大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

今日は食堂車の日!

2019年05月25日 | 鉄道

5月25日は食堂車の日です!

1899(明治32)年の今日(5月25日)、当時の山陽鉄道(現在のJR西日本の山陽本線)・京都駅~三田尻駅(現在の防府駅)間の急行列車の1本に、日本で初めて食堂車が連結されました

食堂車といっても1等車(現在のグリーン車)との合造車で、どちらかというと1等車の客にサービスを提供するための付属設備といった側面が強いものでした。 そのせいもあって座席はわずかに8席と少なく、食堂室の中央に大型テーブルが設けられていました。
この車両は山陽1227~1229の3両(国有化後のホイシ9180~9182)で、山陽鉄道の兵庫工場で製造されましたが、アメリカの車両を参考にしたそうです。

食堂車の営業も山陽鉄道が直営で行いましたが、1・2等車の客に利用を限定していたことや、和食よりも洋食の方が調理加工の幅が単純だったので、当初は洋食のみを提供していました。

しかし、食堂車の利用が上級旅客に限られていたため、経営的にはとても成り立つものではなかったらしく、翌年の1900(明治33)年に神戸の「自由亭ホテル」(後の「みかど」)に食堂車の運営を委託しました。
自由亭のメニューはすべて西洋料理で、列車と同じように等級制になっており、1等が70銭、2等が50銭、3等が35銭でした。 ほかにコーヒーやビールなども提供されましたが、いずれをとっても当時としてはかなり高額でした。

その後、1906年(明治39)年4月1日に新橋駅~神戸駅間の三等急行列車に和食堂車が初登場し、誰でも食堂車を利用できるようになりました。メニューは日常の生活習慣などを考慮して和食が主体でしたが、一般に普及している洋食も提供されました。

そして、かつては長距離特急列車には必ずと言っていいほど連結されていた食堂車も、航空機やバスなどの発達による鉄道の地位低下や長距離を短時間で結ぶ高速鉄道の普及、食形態の多様化により時代とともに数を減らし、、2000(平成12)年3月に東海道・山陽新幹線「グランドひかり」での営業終了により乗客が予約なしで気軽に出向き注文をする形態が消滅しました。厳密にはそれ以降も事前にみどりの窓口や旅行会社などでディナー券・食事予約券を予約購入する完全予約制の夕食時間帯を除いた本州対北海道間の寝台特急列車で残存していましたが、こちらも2016(平成28)年までに全廃されました。


天北線が廃止された日!

2019年05月01日 | 鉄道

天北線は、北海道中川郡音威子府村の音威子府駅から稚内市の南稚内駅までを結んでいた全長148.9kmの全線単線非電化のローカル線でした。

(音威子府)-上音威子府ー小頓別ー上頓別ー恵野ー敏音知ー周麿ー松音知ー上駒ー中頓別ー寿ー新弥生ー下頓別ー常盤ー浜頓別ー山軽ー安別ー飛行場前ー浅茅野ー猿払ー芦野ー鬼志別ー小石ー曲淵ー沼川ー樺岡ー恵北ー声問ー宇遠内ー(南稚内)

天北線は、日本統治下の南樺太への連絡鉄道として建設された宗谷本線の当初のルートでした。音威子府から稚内へは天塩線ルートの方が短距離であるにもかかわらず、大きく迂回する北見線ルートが先行し、1922(大正11)年11月1日に稚内まで全通しました。
しかし、1926(大正15)年9月25日に音威子府~南稚内間に、より距離の短い天塩線が幌延経由のルートで開通すると、1930(昭和5)年4月1日に天塩線が宗谷本線に編入され、音威子府~浜頓別経由~稚内の旧来のルートは北見線として分離されました。

そして、1942(昭和17)年6月10日に常呂郡野付牛町が市制施行して北見市となり、網走本線の野付牛駅も同年10月1日に北見駅に改称されていたことから、1961(昭和36)年10月1日の全国的なダイヤ改正を機に北見線は天北線に改称されました。さらに、稚内駅から札幌駅直通の急行「天北」も走り始め、当初は連日満員の盛況ぶりでした。

しかし、天北線は昭和40年頃から貨物・利用者共にが減少し、1981年の営業係数(100円の売り上げを得るために必要な費用)は887にまでなっていました。そのため、1980(昭和55)年12月27日の国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)施行による特定地方交通線選定の際には第2次特定地方交通線に選定されますが、営業キロが148.9kmもあった長大路線であったため地元の自治体が特別な配慮を求めたことや、沿線道路が未整備だったため、冬季の代替輸送に問題があるとして一時廃止承認が保留されたものの、その後、運輸省(現・国土交通省)の調査結果を受けて1985(昭和60)年8月2日に追加廃止承認されてしまいます。 沿線自治体は天北線対策協議会を開いて存続運動を展開しますが、1988(昭和63)年に開かれた第4回対策協議会でやむなくバス転換を受け入れました。

そして天北線は、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継された後、1989(平成元)年5月1日に廃止されました。

