芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

微風のひと

2016年05月31日 | エッセイ
                                                       


 先日「晶子、らいてう、智恵子」という一文を書いた。あらためて高村光太郎が智恵子について書いたものに触れてみたい。

   智恵子は東京に空が無いといふ、
   ほんとの空が見たいといふ。
    …
   智恵子は遠くを見ながら言ふ。
   阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
   毎日出てゐる青い空が
   智恵子のほんとの空だといふ。

 良い文章だ。散文で、こういう文を綴ってみたいものだ。
 光太郎の有名な詩集「智恵子抄」の一編である。むろん詩であって散文ではない。それにしても良い文章だ。詩の全文はこうである。

    あどけない話

   智恵子は東京に空が無いといふ、
   ほんとの空が見たいといふ。
   私は驚いて空を見る。
   桜若葉の間に在るのは、
   切つても切れない
   むかしなじみのきれいな空だ。
   どんよりけむる地平のぼかしは
   うすもも色の朝のしめりだ。
   智恵子は遠くを見ながら言ふ。
   阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
   毎日出てゐる青い空が
   智恵子のほんとの空だといふ。
   あどけない空の話である。
               (昭和三・五)

 こんな詩もあった。その冒頭である。

   あれが阿多多羅山(あたたらやま)、
   あの光るのが阿武隈川。

 この二行のフレーズが、詩の真ん中と最後に繰り返されるのだ。「樹下のふたり」である。
――みちのくの安達が原の二本松 松の根かたに人立てる見ゆ――

   あれが阿多多羅山(あたたらやま)、
   あの光るのが阿武隈川。

   …(中略)…

   あなたは不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて、
   ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
   ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
   ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
   無限の境に烟るものこそ、
   こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
   こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
   むしろ魔もののやうに捉(とら)へがたい
   妙に変幻するものですね。

   あれが阿多多羅山、
   あの光るのが阿武隈川。

   ここはあなたの生れたふるさと、
   あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
   それでは足をのびのびと投げ出して、
   このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
   あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
   すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
   私は又あした遠く去る、
   あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
   私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
   ここはあなたの生れたふるさと、
   この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
   まだ松風が吹いてゐます、
   もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

   あれが阿多多羅山、
   あの光るのが阿武隈川。
              (大正十二・三)

 おそらく智恵子は生来おっとりとした微風のような「癒しの女性」「不思議ちゃん」であったのだろう。「不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて… 何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふ」「あなたの生まれたふるさと… この不思議な別箇の肉身を生んだ天地」
 おそらく、智恵子は光太郎と並んで足を投げ出して座り、おっとりと指差しながら「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」と、少しばかり間をおいて、ゆっくりと繰り返し呟いたのに違いない。