大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

姫新線 播磨新宮駅!

2020年03月31日 | 

兵庫県たつの市新宮町にあるJR西日本の播磨新宮駅は、山陽本線の姫路駅から津山駅を経て新見駅までを結んでいる全線単線非電化の姫新線(158,1km)の一般駅として、1932(昭和7)年7月11日に開業しました(開業時は姫津線に所属)。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の計2面3線を有していて、列車交換可能な業務委託駅です。
開業時に建てられた木造駅舎(旧駅舎)は、2010(平成22)年9月に新しい橋上駅舎に建て替えられました。

2018(平成30)年度の1日の平均乗降人員は2,479人で、これは起終点駅を除く姫新線の34駅中5位です。

この播磨新宮駅はたつの市の新宮町域の代表駅で、かつて1989(平成元)年3月11日のダイヤ改正まで線内を走っていた大阪発の急行「みささ(大阪~鳥取間)」「みまさか(大阪~中国勝山間)」も停車していました。

播磨新宮駅が属する姫新線は、山陽地方と山陰地方とを結ぶ陰陽連絡路線の1つとして建設され、かつては大阪発の急行「みささ(大阪~鳥取間)」「みまさか(大阪~中国勝山間)」も運転されていましたが、その後、モータリゼーションの普及により1970年代(昭和50年代)以降は利用者が減少し、1989(平成元)年3月11日のダイヤ改正で線内唯一の優等列車だった急行「みささ」「みまさか」が廃止されてからは、陰陽連絡路線や津山市と京阪神とを結ぶ役割を失い、今は地域輸送が中心となっています。

  <播磨新宮駅の年表>

 ・1932(昭和7)年7月11日:国鉄姫津線の終着駅として開業
 ・1934(昭和9)年3月14日:姫津線が三日月駅まで延伸したことにより、途中駅となる
 ・1934(昭和9)年11月28日:姫津線が姫津東線に改称されたのに伴い、同線の駅となる
 ・1936(昭和11)年4月8日:姫津東線が姫津線の一部となり、同線の駅となる
 ・1936(昭和11)年10月10日:姫津線が姫新線の一部となり、同線の駅となる
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる
 ・1991(平成3)年4月1日:鉄道部制度の導入に伴い、神戸支社から姫路鉄道部の直轄に変更になる
 ・2009(平成21)年8月10日:台風9号の被害により当駅 ~美作江見駅間が不通となったことに伴い、営業休止  
 ・2009(平成21)年8月21日:営業再開 
 ・2009(平成21)年8月22日:橋上駅舎化工事に伴い、仮駅舎に移転
 ・2010(平成22)年9月12日:橋上駅舎の供用開始
 ・2013(平成25)年8月1日:駅構内終日全面禁煙化
 ・2016(平成28)年3月26日:IC乗車カード「ICOCA」の利用が可能になる

 
(駅 名 標)

 
(左は2001年12月23日撮影:佐用方面を望む:右は2016年1月3日撮影)

 
(左は旧駅舎:右は現在の駅舎)


 撮影年月日:2001(平成13)年12月23日、2016(平成28)年1月3日


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京阪電鉄交野線 村野駅!

2020年03月30日 | 

大阪府枚方市村野本町にある村野駅は、枚方市駅から大阪府交野市の私市駅までを結んでいる京阪電鉄交野線(6.9km)の駅です。
もともとは信貴生駒電鉄枚方線の駅として、1929(昭和14)年5月1日に開業しました。

5両分の有効長をもつ相対式ホーム2面2線を有する有人駅です。
平屋の駅舎(改札口)が下りホーム(私市方面行きホーム)側にあり、上りホームへは地下通路で連絡しています。

2018(平成30)年度の1日の平均乗降人員は4,866人で、これは起終点駅を含む交野線の全8駅6中位です。

村野駅が属する京阪電鉄交野線は、大阪への通勤路線であるとともに、私市周辺の行楽地への路線でもあり、また、京阪本線とJR片町線(学研都市線)を結ぶバイパスとしての機能も果たしています。

