大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書1章1~5節

2018-04-09 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年4月8日大阪東教会主日礼拝説教 「光あれ」吉浦玲子

<言とは>

 私たちの世界に、そしてわたしたちの人生に、光がたしかに来ました、ヨハネによる福音書はそう伝えます。すでに光は来たのです。この地上の物理的な光に太陽という源があるように、私たちの世界に、そして私たちの人生に来た光にも源があります。その光はイエス・キリストという源です。その光の源なる神、神であるキリストをヨハネによる福音書は語っています。

 4つある福音書はそれぞれに意図をもって記されました。たとえばマタイによる福音書は旧約聖書の成就として来られたキリストを中心に語っています。そしてまたルカによる福音書は、キリストの福音がユダヤ人を越えて世界に広がって行くものであることを語っています。ヨハネによる福音書はもちろん他の福音書と重なる部分もありますが、光の源である神、神であるキリストをなにより語ります。

 この福音書の最初の言葉は「初めに言があった」です。初めとは天地創造よりも前ということです。言とはキリストのことです。なぜ言がキリストなのでしょうか?そのことはこの福音書全体を通じてこれからゆっくりと理解していくことであるかもしれません。しかし、いま、少しお話しするとすれば、<キリストは言葉なる神である>という言い方をしますが、その<言葉なる神>という意味での言であるといえます。かなりざっくりした言い方をしますと、キリストは言葉を持って私たちに語りかけてくださる神であるということです。キリストは私たちとかけ離れてどこか遠くに鎮座なさっている神ではないということです。言葉を持って語りかけてくださる神、それがキリストであるということです。

そしてまた、そのキリストがなぜ<言>というひと文字で現わされているのでしょうか?それは言葉なる神がお語りになることが、いわゆる私たちが普通に話す言語における言葉という意味での言葉ではないからです。その言葉は、もっとアクティブなものなのです。行動する言葉といってもいいでしょう。力を持った言葉、クリエイティブな言葉と言ってもいいでしょう。あるいは神の知恵に満ちた言葉ということでもあります。

 ところで、最も古く日本語に翻訳された聖書はギュツラフ聖書です。これはかねてから日本に伝道をしたいと願っていたオランダ人の宣教師ギュツラフが、まだ日本が鎖国していた19世紀に、嵐で尾張から漂流した日本の三人の漁師とマカオで出会って翻訳されたものです。その最初に翻訳された福音書がヨハネによる福音書です。そのギュツラフ聖書のヨハネによる福音書の冒頭はこのように訳されています。「はじまりにかしこいものござる」。<言>と新共同訳で訳されているところが「かしこいもの」と訳されています。つまり単なる言葉ではなくかしこいもの、知恵というニュアンスがあるのです。そもそもここは原語ではロゴスというギリシャ語になっています。この言葉には論理とか概念というもともとの意味がありました。このロゴスという単語があえて福音書に使われたのは、当時のギリシャ語が公用語であった世界の知的な人々へのアピールもあったようです。哲学的な意味でのロゴスに対抗してあえて使われたといえます。ただの人間の論理や概念ではない、ほんとうのロゴスとはキリストであり、まことの知恵であり、力なのであるということをロゴスという単語を使って語っているのです。

 さてその<言>、すなわちキリストは神と共にあった、つまりキリストは父なる神と共におられたということです。御子であるキリストは、初めのときから父なる神と共におられた。そして「言は神であった」と続きますが、それはキリストは神そのものであった、ということです。つまりキリストは神のご性質をもっておられるということです。「言は神と共にあった」と言われる時の神は、父なる神を指し、「言葉は神であった」という時の神は神のご性質をさします。日本語では同じ神ですがギリシャ語では神という名詞の前につく冠詞が異なり区別されます。

<創造とキリスト>

 「万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。」これはキリストご自身が世界の創造に関与なさったということです。キリストは創造の以前からおられた。キリストは2000年前のクリスマスに突然出現されたわけではありません。この世界の創造のその前から父なる神と共に御子はおられました。

