韓国籍の兵庫県弁護士会長 障害・言葉、乗り越え
毎日新聞2017年9月10日 東京朝刊
◆初の外国籍弁護士会長・白承豪さん
沖縄が第二の故郷
事故に遭ったのは、ソウルに住んでいた5歳のころ。夕食の時間になり、外にいた姉を呼びに行こうと家の前の道路に飛び出して、10トントラックにひかれた。
母の金又姫(きんうひ)さん(82)=沖縄県宜野湾(ぎのわん)市=は、当時を思い出すと今も表情を曇らせる。
「手術後に目覚めて最初の言葉は『ノートちょうだい』でした」。
白さんは勉強が大好きで、ノートと鉛筆が宝物だった。母がノートと鉛筆を渡すと「鉛筆を握ろうとして、初めて気付いたのでしょう。『なぜ右手がないの』と泣きじゃくりました」。
支えにしたのは両親の教えだった。「頑張って人に負けなければ、いじめられない」。入院中は手術の繰り返しだったが、ベッドで勉強を続け、2年後の退院時には九九を暗記していた。
11歳だった74年1月、建築関係の仕事をしていた父俊三(としぞう)さんの都合で、両親、姉、妹の一家で親戚のいる那覇市へ移住した。沖縄返還から1年8カ月後のことだ。
ソウルでの白さんは生来の快活さを取り戻し、学校の休み時間に片手で野球やバスケットボールを楽しむまでになっていた。だが、移住で環境は一変。日本語の文字や言葉がさっぱり分からない。
「おまえバカか」。編入先の小学6年の教室で同級生にからかわれても、意味が分からず笑っていた。
声を言葉として認識できないから、話している教師が口をパクパクする金魚に見えた。
恥ずかしさと怖さで机を離れられず、一日中トイレを我慢し、家に帰るとトイレに駆け込んでいた。露骨ないじめこそなかったが、耐え難い日々だった。
ここから抜け出すには、日本語を覚えるしかない。
負けるもんか--。「あいうえお」から猛勉強を始め、中学入学までの数カ月間でひらがなを覚え、簡単な会話ができるようになっていた。
「頭を使ってできる仕事に就け」
白さんは少年時代、片腕のハンディを心配した父から繰り返し言い聞かされていた。
このため、県立小禄(おろく)高=那覇市=に進学した時には、早くも司法試験を目標に定めていた。
だが、ここでも言葉の壁にぶつかる。漢字だ。当時を振り返る白さんは苦笑いを浮かべる。
「韓国では中学から漢字を習うから、日本に来るまで漢字など見たこともなかった」
とにかく国語の成績が悪かった。
2年生の進路面接でのことだ。「これでは弁護士など無理」。
進路指導の担当教諭だった山城典子さん(68)=沖縄県南城市=が言うと、白さんは顔を真っ赤にして反発した。「ぼくは弁護士になる」
意気込みを買い、山城さんは放課後、マンツーマンで漢字を教え始めた。
「突き放されると、むきになって食らいついてくる子でした。だから私も真剣に向き合った」。個人授業は1年ほど続き、国語の成績は急上昇した。
81年4月、琉球大法文学部に進学。司法試験サークル「究法会」に参加し、長い日は12時間以上も机に向かう勉強漬けの日々が始まった。ここでも漢字がネックになった。
法律の基本書を読むために漢和辞典を開き、漢和辞典にない法律用語を調べるために法律辞典を開く……。無限のループに思えた。
3年生で試験に初挑戦した。当時の試験は合格率が2~3%台という超難関。
最初の段階の「2次試験・短答式」(択一)であっさり落ちた。
4年生の冬、誰よりも合格を望んでいた父が肝臓がんのため58歳で死去した。
闘病中、見舞いに行こうとしたら、父に拒絶された。「そんな時間があるなら勉強しろ」
父の死去から数カ月後、「択一」に初めて合格した。
次の段階の「2次試験・論文式」こそ落ちたが、白さんは今も悔やむ。「せめて択一の合格だけでも父に伝えたかった」
大学卒業後も司法浪人を続け、28歳だった90年、8回目の挑戦ですべての2次試験を突破。
ついに弁護士への扉をこじ開けた。
それまでに日本生まれの在日コリアンが合格したことはあったが、外国生まれで外国籍のまま司法試験に合格した初めてのケースだった。
真っ先に取材に訪れたのは、韓国の大手新聞社の特派員記者だった李(イ)洛淵(ナギョン)氏。
現在の韓国首相だ。
新聞のほぼ1ページを使った「七転び八起き」の見出しの記事は大反響を呼んだ。
白さんは韓国のテレビ番組にも出演し、その名は韓国中に知れ渡った。
沖縄は白さんの「第二の故郷」だ。中でも琉球大で多くの出会いに恵まれた。
「恩人」の一人が琉球大名誉教授の垣花豊順(かきのはなほうじゅん)弁護士(84)=那覇市。白さんが所属した究法会の事実上の主宰者だ。
私財を投じて教材を購入し、県外の講師を呼んで学生を鍛えた。
白さんとは家族ぐるみで付き合った。
がんで入院した白さんの父を毎日見舞い、「白君のことは任せてくれ」と父に誓ってくれた。
琉球大の先輩の元沖縄弁護士会長、当山尚幸弁護士(69)=那覇市=も白さんを支えてきた。
究法会で指導し、経済的に苦しむ後輩たちを書生として雇い勉強させた。
白さんも3年間、当山事務所にいた。
法曹の先輩たちが一丸となって後輩を支える沖縄独自の育成システムにより、白さんは琉球大出身者で7人目の司法試験合格者となった。