  <村野駅の年表>

 ・1929(昭和14)年5月1日:信貴生駒電鉄枚方線の駅として開業
 ・1939(昭和14)年5月1日:信貴生駒電鉄が路線を交野電気鉄道に譲渡したことにより、同鉄道交野線の駅となる
 ・1945(昭和20)年5月1日:京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)が交野電気鉄道を合併したことにより、同鉄道の駅となる
 ・1949(昭和24)年12月1日:京阪神急行電鉄から京阪本線・交野線・宇治線・京津線・石山坂本線の各路線が分離譲渡される形で京阪電気鉄道(2代目)が発足したことにより、同鉄道の駅となる
 ・1969(昭和44)年4月5日:駅舎を改良、構内地下通路が完成したことにより、構内踏切の廃止
 ・1971(昭和46)年6月6日:当駅~宮之阪駅間が複線化
 ・1972(昭和47)年4月2日:当駅~交野市駅間が複線化
 ・1986(昭和61)年4月1日:朝と夕方のラッシュ時に禁煙タイムを実施
 ・1989(平成元)年10月1日:プリペイドカード「Kカード」の利用が可能になる
 ・1994(平成6)年5月1日:喫煙所を除き駅構内終日全面禁煙化
 ・1999(平成11)年4月1日:「スルッとKANSAI」対応カードが利用可能になる
 ・2004(平成16)年8月1日:ICカード「PiTaPa」の利用が可能になる
 ・2006(平成18)年1月21日:ICカード「ICOCA」の利用が可能になる
 ・2013(平成25)年3月23日:IC乗車カード全国相互利用開始により、TOICA・manaca・Suica・PASMO・Kitaca・SUGOCA・nimoca・はやかけんが利用可能になる
 ・2014(平成26)年11月17日:身体障害者対応エレベーターが完成
 ・2015(平成27)年2月20日:多目的トイレが完成
 ・2015(平成27)年4月1日:駅ナンバリングの導入

 
(駅 名 標)

 
(私市駅方面を望む)

 
(枚方市駅方面を望む)

 
(村野駅駅舎)

 
(駅 舎 内)


 撮影年月日:2019(令和元)年12月8日


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今日は足尾線がわたらせ渓谷鉄道に転換された日!

2020年03月29日 | 鉄道

3月29日は足尾線がわたらせ渓谷鉄道に転換された日です。

旧国鉄足尾線は、群馬県桐生市の桐生駅と栃木県日光市の間藤駅とを結んでいた全長44.1kmの全線単線非電化のローカル線でした。

(桐生)-相老ー大間々ー上神梅ー水沼―花輪ー小中ー神戸ー沢入ー原向ー通洞ー足尾ー間藤ー(足尾本山)

この足尾線は、もともとは足尾銅山から産出される鉱石輸送のために足尾鉄道が敷設した路線でしたが、当時鉱石輸送は国策上重要だったことから、1918(大正7)年6月に国有化されて国鉄足尾線となりました。

足尾銅山は最盛期には日本国内の銅産出量の約40%を占めていましたが、やがて資源の枯渇により1973(昭和48)年2月28日をもって採掘を停止し閉山しました。その後も輸入鉱石の製錬が継続されたものの、1986(昭和61)年にはそれも縮小され、足尾線による鉱石、精錬用の硫酸の輸送も廃止されました。 
この足尾銅山の衰退と歩調を合わせるように足尾線の輸送量も減少し続け、営業係数(100円の売り上げを得るために必要な費用)は677にまで上がっていました。 その結果、1980(昭和55)年12月27日に施行された国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)により、足尾線は1984(昭和59)年9月11日に第2次特定地方交通線として廃止承認されてしまいます。

そして、国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道(JR東日本)の承継された後、1989(平成元)年3月29日に第3セクターのわたらせ渓谷鉄道に転換されました。

  <足尾線の年表>

 ・1911(明治44)年4月15日:足尾鉄道の下新田連絡所~大間々町間が開業
 ・1912(明治45)年7月1日:相生駅が相老駅に改称される
 ・1912(大正元)年9月5日:大間々町~神土(現在の神戸)間が延伸開業
 ・1912(大正元)年11月11日:神土~沢入間が延伸開業
 ・1912(大正元)年12月1日:大間々町駅が大間々駅に改称される
 ・1912(大正元)年12月31日:沢入~足尾間が延伸開業
 ・1914(大正3)年8月25日:足尾~足尾本山間の貨物支線が開業
 ・1914(大正3)年11月1日:間藤駅が開業、足尾~間藤間の旅客営業開始
 ・1918(大正7)年6月1日:足尾鉄道が国有化されて、国鉄足尾線となる
 ・1959(昭和34)年9月8日:草木駅を新設
 ・1960(昭和35)年11月18日:小中駅を新設
 ・1973(昭和48)年6月27日:神土~沢入間を草木トンネル経由の新線に付け替えたたことにより、草木駅廃止
 ・1984(昭和59)年9月11日:第2次特定地方交通線として廃止承認
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継
 ・1989(平成元)年3月29日:第3セクターのわたらせ渓谷鉄道に転換される

 
(国鉄足尾線時代の駅名標)

  
(左は硬券入場券:右は硬券乗車券)


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今日は三ツ矢サイダーの日!

