2022年1月23日大阪東教会主日礼拝説教「御心って何」吉浦玲子
主イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教をされました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」そう宣べ伝えられました。そしてまたその神の国の現実を人々に知らしめるため、病を癒し、悪霊を追い出されました。神の国は精神論や絵空事ではなく、私たち一人一人に関わって来るリアルな力であることを示されました。そして今日の聖書箇所では、「重い皮膚病」の人を癒された、とあります。「重い皮膚病」というのは、今日の医学からみて、どういう病であるのかははっきりと分かりません。旧約聖書においてツァラトと言われていたものです。皮膚に発生する病とされていますが、布や革といった生物ではないものにも起こるともレビ記には書かれています。そのツァラトがギリシャ語ではレプラと訳されるようになりました。レプラは皮膚の感染症、特にハンセン病を指します。ですから、聖書の古い訳では「らい病」と訳されていたのですが、もともと聖書におけるツァラトはいうものは、らい病、ハンセン病そのものを指すわけではなかったのです。ですから適切ではないということで新共同訳聖書では「重い皮膚病」と訳されるようになりました。さらに2018年に刊行された聖書協会共同訳では「規定の病」、つまり旧約聖書で規定されている病と訳されるようになりました。その「規定の病」、ツァラトの苦しみは、病自体の苦しみのみならず、ツァラトに罹ったものは、共同体から切り離される苦しみがありました。レビ記によりますと、この病に罹った者は、宿営の外に住まねばなりませんでした。そして人前に出る時は「わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です」と呼ばわらねばならないとされていました。人と接触することを禁じられていたのです。つまり共同体から切り離された存在であったのです。そして最も大きな問題は、「汚れている」ということは神の前に立てないということなのです。それは生活共同体のみならず信仰共同体からも切り離されていたということです。つまりツァラトに罹った人は神から見捨てられた存在として生きていくことを余儀なくされた人であるといっていいでしょう。
さて、今日の聖書箇所ではその重い皮膚病の人が主イエスのところに来てひざまずいて願った、とあります。先ほど申し上げましたように、本来、重い皮膚病の人は他者との交わりを禁じられています。病が癒えた時、祭司の元へ行き調べてもらって、病が治癒していることが確認されてはじめて共同体に戻れるのです。しかし、この病の人はいてもたってもいられなかったのでしょう。主イエスの評判を聞きつけ、この人なら自分の病を癒してくださると思って、藁にも縋る思いで主イエスの前にひざまずきました。周囲の人々の反応は描かれていませんが、きっとこの病に感染することを恐れていたと考えられます。またこのツァラトの人はレビ記に記されていることを守っていない、つまり律法違反をしているのです。周囲の人々は怒りのまなざしも向けたことでしょう。しかし、主イエスはその人が御自分に近づくことをおゆるしになりました。ですから病の人は言ったのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできなります。」「御心ならば」ということは、「あなたに意志があれば」「あなたが望まれれば」ということです。主イエスの思い一つで汚れた自分を清くすることがおできになります、と彼は申し上げました。
さきほど、この人は藁にも縋る思いで主イエスに近づいて来たと申し上げました。しかしそれは単に病を癒していただくということだけではなかったのです。この人は主イエスのことをどういうお方ははっきりとは分かっていなかったでしょう。しかし、主イエスの宣教の話を聞いて、このお方は神から見捨てられている存在である自分の存在の根本を変えてくださる方だと感じて主イエスのもとに来たと考えられます。ですから、律法を犯してまで、彼は主イエスに近づいて来て、「御心ならば、清くすることがおできになります」と申し上げたのです。あなたは神とわたしの関係を変えることができるお方だと申し上げたのです。ここにこの人の精いっぱいの信仰告白があります。