垣花弁護士は振り返る。
「当時の沖縄には司法試験の勉強をする環境がなかった。このままでは弁護士がいなくなる危機感があった」。
当山弁護士も言う。「光りそうな玉は全員で磨く。私も助けられたから、次は私が後輩を助けるのが使命です」
白さんは大学の先輩がいる神戸を司法修習の地に決め、試験合格の翌年、ボストンバッグ二つを手に沖縄を離れた。沖縄で磨かれ、神戸で光り続ける「玉」は今、しみじみと語る。
「移住先が沖縄でよかった」
「戦争だけはいけない」
白さんは司法試験合格後も、国籍という壁と向き合わなければならなかった。
日本で法曹(裁判官、検察官、弁護士)になるには、司法試験に合格後、司法修習を終えなければならない。
当時、司法研修所には外国籍でも「入所相当」と認められれば例外的に入所できるようになっていたが、白さんには例外入所の認定条件である永住権がなかった。
「入所拒否されたら抗議運動を全国展開しよう」。当山弁護士は他の琉球大OB弁護士らと計画を練っていた。
だが、国は異例の早さで永住権を与えた。当山弁護士は笑う。「国も相当に気を使ったのでしょう。こちらは拍子抜けした」
日本では裁判官と検事になれるのは日本国籍の人だけと決められている。
このタイミングで日本国籍を取得する在日コリアンもいる。
「検事には少し興味があった」という白さんだが、外国籍でもなれる弁護士を選んだ。
その後、神戸地裁の民事調停委員や神戸家裁の家事調停委員になろうとしているが、いずれも「外国籍」を理由に断られ、実現できていない。
白さんの家族は全員が韓国籍だ。
妻の尹孝仁(ユンヒョウイン)さん(50)は在日1世で、高校生1人と大学生2人の息子たちは日本で生まれた。
白さん自身は韓国人であることを自負しているが、子供たちが将来国籍をどうするかは本人に任せている。さまざまな壁と向き合ってきたからこそ、こう思えるからだ。
「国籍にこだわりはない。だって、国籍で人間も変わるわけじゃないでしょ」
自身の性格を白さんはこう分析する。
「もともと人の目を気にするタイプ。それを知られたくないから、あえて強く見せようとする面がある」。義手をポケットに突っ込む癖は今も見られるし、人生を切り開いてきた「負けるもんか」という気迫は片腕がない意識への裏返しでもある。
「常に片腕のコンプレックスと闘ってきた。国籍よりも片腕の方が、僕には大きな問題だった」
だが最近そんな思いも消えつつある。きっかけはゴルフ。十数年前、当時勤めていた法律事務所のボスに勧められ、同僚に「片手では無理」と言われたことで負けん気に火がついた。やってやろうじゃないの--。
「最初は片手が恥ずかしかったが、それ以上に楽しかった。そのうち人に見られても平気になった」。毎週のようにコースに通い、最高はスコア84。ドライバーは200ヤード以上飛ばす。
「でも、ゴルフはやっぱりアプローチとパットやで」
弁護士としては99年に独立。
2012年に「神戸セジョン外国法共同事業法律事務所」=神戸市=を開いた。依頼者のほとんどは在日コリアンや韓国との取引企業。日本人と韓国人夫婦の離婚や、遺産相続に関する依頼も多い。
在日コリアンは、終戦前に日本へ移った人や子孫の「オールドカマー」と、主に80年代以降に来た「ニューカマー」に分けられる。
中間の時期に来た白さんは自称「オールドニューカマー」。日本における生き方の価値観や習慣が異なる両者の気持ちが分かるのは強みだ。
そもそも韓国語ができる弁護士が少ない。「頼ってくる在日の人のために僕の能力を使う。それが僕の役割です」
国籍へのこだわりはないが、今年4月に兵庫県弁護士会長になり、自分が韓国籍であることは強く意識している。
「僕が政治的活動や発言をすれば、対立する立場の人から『やっぱり韓国人は……』と言われるのを避けられない。韓国や在日コリアン、日本法曹界のイメージを悪くしてしまう」。
日本で社会問題化したヘイトスピーチについても「逆に韓国でも、日本に対する厳しいヘイトスピーチがある。
僕が『ヘイトスピーチを無くさなあかん』と声を上げるより、韓国籍である自分が会長職を全うして日本社会に貢献していることを示す方が、ひいてはヘイトスピーチ撲滅につながる」と考えている。
ただ、決して譲れないことがある。
「戦争だけはいけない」。平和こそ日韓関係の礎であり、戦争こそ最大の人権侵害と考えるからだ。
白さんの父親は朝鮮戦争に従軍し、白さん自身も、太平洋戦争で膨大な犠牲者を出し今も基地問題に苦しむ沖縄で育ったことと無縁ではないのだろう。
県弁護士会長に就任後も、緊急事態条項や「共謀罪」など戦争や人権侵害のリスクを高める法改正に反対する声明を出したり、街頭パレードに参加したりしてきた。取材を重ねてきた私にも、ためらいなく言い切る。
「法律を武器に市民の権利を守ることに、弁護士の存在価値がある。たとえ相手が国でも、平和や人権を侵害してくるのなら僕は闘う」
◆今回のストーリーの取材は
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