黒髪山を守る山の会の 11月 月例登山会は 地元原明山をめぐる12kmのノルディックウォークでした。
リーダーは吉島さん、地元で郷土史家としては研究・探訪 熱心な活動家です。
最近では 黒髪へんろ道の開拓や 地元の自然を知るセミナー「黒髪山ものがたり」と題して月一回講演を行っています。
もちろん、我々 黒髪山を守る山の会の会長でもあります。
今日はその吉島会長が原明山をめぐるコースを歩きながら、原明古墳跡や暮らし・信仰・領地争い含め、史蹟の説明を受けて来ました。
まず、スタート場所は 我が家からすぐ近くの 松浦鉄道 三代橋駅です
9:00 集合 スタートです 今日の参加者は 11名
今日の コース図です
駅南の道を 東へ歩き、呉葉寿司さんの脇を通って
バイパスへ出る手前から左(東) 路地へ入りました
⑰ 小物成観音堂
東小物成墓地の入り口にある 聖観世音菩薩(建立期不明)、弘法大師(大正13年)、波切不動尊(昭和13年)、地蔵大菩薩(明治28年)が祀られています。
小物成とは江戸期の年貢米に対比される雑税のことで、全国で307種あったが、明治3年に全廃されてます。
次は、⑳ 南川原天満宮 を右手に眺めながら・・・
㉒ 下南川良山観音堂
江戸期は庵寺があり、参道右手の斜面には元文5(1740年)と刻字された坊主墓もあります。毎年8月18日が祭礼日とされ、世話役は、竹ひごに色紙花や「南無妙法連華経」の小旗を作り、竹柄に米団子を刺して飾る、夜はその枝を堂に持ち込むと、取り合いとなり、各家庭へ持ち帰り、無病息災を祈ってるそうです。
近くに 山の会会員の やっちゃんのお宅 ゆずをいただきました
この後、柿右衛門窯さんでトイレ休憩です
見るだけでよ・・・
次は、㉖ 上南川良山々祇社です
祭神は大山祇命で、脇に天満宮。大神宮、月天子が祀られ 拝殿脇に観音堂があり 白磁の観音像が祀られて
祭礼日は8月15日であったが、現在は南川良原・山で統一され、25日となっています。
この山祇社の南奥は原明山で、地質が流紋岩から 金を採掘していた坑口が見られるようです。
こんな楽しい遊具もありました
ここで、近くに住んでおられる会員の ヒデジイさんのお宅で接待のお茶をいただきました
奥様 ありがとうございました
ここから、お茶畑を通り 原明古墳跡へ
ここで、歓声が・・・
吉島会長の スマホデビュー です 長らくガラケーお疲れさまでした
堤があり、やっちゃんは 子供のころここへは魚釣りへ来たよと・・
㉗ 原明古墳跡
連房階段式の登り窯4基が昭和49年の発掘調査で確認され、昭和55年に天狗谷・山辺田百間の 3窯跡と共に国史跡に指定されてます。
原明古墳跡は唐津系陶器窯から磁器窯へと移り代わる頃の窯で、岸岳崩れとの関連として、窯積みの際の胎土目積み手法で陶器が焼かれ、やがて磁器に移行すると、胎土目から砂目積みへと移行したそうです。
トンネル窯で 現在は埋め戻されています
さあ、これから 楠原地区方面へ
国道へ出ました
㉚ 松本墓地の観音堂
本尊は聖観音菩薩で、高さ37cmの坐像で、右手に蓮の枝、左手に深鉢を持ち、髪には群青色の顔料が付着し、首から下には鋳造当時の渡金が残る 仏像の中は空洞で、頭の内壁に土がこびりつき、当時の土と蝋を使った鋳造技術が偲ばれるそうです。
李朝期(1400年代) の作で、同様な金銅渡来仏は県内では唐津に2体、多久に1体のみだそうです。
さあ、今度は
㉛ 楠木原薬師堂 目指して
ここで、昼食です
㉛ 楠木原薬師堂
2本の巨杉あそびえる間の石段に、薬師堂が祀られています。
その薬師如来像の由緒について、庄山家抱宮旧記裁があります
「楠木原薬師如来 赤穂落臣の持参 宝永乙酉2(1705)年8月15日」
伊万里市二里町江湖の辻に、大石良知の墓地がある。
赤穂浪士の討入りを率いた大石蔵之介の子息で、伊万里の知人として交流が語り継がれ、伊万里滞在中に亡くなっているようです。
現在、この関連は調査中だそうです。
ここで、昼食を取りました