 創造ということでいえば、私たちは旧約聖書の創世記を思いうかべます。実際、このヨハネによる福音書の1章では創世記が意識されています。創世記は「初めに、神は天地を創造された」と始まります。その創世記が語る「初め」のときからキリストは父なる神と共におられた神であるとヨハネによる福音書は語ります。そもそも旧約聖書の創造の物語は、おとぎ話や神話のように、世界の由来を記したものではありません。この世界が神によって秩序をもって造られたということが記されています。神の創造の業の前には混沌があったのです。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」そのように創世記の1章2節には記されています。混沌であり、闇の深淵があったこの世界に秩序と光を与えられたそれが神の創造です。

 しかし、神によって秩序と光が与えられたはずのこの世界にはなお混沌と闇があります。暴力と憎しみによって破壊された町を、そして傷ついた人々を私たちは毎日のようにニュースで知らされます。自然災害で破壊された人々の生活を知らされます。悲惨な事件や事故はありふれたことのように日々繰り返されます。そしてなにより私たち自身の日々に、私たち自身の心に、混沌と闇があります。普段はその混沌と闇から目をそらし生きていても、必ず私たちは私たちの混沌と闇に向き合う時が来ます。

 神の創造の業は秩序と光を与えるものであったはずなのに、なぜ世界に、そして私たちの心に混沌と闇があるのか?それは私たちが、天地の造り主であり、私たちの造り主である神から離れていく心が私たちにあるからです。神から離れていく心、つまり、罪があるからです。私たちに、そして世界に罪がある、そこに混沌と闇があります。世界が壊れ、私たちも壊れるのです。

 少し話がずれますが、<エントロピー増大の法則>という物理法則を習った記憶はありませんか?エントロピーというのはものすごく大雑把にいって物理的な混沌の度合いといってもいいかもしれません。この世界というのは自然の状態ではエントロピーが増大する方向へ向かう、つまり混沌へと向かうということです。すごく単純な例でいえば、たとえば、部屋というのは自然にしていれば散らかってくる、エントロビーが増大していく、そのような法則です。そこで整理整頓という自然ではない人為的な外的な力がくわわって部屋は片付いていく。つまりエントロピーが減るということです。

 私たちの心のエントロピーも自然の状態では混沌へと向かうと言ってもいいでしょう。自分自身で秩序を作って行くことはできそうでできないのです。外からの力によって秩序が与えられることが必要なのです。その外からの力が、神の力であり、キリストの力でした。

<光の到来>

 実際、混沌と闇の世界に、ふたたび光が来ました。

 それがキリストのこの世界への到来です。キリストの受肉、クリスマスの出来事です。イザヤ書9章に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とあります。これは旧約聖書におけるキリスト到来の預言の言葉の一つです。罪の闇の中を歩む私たちの上に、たしかに光が輝きました。キリストという光が輝いたのです。イスラエルの人々は混沌の闇の中にいました。神に選ばれた民であったにも関わらず国が滅び、国土は荒廃し、1000キロ以上離れた地に強制的に移住させられました。その混沌と闇の中で、自らの罪を知らされ、光、つまり救い主の到来を待望しました。数百年を経て、まさに光はきたのです。

 その光は、ただ美しく、世界や人間をさっと清めるような光ではありません。私たちをまことに生かしていく命の光でした。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とヨハネによる福音書の4節にあります。ここで言う命は、生物学的な命ということを越えた命です。生物学的な命を越えたといいましても、それは何か理想化された観念的なものではありません。人間がもっとも人間らしく力に満ちて生きていく命に関わる命です。私たちはキリストの光に照らされたとき、はじめて本当に生きていくのです。キリストご自身の命に満たされて、本当の自分として生きてゆくのです。

 キリストを知らなくても、私たちは生活していくことができます。イスラエルの民のように暗闇の中から光を待望する必要なく、物質的にも精神的にもそれなり生活をすることはできるのです。私自身、中年になるまで、そうやって生きてきました。キリストを知ることなく、それで特段不便もなく生きてきました。その人生がただ暗いものであったかというとそうではありませんでした。それなりに生きがいもあり、普通に生活をしていたのです。

