大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2017年1月1日主日礼拝説教 ルカによる福音書2章22~35節

2017-01-05 15:28:11 | ルカによる福音書

説教「万人のための救い」

 <聞きいれられた>

 新しい年が始まりました。2017年です。

 今日お読みしました聖書箇所にはシメオンという祭司が出てきます。シメオンは、おそらく主イエスの生前のみならず復活ののちペンテコステの日に聖霊が注がれる前までの時に、ただ一人、主イエスという存在の本質を理解していた人物であったと考えられます。洗礼者ヨハネも主イエスの道を備えた先見者でありましたが、シメオンは、主イエスの救い主、慰め主としての本質をもっと深く悟っていたと考えられます。主イエスのまことの降誕の意味を聖霊によって示されていた点において、シメオンは、最初の一人であったと考えられます。

 そもそも、シメオンとは「聞き入れられた」という意味です。新しい年、この一年、私たちも私たちの切なる願いが神に聞き入れられるようにと思います。

 さては、シメオンの願いの何が聞き入れられたのでしょうか。25節に「イスラエルの慰められるのを待ち望み」とあります。そうシメオンは待っていたのです。イスラエルが慰められる時を待っていました。彼はイスラエルが慰められますようにと願っていたのです。現実に、確かにイスラエルは慰められなければならない状況でした。シメオンの年齢は、はっきりと記されていませんが、おそらく高齢でしょう。彼はその長い人生において、イスラエルが独立を保っていた時代も知っていたでしょう、しかしその独立王朝が滅び、ローマに支配されるまでの歴史の流れの中で、血なまぐさい時代に翻弄されながら、生きて来たことでしょう。大国にいいようにもてあそばれ、イスラエル人ではない王をローマの傀儡としていただき、本来は神に選ばれた神の民であったイスラエルが、民族としての誇りもぼろぼろになっていた、そのイスラエルの地で、そのかたすみで、なおそのイスラエルの神に期待をしていたのです。

 シメオンは、イザヤがイザヤ書40章「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」と預言した救い主メシアを待ち焦がれていたのです。その待ち焦がれる思いを神から与えられていました。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」とあります。シメオンは、その生涯をメシアとの出会いに定められていた人であります。その生涯のすべてが、メシアと会う、その一点に絞られていた人でありました。そのような特別な神からの召しを受けた人でありました。

 シメオンにも、長い人生の中、さまざまな思いがあったことでしょう。祭司として神殿に仕えながら、宗教儀式に関わりながら、淡々と日々の為すべきことをなしながら、なおまことのイスラエルの救いを祈り求めていたことでしょう。シメオンは祭司という地位にありましたが、むしろ預言者として生きていたといえます。神の預言に、つまり神のご計画に、未来の希望に生きる人でありました。切に慰めを求めていた人でありました。

 慰めとはギリシャ語でパラクレーシスと言います。救いへの導きであるとか、励ます、また力が出るように安心させるというニュアンスがあります。日本語の慰めという言葉よりもっと積極的な意味があります。救いへ向かって、力へ向かって導いていくような強いイメージがあります。シメオンは慰め主パラクレートスをその両腕に抱きました。実際、その腕にいるのはただの力ない生後40日の赤ん坊です。貧しい夫婦の子供に過ぎない赤ん坊です。しかしなお、この赤ん坊にシメオンは見たのです。力強い救い主としての姿を、打ちひしがれているイスラエルとその民を奮い立たせる者である姿を。救いへと、力へと導く強い慰め主であるとそのみどりごを見て確信したのです。そして言います。「主よ、今こそあなたは、おことばどおり/このしもべを安らかに去らせてくださいます。」

