海亀

浜辺を散歩しながら、ひとりごと...

三国志

2007年08月31日 | インポート

02_s 福岡県の絵馬(第三集)によると、この絵馬の画題は『関羽図』である。

一方、津屋崎町史によると『三国志長坂橋、張飛図』となっている。

関羽も張飛も三国志の主人公、劉備玄徳を支える兄弟分の豪傑であるから、どちらでもいいようなものだが、行きがかり上、そうもいかない事もある。

絵馬というのは、絵師が書き、奉納者が祈りを込めて奉納したものだが、その絵の内容を記録したものが少ないから、こういうことが起きるわけだ。できれば正確を期したい。

さて、町史は、より具体的に『長坂橋』という地名を出しているので、このくだりを小説で見直してみると、” 見れば、丈八の矛を横たえ、盔(かぶと)は脱いで鞍に掛け”とある。(吉川英治『三国志』)

小説では、張飛の持つ武器は『蛇矛』と表現されている。この絵を見ると、この武器は蛇のイメージはないようだ。また、盔(かぶと)も鞍には見当たらない。  では、一方の関羽は、この様な橋の場面はないかというと、実はあるのだ。『覇陵橋』という橋である。

一時、関羽は、曹操に破れてやむを得ず寄宿していたが、玄徳の元へ帰っていく場面がある。曹操は関羽に衣を送る。関羽は、”小脇にしていた偃月の青龍刀をさしのべて、その薙刀形の刃さきに、錦の袍を引っ掛け、ひらりと肩に打ちかけると、『おさらば』とただ一声残して、たちまち北の方へ俊足赤兎馬を早めて立ち去ってしまった。”というくだりである。

再び絵を見ると、関羽の武器は 偃月青龍刀。その刃先に曹操からもらった”ひたたれ”を引っ掛けて頂戴したという状況がぴったりするように見える。また関羽の馬は赤毛の”赤兎馬”という馬だったから、これも符号する。うーん!これは『関羽』に軍配が上がるのではないだろうか。(興味ない方には、えらいすんません!)


月蝕

2007年08月28日 | インポート

19828_007 19828_006

今日の月蝕は8時から20分くらいの間、少しだけ見えました。

昔、小学校の校庭に出て、ガラスをすすでくもらせたもので、

日食を見た記憶が蘇りました。

世の中真っ暗になるかと思いきや、そうでもなかったので、

少しがっかりしたような・・・

夜は随分涼しくなってきたようです。


日本号 を見た!

2007年08月22日 | インポート

♪~

酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一のこの槍を という黒田節の、あの槍を見ることができた。

福岡市博物館に『福岡藩の御用絵師その③』 を見にいったところ、隣に見事な槍があるので行ってみたら、『日本号』であった。もう、それで、すっかり絵師そっちのけになってしまった(笑)

全長321.5cm、刃渡り79.2cm、重さ2800g

穂先に溝があり、(三鈷剣にからみつく倶梨伽羅龍が掘り出してある。柄は螺鈿細工)と

説明書きがある。かわいい顔して頑固な女の子が、どうしても写真を撮らせてくれないので、しょうがないから絵葉書から戴いた。

Photo_1 豊臣秀吉が時の後陽成天皇からもらい、福島正則に与えていたものを、黒田24騎のひとり、母里太兵衛が飲み取ったという言い伝えの有名な槍なのだ。

(ちなみに、その時、母里太兵衛は3合、5合、7合と立て続けに3杯、合計1升5合を飲み干して、槍をかかえて悠々と馬でひきあげたという豪傑だ)

  福島正則は後をつけさせ、もしも落馬でもしたら、とりかえそうと思っていたらしい。・・気持ちはわかる。

しかし、この話にはさらに後日談があって、後に朝鮮の役の時、母里太兵衛が虎狩りをしていたところ、大虎に、槍の穂先を押さえられて身動きならなくなった。

たまらず、近くにいた後藤又兵衛に助けを求めたところ、『助けたらその槍をくれ』といわれ、せっぱつまってOK!してしまった。そして取られてしまったのが『日本号』だったのだ。

そのあと、どういうわけかしらないが、後藤又兵衛は黒田家を去る。が、槍は黒田家に残ったということだ。