 キリストを知るということは、ほんとうの光を知るということと同時に、自分の中の闇と混沌を知るということです。闇と混沌を知らされるということです。自分では健康なつもりで生きていた、しかし、健康診断で、あなたの内臓に問題があると知らされるように、私たちはキリストによって自分の罪の現実を知らされます。光によって、闇が露わにされるのです。5節に「光は暗闇の中で輝いている」とあります。これは現在形です。光は2000年前に一度来て消えたのではありません。今も輝いているのです。私たちの闇を照らしているのです。そして、闇は露わにされたとき、滅ぼされるのです。光を受け入れる時、闇は消滅します。そのとき、私たちは本当の命の中に生かされます。キリストの命の中に生かされます。どうしようもない現実のなかを力強く生きることができるようになります。

<キリストの光を受けて歩もう> 

 私たちは光として到来されたキリスト共に歩みます。その光を光として受け入れ歩んでいきます。しかし、5節は続いて「暗闇は光を理解しなかった」とあります。これはキリストが理解されなかったことが記されています。私たちは受難節、復活節と教会の暦のなかを歩んでいますが、私たちは光を理解しなかった闇の力によってキリストが十字架にかかられたことを特に受難節に繰り返し聞いて来ました。ここには、そのキリストのこの世界での受難の記録が端的に記されていると言っていいでしょう。実にこのヨハネによる福音書の1章は、創世記に始まる創造からキリストの受難までの、人間の罪の歴史を記していると言っていいのです。キリストの光は空間的な広がりと共に時間的な広がりもあるということです。

 その人間の歴史のただなかに来られた光、それがキリストです。人間の歴史の中に来られたということは高いところから降って来られたということです。光り輝くところではなく、ドロドロとして汚い醜い世界のただ中に来られたということです。そして私たちと共に歩んでくださるということです。そしてまた人間の歴史であると同時に、神の支配される歴史の中に来られた光がキリストでした。神のご支配として言うとなにか私たちは縛られているように感じるかもしれません。しかし、神の支配というのは私たちがあるべき場所に置かれているということです。良く適材適所という言い方をしますが、神はまさに私たちをいるべき場所においてくださるということです。私たちはこの世界で生きていっていいということなのです。自分の居場所がないとか生きがいがない、あるいは生きる目的が見つからないということが言われます。しかし神のご支配の中にある時、私たちはいるべき場所におかれ、私たちの日々は意味があるものになります。その時は、なにか無駄のような、徒労のように見えることでも、かならず意味のあること、益となることであることを知らされます。まさに私たちの毎日が本当の命に生かされていくということです。

 キリストの光を受けて、今、私たちはキリストがどなたであるかを知っています。聖霊によって知らされています。ですから光を受け入れるのです。キリストと共に歩むのです。歩み続けるのです。キリストの語りかける言に聞くのです。聞き続けるのです。言葉なる神の言葉を私たちの道の灯として歩むのです。初めからあった言は、ほかならぬ私たちのために来てくださり、今も私たちと共にあるのです。


マルコによる福音書16章1~8節

2018-04-09 17:55:31 | マルコによる福音書

2018年4月1日 大阪東教会主日礼拝説教 「復活」吉浦玲子

<劇的ではない復活の記事>

 キリストは復活されました。死から命へと新しい時代を開かれました。人間をつないでいた死から人間は解放されました。キリストが死に勝利をされたからです。

 ところで、キリストの降誕を祝うクリスマス、復活を祝う復活祭、そして聖霊の降臨を祝うペンテコステが教会の三大祝祭です。この中でも最大のものが復活祭です。何となくクリスマスの方が世間的にはメジャーな気がしますが、教会が、もっとも大きな祝祭としてきたのは、復活祭、イースターです。

 その最大の祝祭の中心である復活の出来事はキリスト教の信仰の中核にあることでありながら、聖書の中では、それほど華々しい書かれ方はなされていないようにも感じられないでもありません。クリスマスの時のように羊飼いたちの前で天の軍勢が大いなる賛美をしたり、ペンテコステの時のように嵐のような音がして炎のような舌がおりてくるような劇的なシーンはありません。ことにマルコによる福音書は、復活に関してはそっけないといってもいいくらいの記述になっています。皆が見ている前で、イエス・キリストの墓を閉ざした大きな石がどーんと割れて、そこから光り輝く復活のイエス様が登場する、などということはないのです。