 シメオンが新約聖書に登場するのはこの場面だけです。ただ律法の規定通り神殿に捧げられたみどりごイエスを両腕に抱いた、それだけの救い主との交わりでした。そしてそのひとときのために、そのひとときだけのためにシメオンの人生があったこと、それは今日的な価値観からしたらあっけないような、もう少しいろんなことがあってもいいのではないかとも思えることかもしれません。しかしそれだけに「このしもべを安らかに去らせてくださいます」という言葉は極めて大きな重みがあります。ただ救い主と出会う、それだけのためにシメオンは生きてきていた。そしてその願いは聞かれ、その救いを目の前に見た、両手で抱いた、もう良い、これで十分だ、彼の心は安らかにされたのです。

 彼の目に見えていたのはさきほども申し上げましたように貧しい夫婦の憐れな赤ん坊でした。律法によれば、赤ん坊を神殿に捧げる時、小羊を捧げないといけなかったのですが、貧しい夫婦は山鳩しか捧げることができなかったのです。職業的な祭司として、たくさんの、神殿に子供を捧げる夫婦を見て来たことでしょう。裕福な夫婦もたくさん見て来たことでしょう。しかしいまシメオンの前にいるのは、ただの貧しい若い夫婦です。

<異邦人を照らす光>

 しかし、聖霊によってシメオンは語ります。預言者として語ります。

 「これは万人のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」

 万人のために整えてくださった救い、異邦人を照らす啓示の光、この言葉はみどりごイエスの父と母を驚かせました。なぜなから彼らはこの幼子がダビデの末裔として特別な存在になることは天使ガブリエルから聞いていましたが、それはユダヤ人への救いと理解していたと考えられるからです。異邦人を照らす啓示の光、つまり、神の救いがイスラエルだけでなく、異邦人にも届けられる、これは当時のイスラエルでは考えられないことでした。しかし、この光はまさにシメオンの預言ののち、1000年以上の時を経て、この東方の島国にまで届いたのです。日本にまで届いたのです。そして、私たちも今また異邦人を照らす啓示の光の中に照らされています。

 これはイスラエルの人々にとって大きな転換点でした。理解しがたい転換点でした。救いは特別に選ばれた民イスラエルのもの、それが当たり前のことでした。こののち、ペンテコステののち本格的に福音伝道が開始されたのちであっても、使徒言行録などを読みますと、なお、異邦人への伝道は、当時の伝道者の間で問題となり物議をかもしたことがわかります。

  ところでパラダイムシフトという言葉が少し前よくつかわれていたと思います。このパラダイムという言葉自体にそもそもは深い意味があるようですけれど、広い意味では意識の変革とか社会構造の変化みたいに比較的軽く使われていたようです。会社員時代も、新規技術によるマーケットの変化をパラダイムシフトと呼んでいたりしました。 本来のパラダイムシフトというのは天動説が地動説に代わるような根本的な人文学的変化、あるいは生物学的史上における先カンブリア紀のカンブリア生命大爆発のような決定的な変化が起こるようなことです。聖書に記された神のご計画された歴史の中でもしパラダイムシフトという言葉を使うとするならば、シメオンが抱いたおさなごによって、起こったことがパラダイムシフトでありましょう。つまり神のご計画が一民族から異邦人への救いと全人類への救いへと一気に爆発的に広がったということです。神の救いということの価値観がまったく変わってしまったということです。

<私たちのパラダイムシフト> 

 しかし、そもそも神の業というのは人間にとって、一人の人間にとっても、根本的なパラダイムシフトを起こすものでした。マリアの母が主イエスを身ごもった時、ルカによる福音書の2章46節からマグニフィカートと呼ばれる神への賛美を歌いました。その中に「主はその腕で力をふるい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ・・」と歌っています。つまり自分のような辺境のガリラヤの貧しい女が神の目に留められ、いま、権力の座にある豊かな者身分の高い者が引き下ろされると歌っています。つまりここにも決定的な神によるパラダイムシフトが伝えられているのです。価値観がひっくり返ってしまう出来事を神は人間ひとりひとりに起こされるのです。

 母マリア自身、たしかに、すべてのことがひっくりかえる信仰的霊的な啓示を受けたのです。しかし話はそれにとどまりません。シメオンはマリアにいます。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められている」

