韓国人はなぜデモがそんなに好きなのか
Why Do South Koreans Protest So Much?
<大統領退陣要求から「反日」まで、デモが当たり前の日常を生む政府と一般市民の成熟しない関係。デモに揺れ過ぎる韓国の政治的欠陥とは>
韓国の首都ソウルではいつであれ、何らかの抗議行動に遭遇せずに街中を歩くのは無理な相談だ。
最近では日本の輸出管理強化への抗議、または朴槿恵(パク・クネ)前大統領の弾劾訴追につながった2016年の退陣要求デモなど、韓国では大規模な抗議運動がたやすく組織され、社会のあらゆる層から広く参加者が集まる。
ソウルの路上に遍在するデモは、韓国の政治文化に特有のある側面を浮き彫りにする。
韓国の一般市民と国家の関係を理解する上で不可欠な側面だ。
1948~87年まで独裁政権が長く続いた時代、抗議活動は国家に苦情を申し立てる唯一の手段と受け止められていた。
だが自由民主主義国家に転じてからも、理論上は利益団体が政治に及ぼす影響力が拡大したにもかかわらず、制度の枠組みの外での集団行動は民衆にとって自らの関心や懸念を表明する主要な手法であり続けている。
その一因は、独裁政権時代の後遺症が尾を引くなか、国家と民衆の間に系統だった相互作用が存在しないことにある。
民主化によって市民は投票権を手にしたものの、政府との適切な仲介役となる国内組織はいまだに不在。
そのせいで政策決定プロセスへの市民社会の参加が妨げられている。
だからこそ、デモが一種の疑似的な権限獲得の手段になる。
市民は自らに影響力があるとの感覚を手にするが、そこには国家の行動に対する洗練された形の関与が伴わない。
抗議活動は特定の問題を明らかにする上で極めて有用だが、それでは政府と共同で政策を策定・立案・施行・監視する能力を、市民社会は得られない。
韓国以外の自由民主主義国では、強力な協調体制を築く利益団体がこうした役割を担っている。
独自の予算や確かな組織的能力を有する団体は、政府と持続的かつ緊密な関係を持つことができる。
一方、韓国ではこのプロセスがそこまで洗練されていない。
政策決定に助言を得ようと国会での公聴会や論議に利益団体を招いても、国会内の結束不足と議員間の対立があまりにひどいため、せっかくの意見もかき消されがちになる。
悪名高い一例が、2008年に開始された4大河川再生事業だ。
是非をめぐる論争が3年以上も続いた揚げ句、監査院が乗り出す展開になった。
行政の枠組みの脆弱性は、常に流動的な政党政治の在り方に反映されている。
政党の分裂や合併、党名変更はいわば韓国式民主主義の特徴。政党の平均存続期間は5年未満だ。
継続的な不安定性は民衆の間に疑念や無関心、不信感を生む。同時に政党自体が、民衆の利害関係をしっかりと反映した綱領を策定・提言できない無能な存在と化してしまう。
「恨」に突き動かされて
抗議活動という文化には韓国特有の社会心理的要素、すなわち「恨(ハン)」も関わっている。
恨とは、不正義や苦しみへの反応として生まれる深い悲しみと怒りの感情と定義できる。
これは安心感や力の不在という認識がもたらす無力感の表れだ。
恨を理解するには、歴史的文脈を知ることが役立つ。
朝鮮半島は数々の侵略にさらされ、長らく中国の影響下にあった。
近年では1910~45年の日本統治、戦後の南北分断が精神に深い傷を与えた出来事として重くのしかかる。
その産物が「文化的に特異で、極度に濃縮された激憤」である恨だ。
韓国のデモがこれほど特異である訳を理解するには、恨を考慮に入れることが欠かせない。
感情を下位に置くことで理性と感情を切り離そうとする西洋のプラトン的伝統に基づいて韓国の政治と社会を捉えようとするなら、
この国の政治の複雑さを完全に把握することはできず、ありのままの韓国社会を尊重することにもならない。
対立解消に際して、核となるのは恨だ。
それを認識しなければ、デモが韓国社会に不可欠の要素である理由、そして行政の枠組みが脆弱ではあっても、持続的なデモを政治の機能不全の兆候と捉えるべきではない理由が見えてこない。
既存の政治参加メカニズムの改善や政党の制度強化は、韓国における国家と市民社会の関係向上にとって歓迎すべき事態だろう。
だがこうした改善は、あくまでも政治決定に関して民衆により大きな権限を付与することを目的とすべきであり、デモの浸透に歯止めをかけるためであってはならない。
韓国の抗議文化は民衆の政治参加の在り方を映す鏡だ。
そして朴の弾劾訴追が示すように、時には重要な結果を生み出すツールになる。
From thediplomat.com
<2019年8月27日号掲載>
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