説教「右か左か」
<審判者は覆面警察か?>
アドベントからしばらくマタイによる福音書からの連続公開説教を離れておりました。本日より、またマタイによる福音書に戻ります。さて、その本日の聖書箇所ですが、いろいろな意味で怖いことが書かれていると思うのです。
まず第一に「裁き」ということについて書かれています。終わりの日の裁きです。このとき、すでに死んでいた者も生きている者も神の大法廷で裁かれる。裁きという言葉を聞いて、喜ばしい気持ちになる方はあまりおられないのではないかと思います。そこで羊と山羊が分けられる、右と左に分けられるというのです。そうなりますと、どうしても私たちは自分はどちらなのか羊なのか山羊なのか右なのか左なのか、と考え込んでしまいます。ここを読んで不安にならない人はあまりおられないと思います。キリスト者はすでにキリストの贖いの業のゆえ、罪を問われないので、自動的に終わりの日に羊にされるのだと信じていたとしても、今日の聖書箇所を読んで、私は絶対大丈夫と100%羊だ山羊だという自信を持てる方は少ないのではないでしょうか。
そしてまた、今日の聖書箇所が怖い、もう一つの理由として、右か左かの判断基準として「最も小さい者へのあり方」が問われているように読めることです。本人にはそれと気づかないように最も小さな者の一人が私たちのもとにやってきて、その人に奉仕をしたら、それは「わたしにしたことだ」と栄光の座におられる審判者に認められて、審判の時に、右に入れられる。
そうなりますと、今朝、急いでいるときに、駅で知らない人に道を聞かれたけれど、急いでたのでぞんざいに応えてしまった、ひょっとしたら道を聞いたあの人がもっとも小さい者のひとりだったかもしれない、あるいはおととい、悩みの相談の電話がかかってきたけど、こちらの体調が悪い時だったので途中で失礼して電話を切ってしまった、あれはまずかっただろうか、あの人がもっとも小さい者の一人だったかもしれない、とか、だんだんと疑心暗鬼になります。
そうなりますと、たえず、だれかれに親切に親身にしてあげていないと、終わりの日に左に入れられてしまう、そのような恐れにとらわれてしまいませんか?なにか、覆面警察のように私たちの日々に審判者やその使いが、最も小さな人として来られて、その対応が手厚いかどうかチェックされるような感じがします。でも、そのような親切や善行を積み重ねていって点数を稼いでいかないと裁きの日に左に入れられるというのであれば、やはりそれはどこか福音として変です。私たちはそのような話を聞いて慰められることはありません。
<小さな者への行い>
ここで、ポイントとなるのは、裁かれる人々は、誰も、自分が「最も小さな者の一人」と出会ったことを知らないということです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」と右に入れられた人々は驚いて聞きます。また「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか」と左に入れられた人々も聞きます。右に入れられる人も、左に入れられる人も、「最も小さな者の一人」がだれで、そしてその人と出会ったとき、自分が何をしたのか覚えていないのです。ですから、ここで言えますことは、私たちが、審判者に対して、点数を稼ごうと、せっせと日頃から親切運動や慈善活動をしたからといって、それが審判の日の判断材料になるわけではないということです。わたしはこれだけ、困った人を助け、苦しむ人々のために奉仕をした、だから終わりの日に羊とされる、右に入れられる、そういうことでは根本的にないということです。
私たちの意識に上らないようなところでの私たちの行いを審判者は見ておられるということです。ごくごく無意識的な自然な愛の行いをご覧になるのです。そしてそれは自分で良くやったと思えるような事柄ではないということです。そもそも点数稼ぎのための善行というのは、それは相手への愛ゆえの行いではなく、むしろ自己中心的な自己愛ゆえの行いだと言えます。
<小さな者とはだれか>
そもそも「小さな者」という表現は、主イエスご自身は弟子たちに対して使っておられます。たとえば、マタイの10章42節「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水いっぱいでも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とあります。つまり、小さい者というのはご自分を信じる者たち、弟子たちのことです。つまり私たちのことです。まず何より私たちのことを、小さな者としてその配慮の内にイエス様はおいていてくださるのです。私たちが冷たい水の一杯でも飲ませてもらえることを、つまり、受け入れられ、大事にされることを、まず主イエスは考えてくださっているのです。私たち自身が、小さな者として、渇きを癒され、飢えを満たされ、病から癒され、困難から救出されるべき者だと主イエスはお考えになっておられるのです。
こんな光景はご覧になったことはないでしょうか?ようやく口が回るようになったくらいの小さな子供は、良く大人の、ことに親の口真似をします。たとえば自分が転んだりしたとき、すぐにお母さんがかけよってきて「よしよし、大丈夫、もう痛くないよ、強かったね」と言われていたとします。その子供が今度友達といる時、その友達が転んだとき、お母さんの口真似をして「よしよし、大丈夫、もう痛くないよ、強かったね」と言ったりします。完全に口真似なのですが、その子供なりに友達を心配しているのです。「よしよし、大丈夫」と友達を力づけているのです。その小さな子供は親の口真似をしているだけで、何か良い行動をして大人から褒められたいというわけでやっているのはないのです。でも自分が親から言ってもらって安心した言葉、うれしかった言葉を、そのまま友達に言っているのです。
