僕は、何をしているんだろう。
「生き甲斐」とか「人生の目的」といったありがちな言葉がちらつく。
少し前まではそうだと思っていた。
人生の岐路に立って何かを迷っているのだと思っていた。
でも最近それは認識間違いだと思い始めた。
僕は迷っているのではなくて探しているのだと。
世界の色、懐かしい景色、夢で見たあの場所、新しい感性、昔好きだった女の子の匂い、
そういった一つ一つの欠片を当ても無く探している。
けれどじつはそれらに近い感覚でありながら
全く違うものを探している。
とりあえず仮に、”デジャブ”を探している、と例えることにしよう。
では何故僕は”デジャブ”を探すのか。
この問いも自分自身の中でさんざん繰り返してきたような気がする。
一つには僕が生き生きとした人生を送っていないがために、
自分の幸福を探しているのだという説がある。
しかし冷静に考えればこれはおかしい。
僕にはいくらかの金があり、何人かの友人が居て、時間もたっぷりとある。
衣食住にも困ってないし、特に深刻な病気も無い。
僕が欲っしているのはもっと別の『何か』
『神からの祝福のようなもの』であって達成感では無いからだ。
しかも僕は他人を信じていないので宗教も信じていない。
僕の言語が意味する神とはただの比喩であり
そこには実体も無く万物の創世者たるような最高の存在も無い。
要するに神とはXなのだ。
解らないからχを当てはめているに過ぎない。
そのχから祝福されたいというのだから
これはもう贅沢病というしかないのかもしれない。
けれど確かに僕はデジャブを探しているのだから、これまたどうしようもない。
ピーターパン症候群よりタチが悪い。
そして僕がデジャブを探す理由も見つかった時にしか解らない。
バズルの欠片は見つかってピッタリとハマった瞬間にしか意味は解らない。
欠片は物事の断片でしか無いのだから。
断片から理由を推測するならば、
「僕は人間だからデジャブを探している」
とするのが一番しっくりとくる言葉だろう。
そして答えてしまうとそんなものは言葉遊びにしかならない事を思い知らされる。
結局この文章もただの駄文だ。ちくしょう。
「生き甲斐」とか「人生の目的」といったありがちな言葉がちらつく。
少し前まではそうだと思っていた。
人生の岐路に立って何かを迷っているのだと思っていた。
でも最近それは認識間違いだと思い始めた。
僕は迷っているのではなくて探しているのだと。
世界の色、懐かしい景色、夢で見たあの場所、新しい感性、昔好きだった女の子の匂い、
そういった一つ一つの欠片を当ても無く探している。
けれどじつはそれらに近い感覚でありながら
全く違うものを探している。
とりあえず仮に、”デジャブ”を探している、と例えることにしよう。
では何故僕は”デジャブ”を探すのか。
この問いも自分自身の中でさんざん繰り返してきたような気がする。
一つには僕が生き生きとした人生を送っていないがために、
自分の幸福を探しているのだという説がある。
しかし冷静に考えればこれはおかしい。
僕にはいくらかの金があり、何人かの友人が居て、時間もたっぷりとある。
衣食住にも困ってないし、特に深刻な病気も無い。
僕が欲っしているのはもっと別の『何か』
『神からの祝福のようなもの』であって達成感では無いからだ。
しかも僕は他人を信じていないので宗教も信じていない。
僕の言語が意味する神とはただの比喩であり
そこには実体も無く万物の創世者たるような最高の存在も無い。
要するに神とはXなのだ。
解らないからχを当てはめているに過ぎない。
そのχから祝福されたいというのだから
これはもう贅沢病というしかないのかもしれない。
けれど確かに僕はデジャブを探しているのだから、これまたどうしようもない。
ピーターパン症候群よりタチが悪い。
そして僕がデジャブを探す理由も見つかった時にしか解らない。
バズルの欠片は見つかってピッタリとハマった瞬間にしか意味は解らない。
欠片は物事の断片でしか無いのだから。
断片から理由を推測するならば、
「僕は人間だからデジャブを探している」
とするのが一番しっくりとくる言葉だろう。
そして答えてしまうとそんなものは言葉遊びにしかならない事を思い知らされる。
結局この文章もただの駄文だ。ちくしょう。