何度も書いているが、私は古い神社仏閣が好きだ。そこに至るまでの石畳の参道、苔むした古道や石垣、鬱蒼たる樹木、鳥居、そして境内を取り囲むような老杉や、古さびた建物のたたずまい、注連縄、紙垂や、五色旗や四神旗、玉砂利もいい。その凛とした空間の気が好きなのだ。古刹の空間の気も好きだ。
しかし神道にも仏教にも関心は薄い。信心は持っているので無宗教ではない。人格神ではなく、感覚的、身体的、経験的に感じている原初的な宇宙的生命摂理と畏れである。山河に海に巨木に岩に草木に鳥獣に、大自然に感じる畏怖で、原始宗教的な「気」である。
神社に感ずる清冽な気は、かつてそこが原初的、アニミズム的神域で、そこから発せられるものだ。その気は神道も天皇制も無関係だ。神道には、礼拝など宗教としての「型」が形成され、その意味づけもなされているが、宗教的教義や哲学的思弁性はない。
柳田国男は「日本の国土は海と山とにせばめられた『島山』である」と言った。島山に住み始めた南方系も北方系古代人も、海にそそり立つ島山の自然を畏敬し信仰した。海から昇り山岳に沈む太陽を神とした。その山岳を神とし火の山が飛ばした巨岩も神とした。島山を囲む海も神であり、風も颱風も神なのである。梟も狼も熊も狐も、そして龍も神の使いだった。
人々は海辺と山岳に多くの神を祀った。神は海から来たり山から来たるのである。今でも沖縄や奄美の巫女は、海岸の岩の聖地から沖に向かって神を呼び迎える。また岩の裂け目の風穴から吹き上がる風は龍の吐く息で龍穴と呼ばれ、瀧は龍の登り道とされた。水源や泉や巨樹も神が宿り、神はそこから麓へ、集落へと降りて来るのだ。古代人はそれらの自然を畏怖し尊崇し祀った。
人々は神に共同体を守ってもらうよう祈ったのである。神の場所・神域に印を置き、立ち入らぬよう縄を巡らした。その境の内側(境内)が神界である。その原初、大王(おおきみ)も律令もなくもいなかったに違いない。
原始伊勢信仰を例に取る。縄文土器時代の原始伊勢信仰は、今の伊勢より海に近い土地に発したと言われている。
日は海から昇った。太平洋は「黄金(くがね)色」に煌めき、人々はこの海を照らす日を信仰の対象とした。「海(あま)照らす神」である。
南方系古代人は天を「あま」と発音していたものであろう。沖縄では原初の世界を「あまんゆー」と言う。「ゆー」とは世、世界のことである。つまり「天の世界」である。
海も「あま」と読む。伊勢湾の海女はアマと呼ばれる。また日本各地の素潜り漁師たちは男女を問わずアマと呼ばれる。この海=アマ、ウミが南方系縄文人の発音であり、アマ(ウ)ミ大島のアマである。この南方系古代人の言語が、現在の日本列島に特有の訓読みのルーツであると思われる。
呉音・漢音では海はクァイ、カイである。古朝鮮語では海はハタあるいはワタである。ちなみに秦氏は百済辺りの海の一族だった。佐渡の渡津神社は海の神である。戦没学生の詩集「わだつみの声」も、八幡の「やはた」「やわた」も古朝鮮語に由来する。
古朝鮮では呉音・漢音発音の他、当て字読みが発達した。しかし大陸にも朝鮮半島にも訓読みは存在しないのだ。ちなみに天は呉音・漢音ではテンと発音する。
ちなみに私は古代史家・小林恵子の邪馬台国奄美大島説に大いに面白みを感じている。奄美大島では大巫女と書いて「ひみこ」と読む。北九州や畿内ではノースリーブや半裸の貫頭衣では冬は過ごせず、畿内では海に潜って漁はできない。奄美大島は18世紀まで貫頭衣を身にまとい、腕や足に入れ墨をしていた。刺青をするとウツボやウミヘビに噛まれないと伝えられていたという。これらは「魏志倭人伝」に合致する。