 復活の出来事の最初の目撃者である婦人たちが墓に行ったとき、そこで見たものは、空となった墓でした。もちろんそこには天使と思われる若者の姿はあります。しかし、現代の私たちから見ると、いたってあっけない記述とも思えます。主イエスの十字架への道のり、ことに受難については多く記されているのに、復活に関しては簡潔に記されています。マルコによる福音書では、今日お読みいただきました聖書箇所ののち、復活なさったイエス様ご自身が姿を現わされる場面が記されてはいますが、その記述も「ご自身を現わされた」というようないたってあっさりした表現になっています。弟子たちに現れられた時も、復活のお姿そのものよりも、宣教命令の方が主として語られています。

 復活というとんでもない奇跡の出来事をなぜこれほどあっさりと聖書は記しているのでしょうか?それはひとつには復活の出来事は、人間には理性では理解しがたいことであって、書き現わすことが困難であったということが考えられます。復活の主イエスと出会った人々にとっても驚くべきことで、かつ、その人のすべてを変える出来事であったにも関わらず、それを伝えることは難しかったのだと考えられます。

 しかしながら、一方で、聖書に記されている復活の出来事を深く読んでいきます時、やはりそこには驚くべきことが伝えられているのです。ある意味で天の軍勢が賛美をすること、炎のような舌が降って来ることと変わらぬ、驚くべき神の出来事が記されていると考えられるのです。

<見えているもの>

 今日の聖書箇所の直前にはイエス様の葬(ほうむ)りの場面が出てきます。少しその部分を読んでみます。身分の高いアリマタヤのヨセフが勇気を出して、ローマの総督でありキリストの十字架刑を執行させたピラトに申し出て、イエス様の遺体を引き取り、自分が所有している墓に葬ります。「この人も神の国を待ち望んでいたのである」と記されています。この人は明確にはイエス様の弟子となっていたわけではなかったのでしょう。身分が高い人であれば、キリストの弟子であることは不都合なことであったせいでもあるかもしれません。権力者たちはみなキリストの敵でした。アリマタヤのヨセフも権力側の人間であり、キリストの弟子であることが知れたら立場が危うくなる可能性がありました。しかしなお、イエスの教えに共感し、この方こそ神の国を立ててくださる方だと感じていたのでしょう。だからこそ「勇気を出して」申し出たのです。ここにこの人の誠実さがあります。しかしまたこの人の絶望もここにあったのです。キリストこそ、神の国を打ち建ててくださると信じていた、その希望が砕かれたのです。希望が砕かれながらなお、主イエスをせめて葬ろうとしたのは自分自身もキリストを死刑にした権力側の人間であったという心の痛みもひょっとしたら、あったのかもしれません。ヨセフの姿には自分の立場を慮る小心な人間の悲しみ、そしてそれはこの世界の大多数の人間のものである悲しみがにじんでいます。一方で、主イエスを葬った場面には、女性たちもいました。彼女たちは「イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」のです。その視線の先にあるのは彼女たちが愛し、従ったイエス様の遺体を納めて閉じられた墓の扉です。女性の力では到底動かせないような巨大な石があったのです。それは無残な死の象徴でした。墓と墓を閉ざした巨大な石は、彼女たちの未来が閉ざされたことを示すしるしでした。彼女たちと共に旅をし、生き生きと語り、笑い、悲しみ、怒っておられた主イエスはもうおられない。ただ冷たい、硬直したなきがらがたしかにあり、さらにその亡骸も墓の中に閉ざされてしまいました。イエスさまの亡きがらがおさめられた墓はイエス様のなきがらのみならず彼女たちの希望をも閉ざしてしまったのです。

 アリマタヤのヨセフにとっても、女性たちにとっても、希望は砕かれ、未来は閉ざされていました。それが現実でした。目に見える現実でした。それが安息日の前の出来事でした。

<石は転がされていた>

 さて、今日の聖書箇所では「安息日が終わると」とあります。安息日のまえに、イエス様は葬られましたが、それは丁寧な葬りではありませんでした。働くことができない安息日の前に、大急ぎで亜麻布でイエス様の亡きがらを巻き、かろうじてお墓に納めたのです。