わたしたちもまた、神から小さな者として、恵みと配慮を受けてきました。今も受けています。そのことをほんとうに感謝をしているとき、親の口真似をする子供のように、神からされたことを、同じように誰かにしてあげたいと思うのではないでしょうか。けっして無理をしてなにかをするというのではありません。特別な親切運動や慈善運動というのではなく、神から小さな者として、いとしまれている、心にかけていただいている、その実感があるとき、私たちの日々はおのずと喜びの日々になります。そのとき、私たちの出会う人々にもその喜びがいつの間にか伝わっていく、良いことを一生懸命積み重ねていくのではなく、喜びの中に自然に生きていくとき、私たちは出会う人々に知らないうちに愛の行いをしているといえます。でもそれはほんとうにささやかなことであって、私はなにをしたともいえないことでしょう。
<小さな業を認めてくださる方>
一方で私たちは別に審判の日のための点数を稼ごうというつもりではなくても、ごく自然な善意から人のためになにかをしたい、困っている人の力になりたいとも願います。目の前にたいへんな思いをしている人をみて、あるいはニュースで災害にあった人や事件に巻き込まれた人を見て、私たちは自然な感情として同情しますし、できることなら何か力になりたいと願います。その自然な感情を押し殺す必要はもちろんありません。
しかし、私たちは、そのようなとき、同時に自分の非力さとも向き合います。現実に困っている人がいる、でもその人のために、たいした力にはなれない自分であることをふがいなく思います。それがテレビの向こうの人であってもそうですし、まして自分がよく知っている人、大事な人であれば、充分にその人の力になれない自分を情けなく思います。
しかし、今日の聖書箇所で神が目に留めておられるのは喉の渇いた人にコップ一杯の水を与えるような小さな業です。そもそも神が目に留めてくださるのは私たちの小さな業なのです。神は私たちに大きな業を求めてはおられないのです。神に小さな者といとしく顧みていただいている私たちが、他の小さな者にコップ一杯の水を与えるほどのことです。それは親切だ愛だというまでもないようなささやかなことを神は求めておられるのです。
もちろん十分な力になれない自分をふがいないと思う感情もまた自然なことで、それを無理に押し殺す必要はないのですが、人間が人間の尺度で、あの人を充分に助けよう、大きな力をもって人に奉仕をしようと思うとき、そこには自分自身が大きくなろうとする思いが入り込んできます。
小さな者が小さな者へ、小さな業をするのではなく、人間はどうしても大きな業を目指してしまいます。大きな業はできなくても、もっと大きな業を、と目指してしまいます。善意であっても、やはりそこには、神の前でどうしても小さなくなれない自分がいるのです。大きな業を目指す自分がいます。なにごとかをなそうとする自分がいます。
さらにいえば、小さい大きいということを、私たちのなすことの質や量を自分自身で測っていくとき、そこにはどうしても不純なものが入り込んでくるのです。
先に申しましたように、終わりの日に問題とされていることは、なした本人たちすら記憶にないこと、なのです。私たちが自分たちの業の大きさを問題にするとき、逆に自分自身で自分を秘密警察のようにして自分のなすことのチェックをするようになります。自分で自分を縛っていくことになります。
<小さな者のための十字架>
神はそういうことを求めておられるのではありません。「小さな者」というと、小さな子供のような、あるいは小さな動物のような愛くるしいかわいらしい者というイメージもあるかもしれません。しかし、ここでいう「小さな者」の言葉のニュアンスは、弱さとか、みじめさを含みます。助けがなければ生きていけない者です。神の助けがなければ生きていくことができない者です。そしてまた一方で、自分で自分の犯した失敗を、どうすることもできないものです。根本的な問題として、罪をどうすることもできない者です。それでいながら自分でどうにかできると思っていた、自分のことは自分でちゃんとやっていけると思っていた人間です。自分で何とかできる、その自分のやったことを数え上げていくような人間です。
<御国は準備されている>
ところで、今日の聖書箇所はマタイによる福音書における主イエスご自身の教えの最後になります。次の26章からいよいよ主イエスは十字架にむかっていかれます。受難節、レントは今年は三月からになりますが、私たちはこれからちょうどその受難節に向かう時期に合わせるようにキリストの十字架への道のりを共に読んでいきます。
その十字架の前の、主イエスご自身の教えとしては最後のものとして今日の聖書箇所は語られています。主イエスはここで言われています。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」ここで語られているのは、すでに御国が準備されて、あなたがたは祝福をされているということです。この言葉をこれから主イエスが十字架に向かわれるという文脈の中で読むとき、ここで主イエスが十字架によって実現されることをのべておられることが分ります。すでに御国が用意されている、キリストの十字架によって本来はそこに入ることのできなかった罪人である人間が皆そこへはいることができるようになる、祝福を受けるようになる、それはもう定められたことなのだとおっしゃっています。その祝福を受けるあなたたちは小さな者としてその喜びの内に小さな業を行うことができるはずだ、そのようにできるはずだ、そう主イエスはおっしゃっています。
これは、主イエスの最初の教えの言葉でありました山上の説教を思い起こさせることでもあります。「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちの者である」から始まる山上の説教は、心が貧しければ天の国が与えられるというような祝福を受けるための条件としての人間のあり方が語られているのではありませんでした。心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る、心を清くしたら神を見ることができるというのではない、すでに私たちはキリストの到来とその十字架の業によって祝福を受けている、御国を約束されている、だからあなたがたは自らの貧しさを知りまた心を清らかにすることができるということでした。
主イエスはその教えの最後におっしゃっているのです。あなたたちは御国が準備されている、だから小さな者として他の小さな者に小さな業をかならずできるのだ、とおっしゃってくださっているのです。