大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書1章19~34節

2018-04-30 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年4月29日 大阪東教会主日礼拝説教 ヨハネによる福音書1章19~34節 「神の小羊」吉浦玲子

<声であるヨハネ>

 洗礼者ヨハネは救い主イエス・キリストの証言者、証し人として活動しました。多くの人々が彼のもとにきました。そしてヨハネから悔い改めの洗礼を受けました。今日の聖書箇所に書かれております<水の洗礼>が悔い改めの洗礼でした。

 やがて救い主が来られる、そしてそれは同時に神の裁きの時が来るということでした。神の裁きのまえに、悔い改めよ、そうヨハネは人々に叫びました。その言葉を受け入れた多くの人々がいました。マタイによる福音書を読むと「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。われもわれもと、人々はやってきました。これはヨハネの証しの言葉に力があったことを示します。これは単にヨハネが優れた路傍伝道者であったとか、卓越した人心掌握術を持っていたということではなく、ヨハネが特別に神から召された人であったゆえでした。そもそもイスラエルの人々は、自分は神から特別に選ばれた人間であって洗礼など受ける必要はないと考えていたのです。儀式としての洗礼というものはヨハネ以前にもありました。が、基本的には、それはイスラエル人以外の異邦人のものでした。すでに神に選ばれているイスラエルの民は洗礼を受ける必要がない、そういう考えが一般的だったようです。にもかかわらず、ヨハネから神の裁きが近いことを知らされた人々は洗礼を受けにやってきたのです。それは尋常なことではありませんでした。イスラエルの中に一大ムーブメントが起こった、ある種の信仰覚醒状態が起こったということです。人々がエルサレムとユダヤ全土から押しかけて来る、ヨルダン川で列をなしてヨハネの洗礼を受ける、それはエルサレムにいる権力者、宗教指導者にとっては、不安な出来事でした。本来、人々を支配し指導する立場である人々は単に自分のお株が奪われたということを越えて不安に思ったのです。それは裁きということに不安を持ったのです。

 権力者や宗教指導者にとって、裁きは自分たちが聖書で学び理解したように起こるべきことでした。自分たちの知らないところで知らないやり方で裁きの到来の宣告や裁きが起こってはならないのです。そしてまたそのとき登場する救い主、メシアもまた自分たちの知らないようなものがやってきては困るのです。しかし、この突然現れたヨハネという男は、勝手に裁きや救い主メシアについて語っている、それはエルサレムの権力者、指導者たちには許し難いことでした。

 エルサレムの指導者たちは不安と怒りを覚え、使いをヨハネのところに差し向け状況を確認しました。「あなたは、どなたですか?」この言葉は日本語では丁寧に訳されていますが、実際は、「お前は誰だ?」「お前は何者だ?」という厳しい尋問口調であったと考えられるそうです。現代で言えば、不審尋問を受けたり家宅捜索を受けるようなものです。

 そこでのヨハネの返答は「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」というものでした。指導者の使いたちは、ヨハネが自分をメシアというのではないか、あるいは旧約時代の偉大な預言者であるというのではないかと思っていたかもしれません。しかし、そうではないとヨハネははっきりと答えます。ヨハネという人は神からに自分の召し、担わされた役割にしっかり立っていた人物だといえます。エルサレムからまたユダヤ全土から人々が押し掛けてくる、そのような存在である自分を、ただ「声」であると語ったのです。

 人間は弱いものです。昔、職場の先輩が言っていました。どこからの引用だったのかは分かりませんがこんなことでした。「人間はうまくいっていないとき、試練の時は、案外、皆、がんばるものだ。それほど違いはない。その人間の本当の価値を見ようと思ったら、むしろその人間に権力や称賛を与えたらいい。そのときその人間の本当の姿が現れる。」人は無名の時、また、貧しい時、評価されない時、努力をします。しかし、努力をして目標を達成した時、また権力を得たり、称賛を受けてしまうと、その権力や称賛が大きければ大きい程、人によっては、そこから傲慢になり、場合によっては道を踏み外し転落していきます。権力や称賛を得た自分を大きな者と思い、舞い上がり、傍若無人になります。あるいは権力や称賛をうけながらそれを失いたくないという重圧に苦しんだり、うすうす自分の限界に気づいて、そこから逃げるために、道を踏み外し転落します。この世のニュースには、そのようにして道を踏み外したかつての成功者たちの転落の姿はいくらでも見ることができます。

 しかし、ヨハネはどれほど人々が集まって来ても、自分を中心に大きなムーブメントが起きても、自分は「声」であることにただ忠実に歩みました。しかしそれはヨハネ自身が立派な人物だったからというわけではありません。もちろんヨハネは他の福音書には「ラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」とあるように禁欲的な生活をしていました。高潔な人物であったようです。しかし、その信仰がまったく揺らがなかったということではないと思います。今日の聖書箇所の後半ではヨハネがキリストを「神の子羊」と証しますが、そのヨハネ自身、あとから「来るべき方はあなたでしょうか」と弟子をイエスに差し向けて問う場面もあります。ヨハネ自身もまた弱い人間でした。限界があり、揺れ動く人間でした。揺れ動きつつも、「声」であることを自覚していました。それは指し示すべきお方が彼には示されていたからです。裁きと救い、それが現実になることをヨハネは神から知らされていた、それゆえ、ヨハネは自分自身への認識もぶれなかったのです。指し示すべき方、見るべきお方を知らされていた。それゆえにヨハネは自分自身がメシアだと思うこともなく、自分は偉大な人間だと尊大になることもなかったのです。

