2018年4月8日大阪東教会主日礼拝説教 「光あれ」吉浦玲子
<言とは>
私たちの世界に、そしてわたしたちの人生に、光がたしかに来ました、ヨハネによる福音書はそう伝えます。すでに光は来たのです。この地上の物理的な光に太陽という源があるように、私たちの世界に、そして私たちの人生に来た光にも源があります。その光はイエス・キリストという源です。その光の源なる神、神であるキリストをヨハネによる福音書は語っています。
4つある福音書はそれぞれに意図をもって記されました。たとえばマタイによる福音書は旧約聖書の成就として来られたキリストを中心に語っています。そしてまたルカによる福音書は、キリストの福音がユダヤ人を越えて世界に広がって行くものであることを語っています。ヨハネによる福音書はもちろん他の福音書と重なる部分もありますが、光の源である神、神であるキリストをなにより語ります。
この福音書の最初の言葉は「初めに言があった」です。初めとは天地創造よりも前ということです。言とはキリストのことです。なぜ言がキリストなのでしょうか?そのことはこの福音書全体を通じてこれからゆっくりと理解していくことであるかもしれません。しかし、いま、少しお話しするとすれば、<キリストは言葉なる神である>という言い方をしますが、その<言葉なる神>という意味での言であるといえます。かなりざっくりした言い方をしますと、キリストは言葉を持って私たちに語りかけてくださる神であるということです。キリストは私たちとかけ離れてどこか遠くに鎮座なさっている神ではないということです。言葉を持って語りかけてくださる神、それがキリストであるということです。
そしてまた、そのキリストがなぜ<言>というひと文字で現わされているのでしょうか?それは言葉なる神がお語りになることが、いわゆる私たちが普通に話す言語における言葉という意味での言葉ではないからです。その言葉は、もっとアクティブなものなのです。行動する言葉といってもいいでしょう。力を持った言葉、クリエイティブな言葉と言ってもいいでしょう。あるいは神の知恵に満ちた言葉ということでもあります。
ところで、最も古く日本語に翻訳された聖書はギュツラフ聖書です。これはかねてから日本に伝道をしたいと願っていたオランダ人の宣教師ギュツラフが、まだ日本が鎖国していた19世紀に、嵐で尾張から漂流した日本の三人の漁師とマカオで出会って翻訳されたものです。その最初に翻訳された福音書がヨハネによる福音書です。そのギュツラフ聖書のヨハネによる福音書の冒頭はこのように訳されています。「はじまりにかしこいものござる」。<言>と新共同訳で訳されているところが「かしこいもの」と訳されています。つまり単なる言葉ではなくかしこいもの、知恵というニュアンスがあるのです。そもそもここは原語ではロゴスというギリシャ語になっています。この言葉には論理とか概念というもともとの意味がありました。このロゴスという単語があえて福音書に使われたのは、当時のギリシャ語が公用語であった世界の知的な人々へのアピールもあったようです。哲学的な意味でのロゴスに対抗してあえて使われたといえます。ただの人間の論理や概念ではない、ほんとうのロゴスとはキリストであり、まことの知恵であり、力なのであるということをロゴスという単語を使って語っているのです。
さてその<言>、すなわちキリストは神と共にあった、つまりキリストは父なる神と共におられたということです。御子であるキリストは、初めのときから父なる神と共におられた。そして「言は神であった」と続きますが、それはキリストは神そのものであった、ということです。つまりキリストは神のご性質をもっておられるということです。「言は神と共にあった」と言われる時の神は、父なる神を指し、「言葉は神であった」という時の神は神のご性質をさします。日本語では同じ神ですがギリシャ語では神という名詞の前につく冠詞が異なり区別されます。
<創造とキリスト>
「万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。」これはキリストご自身が世界の創造に関与なさったということです。キリストは創造の以前からおられた。キリストは2000年前のクリスマスに突然出現されたわけではありません。この世界の創造のその前から父なる神と共に御子はおられました。
創造ということでいえば、私たちは旧約聖書の創世記を思いうかべます。実際、このヨハネによる福音書の1章では創世記が意識されています。創世記は「初めに、神は天地を創造された」と始まります。その創世記が語る「初め」のときからキリストは父なる神と共におられた神であるとヨハネによる福音書は語ります。そもそも旧約聖書の創造の物語は、おとぎ話や神話のように、世界の由来を記したものではありません。この世界が神によって秩序をもって造られたということが記されています。神の創造の業の前には混沌があったのです。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」そのように創世記の1章2節には記されています。混沌であり、闇の深淵があったこの世界に秩序と光を与えられたそれが神の創造です。
しかし、神によって秩序と光が与えられたはずのこの世界にはなお混沌と闇があります。暴力と憎しみによって破壊された町を、そして傷ついた人々を私たちは毎日のようにニュースで知らされます。自然災害で破壊された人々の生活を知らされます。悲惨な事件や事故はありふれたことのように日々繰り返されます。そしてなにより私たち自身の日々に、私たち自身の心に、混沌と闇があります。普段はその混沌と闇から目をそらし生きていても、必ず私たちは私たちの混沌と闇に向き合う時が来ます。
神の創造の業は秩序と光を与えるものであったはずなのに、なぜ世界に、そして私たちの心に混沌と闇があるのか?それは私たちが、天地の造り主であり、私たちの造り主である神から離れていく心が私たちにあるからです。神から離れていく心、つまり、罪があるからです。私たちに、そして世界に罪がある、そこに混沌と闇があります。世界が壊れ、私たちも壊れるのです。
