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ある特務諜報員の手記 アイヌ1

2019-10-16 17:10:51 | 日記

ある特務諜報員の手記

数年前からアイヌへの関心が高まっており、各地の資料館や博物館を訪れたり、地道に本を繙いたりしているが、昨年暮れに、全くもって驚くべき本に出会ってしまった。
 
『まつろはぬもの 松岡洋右の密偵となったあるアイヌの半生』2010年/寿郎社 『戦場の狗 ―ある特務諜報員の手記』1993年/筑摩書房 いずれも、和名・和気市夫、アイヌ名をシクルシイと名乗る男性の手記だ。
和気シクルシイ氏は、大正9(1920)年に屈斜路にあるコタン(アイヌの集落)に産まれた。
 
 母はエカシ(アイヌの長老)の娘、父は祖父とともに和歌山から流れてきた屯田兵上がりの山っ気のある和人だった。
 
父は早くから家を出たため、彼は母からさまざまなアイヌの教えを受けて育つ。
 
 シクルシイ4歳の時、彼はその天才を見込まれて小学校中級に編入、正体不明の権力者の援助で飛び級に次ぐ飛び級を重ね、夜間は英語の特別教育を受け、やがて8歳の時に母親の下を離れて旭川の商業高校に入り、ロシア語・フランス語・中国語を叩き込まれる。
11歳になると、満州はハルピンの亡命ロシア人家族のもとに送られ、モンゴル語・ラテン語・ギリシャ語と、格闘技、武器爆薬の扱い方、無線・暗号などの徹底した訓練を受ける。
 
 そしてある日、大連に呼び出された彼は、満鉄の副総裁である松岡洋右と対面し、自分が満鉄の極秘プロジェクトによって選抜された人間であると知らされ、松岡の口から、今後の自分に科せられた任務を告げ られる。
ハルピンでの特別教育を終えると、彼は北京に移り、今度は中国人・薫之祥(クン・ズシアン)として、ロッカフェラー財団傘下の燕京大学人類学部多言語科に籍を置き、ユダヤ系ハンガリー人スタニスロー氏に師事する。
 
 氏の学術調査の助手としての生活は、インドでの丸一年の滞在や中南米での長期的な遺跡調査などを含め、世界中を移動しながら7年間にわたり、南カリフォルニア大学に籍を置いて、言語学と人類学の2つの分野で博士号を取得する。
1938年、18歳の時に日本人として帰国し、築地6丁目の教育隊で、変装、乗馬、麻薬などに関する訓練を受け、1年のカリキュラムを3ヶ月で終えると、大本営で陸軍少尉の辞令を受け憲兵隊に配属、中国大陸全地域での情報活動を命ぜられる。
 
彼は命令にしたがって、新京から羊飼いのキャラバンの一員となって満ソ国境を越え、ノモンハン事件の起きた場所を調査する。
 
 報告を終えると天津に拠点を移し、松岡の口利きで、日本の商社・岩井商店や、阿片を取り扱う魯花貿易公司の庇護の下、幫(パン)と呼ばれる中国の秘密結社の作法を会得して、延安、西安、蘭州と周り、次いで黎城での日本軍の暴行・略奪の実情を調査、その後は街全体が要塞と噂される重慶の地下に潜入して情報を収集、そのあと南京へ回って、4年前の南京大虐殺の後始末のようすを観察した。
 
そのあと、日本軍の南下政策を追うようにインドシナ半島を巡り、日本軍の阿片密造工場を発見し(のちに魯花公司が破壊)、非戦闘員の虐殺や組織的な女性陵辱、窃盗などの数々の証言を集めた。
1945年、マレー半島からインドネシア、フィリピンに出て情報収集したのちに、北京に戻ったところで日本の敗戦が決まった。
 
彼は中国国民政府公安部にスパイ容疑で逮捕され、3ヶ月にわたる取調べと拷問に続き、
 
土牢に2ヶ月間監禁されたあと、瀕死の状態で極東裁判の重要証人として東京に送還されるが、松岡洋右の死をもって不起訴となり、
 
米ソ交渉の結果、仮釈放の状態のまま、GHQが接収した第一生命保険ビルの一室で米国対敵情報部隊の指揮下に入ることになった―― 。
本人の証言のままにシクルシイ氏の半生を要約すると、以上のようになる。
(つづく)

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