2020年03月28日 | 今日は何の日

3月28日は三ツ矢サイダーの日です!  

アサヒ飲料株式会社が自社の「三ツ矢サイダー」をPRするために、2004(平成16)年に3月28日を「三ツ矢サイダーの日」に制定しました。

日付は「み(3)つ(2)や(8)」の語呂合わせです。

 《三ツ矢サイダーの起源》

明治時代になり、当時多数来日していた外国の要人向けに良質な水を提供する必要が生じたため、明治政府は日本全国で積極的な水質調査を行いました。 
1881(明治14)年にイギリス人の理学者ウィリアム・ガウランドが兵庫県多田村平野(現在の川西市平野)の平野鉱泉の水を分析したところ、炭酸ガスを多く含み「理想的な鉱泉」と認定したので、宮内省が当地に炭酸水を汲む御料工場を建設しました。 その後、御料工場は三菱に払い下げられ、権利を得た明治屋が1884(明治17)年に炭酸水をびんに詰め、「三ツ矢平野水」と「三ツ矢タンサン」を発売しました。 この「三ツ矢平野水」は、夏目漱石や宮沢賢治も愛用し、1897(明治30)年には、宮内省から東宮殿下(後の大正天皇)の御料品にも指定されました。

1909(明治42)年には、「三ツ矢シャンペンサイダー」を価格10銭で発売しますが、シャンパンの名称はフランスのシャンパーニュ地方で生産された物以外は使えないということになり、1968(昭和43)年に「三ツ矢サイダー」へ改称しました。

 《三ツ矢の名前の由来》

平安時代の中期、源義仲が城を築くため、現在の大阪市住吉区にある住吉大社に祈念したところ、「矢の落ちたところを居城にせよ」との神のお告げがあったので、源義仲が三ツ矢羽根の矢を天に向けて放つと、矢は火を吹いて飛んでいき見えなくなりました。 探してみると、その矢は多田沼に棲みついていて住民を苦しめていた「九頭の竜」に命中していたので、義仲は多田に城を建て、この矢を探すのに功労が大きかった孫八郎という男に、領地と「三ツ矢」の姓と三本の矢羽根を与えたのです(これが後に三ツ矢マークとなる)。


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北陸本線 湯尾駅!

2020年03月27日 | 

福井県南条郡南越前町にあるJR西日本の湯尾駅は、米原駅から敦賀、福井を経て金沢駅までを結んでいる北陸本線(177.6km)の駅です。 もともとは湯ノ尾信号場として1943(昭和18)年4月10日に開設し、その後、旅客駅に昇格して湯尾駅になりました。

相対式ホーム2面2線を有する無人駅です。
ログハウス風の簡易駅舎が上りホーム(米原方面行きホーム)側にあり、下りホームへは跨線橋で連絡しています。

2018(平成30)年度の1日の平均乗降人員は188人で、これは起終点駅を除く北陸本線の全42駅中37位です。

湯尾駅が属する北陸本線は、2015(平成27)年3月13日までは米原駅から新潟県上越市の直江津駅までの路線でしたが、同年3月14日の北陸新幹線金沢延伸開業に伴い、並行在来線となる金沢駅~直江津駅間がJR西日本から経営分離され、石川県部分は「IRいしかわ鉄道」、富山県部分は「あいの風とやま鉄道」、新潟県部分は「えちごトキめき鉄道」と、それぞれ各県ごとに設立された第三セクター鉄道会社に移管されました。

  <湯尾駅の年表>

 ・1943(昭和18)年4月10日:国鉄北陸本線の湯ノ尾信号場として開設
 ・1948(昭和23)年9月1日:旅客駅に昇格して湯尾駅となる
 ・1971(昭和46)年3月25日:駅の無人化、荷物取扱い廃止
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる
 ・1995(平成7)年10月1日:金沢支社の管轄から福井地域鉄道部の直轄に変更になる
 ・2018(平成30)年9月15日:IC乗車カード「ICOCA」の利用が可能になる

 
(駅 名 標)

 
(金沢方面を望む)

 
(米原方面を望む)

 

 
(湯尾駅駅舎)


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