 それが女性たちにとっては心残りな、残念なことでした。もっと丁寧にしっかりとイエス様を葬りたい、そう彼女たちは願っていたのです。男性の弟子たちが逃げ去り、葬りもしなかったのに対し、女性たちは香料を買い、ふたたび墓まで、出掛けて行くのです。しかも、「週の初めの日の朝ごく早く」とあります。彼女たちは、きっと夜が明けるのを今か今かと待っていたのです。ここが女性の不思議なところです。もう主イエスは亡くなってしまったのです。先ほども申し上げましたように、神の国の建設ということはもうできなくなったということは彼女たちも頭では思っていたのです。彼女たちはこの時点では復活ということは分かってはいませんでしたから、男性の弟子たちと同様、彼女たちにとっても、もうすべては終わってしまった状況だったのです。にもかかわらず、しっかりイエス様を葬りたいと考えるのは、彼女たちの人間らしい思いでした。また、女性らしい思いでした。良い意味での、女性の現実的なところ、たとえ亡くなった人であっても、いや亡くなっておられるからこそ、どうしても愛する人のために、何かをしないではいられない、そんなところが出ています。彼女たちにとって信仰とは頭で考えるものではなかったからです。頭で考えたら男性の弟子たちのように、もう神の国の建設はできないのだから逃げ去ったら良いのです。

 女性たちの心配は墓を閉ざした石をだれか転がしてくれるかどうかでした。それでも、心はやる彼女たちは石を転がしてくれる人がいるかどうかわからぬままに、墓へと急ぎました。「ところが、目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった」とあります。「石は非常に大きかったのである」とあるように、巨大な石は転がされていたのです。

 そして女性たちが墓の中に入ると、天使と思われる若者が主イエスの復活の告げられるのでした。ここに、復活なさった主イエスの姿はありません。ただ石が転がされ、墓が空になっていたという事実だけがありました。しかし、すでに大きなことがここで告げられています。アリマタヤのヨセフが、そして女性たちが、もうすべてが終わってしまった、希望が砕かれてしまった、未来は閉ざされてしまったと考えていた現実が変えられている、ということです。非常に大きかった石は転がされていました。誰が転がしたのでしょうか?それは神です。神ご自身が巨大な石を転がされました。死によって閉ざされていた未来を再び開かれました。神が開かれたものは二度と閉ざされません。死は、永遠の命に向かって開かれたのです。かつては墓をふさぐ巨大な石が現実でした。15章の終りで女性たちが見つめていた現実は墓をふさぐ巨大な石でした。しかし、今や、その現実が変えられました。石が転がされたとき、死は虚しくなったのです。墓は空になったのです。そこにたしかにあったはずの、死はもうありません。

 私たちの現実もそうです。私たちの現実にも巨大な石があります。絶対に自分では転がすことはできない、動かすことはできない、そんな巨大な石があります。しかし、その石は転がされるのです。神によって転がされるのです。石によって閉ざされていたものが、神によって開かれるのです。それが復活の出来事です。

 私たちの現実にも巨大な石があると申しましたが、それは変えようのない運命や試練であるともいえます。しかし、もっとも大きな石は、私たちにとっても死です。やがて、この世界から私たちの肉体は滅びます。それが現実です。私たちの人生には遅かれ早かれ終わりがきます。私たちの人生もまた死という大きな岩で閉ざされています。それが現実です。死によって閉ざされている一人一人の人生です。ある人はその有限の閉ざされた日々を誠実に生きようとするでしょう。誠実に生きようとしながら、タイムリミットがあるその日々に、確実に終わりの時は影を落とします。何もかも死で終わりであるならば、その時までにどうしても成し遂げなければいけない、そのような重荷もあります。しかし人間には成し遂げることは往々にして困難なのです。

