2022年7月3日大阪東教会主日礼拝説教「神にしぶとく物申す」吉浦玲子
繰り返し祈って、祈って祈って、でも祈っている事柄が実現しない、そういうことは信仰生活が長くなればなるほど、よくあることです。一か月二か月ではない、何年も祈って、祈っている事柄が実現しないことがあります。私たちは粘り強く祈るように言われています。ですから粘り強く辛抱強く祈ります。しかし祈りながら、疑念もわいてきます。私はまだ辛抱が足りないのであろうか、あるいはそもそも私の祈りの内容が御心でないのではないのか、そんな疑念がどんどんとわいてくるのです。
その祈りの内容が御心に叶わないものだとか、まだまだ祈り足りないとか、そういったことは、他の人からどうこう言えることではありません。個人の祈りというのはあくまでも神と人間との間の個別のことだからです。共同の祈りであっても、その共同体の外の人々にはわかりえないことです。しかしまた、今日の聖書個所を読みます時、私たちは神とのコミュニケーションの在り方においていくばくかのヒントを得られるかもしれません。
主イエスはティルス地方に行かれました。これはイスラエルの領域を離れ地中海沿いの地方になります。そこでシリア・フェニキア生まれのギリシャ人の女性が主イエスの前にひれ伏しました。この女性には汚れた霊に取りつかれた幼い娘がありました。汚れた霊に取りつかれた娘といえば、私などは半世紀ほども前の映画である「エクソシスト」を思い出します。あの映画では、悪霊に取りつかれた少女の姿を気味悪く描いてあり、大変な衝撃を受けました。このシリア・フェニキアの女性の娘がどのような状態であったのかということは聖書の説明だけでは分かりません。あの映画のような状態であったのかどうかもわかりません。5章に出てきた悪霊に取りつかれたゲラサの人の場合は墓場に住んで、足枷や鎖で縛ってもそれらを引きちぎり砕いてしまったとありました。昼夜問わず叫んだり、石で自分の体を叩いたりしていたようです。このシリア・フェニキアの女性の娘の状態の詳細は分かりませんが、おそらく医者の手におえず、家族や周囲の人々が対応できないような状態だったのでしょう。幼い娘です。普通に病気をして寝込んでいるだけでも痛々しいのに、周囲の手におえない状態で苦しんでいるのです。母親としては、当然ながら、何が何でも娘からその汚れた霊を追い出していただきたかったことでしょう。
この母親はおそらくこれまでもやれることはやってきたでしょう。手を尽くしてきたのです。でもすべてのことは功を奏しませんでした。そうでなければ、この女性は、異民族の得体のしれない男にひれ伏すことなどはなかったでしょう。当時のユダヤ人とユダヤ人ではない異邦人の間にはたいへん大きな壁がありました。双方の間には大変な距離があったのです。しかし、娘のことで追い詰められていたシリア・フェニキア出身の女性は、このイエスというユダヤ人の男のうわさを「聞きつけ」たのです。そもそも娘のためにちょっとでも効果のあるようなことに関して女性は普段から死に物狂いで調べていたのでしょう。そこに、不思議な癒しの業をするユダヤ人の話を聞きつけたのです。そして藁にもすがる思いでひれ伏したのです。これ以外に娘を救う手立てはないと考えたからです。
しかし、必死の思いでひれ伏す女性に対する主イエスのお言葉は酷いものです。「まず、子供たちに十分たべさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」とおっしゃるのです。マルコによる福音書ではあっさり書かれていますが、他の福音書では「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と最初に主イエスがおっしゃったことが記されています。つまり主イエスは、イスラエルの救いのためにご自分が遣わされたのだから、異邦人のために働くわけにはいかないとおっしゃっているのです。実際、救いが異邦人へと広がるのは主イエスの十字架と昇天ののち、ペンテコステ以降の使徒言行録の時代となります。とはいえ、主イエスは異邦人を全くお救いにならなかったかと言えばそうではありません。たとえばさきほど引用しましたマルコによる福音書第5章に出て来る悪霊に取りつかれていた男性はゲラサの人であって異邦人でした。
そうであるにもかかわらず、なぜこのシリア・フェニキアの女性には厳しいお言葉をおかけになったのでしょうか。異邦人には対応しないというにしても「子犬」呼ばわりはひどいと感じます。もし、この女性がどこか傲慢な態度であったというのなら分からないでもありません。しかし、この女性はひれ伏しているのです。この女性のありようは、普通に考えると十分に謙遜なのです。
しかしまた私たちはここで考えなければなりません。この女性の態度や、あるいは主イエスだけがご存じである女性の心の中の思いに、何か問題があったから、ここですぐには女性の願いを主イエスがお聞きにならなかったと理屈をつけて考えない方がよいのです。私たちが御心にかなうあり方で神に祈れば聞かれ、私たちの態度にどこか足らないところがあるから祈りが聞かれないということであれば、人間の側の態度で神がどうなさるか決めていることになります。自動販売機に規定量のコインをいれれば飲み物が出てきますが、私たちが神のお眼鏡にかなう規定に従った態度を取れば神様が私たちの言うことを聞いてくださるということであれば、神は私たちにとって自動販売機のような存在になります。しかし、神は神ご自身の主権によってなされることをお決めになり実行されます。そこには人間の側の「なぜ」という判断を超えた神の主権があるのです。私たちは神のなさることを縛ることはできないのです。