ちなみに、廃止時まで急行「天北(札幌~稚内)」が運行されていましたが、第三セクター鉄道など他の事業者に運営を引き継ぐことなく、優等列車が運行された状態で全線廃止となった路線は、国鉄・JRの歴史上当線が初めてでした。

 

 
(上音威子府駅)

 
(小頓別駅)

 
(上頓別駅)

 

 
(敏音知駅)

 
(松音知駅)

 
(中頓別駅)

 
(下頓別駅)

 
(浜頓別駅)

 
(飛行場前駅)

 
(浅茅野駅)

 
(猿 払 駅)

 
(芦 野 駅)

 
(鬼志別駅)

 
(小 石 駅)

 
(曲 淵 駅)

 
(沼 川 駅)

 
(樺 岡 駅)

 
(恵 北 駅) 


鍛冶屋線が廃止された日!

2019年04月01日 | 鉄道

鍛冶屋線は、兵庫県西脇市の野村駅(現在の西脇市駅)と兵庫県多可郡中町の鍛冶屋駅とを結んでいた全長13,2kmの全線単線非電化のローカル線でした。

(野村)-西脇ー市原ー羽安ー曽我井ー中村町ー鍛冶屋

鍛冶屋線は、1923(大正10)年5月6日に播州鉄道が全通させました。 播州鉄道はこの地方の特産品である酒造米の山田錦の輸送を主たる目的に、加古川を起点にして高砂・谷川・三木・北条・鍛冶屋と5方向へ路線を開業させましたが、やがて経営不振に陥り、1923年12月21日に播丹鉄道へ譲渡します。 しかし、その播丹鉄道も太平洋戦争中の1943(昭和18)年6月1日に戦時体制の国に買収されて、国鉄鍛冶屋線となりました。

この鍛冶屋線も昭和40年頃からモータリゼーションの普及とと地場産業の変化に伴い、旅客・貨物輸送量共に年々減少していき、1984(昭和59)年の営業係数(100円の収入を得るのに必要な費用)は1026にまでなっていました。 こうしたことから、1980(昭和55)年12月に施行された国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)により、鍛冶屋線は1987(昭和62)年2月3日に第3次特定地方交通線として廃止承認されます。 地元では鍛冶屋線特定地方交通線対策協議会を開いて第三セクター鉄道への転換やバス転換などいろいろ協議し、当初は第三セクター化が有力視されていましたが、先に第三セクター化された北条鉄道・三木鉄道がいずれも転換当初から経営難に直面したため兵庫県が支援に難色を示した結果、1988(昭和63)年12月に全線を廃止してバス転換することに決定しました。

そして鍛冶屋線は、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継された後、1990(平成2)年4月1日に廃止されました。
ちなみに、廃止後の路線跡地は自転車道として整備され、市原駅跡や鍛冶屋駅跡が鉄道記念資料館として整備されています。

  <鍛冶屋線の年表>

 ・1913(大正2)年8月10日:播州鉄道が国包駅(現在の厄神駅)~西脇駅間を延伸開業、西脇駅が開業
 ・1913(大正2)年10月22日:野村駅(現在の西脇市駅)が開業
 ・1921(大正10)年5月9日:西脇駅~市原駅間が延伸開業、市原駅が開業
 ・1923(大正12)年5月6日:市原駅~鍛冶屋駅間が延伸開業、羽安停留場・播鉄中村駅・鍛冶屋駅が開業
 ・1923(大正12)年12月21日:播州鉄道が播丹鉄道に譲渡される
 ・1943(昭和18)年6月1日:播丹鉄道が国有化され、野村駅~鍛冶屋駅間が国鉄鍛冶屋線となる
 ・1943(昭和18)年6月1日:播鉄中村駅が中村町駅に改称され、羽安停留場が駅に昇格する
 ・1958(昭和33)年11月11日:加古川線管理所が設置される
 ・1961(昭和36)年10月1日:曽我井仮乗降場が開業
 ・1961(昭和36)年12月20日:曽我井仮乗降場が駅に昇格する
 ・1970(昭和45)年4月1日:加古川線管理所が廃止される
 ・1974(昭和49)年10月1日:貨物取扱い廃止
 ・1984(昭和59)年2月1日:荷物取扱い廃止
 ・1987(昭和62)年2月3日:第3次特定地方交通線として廃止承認される
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継される
 ・1988(昭和63)年12月:対策協議会において全線を廃止してバス転換することが決定される
 ・1990(平成2)年4月1日:全線が廃止される

 
(廃止前の鍛冶屋駅)

 
(廃止前の中村町駅)

 
(廃止前の羽安駅)

 
(廃止前の市原駅)

 
(廃止前の西脇駅)


旧国鉄伊勢線が伊勢鉄道に転換された日!