少し話がずれますが、<エントロピー増大の法則>という物理法則を習った記憶はありませんか?エントロピーというのはものすごく大雑把にいって物理的な混沌の度合いといってもいいかもしれません。この世界というのは自然の状態ではエントロピーが増大する方向へ向かう、つまり混沌へと向かうということです。すごく単純な例でいえば、たとえば、部屋というのは自然にしていれば散らかってくる、エントロビーが増大していく、そのような法則です。そこで整理整頓という自然ではない人為的な外的な力がくわわって部屋は片付いていく。つまりエントロピーが減るということです。
私たちの心のエントロピーも自然の状態では混沌へと向かうと言ってもいいでしょう。自分自身で秩序を作って行くことはできそうでできないのです。外からの力によって秩序が与えられることが必要なのです。その外からの力が、神の力であり、キリストの力でした。
<光の到来>
実際、混沌と闇の世界に、ふたたび光が来ました。
それがキリストのこの世界への到来です。キリストの受肉、クリスマスの出来事です。イザヤ書9章に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とあります。これは旧約聖書におけるキリスト到来の預言の言葉の一つです。罪の闇の中を歩む私たちの上に、たしかに光が輝きました。キリストという光が輝いたのです。イスラエルの人々は混沌の闇の中にいました。神に選ばれた民であったにも関わらず国が滅び、国土は荒廃し、1000キロ以上離れた地に強制的に移住させられました。その混沌と闇の中で、自らの罪を知らされ、光、つまり救い主の到来を待望しました。数百年を経て、まさに光はきたのです。
その光は、ただ美しく、世界や人間をさっと清めるような光ではありません。私たちをまことに生かしていく命の光でした。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とヨハネによる福音書の4節にあります。ここで言う命は、生物学的な命ということを越えた命です。生物学的な命を越えたといいましても、それは何か理想化された観念的なものではありません。人間がもっとも人間らしく力に満ちて生きていく命に関わる命です。私たちはキリストの光に照らされたとき、はじめて本当に生きていくのです。キリストご自身の命に満たされて、本当の自分として生きてゆくのです。
キリストを知らなくても、私たちは生活していくことができます。イスラエルの民のように暗闇の中から光を待望する必要なく、物質的にも精神的にもそれなり生活をすることはできるのです。私自身、中年になるまで、そうやって生きてきました。キリストを知ることなく、それで特段不便もなく生きてきました。その人生がただ暗いものであったかというとそうではありませんでした。それなりに生きがいもあり、普通に生活をしていたのです。
キリストを知るということは、ほんとうの光を知るということと同時に、自分の中の闇と混沌を知るということです。闇と混沌を知らされるということです。自分では健康なつもりで生きていた、しかし、健康診断で、あなたの内臓に問題があると知らされるように、私たちはキリストによって自分の罪の現実を知らされます。光によって、闇が露わにされるのです。5節に「光は暗闇の中で輝いている」とあります。これは現在形です。光は2000年前に一度来て消えたのではありません。今も輝いているのです。私たちの闇を照らしているのです。そして、闇は露わにされたとき、滅ぼされるのです。光を受け入れる時、闇は消滅します。そのとき、私たちは本当の命の中に生かされます。キリストの命の中に生かされます。どうしようもない現実のなかを力強く生きることができるようになります。
<キリストの光を受けて歩もう>
私たちは光として到来されたキリスト共に歩みます。その光を光として受け入れ歩んでいきます。しかし、5節は続いて「暗闇は光を理解しなかった」とあります。これはキリストが理解されなかったことが記されています。私たちは受難節、復活節と教会の暦のなかを歩んでいますが、私たちは光を理解しなかった闇の力によってキリストが十字架にかかられたことを特に受難節に繰り返し聞いて来ました。ここには、そのキリストのこの世界での受難の記録が端的に記されていると言っていいでしょう。実にこのヨハネによる福音書の1章は、創世記に始まる創造からキリストの受難までの、人間の罪の歴史を記していると言っていいのです。キリストの光は空間的な広がりと共に時間的な広がりもあるということです。
その人間の歴史のただなかに来られた光、それがキリストです。人間の歴史の中に来られたということは高いところから降って来られたということです。光り輝くところではなく、ドロドロとして汚い醜い世界のただ中に来られたということです。そして私たちと共に歩んでくださるということです。そしてまた人間の歴史であると同時に、神の支配される歴史の中に来られた光がキリストでした。神のご支配として言うとなにか私たちは縛られているように感じるかもしれません。しかし、神の支配というのは私たちがあるべき場所に置かれているということです。良く適材適所という言い方をしますが、神はまさに私たちをいるべき場所においてくださるということです。私たちはこの世界で生きていっていいということなのです。自分の居場所がないとか生きがいがない、あるいは生きる目的が見つからないということが言われます。しかし神のご支配の中にある時、私たちはいるべき場所におかれ、私たちの日々は意味があるものになります。その時は、なにか無駄のような、徒労のように見えることでも、かならず意味のあること、益となることであることを知らされます。まさに私たちの毎日が本当の命に生かされていくということです。
キリストの光を受けて、今、私たちはキリストがどなたであるかを知っています。聖霊によって知らされています。ですから光を受け入れるのです。キリストと共に歩むのです。歩み続けるのです。キリストの語りかける言に聞くのです。聞き続けるのです。言葉なる神の言葉を私たちの道の灯として歩むのです。初めからあった言は、ほかならぬ私たちのために来てくださり、今も私たちと共にあるのです。