これから、下本 方面へ
ここらで、会長から 庄山 についての話が・・・
今日は その中で、逃げ餅 行事が行われる予定でしたが、コロナ禍で中止だとか
逃げ餅とは、蒸したもち米を火に投げ入れた瞬間、青年達は杵を放り出して、そのもち米を掴んで逃げることから(逃げ餅)と言っている。この行事は岩屋権現さん(曲川神社)の秋祭りを11月25日に催されていたが、後に23日に変更されたので逃げ餅もその前日の22日の夜12時頃から餅をつきはじめていたが、最近では夜10時頃にはやまった。費用は一町ばかりあった祭田の小作料で賄っていた。
神座になったエイシヨの庭先には人だかりで一杯になる。エイショの両がヨリコで、加勢をする。餅は2回つくが、供え物となるのは三升で、若者達が(しょいしょい)の掛け声でサシ棒でつく、棒の先で餅をさしあげるか、膝で臼を倒すかして餅を臼から放り出そうとする。周囲から見守っている壮年達はこれを防ごうとする。その攻防が展開され、泥まみれの餅を主婦らの手で丸められ、各戸2個ずつ配り、曲川神社に供えられる。泥餅の綺麗な部分を少し食べると病気しないという。残りは牛馬にもやっていた。
2回目の臼には二升のもち米を蒸して臼に投げ入れるが、餅つきの若者達は杵を放り出してもち米を手づかみに逃げる。これを食べると寿命が延びるというので奪い合いになる。逃げ餅の行事は、秋の収穫を終えて豊作を感謝する催しであって、泥すなわち大地を意味する泥併を食べ、神人一体となって大地の霊魂へ感謝するという意味が込められているのではないかと考えられている
次は、㊱ 岩谷権現碑 です
唐船城重臣: 庄山伊勢守が 佐世保相浦に進出した平戸勢を抑制するため、天文5年(1536)年頃に現上本村字天導寺に岩谷城を構え、その守護神として岩谷権現を祀った。
豊臣秀吉の山城禁止令(1590年) で、庄山伊勢守は岩谷城を下り深城へ移る。岩谷権現の権現碑は大雨で流され、法泉寺に祀られていた。その後に上本公民館の建設に合わせて移転されているようです。
㊲ 庄山伊勢守源高の墓地
下本村墓地にある。墓石には「梵字+総心常演/ 庄村伊勢守源高/ 天正11年正月」と刻字がありました。
この墓地の東側に「本村庵」と呼ばれる常字がある。のこ墓地を守るための庵寺かと
次は、㊳ 曲川神社です
銀杏の紅葉が きれいでした
㊳ 曲川神社
岩谷権現から深城の蜜厳寺へ移り、そして明治6年に曲川神社が創建され、引き継がれる。
次は、前原工業団地内を通り・・・
㊷ 善澄寺跡(北川内公民館)
江戸期に真言宗「真澄庵」があり、隠端坊という庵主が布教に勤めていた、と云わる。安置されていた阿弥陀如来像は「慶應3(1867)年 有田仏師順慶、乱橋、俗名 千蔵作之」と記録されている。明治末期の庵主: 千杖は本堂にて仏教婦人会を主率していた。やがて、是澄寺と改称されるが、昭和45年に後継者難から廃寺となる。
㊺ 内野神社
明治6年に曲川神社が創建され、蜜厳寺が廃寺となり龍泉寺に併合された。内野区民は氏神社として創建したと伝わる。
さあ、最後に近づいてきました
㊻ 蜜厳寺跡観音堂
蜜厳寺は開山して間もなく、黒髪山大智院の末寺となり、庄山一族が住職となる。明治2年に住職: 泉手院明定坊玄蕃が、曲川神社創建に進むと、蜜厳寺は龍泉寺に併合された。観音堂に掛けられた蜜厳寺らかん図から、住時の繁栄を偲ぶことができる。
今回の 歴史散策はおしまい
これから、松浦鉄道 蔵宿駅へ向かいます
蔵宿駅 なじみはありません。
出発した 三代橋駅から 2駅目です
20分の 待ち合わせです
蔵宿駅 の次は 黒川(くろごう)駅 で、次が 三代橋駅で 200円でした。
ご苦労様でした 12km 約20,000歩 を歩いてきました
ありがとうございました
こんな 知らない地元の 歴史を リーダー吉島さんありがとうございました。
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