説教「万人のための救い」
<聞きいれられた>
新しい年が始まりました。2017年です。
今日お読みしました聖書箇所にはシメオンという祭司が出てきます。シメオンは、おそらく主イエスの生前のみならず復活ののちペンテコステの日に聖霊が注がれる前までの時に、ただ一人、主イエスという存在の本質を理解していた人物であったと考えられます。洗礼者ヨハネも主イエスの道を備えた先見者でありましたが、シメオンは、主イエスの救い主、慰め主としての本質をもっと深く悟っていたと考えられます。主イエスのまことの降誕の意味を聖霊によって示されていた点において、シメオンは、最初の一人であったと考えられます。
そもそも、シメオンとは「聞き入れられた」という意味です。新しい年、この一年、私たちも私たちの切なる願いが神に聞き入れられるようにと思います。
さては、シメオンの願いの何が聞き入れられたのでしょうか。25節に「イスラエルの慰められるのを待ち望み」とあります。そうシメオンは待っていたのです。イスラエルが慰められる時を待っていました。彼はイスラエルが慰められますようにと願っていたのです。現実に、確かにイスラエルは慰められなければならない状況でした。シメオンの年齢は、はっきりと記されていませんが、おそらく高齢でしょう。彼はその長い人生において、イスラエルが独立を保っていた時代も知っていたでしょう、しかしその独立王朝が滅び、ローマに支配されるまでの歴史の流れの中で、血なまぐさい時代に翻弄されながら、生きて来たことでしょう。大国にいいようにもてあそばれ、イスラエル人ではない王をローマの傀儡としていただき、本来は神に選ばれた神の民であったイスラエルが、民族としての誇りもぼろぼろになっていた、そのイスラエルの地で、そのかたすみで、なおそのイスラエルの神に期待をしていたのです。
シメオンは、イザヤがイザヤ書40章「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」と預言した救い主メシアを待ち焦がれていたのです。その待ち焦がれる思いを神から与えられていました。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」とあります。シメオンは、その生涯をメシアとの出会いに定められていた人であります。その生涯のすべてが、メシアと会う、その一点に絞られていた人でありました。そのような特別な神からの召しを受けた人でありました。
シメオンにも、長い人生の中、さまざまな思いがあったことでしょう。祭司として神殿に仕えながら、宗教儀式に関わりながら、淡々と日々の為すべきことをなしながら、なおまことのイスラエルの救いを祈り求めていたことでしょう。シメオンは祭司という地位にありましたが、むしろ預言者として生きていたといえます。神の預言に、つまり神のご計画に、未来の希望に生きる人でありました。切に慰めを求めていた人でありました。
慰めとはギリシャ語でパラクレーシスと言います。救いへの導きであるとか、励ます、また力が出るように安心させるというニュアンスがあります。日本語の慰めという言葉よりもっと積極的な意味があります。救いへ向かって、力へ向かって導いていくような強いイメージがあります。シメオンは慰め主パラクレートスをその両腕に抱きました。実際、その腕にいるのはただの力ない生後40日の赤ん坊です。貧しい夫婦の子供に過ぎない赤ん坊です。しかしなお、この赤ん坊にシメオンは見たのです。力強い救い主としての姿を、打ちひしがれているイスラエルとその民を奮い立たせる者である姿を。救いへと、力へと導く強い慰め主であるとそのみどりごを見て確信したのです。そして言います。「主よ、今こそあなたは、おことばどおり/このしもべを安らかに去らせてくださいます。」
シメオンが新約聖書に登場するのはこの場面だけです。ただ律法の規定通り神殿に捧げられたみどりごイエスを両腕に抱いた、それだけの救い主との交わりでした。そしてそのひとときのために、そのひとときだけのためにシメオンの人生があったこと、それは今日的な価値観からしたらあっけないような、もう少しいろんなことがあってもいいのではないかとも思えることかもしれません。しかしそれだけに「このしもべを安らかに去らせてくださいます」という言葉は極めて大きな重みがあります。ただ救い主と出会う、それだけのためにシメオンは生きてきていた。そしてその願いは聞かれ、その救いを目の前に見た、両手で抱いた、もう良い、これで十分だ、彼の心は安らかにされたのです。
彼の目に見えていたのはさきほども申し上げましたように貧しい夫婦の憐れな赤ん坊でした。律法によれば、赤ん坊を神殿に捧げる時、小羊を捧げないといけなかったのですが、貧しい夫婦は山鳩しか捧げることができなかったのです。職業的な祭司として、たくさんの、神殿に子供を捧げる夫婦を見て来たことでしょう。裕福な夫婦もたくさん見て来たことでしょう。しかしいまシメオンの前にいるのは、ただの貧しい若い夫婦です。
<異邦人を照らす光>
しかし、聖霊によってシメオンは語ります。預言者として語ります。
「これは万人のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」
万人のために整えてくださった救い、異邦人を照らす啓示の光、この言葉はみどりごイエスの父と母を驚かせました。なぜなから彼らはこの幼子がダビデの末裔として特別な存在になることは天使ガブリエルから聞いていましたが、それはユダヤ人への救いと理解していたと考えられるからです。異邦人を照らす啓示の光、つまり、神の救いがイスラエルだけでなく、異邦人にも届けられる、これは当時のイスラエルでは考えられないことでした。しかし、この光はまさにシメオンの預言ののち、1000年以上の時を経て、この東方の島国にまで届いたのです。日本にまで届いたのです。そして、私たちも今また異邦人を照らす啓示の光の中に照らされています。
