大阪東教会礼拝説教ブログ

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2017年1月15日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章1~13節

2017-01-20 13:39:46 | マタイによる福音書

説教「ぶちまける愛」

<すべて語り終えられた>

 主イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた

 とあります。主イエスはその教えをすべて語り終えられたのです。実はマタイによる福音書には<イエスが語り終えられる>という意味の箇所が何か所かあります。たとえば山上の説教が終わった箇所にもあります。語り終えられたというのは主イエスの一連の教えが終わったということです。そしてこれから場面が変わること、主イエスの歩みが次の段階に向かうことを示します。それがこれまでマタイによる福音書では4回あり、この箇所が5回目で最後となります。そしてその5回目の最後に記されているこの言葉は、「これらの言葉をすべて完成されたとき」、とも訳すこともできる言葉です。主イエスは言葉を完成された。その教えをすべて伝えられた、そして、そのときにおっしゃったのです。

「二日後の過越し祭で十字架につけられるために引き渡される」と。

 これまでも主イエスは幾たびかご自身の死を予告されていました。自分が祭司長たちに捕えられ苦しみにあうことを語られていました。そしてそのことは二日後に迫っている、そう宣言されました。

 そのころ、まさに祭司長たちや民の長老たちは大祭司の屋敷に集まり、イエス殺害の計画を練っていたのです。しかし、このときはまだ民衆は主イエスの味方でした。ですから、祭司長たちは主イエスを捕えることによって民衆の間に自分たちへの反感が起き、騒ぎになると自分たちの立場が危うくなる、と恐れました。

 祭司長たちは民衆にたいして正々堂々と自分たちの正当性を示すことはできなかったのです。彼らは権力者でありましたが、民衆をおそれ騒ぎをおそれ自らの立場を守ることに汲々とする人々でありました。しかし、教会に長く来られている方はご存じのように、祭司長たちが恐れていた民衆がやがて主イエスを見捨てます。主イエスを「十字架へつけろ」と叫ぶようになります。民衆だけではありません、弟子たちも主イエスを裏切っていくのです。そのすべてを主イエスはご存知でした。ご存じでありながらなお主イエスは弟子たちに語られたのです。「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」

 「引き渡される」という言葉には特別の意味があります。「渡される」ということですけれど、それは、ささげものとして「渡される」ということです。過越しの祭りでは、小羊が罪の贖いのために捧げられます。しかし、ここで主イエスご自身が自分こそが小羊として捧げられる、つまり渡されるのだと語っておられます。過越しの祭りは、かつて、イスラエルの人々が奴隷として苦しんでいたエジプトを出て行くときに、神がエジプトに向けて起こされた災いがイスラエルの人々を家を通り過ぎていくように過越していくように、家の戸に小羊の血を塗ったことが起源です。神が奴隷であった人々を解放するために働かれた、そのことを覚える祭りが過越し祭です。しかしいま、人間を罪の奴隷から解放するためにささげられるのは小羊ではなく、神の御子である主イエスなのです。

 主イエスは、やがて捕えられ、十字架につけられ、殺されますが、それは外側から見ると、イエスという人物が人々に捕えられ十字架につけられ、殺されたという、イエスにとって受け身の出来事のようですけれど、そうではありません。むしろ主イエスは主体的にご自身をご自身で十字架へと引き渡されたのです。また、父なる神が御子を十字架にささげるというご意志をご存じでそれに従ってご自身を引き渡されたともいえます。

 そしてまた「引き渡される」には裏切られるという意味もあります。実際、その主イエスの思いの裏側で策略は進みます。そして今日お読みした聖書箇所の次の場面ではユダの裏切りが描かれています。実に殺伐とした、受難への序章ともいうべき物語が続きます。しかし、今日お読みした聖書箇所にはベタニアで主イエスが香油を注がれた話がでてきます。これは殺伐とした受難への序章の中で、少し違う印象を与える話です。

