「電気開けて、世間暗黒となれり」(田中正造)
重大な事故を起こした福島第一原発や大飯原発の政治判断による再稼働報道を見るにつけ、どうしても田中正造について想いがいく。「電気開けて」とは、文明の利便性追求と進歩、経済的発展と繁栄を象徴する。正造はそのことを頑固に否定しているわけではない。だがそれが生命を害すること、生命を危険に 曝すこと、その生存権を奪ってまで、ひたすら富国強兵、経済的繁栄に邁進する政府・体制を、正造は全身全霊を賭けて弾劾せざるを得なかったのだ。
渡良瀬川流域の肥沃で豊穣な大地が、鉱毒汚染で壊滅し荒涼たる風景に変貌した。原因は古河銅山経営の足尾銅山からの鉱毒で、正造等はその非を訴え 閉鎖を求めた。しかし富国強兵を推し進める政府は、住民の訴えを無視し反対運動を弾圧した。
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を荒らさず 人を殺さざるべし」
しかし国家権力は横暴であった。国家は銅山を優位に置き、その経営者を優遇した。彼はまた、権力者と結び、権力へ金を融通してくれる存在だからであった。
権力は、さらに渡良瀬川流域に遊水池をつくり、そこから住民を追い出すことにした。こうして谷中村などが消滅した。
国家が人民の生存権を奪うこと、現在の難問に照らせば「(原子力で)電気開けて、世間暗黒となれり」である。先の大震災と大津波と、福島原発がまき散らした放射能で、いまや豊穣なる海、豊穣なる大地は失われたのである。半分は天災だが、半分は人災である。
民主党の仙石由人が原発再稼働を選択しない場合は日本の「集団自殺」と言ったが、まさに暴言である。大飯原発の安全性は未だ担保されていない。しかし、かつて寺田寅彦が書いたように「経済上の都合で、強い地震の来るまでは安全という設計」で再稼働に踏み切るらしい。もしもがあれば、それこそ「集団自殺」ではなかろうか。「原発は倫理的でない」というドイツの結論とは真逆である。
「人民を保護しなければ、人民は法律を守る義務がない」
「是れだけに申上げても政府が其れをやるならば、政府は人民に軍サを起こす権利を与へるものである」
田中正造は孤軍奮闘、深い絶望感の中、天皇に直訴を試みて逮捕された。正造は狂人扱いを受け解き放された。この直訴状を書いたのは幸徳秋水であ る。ようやく社会的な関心も高まり、キリスト者や新聞人、学生たちが彼の支援に立ち上がった。神田錦旗館で足尾鉱毒反対演説会が開催された。正造の演説は多 くの青年たちの胸を激しく揺さぶった。
帝大法科の学生・河上肇は窮乏の生活を送っていたが、この時自らの外套、学生服を脱ぎ、浄財として被災民に贈った。以来、彼の貧窮をテーマとした 経済学の原点となった。
黒澤酉蔵青年は、正造の手足となって働く決意をした。正造が最も辛苦に喘いだ時期に、酉蔵は彼と共に闘った。酉蔵は正造に強い感化を受けた。また鉱毒反対運動中に逮捕され、その収監中に差し入れられた聖書を読んでキリスト者ともなった。
その後、幼い弟妹を養うため北海道に移住した酉蔵は、そこでキリスト者の宇都宮仙太郎の牧場で牧夫として働いた。やがて独立、そして宇都宮仙太郎、佐藤善 七らと北海道製酪販売組合連合会を設立した。これが後の雪印となる。この黒澤酉蔵によって、田中正造と渡良瀬川鉱毒被害の貴重な記録文書が、後世 まで保存されたのだ。
神田錦旗館の演説会に強い感化を受けた青年のひとりに、志賀直哉がいた。彼の心は複雑だった。直哉の祖父は古河市兵衛と親しく、足尾銅山に関わっ ていたからである。
祖父・志賀直道は相馬藩士だった。維新後、相馬家の家令を勤めた。彼は家令として相馬家の財産を小野組に融資し、小野組の番頭・古河市兵衛と親交 をもった。やがて古河市兵衛の銅山事業の創業を支援し、足尾銅山開発に力を貸した。足尾鉱毒問題が社会問題化した頃には、すでに引退していたものの、直道はまだ 矍鑠としていた。
直道の子・直温は第一銀行に勤め、その任地である石巻で直哉が生まれた。後に直温は実業家として活躍し、明治財界の有力者となった。神田錦旗館の田中正造の演説に感動した直哉は、渡良瀬川沿岸被災地調査キャラバンに参加しようとして、父・直温と家庭内で激しく対立し、父子の不和は決定的となった。
直哉が古河の足尾銅山と政府を激しく論難するのを、祖父の直道は目を瞑ったまま腕を組み、じっと聞いていたという。直哉は古着などを現地に送った。
この父子の不和・憎悪が、その後の直哉の小説「暗夜行路」などの底流をなし、後年の「和解」まで決して解けることはなかった。
ちなみに「相馬」はこの度の大震災と津波で市街地の三分の一を消失し、そのうえ福島第一原発事故で放射能汚染にも見舞われた。そして「石巻」は市街地の半分相当を消失した。
「国は尚人の如し。人、肥えたるを以て必ずしも尊からず、智徳あるを尊しとす。
国は尚人の如し。腕力ありとて尊からず、痩せても智識あるを尊しとす。
国は尚人の如し。手足長しとて尊からず、体小なりとて、思慮高ければ尊し。
国は尚人の如し。容貌美なりとて尊からず、宗教行われて尊しとす。正直律儀自由温良を尊しとす。」
田中正造は、明治の国家が目指していた富国・経済主義を、強兵・軍事優先主義を、大国主義を、物質主義・外見主義を、このような表現で批判したのである。
彼の政府権力の専横、横暴に対する闘争は、何度も深い絶望に捉われたものと思われる。しかし正造は不屈であった。また顔貌を上げ、前を見据えた。そんな不屈の男の正論に、多くの人々が感動し、共感し、彼を応援した。そんな不屈の闘士に青年たちも立ち上がった。正造もまた、それ故、何度でも立ち上がり、正面を見据えることができたのに違いない。
(この一文は2012年4月17日に書いたものです。)