 救い主、万人のための救いである、このみどりごが、イスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりする、とシメオンは言いました。万人のための救いなのだから、本来は、万人が救われるはずです。万人がたちあがるはずです。しかし現実には、このみどりごによって倒される人々もいるということです。救いを受け取らない人々もいるということです。この万人への救いであるみどりごは、人を立たせもし、倒しもする、つまりこのみどりごのまえで人間は決断を迫られるということです。救いを受け入れる者は立ちあがり、救いが来たのに受け入れないものは倒されるのです。

 さらにシメオンは言います。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人々の心にある思いがあらわにされるためです。」

 多くの人々にある思いは、やがてこのみどりごを十字架に付けようとする思いとしてあらわれます。救いを拒否し、30年後のこのみどりごを「十字架に付けよ」と叫ぶ心です。そのあらわにされた人間の罪の前で母マリアの心は貫かれます。

 しかし、また私たちの心も貫かれます。

 私たちがまことに救いを受け入れていくとき、私たちもまた私たちのうちなる罪の思いが露わにされ、貫かれます。しかし貫かれたゆえ、私たちは立たされました。罪によって倒れていた私たちは立ちあがることができるようになったのです。倒れていた私たちが立ちあがるようにされた、それこそが救いであり、慰めです。慰めは力へと向かう強い言葉だと申し上げました。倒れていた私たちは万人を照らす光のうちに力を得て立ちあがるようにと慰めの言葉をいただきました。キリストと出会い、罪の心を刺し貫かれました。そして新しくされました。立ち上がらることができました。これこそ神によるパラダイムシフトです。

 新しい一年が始まりました。

 私たちは立ちあがります。まったく新しい歴史の中に立ちあがって行きます。起きよ光を放て、イザヤ書60章のことばは、私たちを万人を照らす光のなかに目覚めさせるものです。私たちは万人を照らすキリストの光のうちに、2017年を目覚めて生きていきます。世界は混沌として、私たちの日々も明日のことは分かりません。しかしなお、いま万人を照らす光の中に私たちはあります。その光の前で罪の心を貫かれ、新しくされ、日々新しくされ、起き上がります。

 世界は変わって行くでしょう。日本も変わって行くでしょう。劇的な変化、とんでもないことが起こるかもしれません。しかし、すでにキリストによって、新しくされている私たちはやがてキリストがふたたび来られるその日まで揺らぐことなく力強く生きていきます。

 シメオンはたしかに願いを聞き入れられました、イスラエルの慰められるのをまっていたシメオンは、イスラエルのみならず、万人の慰めを見たのです。私たちの願いも聞き入れられます。キリストの前で決断し、キリストを受け入れ信じる者の願いは聞き入れられます。そして神の業は私たちの願いを越えるものです。シメオンの願いがシメオンの願いを越えて聞き入れられたように、私たちの願いも、私たちの願いを越えて、もっと豊かにもっと大きくもっと光を放つ神の業として私たちの前におかれます。

