私の愛読書に森本哲郎の「日本語 表と裏」がある。何度読み返しても飽きがこない。何度読んでも、思わずうなってしまう。〈やっぱり〉面白い。見事だ。
我々日本人が、日常何気なく、ほとんど無意味のように頻発して使用する言葉がいくつもあって、それが日本語を母語としない外国人からすれば「どういう意味?」であり、彼らの言語にはない言葉なのだ。類似語のようなものがあっても、〈どうも〉深いところで意味もニュアンスも異なる言葉であるらしい。
著者はそれを流れるような見事な文体と論理で解き明かすのだが、持って回った言い回しや、意味不明な晦渋さは全くなく、昨今、三島由紀夫賞を贈られた、かの蓮實重彦先生の難解な文章の対極にある。
著者はそのように日本語の表と裏を読み解きながら、決っして大仰に構えない実に秀逸な日本人論、日本文化論、日本論に仕立てている。
剣客に例えるなら、相手と対峙しながら春風のような微笑みを浮かべ、肩から力が抜けた自然体でゆらゆらと、刀も抜かずして立ち、相手に「参りました」と言わせてしまう仙人のような剣豪なのである。あるいは池波正太郎の描く秋山小兵衛先生であろうか。森本先生はこの「参りました」も取り上げている。その書き出しはこうである。
小野派一刀流の開祖、小野治郎右衛門忠明と佐々木小次郎は、たがいに刀を抜いて向かい合っていた。その様子を吉川英治はこう書いている。
――双方とも、固着したまま、姿勢の上にはいつ迄、なんの変化も見えなかった。たが、小次郎も忠明も、肉体の内には、恐ろしい生命力を消耗していた。その生理的変化は、鬢をつたう汗となり、鼻腔の喘ぎとなり、青白な顔色となって、今にも、寄るかと見えながら、剣と剣は、依然、最初の姿勢を持続していた。
『――参ったっ』
忠明が叫んだのである。――叫びながら、刀と身を、そのまま、ぱっと後ろへ退いたのであった。(『宮本武蔵』=二天の巻)
忠明が負けたのである。小次郎と剣をまじえた瞬間、忠明は「自分の敵する所ではない」と見てとり、潔くそう思い捨てた。「参ったっ」と彼が叫んだのは、自分が「負けた!」ということにほかならない。
「参った」という日本語は、いうまでもなく「参る」の過去形、あるいは現在完了形である。ところが、その「参る」という言葉のそもそもの意味は、宮廷や社寺など、高貴な場所へ行くことであった。すなわち「参入る」がつづまったのである。だからいまでも神社や仏閣へ行くことを、「おまいりする」という。高貴な場所へ参入する――ここから、相手に屈する、負けるという意味が生まれたのであろう。人間は、神さま、仏さまに対しては、どうあがいてみても、とうてい勝ち目はないからである。…
どうも参った、長い引用になってしまった。しかも参ったことに、引用の引用である。こうして森本先生は日本語の話し言葉に頻出する「参った、参った」を語り出す。さらに天正五年にポルトガルからやって来た宣教師ロドリゲスの「日本文典」を引き、日本語特有の「参った」の微妙なニュアンスと、深い原意を、ごく自然体で解き明かしていくのである。いやあ参った、恐れ入りましてござりまする。
彼が取り上げた言葉は以下の通りである。
「よろしく」「やっぱり」「虫がいい」「どうせ」「いい加減」「いいえ」「お世話さま」「しとしと」「こころ」「わたし」「気のせい」「まあまあ」「ということ」「春ガキタ」「おもてとうら」「あげくの果て」「かみさん」「ええじゃないか」「もったいない」「ざっくばらん」「どうも」「意地」「参った、参った」「かたづける」
どうせ引用するなら、やはり「やっぱり」の章の一部も、以下に引用しておこう。
「やっばり」とか「やはり」というこの慣用語は、じつは、その恐怖を無意識のうちにいいあらわしているのである。日本人が何かについての意見をきかれたときに、やたらに「やっぱり」か「やはり」を連発するのは、「私が思っていたとおり」という予言者的な、つまり、自信に満ちあふれた立場の表明ではなく、「あなたをはじめ、みんながそう思っているように」「世間一般の人たちが考えているように」自分もそう思う、という意味の「やっぱり」なのだ。だから、マイクを差し出されて意見をただされたときに、ほとんどの人が「やっぱり」をつい連発してしまうのである。それは無意識のうちに世間におうかがいを立て、自分の意見がけっして人並み外れた考えではなく、世間のみなさんと同じように自分もそう考えます、ということを弁明する強調詞だといってもいい。
だとすれば、数多くの日本語のなかで、「やっぱり」、あるいは「やはり」という慣用語こそ、何より日本的な性格を正直に告白している言葉とはいえないであろうか。
私はこの言葉こそ、日本の主語だと思う。「自分はこう思う」というときの主語は、むろん、その意見を発表する「自分」である。だが、「やっぱり」とか「やはり」という間投詞をさしはさむときには、「自分」という主語のほかにもうひとつ、「日本」という、あるいは「世間」という大主語が無意識のうちに予想され、前提されているのだ。
森本先生の文章を丸写ししていると、やっぱり気のせいか、自分も達意の書き手に変じたような快感がある。虫のいい話だが、私などはどうせいい加減な人間なので、ここらでこのエッセイをかたづけよう。引用を中略とか割愛しようとも思うのだが、先生の文章がやはり面白く、中略・割愛はもったいない。
あげくの果て、どうもざっくばらんでいい加減になり過ぎたかも知れないが、まあええじやないかと嗤ってほしい。どうも、すみません。