演出家の蜷川幸雄氏が亡くなった。多くの演劇関係者がその死を悼み、遺影に向かって語りかけ、弔辞を読み上げる姿やインタビューに応える様子がテレビに映されていた。
弔辞や弔文に評論はふさわしくないが、好きな弔詞や弔文がある。
ひとつは学生時代に読んだものである。確か筑摩文学大系であったか。中原中也、小林秀雄らのドロドロの愛憎や、それを冷静に書き留めた二人の共通の友人、大岡昇平の本である。
中也の恋人を小林秀雄が奪った。女が中也の元を去ったといっていい。中也はただ「口惜しい」と言っただけである。小林もその彼女とは、じきに別れている。中原中也と小林秀雄にはそんな経緯があった。歌の歌詞ではないが、若いという字は苦しい字に似ていたのである。
中也の死に寄せた小林秀雄の弔詞は、今でも空で言えるほどである。
もうひとつは、エリック・サティの死に際し、ジャン・コクトーが寄せた一文である。これもいかにもコクトーらしい。
小林秀雄の中原中也への弔詞 (詩)「死んだ中原」
君の詩は自分の死に顔が
わかつて了つた男の詩のやうであつた
ホラ、ホラ、これが僕の骨
と歌つたことさへあつたつけ
僕の見た君の骨は
鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音をたててゐた
君が見たといふ君の骨は
立札ほどの高さに白々と、とんがつてゐたさうな
ほのか乍ら確かに君の屍臭を嗅いではみたが
言ふに言われぬ君の額の冷たさに触つてはみたが
たうたう最後の灰の塊りを竹箸の先で積もつてはみたが
この僕に一体何が納得出来ただろう
夕空に赤茶けた雲が流れ去り
見窄らしい谷間ひに夜気が迫り
ポンポン蒸気が行く様な
君の焼ける音が丘の方から降りて来て
僕は止むなくの娘やむく犬どもの
生きてゐるのを確かめるやうな様子であつた
あゝ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉がいえようか
君に取り返しのつかぬ事をして了つたあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた
あゝ、死んだ中原
例へばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば
サティが死んだ。コクトーが書いたのは詩のような散文であった。そこにルソオもラディゲも出てくる。年齢は異なるが、同時代のパリに生きた芸術家たちの交流と影響と尊敬がうかがえる。
ジャン・コクトーのエリック・サティへの弔文「エリック・サティの手本(抜粋)」(佐藤 朔 訳)
僕はエリック・サティを宗教的に賛美し、愛し、そして助けた。…彼が死んだ翌日、税関吏ルソオ(※)がルウヴル博物館に入った。天国で彼らが会合したことを祝うためだろう。
迅速と器械の時代に、この二人の全部手製の作品の持つ堅実な優雅さは、どんなに僕の心を動かしたことだろう。もう一つの特徴が彼らを結びつける。わが作曲家も、わが画家も自分を決して掘り返したりしない。彼らは決して多くの偉大な事物の形を変えてしまうような、美に対する致命的な偏見によって、彼らの本来の美を傷つけることはしない。
水の中の影を愛するのは、フランスの悪習だ。このためフランス人は、本当の形を疎かにする。ところが、わが老大家は、ナルシシスム特有の、一時的な恩恵を蒙ることを恐れて、自分自身に向かってしかめ面をした。これは不注意な賛美者にたいして、彼を守るすぐれたやり方である。
…
彼は初めから守りにくい立場に拠っている。彼は天使のような忍耐を持っていた。だから一九一七年から一九二四年にかけて、僕たちは園芸家の云う「遅咲き」のように見えた。人々がひからびたと思っていたサティは、花や果実を一杯身につけていた。その素直な枝ぶりは、あまりに多くの人工にあきた青年たちを薫らし、その滋養となった。
レエモン・ラディゲは十五歳から二十歳まで、エリック・サティは五十四歳から五十九歳まで、同じ年齢だった。そうして同じ路を歩いていた。その上、アンデルセンの「物語」とともに、ラディゲの本は、アルクィユの隠棲者の唯一の愛読書となった。
僕はこうした仕事仲間が待っている場所で、早く彼らと再会したいと思っている。
(※)アンリ・ルソオ 彼は税関吏だった。
ちなみにコクトーは二人の夭逝した天才、ラディゲとロートレアモンについても書いているが、これも良い、実に良い。
また「旅窓の夢 ~遥かなるコミューン」にも書いたが、私擬憲法「五日市憲法」を起草した千葉卓三郎の死を悼む、深沢権八の弔詞も胸を打つものであつた。
悼 千葉卓三郎
懐へば君の意気は風濤を捲き
郷友の会中もつとも俊豪
雄弁は人推す米のヘンリー
卓論は自ら許す仏のルッソー
一編曾て草す済時の表