 大いなる期待をもって歩みましょう。


2016年12月25日主日礼拝説教 ルカによる福音書2章8~20節

2017-01-05 15:15:37 | ルカによる福音書

説教「飼い葉桶の救い主」

<ある国でのクリスマス>

 7,8年前でしたか、12月にある国に出張に行ったことがあります。この国はキリスト教を迫害している国でした。しかし、教会の数はとても多く、クリスチャン数もかなりの数になるそうです。そのほとんどが非合法な地下教会につながるクリスチャンです。迫害と言っても、大きな迫害を加えるのは特殊な時で、通常は見て見ぬふりをしているようです。そんな国のそれほど大きくない町に仕事で行った時、知識としてキリスト教を迫害しているというのがあったのですが、町にある商店の壁に日本で言うと年末セールみたいな宣伝ポスターが貼ってありました。わたしはその国の字は読めないのですが、クリスマスツリーのような絵も書かれていて、あ、これはクリスマスセールのポスターなんだと思いました。キリスト教を公には認めていない国の町で、ごく普通にクリスマスセールがされている、なんだか妙な気分でした。2016年、今年も、日本で、世界で、クリスマスが祝われています。その祝い方はさまざまです。日本では、もう今晩、スーパーマーケットに行ったら一気にお正月の雰囲気になっていることでしょう。クリスマスがいっきにどこかに行ってしまいます。日本でのクリスマスの扱いも、本質的にはキリスト教を迫害している国とさほど変わりません、経済効果のみを期待した扱いであるように感じます。しかしなお、どのような扱いを人間がしようと、神はそういうこともすべてご存知で、なお、救い主がこの世界に与えられたことを告げ知らせられます。2000年前から現在に至るまで、キリストの到来は途切れることなく告げ知らされ続けました。人間がそれを無視しようと、あるいは別の目的で利用しようと、なおキリストの到来は告げ知らされてきました。教会において告げ知らされたのです。キリストの体なる教会で神が働き告げ知らせておられるのです。

<クリスマスへ態度>

 現代でも、キリストの降誕に関して、人々の態度はさまざまですが、2000年前、救い主イエス・キリストがお生まれになった当時も、そのことに関していろいろな人が関わりました。いうまでもなく、もっとも重大な関わりを持ったのは、母マリアでしょう。彼女はほかならぬ神の御子をみずからの体内に身ごもったのです。そしてそのマリアを妻として迎えるヨセフ、さらにはすぐる週、共にお読みしました洗礼者ヨハネとその両親、そのほかに、さまざまな人がさまざまな在り方で救い主の誕生と関わっています。

 今日お読みしたルカではなくマタイによる福音書には、東方からやってきた博士たちがユダヤ人の王が生まれたことをエルサレムのヘロデ王に告げると、ヘロデ王やエルサレムの人々は不安になったと記されています。救い主、新しい王の誕生を聞いたヘロデ王はイエス・キリストを亡きものにしようとすらしたのです。

 つまり、すべての人々を救うために来られた救い主が、すべての人々から大歓迎されたわけではない、そう聖書に記されています。むしろ、ほとんどの人には知られず、一部の者からは猛烈な嫌悪感を持って迎えられたのが神の御子の誕生であり、私たちの救い主の降誕でした。そしてそのことは2000年前の遠い国の出来事ではありません。さきほど申しましたように今日においてもやはりそうなのです。イエス・キリストをどう考え、どのように自分の態度を決めるかというのは千差万別なのです

<顧みてくださる神>

 今日お読みいただいた聖書箇所は毎年のようにクリスマスの時期に読まれる箇所でもあります。讃美歌「まきびとひつじ」に歌われている場面です。「まきびとひつじ」は英語の題名では「ファーストノエル」。つまりはじめてのクリスマスということになります。はじめての救い主への礼拝ということです。その初めてキリストを礼拝したのが羊飼いたちだったと聖書は記しています。本来、羊飼いたちは、羊から離れることはできません。夜も羊を守らなければなりません。ですから野宿をして夜通し番をしていたのです。当然、律法で定められた安息日も守れません。当時の人々から見たら、生活の面でも宗教的な面でもさげずまれていた人々でした。その人々に初めてのクリスマスが告げ知らされました。辺境の土地、誰からも顧みられないガリラヤ地方の貧しい少女マリアに天使ガブリエルが現れたように、神はここでも、誰からも顧みられない人々のうえに素晴らしい知らせを届けられました。

 私たちは、そのことを毎年のように繰り返し聞きながら、すべての人を顧みてくださるお方、神様って素晴らしいと思います。たしかにそうです。でも神様が素晴らしいのは、マリアを顧みられたからでも、洗礼者ヨハネの母を顧みられたからでも、羊飼いたちを顧みられたからでもありません。ほかならぬ私、自分を顧みてくださったからです。ここにいる一人一人が個別に神に顧みられたのです。今も顧みられています。