これはイスラエルの人々にとって大きな転換点でした。理解しがたい転換点でした。救いは特別に選ばれた民イスラエルのもの、それが当たり前のことでした。こののち、ペンテコステののち本格的に福音伝道が開始されたのちであっても、使徒言行録などを読みますと、なお、異邦人への伝道は、当時の伝道者の間で問題となり物議をかもしたことがわかります。
ところでパラダイムシフトという言葉が少し前よくつかわれていたと思います。このパラダイムという言葉自体にそもそもは深い意味があるようですけれど、広い意味では意識の変革とか社会構造の変化みたいに比較的軽く使われていたようです。会社員時代も、新規技術によるマーケットの変化をパラダイムシフトと呼んでいたりしました。 本来のパラダイムシフトというのは天動説が地動説に代わるような根本的な人文学的変化、あるいは生物学的史上における先カンブリア紀のカンブリア生命大爆発のような決定的な変化が起こるようなことです。聖書に記された神のご計画された歴史の中でもしパラダイムシフトという言葉を使うとするならば、シメオンが抱いたおさなごによって、起こったことがパラダイムシフトでありましょう。つまり神のご計画が一民族から異邦人への救いと全人類への救いへと一気に爆発的に広がったということです。神の救いということの価値観がまったく変わってしまったということです。
<私たちのパラダイムシフト>
しかし、そもそも神の業というのは人間にとって、一人の人間にとっても、根本的なパラダイムシフトを起こすものでした。マリアの母が主イエスを身ごもった時、ルカによる福音書の2章46節からマグニフィカートと呼ばれる神への賛美を歌いました。その中に「主はその腕で力をふるい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ・・」と歌っています。つまり自分のような辺境のガリラヤの貧しい女が神の目に留められ、いま、権力の座にある豊かな者身分の高い者が引き下ろされると歌っています。つまりここにも決定的な神によるパラダイムシフトが伝えられているのです。価値観がひっくり返ってしまう出来事を神は人間ひとりひとりに起こされるのです。
母マリア自身、たしかに、すべてのことがひっくりかえる信仰的霊的な啓示を受けたのです。しかし話はそれにとどまりません。シメオンはマリアにいます。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められている」
救い主、万人のための救いである、このみどりごが、イスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりする、とシメオンは言いました。万人のための救いなのだから、本来は、万人が救われるはずです。万人がたちあがるはずです。しかし現実には、このみどりごによって倒される人々もいるということです。救いを受け取らない人々もいるということです。この万人への救いであるみどりごは、人を立たせもし、倒しもする、つまりこのみどりごのまえで人間は決断を迫られるということです。救いを受け入れる者は立ちあがり、救いが来たのに受け入れないものは倒されるのです。
さらにシメオンは言います。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人々の心にある思いがあらわにされるためです。」
多くの人々にある思いは、やがてこのみどりごを十字架に付けようとする思いとしてあらわれます。救いを拒否し、30年後のこのみどりごを「十字架に付けよ」と叫ぶ心です。そのあらわにされた人間の罪の前で母マリアの心は貫かれます。
しかし、また私たちの心も貫かれます。
私たちがまことに救いを受け入れていくとき、私たちもまた私たちのうちなる罪の思いが露わにされ、貫かれます。しかし貫かれたゆえ、私たちは立たされました。罪によって倒れていた私たちは立ちあがることができるようになったのです。倒れていた私たちが立ちあがるようにされた、それこそが救いであり、慰めです。慰めは力へと向かう強い言葉だと申し上げました。倒れていた私たちは万人を照らす光のうちに力を得て立ちあがるようにと慰めの言葉をいただきました。キリストと出会い、罪の心を刺し貫かれました。そして新しくされました。立ち上がらることができました。これこそ神によるパラダイムシフトです。
新しい一年が始まりました。
私たちは立ちあがります。まったく新しい歴史の中に立ちあがって行きます。起きよ光を放て、イザヤ書60章のことばは、私たちを万人を照らす光のなかに目覚めさせるものです。私たちは万人を照らすキリストの光のうちに、2017年を目覚めて生きていきます。世界は混沌として、私たちの日々も明日のことは分かりません。しかしなお、いま万人を照らす光の中に私たちはあります。その光の前で罪の心を貫かれ、新しくされ、日々新しくされ、起き上がります。
世界は変わって行くでしょう。日本も変わって行くでしょう。劇的な変化、とんでもないことが起こるかもしれません。しかし、すでにキリストによって、新しくされている私たちはやがてキリストがふたたび来られるその日まで揺らぐことなく力強く生きていきます。
シメオンはたしかに願いを聞き入れられました、イスラエルの慰められるのをまっていたシメオンは、イスラエルのみならず、万人の慰めを見たのです。私たちの願いも聞き入れられます。キリストの前で決断し、キリストを受け入れ信じる者の願いは聞き入れられます。そして神の業は私たちの願いを越えるものです。シメオンの願いがシメオンの願いを越えて聞き入れられたように、私たちの願いも、私たちの願いを越えて、もっと豊かにもっと大きくもっと光を放つ神の業として私たちの前におかれます。
大いなる期待をもって歩みましょう。