百戦長く留まる報国の力
悼哉(とうさい)英魂呼べど起たず
香烟空しく鎖す白楊の皋(こう)
弔辞や弔文に評論はふさわしくないが、好きな弔詞や弔文がある。
ひとつは学生時代に読んだものである。確か筑摩文学大系であったか。中原中也、小林秀雄らのドロドロの愛憎や、それを冷静に書き留めた二人の共通の友人、大岡昇平の本である。
中也の恋人を小林秀雄が奪った。女が中也の元を去ったといっていい。中也はただ「口惜しい」と言っただけである。小林もその彼女とは、じきに別れている。中原中也と小林秀雄にはそんな経緯があった。歌の歌詞ではないが、若いという字は苦しい字に似ていたのである。
中也の死に寄せた小林秀雄の弔詞は、今でも空で言えるほどである。
もうひとつは、エリック・サティの死に際し、ジャン・コクトーが寄せた一文である。これもいかにもコクトーらしい。
小林秀雄の中原中也への弔詞 (詩)「死んだ中原」
君の詩は自分の死に顔が
わかつて了つた男の詩のやうであつた
ホラ、ホラ、これが僕の骨
と歌つたことさへあつたつけ
僕の見た君の骨は
鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音をたててゐた
君が見たといふ君の骨は
立札ほどの高さに白々と、とんがつてゐたさうな
ほのか乍ら確かに君の屍臭を嗅いではみたが
言ふに言われぬ君の額の冷たさに触つてはみたが
たうたう最後の灰の塊りを竹箸の先で積もつてはみたが
この僕に一体何が納得出来ただろう
夕空に赤茶けた雲が流れ去り
見窄らしい谷間ひに夜気が迫り
ポンポン蒸気が行く様な
君の焼ける音が丘の方から降りて来て
僕は止むなくの娘やむく犬どもの
生きてゐるのを確かめるやうな様子であつた
あゝ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉がいえようか
君に取り返しのつかぬ事をして了つたあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた
あゝ、死んだ中原
例へばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば
サティが死んだ。コクトーが書いたのは詩のような散文であった。そこにルソオもラディゲも出てくる。年齢は異なるが、同時代のパリに生きた芸術家たちの交流と影響と尊敬がうかがえる。
ジャン・コクトーのエリック・サティへの弔文「エリック・サティの手本(抜粋)」(佐藤 朔 訳)
僕はエリック・サティを宗教的に賛美し、愛し、そして助けた。…彼が死んだ翌日、税関吏ルソオ(※)がルウヴル博物館に入った。天国で彼らが会合したことを祝うためだろう。
迅速と器械の時代に、この二人の全部手製の作品の持つ堅実な優雅さは、どんなに僕の心を動かしたことだろう。もう一つの特徴が彼らを結びつける。わが作曲家も、わが画家も自分を決して掘り返したりしない。彼らは決して多くの偉大な事物の形を変えてしまうような、美に対する致命的な偏見によって、彼らの本来の美を傷つけることはしない。
水の中の影を愛するのは、フランスの悪習だ。このためフランス人は、本当の形を疎かにする。ところが、わが老大家は、ナルシシスム特有の、一時的な恩恵を蒙ることを恐れて、自分自身に向かってしかめ面をした。これは不注意な賛美者にたいして、彼を守るすぐれたやり方である。
…
彼は初めから守りにくい立場に拠っている。彼は天使のような忍耐を持っていた。だから一九一七年から一九二四年にかけて、僕たちは園芸家の云う「遅咲き」のように見えた。人々がひからびたと思っていたサティは、花や果実を一杯身につけていた。その素直な枝ぶりは、あまりに多くの人工にあきた青年たちを薫らし、その滋養となった。
レエモン・ラディゲは十五歳から二十歳まで、エリック・サティは五十四歳から五十九歳まで、同じ年齢だった。そうして同じ路を歩いていた。その上、アンデルセンの「物語」とともに、ラディゲの本は、アルクィユの隠棲者の唯一の愛読書となった。
僕はこうした仕事仲間が待っている場所で、早く彼らと再会したいと思っている。
(※)アンリ・ルソオ 彼は税関吏だった。
ちなみにコクトーは二人の夭逝した天才、ラディゲとロートレアモンについても書いているが、これも良い、実に良い。
また「旅窓の夢 ~遥かなるコミューン」にも書いたが、私擬憲法「五日市憲法」を起草した千葉卓三郎の死を悼む、深沢権八の弔詞も胸を打つものであつた。
悼 千葉卓三郎
懐へば君の意気は風濤を捲き
郷友の会中もつとも俊豪
雄弁は人推す米のヘンリー
卓論は自ら許す仏のルッソー
一編曾て草す済時の表
百戦長く留まる報国の力
悼哉(とうさい)英魂呼べど起たず
香烟空しく鎖す白楊の皋(こう)