それにしても、苦しんでいる女性を前にして冷たいではないか。また、ユダヤ人かそうでないかで対応を変えるなんて差別ではないか。そう思われるかもしれません。しかし、私たちは神を私たちの感情や、現代の常識のなかでとらえることはできません。神を自分の枠の中でとらえてはならないのです。神は神の主権と秩序をお持ちです。秩序の中には順序というものがあります。救いの順序はユダヤ人から始まり全人類に広がるのです。
シリア・フェニキアの女性は、一見、たいへん冷たい主イエスのお言葉に腹を立ててその場を退いたりはしませんでした。それは娘のために必死であったということもありますが、それ以上に、この女性にはわかったのです。目の前にいるお方が神の権威を帯びた方であることが。女性はそのお方が神の主権と秩序の内に語っておられることを感じとることができたのです。そしてその主権と秩序を受け入れたのです。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」ペットとして犬を飼っておられる方には犬はかけがえのない家族ですが、当時、一般的には犬と言えば卑しいものとされていました。その犬に過ぎない者であっても、食卓にいっしょにつくことはかなわなくても、食卓の下でこぼれたパン屑はいただくのだと女性は答えました。娘のために東奔西走し、ありとあらゆることをしてきたにも関わらず娘はよくならなかった、女性は自分の無力をよくよく知っていたのです。自分の無力のなかで出会った主イエスのなかに神の権威を感じ取ることができました。そしてへりくだることができました。
しかし、謙遜とかへりくだる、というとき、ただただ頭を下げて自分を卑下して相手の言いなりになるということではありません。女性は自分の無力を知り、神の主権と秩序を受け入れました。そのうえで「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と申し上げました。女性は神の主権と秩序を受け入れ、そしてまた同時に神の愛と憐みを期待したのです。パンとまでは言わない、せめてパン屑でもいいのでいただきたいと願ったのです。そこに女性の希望がありました。神はただ厳しく権威あるお方ではなく、愛と憐みをお持ちの方であることを女性は感じ取っていたのです。
主イエスは「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」とおしゃいます。そして実際、女性が家に帰ると、女性の娘から悪霊は出てしまっていました。<それほど言うなら>という言葉は<あなたの言葉のゆえに>ということです。口語訳や新しい教会共同訳では「その言葉で充分である」と訳されています。主イエスは女性の言葉を良しとされ、娘から悪霊を追い出されました。いま、言葉を良しとされと申しましたが、それは主イエスがこの女性の態度をテストされ、十分にへりくだり、適切な言葉を言ったから合格ということで願いを聞かれたわけではありません。そうであるなら、主イエスは、就職希望者に圧迫面接をする企業の幹部と変わりません。もちろんそうではありません。冒頭に、私たちの祈りの姿勢や内容によって神が祈りを聞かれたり聞かれなかったりするわけではないと申し上げましたが、このシリア・フェニキアの女性の姿勢が主イエスのお眼鏡にかなったから、女性の娘が癒されたのではありません。
主イエスは女性にもっとも大事なことを伝えられたのです。それは、神を神として人間が受け入れる時、人間は救われる、ということです。神が、自分の思い通りになる神、社会常識にのっとった神、近代的な人権意識を持った神、そのような人間の枠組みではとうていはかり知るのことのできない存在であることを知った時、はじめて私たちは健やかな神との関係を築けます。そして健やかな神との関係を持つことこそが、人間の日々を健やかにしていくのです。神との関係が健やかであるとき、逆に私たちは大胆に神に願いを申し上げることができるのです。神を祈りの自動販売機のように思うのではなく、神が神ご自身の自由な主権の下で働かれることをわきまえたとき、むしろ、その愛と憐みに期待をして大胆に願いを申し上げることができるのです。
それは、主イエスが来てくださったからです。十字架の主として来てくださったからです。神と人間を隔てる罪を取り去るお方として来てくださったからです。今、私たちは主イエスのゆえに、神と健やかな関係を持つことができます。この世界の権威と秩序を担われる神と親しい関係を持つことができます。私たちの祈り方や、祈りの長さや、態度のゆえではなく、キリストのゆえに、私たちは神と親しく交わることができるのです。「その言葉で充分である」そう私たちに言ってくださるのです。たどたどとした私たちの言葉を「その言葉で充分だ」とおっしゃってくださり、私たちの切なる願いを聞いてくださるのです。いえ、なりより私たちのつたない言葉が神であられる主イエスにすでに聞かれている、そのことがすでに救いなのです。現実は何も変わっていないように見えるかもしれません。祈りの内に願ったことが実現していないように見えるかもしれません。しかし、「あなたの言葉は十分である」とおっしゃる主はすでに私たちに愛をもって良きことを為してくださっているのです。私たちは神と良き関係を持つ時、目に見える現実を超えて、神に愛されていること、神が自分のために働いてくださっていることを知らされます。そしてその神の自由な働きが、ある日、突然のように、私たちの目に見える現実も変えていくのです。