日本列島弧の視点では、日は太平洋から昇る。鮮朝半島からの視点では海の向こうの島山から日が昇るのである。やがて彼らは「日出ずる」島山「日出ずる国」を目指して海を渡った。政治亡命やフロンティアからである。
朝鮮半島から来た人々は、縄文系の人々が神域としていた同じ場所を神域と認め、そこに彼等の氏神、祖神を祀った。彼等は本貫・氏素性を重視する文化を持っていたのである。渡来人も彼等の共同体が守られるよう、その本貫の氏神に祈ったのである。
やがて彼等は大和地方に至り、さらに伊勢湾、東海へと進出していく。その折り原始伊勢信仰「海照(あまてらす)神」を天孫・皇祖「天照(あまてらす)大神」とつくり変え、天皇家の祖神として伊勢神宮を造営したのだろう。
さて、人が滅多に近づくこともできない山奥の龍穴や巨岩は本来の御神体である。この御神体と里の中間に、「奥宮」が設けられた。山の中腹あたりである。そこからさらに麓に近い丘に、一集落に一柱の「鎮守」様とそれを囲繞する樹木が植えられた。鎮守の森である。さらに人里の真ん中、あるいは街中に「里宮」が造営された。
ある特定の一族の祖神のみを祀った神社や人物を祀った神社は、里宮しか持っていない場合が多い。自然御神体と奥宮と鎮守の森と里宮が揃った神社こそ、古代・縄文時代から続く神域を持った神社と言えるだろう。
神域の根拠もなく後世に勧請され造営された分社には、神気が薄い。無論たまたまその場所が神気を帯びていた場合や、分社ができて数百年、千年と古び、神域とも言うべき神気を帯びた森や空間を現出させている神社もある。
私は神道に無関心であった。ましてや神道政治連盟など全く関心がなかったが、最近は違う。神社本庁、生長の家、日本会議、神道政治連盟の政治的蠢動を、極めて不穏、不気味に思う。彼らの「皇国史観」が不穏、不気味なのである。もちろんこれらに関わる政治家たちは票が目当てで群がるのである。しかしやがて洗脳されていく。
大学一、二年の頃に、北畠親房の「神皇正統記」を読んだ。立派な文である。私は皇統の正閠問題には全く興味はない。楠木正成も北畠親房も誠実な忠義の人なのだろう。古い時代だから、彼らの忠義は称揚されたのだ。
読みながら、北畠親房にある種の狂気を感じたものである。彼の「神皇正統記」は、後世の山崎闇斎や水戸学、皇国史観に強い影響を与えている。
同じ頃に、岩波の「日本思想体系」だったと記憶するが、山崎闇斎の崎門学、垂加神道について読み、またそれらに関する本を二、三冊読んだ。闇斎は狂気そのものである。彼はその後の水戸学、尊王攘夷、皇国史観に強い影響を与えた。
つい最近、日本製ステルス戦闘機が「心神」と名付けられたという報道を目にして驚いた。明らかに「心神」は山崎闇斎の垂加神道から名付けられたものであろう。何か不穏な時代の空気を感ぜざるをえない。
尊王攘夷の奇人といえば、高山彦九郎と蒲生君平がいる。どう見ても高山彦九郎は奇人というより、狂人であろう。実に鬱陶しい。
蒲生君平も水戸学の影響を受け、いささか狂的な尊皇主義者である。そもそも尊王論は不合理であり、水戸の尊皇論は狂的である。君平が、ロシアの脅威と北方防備を説いた先見は林子平と同じだが、子平には尊王意識も攘夷論もなかった。
君平はその熱烈な尊皇主義から各地の歴代天皇陵を旅し、その修復を訴え「山稜志」を著した。その中で「前方後円」と記し、後の世に「前方後円墳」の言葉を定着させたことや、歴代天皇陵修復を訴えたことは高く評価していい。