 長崎で原爆に被爆し、子供たちを残して、原爆症で亡くなられた永井博士のことをご存知でしょうか。私は長崎出身ながら、クリスチャンになるまで、実はあまり知りませんでした。放射能の専門家でもあった永井博士は爆心地付近で被爆し原爆症を発症している自分の死期が近いことをよく分かっていました。原爆ですでに、母を亡くしていた子供たちが、さらに父である自分を失うことを、当然、博士は考えたでしょう。しかし、博士はけっして悲観をなさらなかった。いくたびも自分自身の容体が悪化し、命の危機を迎えながら、1951年の最期まで被爆者の救護活動と研究をされました。ある知人は、書籍で永井博士の文章を読み、博士の姿に感銘を受けられました。なにより子供たちを残して死ぬのに不思議な平安がある博士の姿に驚いたとおっしゃっていました。その博士の根底にキリストを信じる信仰があることを知って、知人は教会に行きはじめ、洗礼を受けられました。ちなみに永井博士の最期の言葉は、「イエズス、マリア、ヨゼフ、わが魂をみ手に任せ奉る(ゆだねたてまつる)」であったそうです。神が開かれた新しい現実、死を越えた現実があることをご存知であったゆえに、永井博士は、限られた地上での日々を悲観することなく焦ることなく生き抜かれました。親として子供たちを残していくという現実も神に委ねられました。永井博士の日々もまた神によって巨大な石が転がされ、新しく開かれていたのです。その開かれた命のゆえに御手にすべてをゆだねることができたのです。

<肉体をもって復活された>

 キリストは復活は新しい現実を開きました。今日の聖書箇所ではその復活のお姿は描かれていません。しかし、白い衣を着た若者は「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方はここにはおられない。」と言います。<十字架につけられた>と天使は語っています。つまりたしかに十字架につけられ血を流し肉を裂かれて死なれた主イエスが復活したのだと言っているのです。たしかに現実に死んだイエスが復活をされたのだというのです。そしてまたナザレのイエスと言っています。それはあえてナザレということによって、肉体をもった現実を生きる人間としてのイエスを示しています。キリストの復活は、主イエスの思い出が人々の心の中によみがえるとか、何か特別な心霊現象とか、概念的なことではなく、あの「ナザレのイエス」が復活されたということなのです。肉体をもって、この地上を歩き語ったイエスが、また肉体をもって、復活されたということです。

 そしてまた天使は「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と言います。ここであえて、ペトロの名前が出ています。男の弟子たちは皆逃げたのです。そういう意味で皆同じでした。しかし、あえてペトロという名前が出ている、それは、ペトロがイエス様の逮捕ののち「イエスなんて知らない」とイエス様を否定したことと関係があります。イエスなんて知らないと言ったペトロは誰よりも悔いていたでしょう。一番弟子として従って来たペトロの挫折はだれよりも大きかったでしょう。そのペトロのことを主イエスは気にかけておられた。しかし、それは人間的な情的な配慮とかフォローではありません。ペトロの名前をここで出すことによって、赦されない罪はない、どんな失敗を犯してもやりなおせるのだということがしめされているのです。死で閉ざされた日々であるなら、場合によって、失敗は致命的です。もう取り返しがつかないこともあります。しかし、死は命へと開かれました。もう取り返しのつかないことはないのです。ペトロも、私たちもやり直すことができる、キリストの復活のゆえに、わたしたちは取り返しがつかないという後悔と諦めのなかに生きる必要はなくなったのです。それが新しい現実です。

 しかし、巨大な石を転がされる神の新しい現実に出くわしたとき、人間は喜びよりまず恐れを感じます。そこに本当に神の力が及んでいると知る時、ふるえあがるのです。女性たちもそうです。亡骸に香油を塗ることは実際は悲しい作業です。しかし、その悲しい現実を越えるできごとと遭遇した女性たちは、「墓を出て逃げ去った。震えあがり、正気を失っていた。そして、だれにもなにも言わなかった。恐ろしかったからである」とあるように喜ぶどころか恐れて逃げ去ったのです。

 実際、神の現実は恐ろしいことです。神の現実は、信仰によらなければ恐ろしく震えあがることです。あるいは神の現実は信仰によらなければ、目の前にあっても見えないものです。神の新しい現実は、信仰によって新しい目を開いていただいた時、見えるようになります。この時の女性たちはまだ聖霊を受けていませんでした。ですから信仰の目が開いていませんでした。しかし、ペンテコステののちを生きる私たちは洗礼によって聖霊を受けています。ですから新しい神の現実を喜ぶことができます。

 復活おめでとうございます。この新しい現実がすべての人のものとなりますように。死では終わらない希望の日々は既に開かれました。その希望の中に大いなる神への賛美とともに生きていきましょう。