そう告白した男性を主イエスは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」たとあります。この「憐れみ」という言葉は、スプラクニゾマイというギリシャ語で、この言葉と対応するヘブライ語は「ラーハム」です。これらの言葉は単に「ああ。かわいそうに」という心情的な同情ではなく、痛みを伴うわななきです。語源的に内蔵と関わる言葉で、「はらわたよじる」という意味だと説明されることの多い言葉です。主イエスは、その男性を見て、内臓がよじれるほど痛まれたのです。だから、手を差し伸べられました。神と切り離されていた人へ、汚れた人間へ、感染するかもしれない病を持っている人へ手を差し伸べ、触れられました。「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわって人が近寄らないように、人を避けなければならないと決められていた人に触れられました。そして癒されました。この人は、まさに主イエスの御心によって、体も、神との関係も、回復されました。主イエスはこの人に、祭司に体を見せ、清くなっていることを確認してもらい、律法に基づいて献げものをするようにおっしゃいました。これはこの人がふたたび信仰共同体の中に入れられるということです。つまり、それはとりもなおさず神との関係が回復されたということです。
今日、新型コロナ感染症のパンデミックの中、私たちは今日の聖書箇所の主イエスのようには人と密接に触れ合うことはできません。愛があれば、感染しないということはないからです。人との接触を制限されているなか、子供や若者たちは人との関係、交わりの中で育んでいくべき貴重な体験の機会を失っています。人との交わりは温かいものであると同時に、厳しさをも体験することですが、それを失ってしまう。そしてまたご高齢や病の人は、本来、十分に精神的にもケアされなかればなりませんが孤独の中に置かれざるを得ない状況があります。教会においても、以前は行われていた礼拝後の集会における交わりの時間はとれません。集会だけではなく、礼拝の前後で、さりげなく挨拶を交わしたりする、それすらも今は、控えめにしないといけません。それはとても寂しいことではありますが、絶望ではありません。なぜなら私たちは礼拝において、なにより主イエスの言葉を聞くことができるからです。私たちにも、主イエスは礼拝において御言葉によって手を差し伸べ触れてくださっています。私たちも回復させられるのです。私たちは重い皮膚病にかかっているわけではありません。しかし、罪によって壊れていた神との関係性を回復させていただかなくてはいけない存在でした。神の前に「御心ならばおできになります」と信仰告白をして神との関係を回復させていただいたことを、繰り返し、礼拝において覚えさせていただくのです。そして、新しい神との関係に生きていくのです。
だれでも、多かれ少なかれ、罪によって自己中心という殻の中にいるのです。その殻を割っていただくのです。割っていただくために主イエスに触れていただくのです。それが礼拝です。主イエスに触れていただき、神との関係を回復させていただき、そのとき、私たちははじめて他者との関係性をも回復させていただくのです。回復の最初にあるのは神のとの関係の回復です。今、私たちは十分に人間関係において、交わりを持つことはできません。しかし、主イエスとの交わりを持つことはできます。いまこそ、持たせていただくのです。主イエスとの関係が回復する時、私たちはおのずと隣人との関係も豊かにされるのです。私たちは、今、その豊かさを内側に蓄えていくべき時なのです。やがてパンデミックが終息したとき、私たちは内側に蓄えられた豊かさをもって、新しく隣人との関係を回復していきます。それは元通りになるのではありません。もっと豊かなものにされるのです。
さて、今日の聖書箇所では最後のところに不思議なことが書かれています。「主イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた」とあります。何を言われたかというと、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」とおっしゃったのです。祭司に治ったことを確認してもらうことは良いけれど、主イエスが癒されたことは言うなとおっしゃったのです。しかも、この言い方はかなり激しい言い方なのです。「立ち去らせようとして」という言葉は「追い出す」というニュアンスのある言葉ですし、「厳しく注意して」という言葉は怒鳴りつけた、というに近い言葉です。主イエスはかなり激しくおっしゃったのです。