そもそも明治維新の「王政復古」が退嬰的アナクロニズム以外の何ものでもない。維新政府は早々と攘夷を捨てたものの、政府中枢に太政官を置き、右大臣、左大臣やその下の役人どもも水干直垂、平安高烏帽子、指貫袴の出で立ちとくれば、噴飯もののアナクロである。また神祇官を置いている。
水干直垂、平安高烏帽子、指貫袴の出で立ちは神社の宮司さんである。宮司さんや巫女さんの伝統衣装は、長く後世に残していただきたいが、大臣や役人のコスチュームとしては動きにくかろう。さすがに薩長の天下を獲った要人らは方向転換を図った。神祇官は官幣社を定め廃仏毀釈運動を進めて、多くの仏教文化資産を破壊した。ほどなく廃止、太政官は明治18年まで続いた。
彼らはお天子様を知らしめるための行幸を実施し、尊皇教育を徹底した。また天皇の祭祀、皇室行事を多数創案した。十三の皇室祭祀のうち、十一はこの時に創作されたのだ。これらについては日本宗教史の村上重良の研究に詳しい。
(※)神武天皇即位日(二月十一日)を紀元節としたが、これは「延喜式」に「宮内省に坐す神三座。並名神大、月次、神嘗。園神社、韓神社二座」とあり、大内裏には皇祖皇宗の「宮内省坐園韓神三座」が祀られていた。今でも皇居内には「園韓神三座」が祀られている。園神とはソフリ神(新羅の神)であり、韓神とはカラ神(百済の神)のことである。中世で廃絶したが、二月十一日は宮中内で「韓神祭」が執り行われ、「韓風(からかぜ)吹かむや、韓風吹かむや」と雅楽と舞が行われていた。「あゝ懐かしき故郷の風、吹いてこい」「あゝこの風は、懐かしい故郷の風ではないか」と舞うのである。この「韓神祭」が執り行われた陰暦二月十一日は、韓半島から亡命者や開拓者として渡ってきた人たちが、大和に統一政権を樹立した日なのかも知れない。彼らはその日を演奏と舞で祝い、彼等が棄ててきた故国を偲んだのに違いない。だから紀元(起源)節であり、戦後に建国記念日とされたのだ。
ちなみに明日香は古朝鮮語の「ふるさと」という意味の安宿(アスク)であり、飛鳥(あすか)も同じである。奈良(寧楽)のナもラも国で、古称・平城(平壌)京は平らな国のことだ。韓国の政党「ハンナラ党」とは、韓(ハン)国(ナラ)である。ソフリとは古朝鮮語で都、京、つまりソウルのことである。「神道五部書」の中の「五鎮座次第記」に、イザナギノミコトの左目から生まれた天照大神の別名は「瀬織津比メ神」とある。セオリツヒメとはソオリ姫、ソフリ姫(都の姫)のことである。日本各地の古い神社にはソフリ姫が祀られているところが多い。
夢野久作の「ドグラ・マグラ」をはじめ、彼の著作が好きだったことから、自然に久作の父・杉山茂丸の「百魔」や評伝を読むようになった。私は茂丸に強い関心を抱き続けているし、実に面白い人物だが、やはり尊皇主義は理解できない。そもそも何で天皇に、皇室に忠義を尽くさなければならないのだ。
茂丸は朝倉宮に住まわれていた天智天皇を持ち出す。天皇はたった三棟の藁の苫(とま)で葺(ふ)いた屋根と、皮の付いたままの丸木柱の皇居に住まわれ、その「秋の田の刈穂の庵のとまを荒み 我衣手は露に濡れつつ」という御詠に感動する。苫が荒かった為に陛下のお袖が夜露に濡れていた、とそれがどうした。古代の住宅事情はそんなものであろう。また或る日御垣の外を小娘が腰を屈めて天皇に挨拶をして過ぎた。「陛下は今物云うて行った娘は、八兵衛の娘であったか、杢兵衛の子であったか、と仰せられ『朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ」と御歌を詠まれた」と言って感動する。天智天皇はこうして赤子のひとりひとりについてその名を覚え、彼らに心を寄せられたのであると。…そうだろうか、彼らは皇居の雑用のお世話をする人たちであって、天皇の目が届く周囲の者たちであろう。ほとんどの民は奴隷、の時代であったはずだ。
