「寝屋川 平和と市民自治の会」の会報「PAN」11月号の3ページ
軍隊は国民を守らない、むしろ国民を破滅させる
2018年11月5日 寝屋川市 Hさん
秋たけなわの10月21日(日)澤野義一氏の講演会「世界の戦争違法化の歴史と日本国憲法」を聞き思ったことが二つある。一つは、軍隊は国民を守らない、むしろ国民を破滅させるということ。もう一つは、日本国憲法第9条こそ、世界中で繰り返し勃発した戦争の惨禍の被害者として、辛酸を舐め尽くした無数の人々の平和を求める悲願の結実であるということだ。今回は一つ目について述べ、二つ目の論点については次の機会に触れたいと思います。
私は「軍隊は国民を守らない、むしろ国民を破滅に追いやる」と思う。まず従来の自民党政権が言ってきた専守防衛の自衛隊だ。専ら自国の防衛だけに専念する軍隊というのだ。自民党政権は専守防衛の自衛隊は違憲でないとして自衛隊を拡大強化してきた。その中で専守防衛の範囲も拡大解釈され、ついに集団的自衛権を法制化した。その結果、自衛隊は世界6位あるいは7位と言われる本格的な、拡大し続ける軍隊として周辺の国にとって脅威となっています。
国民を破滅させた例
最近の戦争の歴史をみると国民を守るという大義で創設された軍隊は国民を守るどころか国民を破滅させてきた例が大多数だ。
何よりもまず、軍隊は人間を殺人機械に変える。軍隊として行動する兵士は、人を殺すという任務を冷静に遂行する殺人マシーンと化す。例えば優しい好青年が、命令に従い、人を殺すこと、残虐行為を行うことに疑問を感じなくなってしまうのだ。
また権力が国を守るという口実で侵略戦争を正当化する。国を守る概念が徐々に拡大され侵略戦争が国を守る自衛戦争とされてしまうのだ。
更に権力は軍隊を、兵士を、国を守る英雄として美化するために学校教育を利用する。マスコミも利用する。社会全体が軍隊の英雄化と侵略戦争の賞賛の高揚の中で歯止めのきかない戦争マシーンと化す。行き着く先は屍が累々と横たわる焼け野原、生活のすべてを破壊され路頭にさまよう人々、居場所もなく食料を求め、病気に苦しみ、餓死してゆく人々、とりわけ幼くして親を失った孤児の運命は悲惨だ。ドブネズミのように忌み嫌われ、食料もないままに、ある者は飢えて、またある者は病気にかかり、道端で、誰にも相手にされないで息絶えていく。
これが、国民を守るはずであった強大な軍隊を持った国が行き着く先、国民の地獄図、であったのだ。
軍事大国、大日本帝国も同様の運命をたどった。
権力者は軍隊で国を守るというが、どの国も戦争を始めると国民を強制的に戦争に駆り立て軍隊に徴兵し、多数の犠牲者と悲劇をもたらす。例えば第二次世界大戦を回避していたら、どれだけの国民が死傷しないで済んだんだろう。どれだけ敵国民が死傷を免れただろう。また、より強大な軍隊を持つことによって、粘り強い話し合いで国際関係を調整しょうとする発想はますます薄れていく。そして、安易に軍隊を使い多くの自国民と敵国民を地獄に追いやるのだ。
また、武器の生産は関連企業に大きな利益をもたらす。軍隊が巨大化すると軍需産業も巨大化する。ここに軍需産業と権力の癒着が起こり軍隊の強大化と戦争の危機の激化がおこる。また軍隊を持つと軍が力を持ち政治に影響力を持つことは珍しいことではない。軍事独裁政治は国民の基本的人権を奪い国民を戦争に駆り立て自国と敵国を問わず人を殺し環境を徹底的に破壊する。
専守防衛という言葉にだまされてはいけない
結局、軍隊は国民を守らないどころか国民を弾圧し、膨大な軍事費で国民の生活を破壊し、国民の生命を奪い、国民の環境を破壊し尽くすのだ。専守防衛の軍隊という呼称にふさわしい軍隊は本質的に存在しないのだ。専守防衛はという言葉は権力が軍隊の保有と強大化を正当化する常套句として使われてきた。だまされてはいけない。軍隊を持ってはいけないのだ。
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