介したい。昔、買った古本の中に掲載されていた。立派な武家屋敷であるが、読者の中には描いていたイメ-ジに違和感を感じられる人もいると思う。幕末~明治・昭和初頭······戦中・終戦直ぐの頃までは、旧藩時代の武家・農家・商家の家屋等が多く見受けられた。特に地方の寒村に行けば尚更で、多くの記録写真が書籍として、残されている。<戦中までの地方農家の多くは旧藩時代からの茅葺屋根で、戦後は社会構造、生活様式も大きく変わった>




長州藩(藩により石高相違)中級~上級武士の「村田 清風」(家格 大組士 正四位 50~90石⇢160石)の家屋で、土地の方のお話では40年前まで民家として居住されていた。テレビ、ドラマに出て来る武家屋敷は上級武士相当以上の家屋を目にするが、目線・視線の置き所により見方は変わって来る。昨年、新撰組散策で多摩日野市を訪れたが、「土方家」「近藤家」(宮川家)も自作農家で庄屋格の家である。昔からドラマでは農民集団である「新撰組」<山口県の奇兵隊しかり>事を強く強調されるが、時代背景から90%以上を占める我々、農・商家等の庶民から見れば、旧家のリ-ダ-的位置付けにある方々である。


家屋、施設、インフラを見ると当時の生活、政治、社会環境等が良く分かる。

時間も過ぎ、帰途時間が迫ったが当熊毛郡は、総理大臣第56・ 57代「岸 信介」(旧姓 佐藤で実父生家の岸家に婿入り) & 第61代 ~第63代「佐藤 栄作」兄弟が旧熊毛郡上田布施村大字田縫の出身で車で僅か、10分程度の場所に生家があるはず。私が昔、20才過ぎの頃に友人I氏に車で案内された思い出があり、岸総理の自宅(典型的な古ぼけた武家屋敷、現在はリニュ-アルされているらしい)を鮮明に覚えている。弟様の佐藤家の自宅も近くの山沿いにあった記憶があるが~~。佐藤兄弟<父岸 秀助・母佐藤 モヨ>は山口県では夙に秀才兄弟として有名で、兄信介は東大卒の官僚・商工大臣・外務大臣、弟の栄作は東大卒の鉄道省官僚・二日市駅長・大阪鉄道局長・大蔵大臣の経歴を持つ。この兄弟の曽祖父 佐藤 寛作(信寛)は、毛利藩士(妻は徳山藩士 国広家の娘)で吉田 松陰師(寛作より15才下が松陰)に、「兵要録」を授けたと言われている。また、明治になり信寛(名改め)は、島根県令の時に萩の乱の首謀者である同じ旧毛利藩士 前原 一誠(佐世 八十郎)の逮捕に関わっている。
兄弟の父 佐藤 秀助(旧姓 岸)は、山口県 官吏で物静かな寡黙で地味な性格だったらしい。退職後の明治31年頃から、兼てより酒造権利を得ていた酒造業を営んでおられる。

【参考】【旧熊毛郡 生家現地】見学、(伊藤公資料館) (四国の松山湯築城資料館)の展示書類の閲覧及び見学、〖正伝 佐藤栄作〗〖岸 信介〗〖山口県近世史要覧〗〖昭和
     山口県人物誌〗〖萩の乱〗 〖防長維新関係者要〗〖サムライ鉄道〗(九州鉄道草創期)〖周東歴史物語〗

★ 長州藩士 遠近付(役郡奉行) 佐藤家 ---------- ★ 長州藩士 無給通 岸家 ▲  伊藤 俊輔(後に博文) 1863年(文久三年) 毛利藩 士分(正規藩士)に登用
友人に申し訳ないので、これで帰途に就いた。有難う御座いました。

友人の目的は徳山に所用、ドライブすることで私は、それに乗じて便乗させて頂いた。彼が昔、高卒後の学生時代に通っていたカレ-店に案内された。現在の周南市銀座街
 (彼は地元に住んでいたこともあり、徳山周辺地理に詳しい。素朴で昭和風のカレ-ライス、推薦店である。)

寂しい気がするが、コロナ自粛規制によるものか、人口減によるものか~···········?。


美味しいカレ-屋さん 〖本当に美味しかった、また行きたいお店である。〗<推薦店>




 【美味しいお店】
行き付けグルメ店 (広島と言えば、牡蠣とお好み焼き)が有名だが、ここ佐伯区の「お好み焼き」屋さんは、何故か美味しいです。うん美味しい<推薦店>




最後に現在、コビッド19による感染に対する予防、治療に当たっておられるお医者様、看護師、臨床検査技師等の医療関係者皆様に、敬意を持ってお礼を申し上げたい。ワクチン完成後は、いの一番に接種して頂いて我々を導いて欲しいと願っている。本当に感謝しており、個人的には国も難しい課題もあると思うが、厚遇施策を立てて頂きたいと願っている。【政治感抜きに感謝しています】