神を知ること、つまりキリストを知ることは、端的に言って自分を知ることなのです。逆に神を知らない人は自分を知ることもないのです。神を知らなければ周りの人や自分自身の評価で自分を図るしかないのです。人の称賛を受けて舞い上がって道を踏み外したり、自分で自分はダメだとコンプレックスを感じて消極的にしか生きて行けなくなったりします。

<神の小羊>

 そのヨハネは、ついにイエス様ご自身と出会われたとき、こう言います。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」

 聖書のことをご存じない方でも、「迷える小羊」という言葉は知っています。「迷える小羊」という言葉は、半分茶化したようなニュアンスで使われることもあります。羊というのは弱いもの、そういうイメージは一般に持たれているようです。実際、羊は弱いものです。集団で生活をし、群れから外れた羊は自分を守ることができず死んでしまう、そんな存在です。羊はイスラエルにおいては親しい動物でした。旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブたちも羊を飼う者でした。ダビデも羊飼いでした。新約聖書のルカによる福音書で、はじめてキリストの降誕が告げ知らされたのも野原にいた羊飼いたちでした。

 しかし、羊という時、もっとも重要なことは羊は神にささげられるものとして用いられたということです。そして「神の小羊」というときの小羊は出エジプト記に由来します。出エジプト記12章に、過越しの食事の説明があります。エジプトで奴隷であったイスラエルの民がそのエジプトを脱出する際のことです。イスラエルの民を解放しようとしないエジプトに神が災いをくだされます。その災いとはその家の初子、長子を殺すというものでした。イスラエルの人々がその災いを免れるために、小羊の血液を家の入口の二本の柱と鴨居に塗る必要がありました。神の災いが、その入り口の血を見て、通りすぎていく、過越して行く、そのためにイスラエルの人々は、その災いが起こる日、小羊を食べ、その血を家の入口を塗ったのです。その羊は傷のない一歳の雄でなければならないと出エジプト記には記されています。

 「神の小羊」とヨハネに証しをされた主イエスも傷のない小羊でした。罪のない小羊でした。すべての人々の解放のために、神に備えられた小羊でした。かつての出エジプトの災いの日、イスラエルの人々は家族で小羊を食べたのです。そしてその血を家の入口に塗りました。いま、洗礼者ヨハネに向かって歩いて来られるキリストは、「わたしを食べよ」とわたしたちにおっしゃる方です。そして血を流される方です。その血は十字架において流されました。その血のゆえに私たちから神の災いは通りすぎていきました。災いは私たちが招いたものです。私たちの罪ゆえ私たちは神の災い、つまり裁きによって滅ぼされるべき者でした。しかし、その私たちが受けるべき災いをキリストが小羊となって血を流してくださり、私たちは災いを免れました。「世の罪を取り除く」とヨハネは言いました。人間の罪を人間自らが取り除くことはできません。この世界の罪を人間が取り除くことはできません。ただ神の小羊だけが取り除くことができる、これは新しい出エジプトの出来事です。私たちが罪の奴隷から解放された出来事です。

<来てくださる方>

 ある方は、キリストは「来てくださる神」だとおっしゃいました。今日の場面でも、キリストはヨハネに向かって来られました。ヨハネはキリストを証していました。が、ヨハネの方からキリストを探しまわったわけではありません。ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と31節で語っています。ヨハネはたしかにこの方を証していたけれど、その方を目の前にするまでは現実のキリストは「知らなかった」のです。そのキリストを知らないヨハネの前にキリストの方から来られました。

 人々はヨハネに洗礼を受けるためにエルサレムとユダヤ全土から、各地から押し寄せてきました。もちろんこれから主イエスが宣教活動を始められると、主イエスの元にも多くの人々が押し寄せてきます。しかし、人々がほんとうにキリストと出会うのは、みずからが押し掛けていって出会うという仕方で出会うのではありません。キリストの方から見つけて出してくださるのです。気に登っていたザアカイにイエスは「降りてきなさい」と呼びかけられました。押し合いへしあいしていた群衆に紛れて主イエスの衣に触れた女性をイエスは探し出されました。群衆の中からただ一人の人間をキリストは見つけ出し、呼びかけ、救ってくださいます。押し寄せてくる人々に十羽一絡げで救いを与えられるのではないのです。キリストはいつも一人一人個別に救いを与えられます。

 「『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 ヨハネはもともとキリストのことを神から知らされていました。しかし、肉となられた、人間となられたキリストがヨハネのもとに来て、洗礼を受けられるまで、現実のキリストは知りませんでした。それはナザレの村の貧しい青年でした。大工のせがれでした。どの福音書にもイエス・キリストの風貌は描かれていません。イザヤ書53章には「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない」とキリストは預言されていました。ぱっと見て、これが神の小羊だとわかるようなお姿ではなかったのかもしれません。しかし、その貧しい田舎の大工の青年の上に神の“霊”が降り、とどまりました。つまり父なる神ご自身が御子イエス・キリストを、神の小羊としてヨハネに示されたのです。ヨハネは喜びに満たされたことでしょう。神の小羊、世の罪を取り除くお方に出会えたのです。ヨハネの声はいっそう確信にあふれました。私は見た、私は知った、たしかに神の裁きと救いの到来、そしてメシア救い主の到来を見た。それはキリストご自身がヨハネのもとに来られ、神ご自身が見せてくださったことです。

 出エジプトの過越しの小羊は家族単位で食べました。しかし、私たちは一人一人で神の小羊をいただきます。私たちも見るのです。知るのです。神の小羊が私たち一人一人のところに来られ、もうすでに災いから過越していることを知らせてくださいます。わたしたちはキリストを頂きました。すでに血は流されました。いま、自由な解放された者として、私たちは新しい一歩を踏み出します。