2022年1月9日大阪東教会主日礼拝説教「イエスの正体」吉浦玲子
<権威ある者>
主イエスが宣教を開始されました。安息日の会堂に入り教え始めたとあります。「権威ある者としてお教えになった」とあります。私たちは今それを聞いて、主イエスは神さまなんだから権威ある者であることは当たり前だと思ってしまいますが、当時の人々からしたら大変な驚きでした。そもそも当時の人々にとって律法学者たちこそが権威ある者だったのです。律法学者たちは聖書、特に律法の専門家でした。律法を解釈して、実際の生活の中で適用したのです。現代でいうところの法律の解釈と適用を行う人たちでした。これは律法違反になるのか否か、そういう判断を下すのです。しかし、主イエスが教えられることは「律法学者のようではなかった」と書かれています。当時、律法学者に権威がなかったわけではありません。むしろ、あったのです。神に与えられた律法の専門家ですから、人びとから尊敬を受けていました。その権威の源のひとつは聖書にあったといえます。また、当時、律法を教える人は、誰から学んだかということが重要だったそうです。たとえば、伝道者パウロは、かつてファリサイ派、律法学者として活躍していた頃の自分を語るとき「ガマリエルの弟子であった」と言います。ガマリエルは使徒言行録にも出て来る有力なユダヤ教の学者です。パウロはそのガマリエルの流れを汲む者であることを、回心前は誇りとしていたのです。いまでいうところの学閥といいますか、出身校や学会の権威ある人とのつながりのようなものが一つの権威となっていたところもあるようです。それに対して、主イエスはそのようなつながりのなさそうな一介の伝道者のように人々は思っていました。カファルナウムはガリラヤ湖北部の町でペトロの家があるところでした。聴衆の中には、主イエスがガリラヤ出身の大工のせがれであることを知っている人もいたかもしれません。しかし、その言葉にはそれまで聞いたことのないような権威があったのです。
当然ながら、主イエスは誰かから教わったことではなく、ご自身が権威ある者としてご自身の言葉でお教えになりました。語られている言葉は律法の解釈と適用ではありませんでした。偉い学者が語るような内容とはまったく違っていたのです。今日の聖書箇所には語られた言葉そのものは記述されていませんが、福音書全体が主イエスがお伝えになったことを記していると言えます。そして、その言葉の中には「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という最初の主イエスの言葉もあったでしょう。これは神ご自身による<神の国が近づいた>という宣言の言葉、だから今こそ悔い改めなさいと言う勧めの言葉であり、律法の解釈ではありません。そこには神の権威があったのです。もちろん律法にも神の権威があります。しかしその解釈と適用の言葉には神の権威はありません。パウロの師匠のガマリエルがどれほどすぐれた学者であったとしても、「ガマリエルの弟子」はガマリエルという人間の権威を帯びている者に過ぎません。しかし、主イエスは神の権威をご自身に帯びておられました。その言葉にも権威があったのです。聞いている人々は非常に驚きましたが、主イエスが帯びておられる権威の源が一体何なのかはわかりませんでした。とにかくそれまで聞いたことのない言葉を聞いたのです。驚くべき言葉を聞いたのです。
<かまわないでくれ>
人々は驚くばかりで、その権威の源は分かりませんでした。しかし、それが分かっている者がありました。「汚れた霊」です。これは面白いことです。まじめに聖書の話を聞こうとしている人々にはイエスの権威の源は分からなかったのに、神を冒涜し、人間を神から引き離そうとする「汚れた霊」には分かっていたのです。「汚れた霊」や「悪霊」といったものについては次週にもお話ししますが、これらの悪しき者は、やがて終わりの時に滅ぼされる存在なのです。その裁きを行うお方がイエス・キリストです。ですから「汚れた霊」にとって、イエス・キリストの到来は、終わりの時が近づいたというしるしであり、恐ろしいことでした。ですから「汚れた霊」は叫んだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」構わないでくれという言葉は「わたしたちと何の関係があるのか」という意味です。私たちと関係がないだろう、ほっておいてくれというということです。
ヤコブの手紙の中で、口先だけの信仰者への警告の言葉にこういうものがあります。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」神を信じているというだけで、理屈で神は唯一だと分かっていても、実際に、神に従って生きていなければ意味はないとヤコブは語っています。そして、強烈な皮肉として「結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」と言っているのです。私たちはただ漠然と神という存在を信じて生きているのではないか、宗教とは心のあり方だと思って良い生き方のための参考にしているだけではないかということを、私たちはよくよく考えてみる必要があります。聖書を解釈して自分の生活に適用して、良い生き方をするためのよすがとしていないか。もしそうであるならば、悪霊よりも、汚れた霊たちよりも、私たちは劣っているとヤコブは言っているといってよいでしょう。良い生き方のために参考にはしても、まことに自分の生活に神が介入して来られ、悔い改めを迫って来られるならば「かまわないでくれ」「関係ないだろう」と叫びたくなる、そういうことがないでしょうか。そうであるならば、この汚れた霊と変わらないのです。実際のところ、私たちにも「かまわないでくれ」と神に向かって叫ばせたくなる力、汚れた霊の力は働いているのです。