聖書には他の箇所でも主イエスが御自分の為さったことを人に言ってはいけないとおっしゃる場面があります。これは読んでいて不可解に思うことではありませんか。これはいくつかの理由があります。一つはご自分の業が神の業であり、その業は十字架において示されるべきものだということがあります。神の業は十字架の時まで隠されているべきものなのです。たとえばこの癒された人は確かに、主イエスに神の力を確信して「御心ならばがおできになります」と告白しましたが、まだ、主イエスの十字架と復活のことは分かっていないのです。なぜ自分が神との関係を回復されたかは分かっていないのです。だからしゃべってはいけないと主イエスはおっしゃったのです。そしてまた、神の御業の深い意味が伴わず重い皮膚病が癒されたという話だけが独り歩きすると、主イエスの今後の宣教活動に支障をきたすことになるからです。治療家、奇跡を行う人ということだけが喧伝され、人々が押し寄せてきて、本来の神の国の福音宣教ができなくなるからです。実際、この癒された人が「大いにこの出来事」を伝えたため、主イエスはもはや公然と町に入ることはできなくなったとあります。癒された人は言わずにはいられなかったのでしょう。これは私たちにも当てはまることです。私たちは熱心に使命感にかられてさまざまなことをしますが、それが本当に主イエスの望んでおられることかということをよくよく考える必要があります。自分では良かれと思ってやっている、やらずにはおられないと思ってやっていることが、実際は神の御業を阻害していることがないのか、それは祈りのうちに御心をよくよく問わねばなりません。私自身もそれはよくよく思うところです。
そしてまた、今日の聖書箇所で少し考えたいことは、この場面で、主イエスのお姿は、必ずしも、一般的にいうところの、あたたかな優しいお姿ではないということです。ある神学者は今日の聖書箇所の「深く憐れんで」という言葉は、新約聖書の写本によっては別の言葉で書かれていることを指摘しています。その言葉で書かれている写本の数は多くはないそうなのですが、「怒りに満ちて」という意味の言葉で書かれているものもあるそうです。「深く憐れんで」という言葉にも主イエスの慟哭するような思いがあるのですが、「怒りに満ちて」という言葉には驚きます。怒られたとするなら、何に怒られたのでしょうか。それはこの人が神から引き離されているという現実にです。本来、神に造られ、神に愛され、神との交わりに生きるべき人間が神から切り離されている、その現実に怒りを向けておられるのです。それは律法のゆえなのですが、けっして律法が間違っているとか、おかしいということではないのです。この世界の罪ゆえに、人間の罪ゆえに、神に近づき得ない「汚れ」が生じているのです。人間を神から遠ざける「汚れ」、そして人間を神から遠ざけるすべてのものに対して主イエスは怒っておられる、宣戦を布告されていると言ってもいいのです。最後の場面でもさきほど申し上げましたように、主イエスは厳しく注意されています、追い出し、怒鳴りつける勢いでおっしゃっています。そこには一般的に言われる「やさしいやさしいイエス様」のイメージはありません。これから十字架への道を歩んでいかれる、全人類の救いのために、戦いに挑まれるキリストとしての厳しさがあります。主イエスの癒しの力、愛の力は、ある時は剣でもあります。私たちもある時は、その剣に突き刺されるのです。突き刺されないで済む信仰生活はありません。ルカによる福音書に預言者シメオンが幼子イエスを抱いた母マリアに告げた言葉があります。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」マリア自身も剣で刺し貫かれるとあり―それは必ずしも主イエスの剣ということではありませんが―主イエスと交わる時、剣に射されるような痛みはあるのです。病の治療に、時に痛みや苦しみが伴うように。私たちの病んだ心があらわにされるからです。ですから主イエスは怒りをあらわされます。私たちの心を病へと陥られせているものへ、罪に陥らせているものへの怒りです。私たちを罪の病から癒し、偽りの平安を打ち砕き、まことお救い、まことの喜び、まことの平安へと導くためです。そして何より、主イエスご自身が剣によって刺し貫かれたお方です。十字架において、手足にくぎを打たれ、わき腹を刺されました。誰よりも刺し貫かれた主イエスが、私たちの救いのために来てくださった。この世の悪しきものすべてと戦ってくださった。その主イエスに信頼し、主イエスの御心を信じて歩んでいきます。