福岡県の絵馬(第三集)によると、この絵馬の画題は『関羽図』である。
一方、津屋崎町史によると『三国志長坂橋、張飛図』となっている。
関羽も張飛も三国志の主人公、劉備玄徳を支える兄弟分の豪傑であるから、どちらでもいいようなものだが、行きがかり上、そうもいかない事もある。
絵馬というのは、絵師が書き、奉納者が祈りを込めて奉納したものだが、その絵の内容を記録したものが少ないから、こういうことが起きるわけだ。できれば正確を期したい。
さて、町史は、より具体的に『長坂橋』という地名を出しているので、このくだりを小説で見直してみると、” 見れば、丈八の矛を横たえ、盔(かぶと)は脱いで鞍に掛け”とある。(吉川英治『三国志』)
小説では、張飛の持つ武器は『蛇矛』と表現されている。この絵を見ると、この武器は蛇のイメージはないようだ。また、盔(かぶと)も鞍には見当たらない。 では、一方の関羽は、この様な橋の場面はないかというと、実はあるのだ。『覇陵橋』という橋である。
一時、関羽は、曹操に破れてやむを得ず寄宿していたが、玄徳の元へ帰っていく場面がある。曹操は関羽に衣を送る。関羽は、”小脇にしていた偃月の青龍刀をさしのべて、その薙刀形の刃さきに、錦の袍を引っ掛け、ひらりと肩に打ちかけると、『おさらば』とただ一声残して、たちまち北の方へ俊足赤兎馬を早めて立ち去ってしまった。”というくだりである。
再び絵を見ると、関羽の武器は 偃月青龍刀。その刃先に曹操からもらった”ひたたれ”を引っ掛けて頂戴したという状況がぴったりするように見える。また関羽の馬は赤毛の”赤兎馬”という馬だったから、これも符号する。うーん!これは『関羽』に軍配が上がるのではないだろうか。(興味ない方には、えらいすんません!)