「かくの如き君民の間が親しき為め、王政の陛下は「民は国の本なり」、と仰せられる。また王政治下の人民は「陛下は我々の父母なり」と慕い奉る。かくの如きものが王政で、今上陛下は維新の初めに、それに復古すると仰せられたのである。」…そんな言葉は少年帝から出るはずもなく、クーデター派貴族や薩長の連中が書いたものだ。
「この王政君民の間には、勤皇家も、忠義者も社会党(ソシャリスト)も、無政府党(アナキスト)も、虚無党(ニヒリスト)もないのである。
然るに勤皇家と忠義者が出てきて、折角人民と天皇と親眤(しんじつ)せんとしているのに、それ頭が高い、物を云うて恐れ多い、お姿を拝して目が潰れる、とこの親子の中を隔離し、仲に在って自分が威張るから、不平党や謀反党などが出てくるのである。」…つまり天皇の権威を借りて威張り散らす奴らが出たわけだ。薩長藩閥要人とクーデター派貴族だろう。
三島由紀夫の「豊穣の海」の「奔馬」に描かれた飯島勲というテロリストこそ、「皇国史観」の狂気が生み出し、それに貫かれた少年・青年であった。三島はこの青年を昭和初期の血盟団事件を元に描いたらしい。そして「奔馬」の飯島勲こそ自分だと言うのである。
平泉澄は東京大学の歴史学者だが、とても歴史学などと言える代物ではなく、いわば神話学であろう。彼の「皇国史観」「平泉史学」は狂気としか思えず、神話と歴史の「混同史観」だろう。よく歴史学者を名乗れたものだ。戦前戦中、東大の国史学科は平泉澄門下で占められていたという。みな狂っていたのだろう。
平泉に色川大吉が「民衆史」をやりたいと言うと、口の端に冷笑を浮かべ「民衆に歴史がありますかね」と言い放ったという。この平泉「皇国史観」を背景として学徒出陣が実施され、多くの若者を死地に送り出した。
平泉澄は福井県勝山市の平泉寺白山神社の出で、戦後はそこの宮司におさまっている。司馬遼太郎は「街道をゆく」で、この白山神社を訪ね平泉澄に面会を求めたが、夫人に留守だと言わせて面会を断り隠れている。おそらく逃げたのだろう。司馬遼太郎も学徒出陣で大陸に送られた一人であった。戦後新聞記者となった司馬は、宗教を担当させられ、もっばら寺社仏閣回りをしていたという。彼は平泉寺白山神社の縁起を聞きたいと思ったに違いないが、平泉澄はその史観の不合理を訊かれることを厭ったのであろう。
「街道をゆく」旅にしばしば同行している司馬遼太郎の友人・金達寿の文庫本に「日本の中の朝鮮文化」が三冊ある。他に文庫本で読める彼の著作には「古代朝鮮と日本文化」「日本古代史と朝鮮」などがある。とにかく面白い。
金達寿は日本全国の古い神社を訪ね歩き、それらがほとんど朝鮮由来の神、渡来系の神であることを明らかにした。彼はそのため「我々をみな朝鮮渡来だというのか」と、ずいぶん批判され、攻撃されたらしい。
しかし金達寿はこれらの著作で自分の意見や考えをほとんど披歴していない。彼はそれぞれの市町村の役所や教育委員会が発行している郷土史や、しおり、パンフレットを引用・転記しているに過ぎない。また神社が発行している縁起や由緒由来を引用・転記しているに過ぎない。あるいは地誌学者や、古代史学者、民俗学者等の記述を引用・転記しているに過ぎない。