福音書の中には、悪霊を追い出し、病を癒す話が多く出てきます。それは、現代の人々には信じがたい話です。科学や医学が進んでいなかった昔の人が、神のことを賛美するために作った話、大げさに書いたことだと思ったりする人もおられるかもしれません。たしかに医学が進んでいなかった時代、ある種の病が汚れた霊の仕業と考えられていたことはあったかもしれません。しかし、先ほども言いましたように、神に対して「かまなわいでくれ」と叫ばせる悪しき力は現代の私たちにも働いているのです。この汚れた霊は「我々」と複数形で自分たちを語っています。実際、複数の悪しき霊がこの男性には取りついていたのです。悪しき者の力は大きいのです。しかし、主イエスは神でありますから、病気が治ったり悪霊が出て行ったりというのは、むしろ、当たり前のことです。天地を造られた、世界の支配者である神の子ですから、その程度の奇跡が起こってもなんら不思議はないのです。唯一の神が汚れた霊を追い出せないことなどありえないのです。
そしてその力は、単に悪しき者を追い出したということで終わりません。人間が回復されるのです。悪者がやっつけられてめでたしめでたしではなく、その力に捕らえられていた人間が解放され、神と共に歩み始めることができるようになるのです。神に「かまわないでくれ」というのではなく、神によりたのんでいきていけるようになるのです。人間が変えられるのです。それが神の力であり、神の権威です。
<安息日の会堂>
ところで、今日の聖書箇所の最初に「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」とあります。ここには「安息日にすぐに」という「すぐに」という言葉が原文にはあります。今日の聖書箇所の直前に、ペトロたちを弟子にしたとありますが、その弟子となったばかりの者を連れてカファルナウムに行って、「すぐに」ということです。弟子たちを教育してからとか、準備を整えてから、ではなく、「すぐに」主イエスは宣教を開始されたのです。「時は満ち、神の国は近づいた」のですから、もう一刻の猶予はありません。「すぐに」宣教を開始されたのです。
そしてその宣教の場所は安息日の会堂でした。会堂はシナゴークという言葉ですが、これはもともと場所を示す言葉ではなく、集まりを示す言葉でした。安息日の会堂で律法を学び、神を礼拝する集まりが持たれていたのです。その礼拝の中で主イエスは語られました。主イエスは、山の上で語られたり、湖の上で舟を浮かべて語られたりもしましたが、宣教の基本はシナゴークで語ること、礼拝で教えられることにありました。安息日の礼拝の中で神の言葉は語られたのです。ちなみにここで「教え始められた」とありますが、この「教え」という言葉は福音書において主イエスに対してだけ使われる言葉です。たとえば1章に洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を「宣べ伝えた」とあるように主イエス以外の人々には「教える」という言葉は使われません。主イエスの言葉は特別なものであり、そしてまた、神の国が近づき、まさに新しい教えの時代が始まったということを示しています。
安息日の礼拝において、主イエスは教えられました。そこに神の権威ある言葉が語られたのです。これが今日の礼拝まで続いています。主イエスの弟子たちも、その宣教において、このスタイルを継承しました。たとえば使徒言行録によりますと、パウロはその宣教旅行において、新しい土地に着いたら、まずその土地のシナゴークを探し、礼拝の中で語ることから宣教を始めています。辻説法、路傍伝道から始めたのではありません。なぜなら礼拝の中で語られる時、聖霊によって、それは神の言葉となるからです。パウロも、それ以後の伝道者、説教者も人間に過ぎません。しかし、礼拝の中で語られる言葉は、単なる聖書の解釈と適用ではありません。語り手の思想信条、聖書の知識を披露しているのでもありません。ですから、説教を聞くことは「お勉強」ではありません。どれほど熱心であろうとも知識や良い生き方をするためのあり方を求めて聞くことは礼拝における姿勢ではありません。礼拝において語られる言葉は聖霊によって神の言葉となるからです。人間が語る言葉が礼拝において神の言葉となるのです。もちろん伝道者や説教者が神となるのではありません。その言葉が聖霊の力によって、神の権威を帯びるのです。神の力の言葉となるのです。
2000年に渡り、キリストを頭とする教会は礼拝を守り続けてきました。そこにまさに神の言葉が響くからです。神の力が現実にあらわれるからです。汚れた霊を追い出し、人間をまことに回復させる力がたしかに現れるのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」十字架にかかり復活なさった神の宣言は、2000年に渡って三位一体の神を信じる教会の会堂に鳴り響いて来ました。今もここに響いています。主イエスの権威が今日もここに力強くあります。それを今、私たちは聞いています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」