虹色オリハルコン

命にエネルギーを与えるパワーの力

命からエネルギーを奪うフォースの力

どちらを選ぶかは自分次第

「一人で死ね」論争は意識の二極分化をよく表している

2019年06月03日 | パワーかフォースか

「一人で死ね」とか、元農林省事務次官の「もう殺すしかない」とか、ドラマか小説の中だけと思っていた、ちょっとどうかと思うような毒のような言葉が、普通の日常の話題に溢れ出してきて、戦後70年以上もたって、怖い時代になったものだと思う。

川崎の事件を受けて「死ぬなら自分一人で」論争なるものが巷を賑わせている。今日のモーニングショーでも、「一人で死ね」問題が取り上げられた。

自殺に巻き込まれて殺されるのはたまったものではない。「一人で死ね」とは、被害者の立場にたった怒りがあふれた言葉で、感情的には理解できる。
反対に、公人がそれを言っちゃおしまいよ、的な、それを否定する意見もよくわかる。

自分の命を奪える人は、他人の命を奪うこともたやすくできる、ということは以前聞いたことがある。
それだけ理性を失い、追い詰められているんだと思う。だってそういうクールな判断ができるなら、自殺なんかできないだろう。

被害者の個人的感情とは別にして、「一人で死ね」は、社会が自殺を肯定しているようで、公的立場の方がそう言うべきではないと私も思う。
いくら、一タレントだとか、一アナウンサーとか言っても、マスコミに関わって、多くの人々に影響を与える立場にいるということは、それだけで公人であると思っているから・・・
「自殺なんかしてはいけない。他人を殺すこともいけない。」公人ならそう言わなければならないと思う。


数年前から、意識の二極分化について何度も書いていますが、今回、「一人で死ね」という言葉を肯定した人たちは、意識エネルギーが一様に下がってしまっていた。
反対に、それを言っちゃおしまいよ、とはっきりと言える人たちは、一様にパワーの方たちであった。

こんなところにも、目に見える形、耳に聞こえる形で、意識の二極分化は起こっているのだと改めて驚かされた。

ネット社会においては他者を傷つけるような言葉の毒も飛び交っているが、本当にそんなことでいいのだろうか。
ネットは、自分のプライベートな空間から発信しているのかもしれないが、その言葉は瞬時に世界に開かれる。世界に向かって、悪態をついているのと同じなのだということを忘れてはならない。
こんな時代だからこそ、自戒も込めて気をつけたい。

テレ朝の玉川徹さんは「もっと優しい社会を望む」と言われていたが、毒は毒だと自覚するために出てきた毒ならば、それもまた、次の時代の「やさしい社会」へ向かうプロセスの一環ではないかと、勝手ながら感じることもある。


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