 私たち自身が、暗闇の中にいました。野宿をしている羊飼いのようによるべなく日々を送っていたのです。神を知らなかった私たちは本当の平安を知ることがありませんでした。そんなわたしたちにクリスマスの出来事が告げ知らされたのです、私たちの上にも天使がやってきて、私たちも天使と天の大群の讃美の声を聞いたのです。これは遠い遠い国のおとぎ話ではありません。私たちの物語です。

 そんなことはない、私は野宿をしているわけでもない。セレブや大金持ちではないけれど、それなりにちゃんと社会生活を送っている。天使などやってきていないし、まばゆい神の栄光も見ていない、天使と天の大群の讃美など聞いたこともない。そう言われるかも知れません。たしかにこの耳で天使のお告げは聞かなかったかもしれません。まばゆい神の栄光を見ることはなかったかもしれません。天の大群の讃美は聞こえなかったかもしれません。しかし、いまここにいる私たち一人一人に最初のクリスマス、ファーストノエルがあったのです。そして繰り返し繰り返しクリスマスの出来事は告げ知らされています。そしてそれは個人的な神秘体験ではありません。

<わたしのファーストノエル>

 今年は12月25日が日曜日で、クリスマスの当日にクリスマス礼拝をお捧げすることができています。日本のプロテスタントの教会の多くは、通常なら25日の前で25日に一番近い日曜にクリスマス礼拝をお捧げします。そして年内にもう1週日曜日の礼拝があり、元旦の礼拝と続いていきます。でも今年は今日が年内最後の礼拝で、元旦は通常の主日礼拝となります。私が初めて教会の礼拝に行ったのは、25日が平日の年で、クリスマス礼拝の翌週の12月最後の礼拝でした。「クリスマス礼拝のときに初めて教会に行く人は多いですが、その翌週にはじめて教会にくる人は珍しい」とあとから言われました。珍しいと言われましても、その前の週がクリスマス礼拝だなんて、当時の私は知らなかったのです。たまたま教会に行きやすかったのが会社が冬休みに入った最初の日曜日だったのです。クリスマス礼拝には100人以上が集う教会でしたから、おそらく前の週の礼拝やら祝会はさぞにぎやかだったことでしょう。それに対して年内最後の礼拝は、帰省する人などもいて、人数も少なく、寂しい礼拝だったかもしれません。そういうことは当時の私にはよくわかりませんでした。たしか説教の箇所もぜんぜんクリスマスとは関係のない旧約聖書のモーセの話だった記憶があります。

 でも、クリスマスの讃美歌もページェントもごちそうもない地味な日曜日でしたけど、私はあの時、ファーストノエルを体験したのだと思います。礼拝において、飼い葉おけに眠っている幼子イエスに出会ったのだと思います。

 なぜそういえるのか?

 その翌日から、一気にというわけではないのですが、それからわたしの生活は変わって行ったからです。最初は興味半分で礼拝に行ったようなところもありました。でも気がつくと毎週礼拝に行くようになっていました。やがて洗礼を受けました。その直後、職場と家庭で大きな変化がありました。劇的というのではないですが、確実に、わたしの中のなにかが変わって行き、また私を取り巻く環境が変わって来ました。

 その変化の基点にあるのは、地味な、寂しい12月最後の礼拝がありました。そのときは、ああ礼拝ってこんなものかと、ただ「ふーん」と自分では聞いていたつもりでした。でもそのとき、すでに飼い葉桶のみどりごはわたしの救い主となられるためにわたしと出会ってくださったのです。

