5月26日(土)11時すぎに萩城に着いた。
お城はないけれども、お堀と石垣のコントラストが青空と松の緑に強調されてとても美しい!でも・・やはりこの石垣の上にあったはずのお城が見たいという欲求は抑える事ができないのだった。
(だからといって、無理やりこんなことをしてみてもはじまらんのだが)
(モノクロじゃないかって、そういう問題か?)
しかしとりあえずお城が建ったので、近くの人にこの写真を見せたが、反応はいまひとつだった。『なあ~んだ、写真じゃない』って、そらそうでしょうよ。本物は手では持たれんもん。(だから、そういう問題かって!)この写真が撮りたくて来た様なものだったのに、真意がわかってもらえず、残念だ。
お城の芝生でお弁当を戴いた。落ち込んだばかりなのだが、とてもおいしかった!精神と肉体は別物だということを確認して次の城下町に向かった。
幕末動乱期、逃げの小五郎の命の恩人。京都の芸妓幾松さん?この人が?随分イメージが違いますけど・・・
で、やっと3番目の見学ポイントにやってきました。『松陰神社』 鳥居をくぐるとこんなところに?というような意外な場所に松下村塾はこじんまりとたっていました。熱っぽい勉強が日夜続けられた、日本の煮えたぎるエネルギーの中心としては、いかにも小さすぎるという印象だ。
この隣に杉百合之助(松陰の実父)の家があり、幽囚室をみることができる。三畳一間だけれども出窓がついていて格子などはついていない。
ここから伊藤博文の生誕の小さな家と、立身出世のあと東京に建てられていたものを移築したという大きな家をさっとみて、松陰の生誕地に向かった。伊藤邸からだらだら坂を登る事300M.生誕地に到着する。一汗かいて見下ろす萩の街並みと萩城址は素晴らしく、若い松陰がここから眺めたことがあるのかと思うと感慨も深いものがあった。
(黄砂の中に浮かぶ萩城下)ここからの景色をもっと楽しむ為には朝早く訪れることをお勧めします。午後はこのように逆光気味になりますから。
(生誕地の間取りをかたどった埋石)
吉田松陰の墓には、 松陰二十一回猛士墓とある。これは、生家の杉という苗字の木偏には十八という数を含み、右側の旁(つくり)は三で合計二十一になる。また養子に入った吉田の姓には、吉には十一を含み、田には十を含むから足して二十一になる。残った二つの口を合体させると回となる。
松陰は夢に二十一回猛士と告げられたという。寅次郎は虎に通じるから、神はおそらく二十一回猛々しいことをせよと言ったに違いない、と信じたらしい。
ここには、父の杉百合之助、叔父(松下村塾の創始者)玉木文之進、弟子の英傑高杉晋作、久坂玄瑞の墓などがまとまっている。もしも、その世界の音が聞こえるとしたら、この一帯はさぞかし賑やかなことだろうと思うと楽しくもある。
同じ場所に、吉田松陰と金子重輔の師弟銅像がある。二人はアメリカへの渡航失敗の罪で松陰は野山獄へ、金子重輔は岩倉獄へと収容される。金子は待遇の悪い牢獄の厳冬に耐え切れずに死んでしまい、松陰をひどく苦しませる。
『散るとても 香は留めたり 園の梅 』 (松陰)
このとき、佐久間象山の理解者であった幕府の川路聖謨(としあきら)は老中阿部正弘に嘆願して死罪から謹慎処分という配慮を得る。三人は国許へそれぞれ返された。佐久間象山は松代藩で謹慎となったが、長州藩は二人を牢にぶちこんだのだ。いつの世も度し難い役人というものがいるものである。
象山は松陰との別れに歌を渡している。自分の激励文を抱いて密航しようとする弟子の姿を詠んでいたものを、この別れに渡したのだ。松陰はこれに目を落とし終えるや、大粒の涙を流したといわれている。
『 かくとだに知らでやこぞのこのごろは
君を空行く田鶴(たづ)にたとえし 』
翌日もよく晴れて暑いくらいの中を(津和野の街並みを遠く離れて)、なぜか津和野城址からキリシタン受難の地などをめぐって山歩きをしてしまいました。ボランテイアの方にずっと案内していただきました。やっと下りて来た津和野のきれいな街並みは、豚のように肥えた鯉のユートピアになっておりました。皆様お気をつけ下さい・・・むむー
数学、法学、哲学、万国公法の西周(にしあまね)さんごめんなさい!時間がなくなってパスしちゃいました。
(鯉は片側だけの堰で区割りされた川におり、もう片側は軽快に流れておりました)
(長州とちょっと石州の旅、おわり)