<香油ぶちまけ事件>

 食事の席で一人の婦人が主イエスに歩み寄ります。そして主イエスの頭に香油を注ぎかけたとあります。他の福音書にはナルドの香油として記されている有名な香油注ぎの場面です。この場面はこの女性の主イエスへの献身の印であると、言ってみれば美しい場面であると解釈されます。「ナルドの香油ならねど」という讃美歌があります。愛唱する方の多い讃美歌です。たしかにあの讃美歌のように本質的には美しい場面ですが、常識的に考えるととんでもない場面でもあります。注がれた香油は他の福音書によると1リトラ、326gほどであったと記されています。ナルドの香油は匂いが強い、しかも癖の強い匂いであるといわれます。その比重がどのくらいかわかりませんが、少なくともコップ一杯以上の量の香油をぶちまけたと考えられるでしょう。当時の香油がどのような製法でできていたかはっきりとはわかりません。今日でいうアロマテラピーに使う精油のようなものなのか香水のようなものなのかはっきりとはわかりません。しかしいずれにせよ、通常、用いるときはせいぜい数滴を使うくらいのものだったでしょう。通常、香水をコップ一杯もぶちまけたらたいへんなことになります。今日の聖書の場面でもとんでもないにおいが充満したでしょう。そもそも香油というのは死体に塗るものでもありました、死体のにおいを隠すほどのにおいをもっていたものです。それをぶちまけたのです。それも主イエスの頭に注いだのです。主イエスの髪も顔も服もびしょびしょになったことでしょう。おそらくちょっとやそっとでとれるような匂いではなかったと考えられます。とてつもなく非常識で、はた迷惑なことをこの女性はしたのです。しかも食事の場面です。イエスはびしょびしょになり、部屋には匂いが充満し、料理を食べるどころではなくなったでしょう。食事の席がだいなしにされたのです。普通に考えて、同席した人々は憤慨して当たり前のところです。しかも、その香油はとても高価だったのです。他の福音書では「なぜ300デナリで売って貧しい人に施さなかったのか」と弟子たちは言っています。300デナリというと300日分の賃金です。今日の価値で言うと数百万円もの高価なものだったようです。

 普通に考えて迷惑でしかない、非常識な場面です。しかし、主イエスはこの女性を庇います。それは単にこの女性に同情したからではありません。主イエスはおっしゃいます。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」

 これから十字架の死に向かわれる主イエスがわたしを葬る準備をしてくれたのだとはっきりおっしゃっています。実際、これから十字架にお掛になり死なれたのち、主イエスの遺体は日程の関係上、大急ぎで十字架から引き下ろされ、墓にいれられます。本来ならば、香油を塗って丁重に葬るべきところ、それをなすことができなかった。復活の日の朝、婦人たちが主イエスの墓に駆け付けたのは、なにより香油を塗って、しっかりとイエス様を葬りたかったからです。しかし、結果として、歴史上、主イエスを葬ったのはこの非常識な婦人一人ということになりました。「世界中どこでも、この福音がのべ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と主イエスはおっしゃり、現実にそのようになりました。2000年にわたり、この女性がなしたことを教会は語り伝えてきたのです。主イエスの死を覚える時、この女性を記念するようになったのです。

<御霊の息吹に導かれて>

 ではこの女性はほんとうにそのような主イエスの葬りを自分がやっているという意識のもとにこのことをなしたのでしょうか。それは今日の聖書箇所からは読み取ることはできません。ヨハネによる福音書のベタニアで香油を注がれる場面において、注いだ女性はマリアとされています。マリアとマルタで有名なマリアです。台所で一生懸命働いていたマルタと、主イエスのそばでいつも話を聞いていたマリアという姉妹のうちのマリアです。そのマリアであるならば、主イエスの死を理解していたかもしれない。いつも熱心に主イエスのそばで話を聞いていたマリアなら、主イエスが死の近いことをこれまでの話から感じ取っていたかもしれません。そしてさらに、いよいよ主イエスが二日後に十字架につけられるとおっしゃっているのを聞き、そこに、特別なものを感じて、矢も楯もたまらずこのような行為に及んだとも考えられます。