<羊飼いたちの行動>

さて、2000年前の羊飼いたちは天使のお告げを聞いて、ただちに行動を起こしました。仕事をそのままにしてベツレヘムへ向かいました。もういてもたっても居られなかったのです。神が語りかけてくださった、そのことを見に行こうではないか、すぐに行こうではないか、神に語られた人はすぐに行動を起こすのです。明日、とか、来週ではないのです。創世記のアブラハムの物語で大事な大事な息子イサクを捧げよと夜神に言われたアブラハムは翌朝、すぐに旅立ちました。マリアを妻として迎えなさいと告げられたヨセフもすぐにマリアを妻として迎えました。羊飼いたちもすぐにベツレヘムへ向かいました。

そこでまさに見たのです。飼い葉おけに眠っている赤ん坊を。神の救いの業を見たのです。ある方はこの場面をけっして美しい場面ではなかったであろうとおっしゃっています。わたしもそう思います。クリスマスのページェントでは美しく描かれる場面ですが、そのようなものではなかったでしょう。若い夫婦が初めての出産を体験したのです。それだけでもたいへんなことです。2000年前であれば今以上に出産にともなう危険は大きかったでしょう。しかも、若い貧しい夫婦は長い苦しい旅をしてきました、そして子供を産むにはふさわしくない非衛生的な環境でどうにか子供が生まれてきた。飼い葉おけに寝かされていた赤ん坊は、貧しさとこの世の暗さのただ中に生れて来たのです。この世の悲惨のゆえにそのような生まれ方しかできなかったのです。その飼い葉桶のみどり子を羊飼いたちは見ました。普通に見たら悲惨なかわいそうな赤ん坊でしかないみどりごを見たのです。しかし、羊飼いたちはそこに神の業を見ました。そして羊飼いたちは帰って行きました。元の場所に帰って行ったのです。

帰って行った彼らの生活が表面的には変わったわけではありません。羊飼いが別のものになったわけではありません。羊飼いは羊飼いのまま、やはりそれからも野宿をしながら羊の世話をしながら、たいへんな生活をしつづけたのです。救い主を見たから大金持ちになったとか、出世したということはないのです。でもやはり彼らは元の自分たちの生活に帰りながら、なお変えられたのです。

救い主と出会った者は変えられるのです。人々からさげずまれていた彼らは人々に自分たちが体験したことを伝えたのです。社会的な地位の低かった彼らは仕事などで必要な事柄以上は、世間の人々と話をすることはあまりなかったでしょう。そんな彼らが飼い葉おけにおられた救い主のことを人々に伝えました。伝えずにはいられなかったのです。そのように変えられました。そんな彼らの言葉を人々は不思議に思ったとあります。これは驚いた、びっくりしたということです。でも聖書はそれを聞いた人々が、聞いて驚いた人々が、さらにヨセフとマリアのもとへ飼い葉桶の主イエスを見ようと押しかけた、とは書いていません。多くの人々の主イエスへの姿勢は、すぐに救い主を見に行った羊飼いたちと同じではなかったのです。おそらく多くの人は、クリスマスを体験することができなかったのです。

<わたしたちのファーストノエル>

 いま、私たちはクリスマスを体験しています。飼い葉桶のキリストと共にあります。それは、私たちもまたここからそれぞれの場所へ送りだされるためです。私たちの住む地上にはたくさんの悲惨があります。私たちの人生にも悲惨があります。罪の悲惨があります。その悲惨を平和へと祝福へと変えてくださる、それが飼い葉おけに寝かされているみどりごの主イエスです。やがて十字架に向かわれるキリストです。悲惨な世界に悲惨な形でおうまれになったキリストです。しかしそのことのゆえに私たちは私たちの悲惨から救われています。そして変えられていきます。それぞれの場所に私たちは戻ります。昨日と何一つ変わらない日々に。でも飼い葉おけに寝かされた赤ん坊によってその日々は変えられていきます。飼い葉おけに寝かされた赤ん坊を礼拝した者たちはすでに希望を持って生きていきます。クリスマスに与えられた希望のゆえに、本来は悲惨でみじめな非衛生的な馬小屋の場面が、礼拝をする者にとって喜びに満ちた美しい場面となるのです。