日本会議、神道政治連盟も、古い神社のほとんどが朝鮮半島渡来の神々だということは当然知っているだろう。そこはかとないアイロニーを感じる。
安倍が議連会長をつとめる神道政治連盟や走狗的右派勢力は、天皇を再び国家元首にかつぎあげることを公言し、天皇を中心とした祭政一致国家の復活を声高に叫んでいる。
私は、今上天皇と皇后のお二人を、敬愛している。そのお人柄も好きだ。被災地や、旧激戦地をめぐり、彼の地の犠牲者と日本の犠牲者を慰霊するお姿は感動的であり、頭が下がる。今、お二人は孤立感を深めておられるのではないか。
お二人はこれまで、憲法や平和、民主主義については、たまに二言三言ふれる程度だったのだ。しかし、お二人はかなり思い切った護憲発言をされるようになった。平和や平和憲法に強い危機感を抱かれているのだろう。
安倍や官邸、自民党、それを支える右派の走狗勢力からは、天皇・皇后の護憲、平和、民主主義擁護の発言に対し、天皇に対する批判発言まで飛び出している。
安倍政権下で教育再生実行会議委員をつとめ、首相のブレーンである憲法学者・八木秀次は「正論」(産経新聞)5月号で「憲法巡る両陛下のご発言公表への違和感」という文章を発表した。彼は露骨に天皇と皇后に、「両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねない」と、安倍政権の批判をしないよう説教をし、宮内庁に両陛下の発言を事前にチェックし、彼らの口を塞げ黙らせろと批判した。
いま安倍政権は安保法制でも憲法を無視するばかりか、その走狗である右派応援団や八木秀次などを使嗾し、戦後天皇制の立脚点を外そうとしているのである。またネット上では安倍首相の走狗的支持者が、護憲的発言をされたお二人に対し「在日認定」というレッテル貼りの表現までして、容赦なく非難を浴びせた。これらのことはブログ「宮廷の孤立」にすでに書いた。
戦前の美しい日本に戻す、皇国史観、国家主義政策、壊憲、大日本帝国憲法、教育勅語、五箇条の御誓文、祭政一致、天皇御親政…。この政治的蠢動が極めて不穏、不気味に思う。彼らの「皇国史観」が不穏、不気味なのだ。
ちなみに二十数年以上も前、複数の右翼が縁と機会あって北朝鮮の平壌に行った。彼らはそこで、天皇御親政の理想を見たのだそうである。またつい一年ほど前、安倍昭恵夫人は幼稚園児たちによる「五箇条の御誓文」「教育勅語」の唱和と、「軍艦マーチ」の斉唱に接し、いたく感動したのだそうである。まるで北朝鮮の幼稚園児と同じではないか。気持ち悪い。
さて、イスラム原理主義や、キリスト教原理主義と同様、「尊皇・皇国史観」は、日本における原理主義と言えるかもしれない。
昨年の11月、ブログに「全体主義・原理主義」という一文で、フランスの哲学者ベルナール=アンリ・レヴィの「危険な純粋さ」という書を紹介した。この書は20年ほど前に日本でも刊行された。アンリ・レヴィによれば、21世紀は、原理主義という危険な純粋さがキーワードなのである。イスラム原理主義、キリスト教原理主義、ユダヤ原理主義、自由市場原理主義…。
日本では自由市場原理主義に乗っ取られた政治屋たちのポピュリズムが、ナショナリズムを煽りはじめ、かつ軍産複合の自由市場原理主義が支配するアメリカの属国となり、戦前の全体主義への回帰を策謀し、それを着々と推し進めている。「皇国史観原理主義」である。