 しかしそれも推測にすぎませんし、ヨハネによる福音書とマタイでは少し場面設定も違いますのではっきりとは言えません。カルヴァンはこの場面についてこのようにいっているそうです。

「御霊の息吹に導かれてキリストへの義務を果たさないわけにはいかなくなった」

 またある神学者はこの場面を「聖なる浪費」と言っているそうです。

 女性は、主イエスがこれからなさそうとしておられたことの意味を、はっきりとは理解していなかったかもしれない、しかし、やむにやまれぬ思いで、高価な香油をぶちまけるという方法でキリストへの感謝を表したのです。それは単に感謝というより、主イエスに救われた者としての義務ですらあったとカルバンはいいます。

 そもそも、キリストが犠牲の小羊として捧げられる、神の御子が捧げられる、それほど、高価な犠牲が歴史上あったでしょうか。主イエスがその命を捧げて、私たちを新しい出エジプトといえる、救いを成就してくださる、そのことへの感謝の応答をすることは救われた者として、むしろ当然の義務である、カルヴァンはそのことを美しく語りました。御霊の息吹に導かれて、つまり頭で理解したことではなく、聖霊によって、この女性は導かれてキリストへの愛を注ぎだしたのです。愛をそのまま、ぶちまけたといっていい。なぜなら最初に高価すぎるくらいに高価な愛を自分に注ぎだしてくださったのはキリストだからです。

 そもそも、愛という言葉の前で、値段の高い安いということが問題とされること、それはおかしなことではないでしょうか。すぐる週、共にお読みしました聖書箇所に、最も小さな者への小さな業のことが記されていました。そこで主イエスは、あなたたちは身を粉にして、すべてを犠牲にして大きな愛の業をしなさいとはおっしゃっていなかった。自分でもそれと気づかないような愛とも呼べないような愛の業、コップ一杯の水を渡す程度の小さな業を神は目に留められることを共にお読みしました。そもそも愛の行為を人間のこの世的な尺度で図ることはできないのです。

 コップ一杯の水であれ、数百万円の香油であれ、そこに聖霊の息吹があって、その聖霊の息吹に素直に従ってなされたことを神は目に留められるのです。

 弟子たちは「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言います。これはこの世の価値観としてはまっとうなことです。この香油を売ってそのお金で慈善行為を行えばたしかに多くに人が助かるでしょう。しかし、キリストが二日後に引き渡される、犠牲の小羊として引き渡される、そのことを前にして、今、なすべきことはなにか?聖霊がそのことをこの女性に指し示したのです。そのキリストの死を、その死への感謝をなにものにも代えがたい思いをそのままぶちまけよ、と。たしかに数百万円の香油をぶちまける行為は無駄に見えます。何の意味もないように感じます。この愛の行為は無謀で乱暴でばかげています。しかしなお、神の目に聖なる浪費なのです。なぜならば、主イエス・キリストご自身がいっさい罪がないのに、罪人として十字架にお掛になるということ自体、計算をするこの世の感覚でみたとき、無謀で乱暴でばかげたことだからです。しかし、そこにこそ、聖なる聖なる、愛がありました。

ですから私たちもその愛に応えます。そこに聖霊に導かれた切なる思いがあり、キリストへの愛があればそれは聖なるものなのです。そこには300デナリオンだの、コップ一杯の水だのという計算はないのです。逆に計算しているとき、そこには愛はありません。

 わたしたちが愛したのではありません。キリストが愛してくださいました。命を捧げて愛してくださいました。その愛に立つとき、私たちはそれぞれに、切なる思いで聖なる応答をなしていきます。