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ベトナム戦争

2019-11-27 12:54:00 | 新しい考え方

①💣✈️ベトナム戦争✈️💣

私の世代にとって、ベトナム戦争はいまのシリア内戦のようなものだった。

1972年の冬。

クリスマスの2日前に、ハノイのバックマイ病院に7発の爆弾が投下された。

患者とスタッフ、合わせて27名が亡くなった。

当時、わたしはスウェーデンのウプサラで医学を学んでいた。

わたしは妻と共に、大学で余っていた医療器をかき集め、箱に詰めてバックマイ病院に送ることにした。

その箱の中には、黄色の毛布も入っていた。

その15年後。私のスウェーデン政府による開発援助プロジェクトの調査を行うため、ベトナムを訪れた。

ある日、一緒に仕事をしていたニエムさんという医者と昼食を食べたときのこと。

ご飯をほおばりながら、私はニエムさんの過去について尋ねてみた。

すると、驚くべき答えが返ってきた。

バックマイ病院が爆撃されたとき、なんと彼は病院の中にいたという。

その後、世界中から物資の箱が届き、ニエムさんは開封作業の指揮をとっていた。

わたしは彼に、「黄色い毛布を覚えていますか」と尋ねてみた。

すると彼は、もちろん、と言う。

しかも、毛布の柄まで正確に答えてくれた。

わたしが送ったのと同じやつだ。

鳥肌が立った。

わたしたちは出会うずっと前から、友達だったのかもしれない。

その週末、わたしはニエムさんにベトナム戦争の記念碑を案内してもらった。

「こっちではベトナム戦争じゃなくて、対米抗戦って呼ぶんですよ」

とニエムさん。

たしかにに言われてみれば、あの戦争を現地の人が「ベトナム戦争」と呼ぶわけががない。

わたしはニエムさんに連れられて、市の中心地にある公園にやってきた。

そこには、真鍮のプレートがついた、1メートルほどの小さな石があった。

これがベトナム戦争の記念碑だって?

冗談だろう?

西洋の若者たちは当時、熱にうかされたようにこぞってベトナム反戦運動に参加した。

わたしも、できる限りのことをしようと思い、医療機器や毛布を送った。

戦争では、150万人以上のベトナム人と、5万8,000人以上のアメリカ人が亡くなった。

その悲惨な戦争の犠牲者をしのぶのに、こんな小さな記念碑でいいのだろうか?

がっかりした私を見たニエムさんは、もっと大きな記念碑に連れて行ってくれた。

こちらは4メートル近くある、大理石でできた記念碑だ。

フランスからの独立を記念して建てられたらしい。

しかしこれを見ても、私はまだ納得がいかなかった。

するとニエムさんは、「いままでのは序の口。次が本番ですよ」

と言う。

彼は少し遠くまで車を飛ばし、窓の外から指をさした。

木よりも高い、金色の大きな仏塔がそびえ立っている。

何十メートルもありそうだ。

「ここが、戦争の英雄をまつる場所です。美しいと思いませんか?」

と彼は言う。

これは、中国との戦争の記念碑だった。

中国とベトナムの戦争は、休戦期間も含めると、2000年以上続いた。

フランスに占領されていたのは200年間。

「対米抗戦」があったのは、たった20年間。

記念碑の大きさは、戦いの長さと完全に一致していた。

いまのベトナム人にとって「ベトナム戦争」は、ほかの戦争に比べたらそれほど大ごとではなかったのかもしれない。

記念碑の大きさを比べるまで、わたしはそのことに気づけなかった。


(「ファクトフルネス」(日経BP社)オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング、ロンランド著 上杉周作、関美和訳より)