2019年03月27日 | 鉄道

旧国鉄伊勢線は、南四日市駅と津駅とを結んでいた全長26,0kmの全線非電化のローカル線でした。

(南四日市)-河原田ー鈴鹿ー玉垣ー中瀬古ー河芸ー東ー身田ー(津)

従来、名古屋・四日市方面と南紀(尾鷲・新宮)・伊勢志摩(伊勢市・鳥羽)方面間を行き来するには、四日市市から津市の間で伊勢湾沿岸から外れて、関西本線・紀勢本線の結節点である亀山駅を経由しなければならない上に、同駅で列車の方向転換が必要とされており、所要時間の面で障害となっていました。 このため、関西本線の南四日市駅と紀勢本線の津駅の間を方向転換せずに短距離で結ぶ短絡線として日本鉄道建設公団により主要幹線として1965(昭和40)年11月から建設が始められ、1973(昭和48)年9月1日に国鉄伊勢線として開業しました。

しかし、伊勢線沿線の工業開発計画は四日市ぜんそくに端を発して猛反対にあったことから頓挫してしまい、伊勢線の開業時には1日に特急「くろしお」1往復、急行「紀州」3往復、普通7往復しか運転されませんでした。並行している近鉄名古屋線では同時期に、特急44往復、急行34往復、準急9往復、普通62往復も運転されていたので、伊勢線の利用者は非常に少なかった。
そのため、伊勢線単独での利用者数は伸び悩み、開業10年後の1983(昭和58)年には営業係数(100円の売り上げを得るために必要な費用)が646にまで上がっていました。その結果、1980(昭和55)年12月27日に施行された国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)により、伊勢線は第2次特定地方交通線として廃止承認されてしまいます。

そして、伊勢線特定地方交通対策協議会において1986(昭和61)年9月29日に第三セクター鉄道への転換を決定し、国鉄分割民営化直前の1987(昭和62)年3月27日に伊勢線は廃止され、伊勢鉄道に転換されました。

  <伊勢線の年表>

 ・1961(昭和36)年6月16日:鉄道敷設法の改正により、四日市~津間が予定線に追加される
 ・1964(昭和39)年4月22日:鉄道敷設審議会により、日本鉄道建設公団の工事線となる
 ・1965(昭和40)年11月4日:工事着工
 ・1973(昭和48)年9月1日:国鉄伊勢線として南四日市~津駅間(26.0km)が開業
 ・1973(昭和48)年10月1日:特急「くろしお」のうち、名古屋発着1往復と急行「紀州」の一部が亀山駅経由から当線経由に変更される
 ・1978(昭和53)年10月2日:名古屋発着の特急「くろしお」が廃止され、特急「南紀」の運転開始
 ・1982(昭和57)年10月2日:一部列車が当線を経由し鈴鹿駅に停車していた急行「紀州」がすべて亀山駅経由に変更される(急行「紀州」は1985年3月13日に廃止)
 ・1984(昭和59)年6月22日:第2次特定地方交通線として廃止承認される
 ・1986(昭和61)年9月22日:伊勢線特定地方交通対策協議会で国鉄伊勢線の代替輸送計画決定
 ・1986(昭和61)年9月29日:第三セクター鉄道への転換を決定
 ・1987(昭和62)年3月27日:伊勢線が廃止され、伊勢鉄道に転換される

 


宮田線が廃止された日!

2016年12月23日 | 鉄道

宮田線は、筑豊本線の勝野駅と筑前宮田駅とを結んでいた全長5,3kmの全線単線非電化のローカル線でした。

(勝野)ー磯光ー筑前宮田

筑豊地区有数の炭鉱だった貝島炭鉱から掘り出された石炭の輸送のため、九州鉄道の貨物線として1902(明治35)年2月19日に開業した宮田線は、最盛期には各駅から総延長20kmにも及ぶ専用鉄道が伸びていたほど繁栄していました。 しかし、その後の国の石炭政策の変化に伴って貝島炭鉱が閉山したことにより、宮田線は主力だった貨物輸送を失い、それとともに旅客輸送も減少していき、1980(昭和55)年12月27日に施行された国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)によって宮田線は1987(昭和62)年2月3日に第3次特定地方交通線として廃止承認されます。

そして、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化により九州旅客鉄道(JR九州)に承継された後、1989(平成元)年12月23日に廃止されました。
ちなみに、宮田線は九州では最後まで残っていた特定地方交通線でした。

  <宮田線の年表>

 ・1902(明治35)年2月19日:九州鉄道の貨物線として開業
 ・1907(明治40)年7月1日:鉄道国有法により九州鉄道が国有化されて、国鉄の貨物線となる
 ・1909(明治42)年10月12日:国鉄線路名称制定により筑豊本線の貨物支線となる
 ・1912(明治45)年7月21日:線路名が桐野線に改称され、旅客営業を開始する
 ・1937(昭和12)年8月20日:線路名が宮田線に改称される
 ・1982(昭和57)年11月15日:貨物営業を廃止
 ・1987(昭和62)年2月3日:第3次特定地方交通線として廃止承認される
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により九州旅客鉄道(JR九州)に承継される
 ・1989(平成元)年12月23日:全線が廃止される

 
(廃止前の磯光駅)

 
(廃止前の筑前宮田駅)


 撮影年月日:1989(平成元)年2月21日