たいてい雨に
たたられていたが、
今日はすばらしい
晴天でした。
古墳群に面した
道路にならんで
応援しました。
しかし?
手には『新原奴山古墳群を世界遺産に』と書かれたのぼりを
持っていました。(^^;ボランテイアガイドの世界遺産応援隊です。
目の前を野口みずき選手が走っていくのだけみえ、片手で
シャッター押しましたが、他はのぼりがじゃまでなにも
午後二時から
TV放映を
見たら
往路、復路ともに
ほんの数秒
申し訳なさそうに
映ってました。
ま、そんなもんかな
今年の区間賞は、
マルチグラス
特製の
駅伝たすきバージョン
の第二弾3個と、
ふくこいねこの駅伝バージョン
3個でした。
あなたならどっち?
(^^;
黒田官兵衛の弟にあたる黒田利則(養心公)は、津屋崎の屋敷を出て渡(わたり)の薬師さまに参拝し、帰り道に庄屋の家に立ち寄りお茶を所望した。
茶を差し出したのは庄屋藤七の娘嘉代であった。決めごとのように、この嘉代さんは大変な美人であったらしい。
それから何事もなく過ぎたある日、お屋敷からの使いが嘉代をお屋敷務めに来させよ、と伝えた。
安物のTVドラマのようですが、筑前52万石の長政公の叔父さんにあたる津屋崎の殿屋敷からのお達しでは、庄屋さんとしては逆らうことなど当時は出来なかったでしょうねえ。
嘉代さんに彼氏がいなければ、『やったあ!玉の輿じゃあ!』とでも言ってくれたら、救われたでしょうが、ところがそうはいかないのですよ。
彼氏がいたのです。博多の廻船問屋、よろずや新兵衛の息子で新吉さんといいます。
廻船というのは福岡にもそれほど多くなかったと思いますが、500石以上の船で、1000石クラスになると、有名な北前船のように日本全国を回り大商いをしていたようです。
新吉さんは大商人のあととり息子ですから、藤七さんも嘉代さんも結納も終えてしあわせの絶頂にあったと思います。
どれだけ悲しみ、悩んだことでしょうか。
京泊(きょうどまり)という入り江に小舟が浮かんでいました。誰ものっていません。
ただ、船の中には歌が一首残されていたそうです。
『津屋崎の岸による波返るとも 恋の浦路はゆく方もなし』
慶長11年(1606)のことでした。
それから6年後には、養心公が亡くなっています。