大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第8章34~38節

2022-07-31 08:38:17 | マルコによる福音書

2022年7月31日大阪東教会主日礼拝説教「自分の十字架を背負え」吉浦玲子

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスはおっしゃいました。自分の十字架を背負って、というところは、一般的にも使われることがあります。本来の聖書の意味から離れて、運命や宿命、あるいはつぐないというようなものを背負っていくという意味で「自分の十字架として背負っていく」と語られることがよくあります。なにかたいへんな重荷を覚悟を決めて背負っていくというイメージがあります。たしかに十字架は重荷です。しかし、それは、本来の聖書においては、ままならぬ運命とか、責任を取るというような意味で背負うものではありません。

 カトリックの教会や修道院に行くと、「十字架の道行き」という札が立っているところがあります。あるいは絵画で「十字架の道行き」が描かれていることもあります。主イエスの死刑宣告から十字架刑、墓に葬られるまでの14の場面、そして場合によっては15番目として復活の場面までが「十字架の道行き」には描かれています。主イエスは実際、エルサレムから死刑場であるされこうべの丘、ゴルゴタの丘までの二キロほどの道のりを十字架を背負って歩まれました。十字架の物理的重さは諸説あり40キロから百キロ近かったとも言われます。これを背負って二キロの道のりを歩むというのは健康な人間でもたいへんなことです。ましてや主イエスは、その前に、ローマ式の肉に食い込む鉄球がついた残酷な鞭で打たれてもおられます。「十字架の道行き」では主イエスが道で倒れられた場面が三回描かれています。主イエスが三回お倒れになったということは聖書には記されていませんが、実際、その足取りは痛々しくよろめきながらであったことでしょう。

 物理的にもたいへんな十字架を主イエスは担われました。しかし、その重さは、単なる物理的な重さ、肉体的な苦痛を与える重さのみではなく、私たちの罪の重さでありました。主イエスは人間の罪の重さを十字架において担われました。それを知らない、ローマ兵や見物人の群衆は主イエスを罵ります。本来の意味で、十字架を担うということは、誰かの罪を担うことであり、しかもそれは人から褒められることでもなければ、格好の良いことでもありません。皆から罵られ、道をよろめきながら、みじめな姿で歩むことです。それは実際のところ、神であられるキリスト、救い主である主イエスでなければけっしてできないものでした。そしてその十字架による死は宗教的な意味での殉教ですらありませんでした。当時、むしろ主イエスは神から見捨てられたみじめな狂信者として死んだと人々は思いました。「そうれ見ろ、預言者だ、メシアだと言いながら、全く無力で無様に死んだではないか」と。

 しかし、主イエスはおっしゃるのです。あなたたちも「わたしに従いなさい」と。キリストを信じるということはキリストに従うということです。頭で信じているけれど、日々の生活は自分の思うとおりにするのではれば、それは信じていることではありません。日曜日にうやうやしく礼拝を捧げるけれども、月曜から土曜までは神様のことは考えもしない生活を送るのではありません。聖書において信じるということは、行為によってあらわされることです。もちろん行為によって私たちは救いを得たわけではありません。しかし、救われた私たちは、救われた者にふさわしい生き方をします。救われたことへの感謝があれば、完全ではないにしろ、感謝ゆえに救われた者にふさわしい生き方になっていきます。少なくともそういう生き方を目指そうと願います。そう願って生きる生き方が主イエスに従う生き方です。

 そしてそう願って生きていくとき、おのずとそれは十字架を担う歩みになっていきます。 勘違いをしてはいけないのですが、十字架を担う生き方というのは、世のため人のためになることをするということではありません。その良いことのために人知れず忍耐をするということでもありません。もちろん、キリスト教の考えにもとづいて福祉施設を立ち上げる、あるいは学校を作る、困った人を助けるためのボランティアをする、こういうことは良いことです。それが御心であると神から示されるのであればやったらいいのです。しかしそのことと、主イエスの十字架を背負うということは、イコールではありません。

十字架を担う生き方というのは、主イエスがそうであったように称賛を受けるような行為ではないということです。むしろ、さまざまなバッシングや妨害にあうかもしれません。もちろん敢えて自虐的な行為をすることではありません。ただそれは普通に考えて報われない行為なのです。人から見たらばかばかしく見える行為なのです。さきほど十字架は神であられる主イエスにしか担えないものだと申し上げました。実際、本来は人間には担えないものです。しかし、主イエスを信じ、主イエスの後を追う者は、主イエスとまったく同じ重さではないけれども、それぞれに十字架を担うことになるのだと主イエスはおっしゃっているのです。主イエスの後に従う、ということは、当たり前のことですが主イエスの前にはいないのです。主イエスのお姿を前に見ながら歩むとき、それはおのずと十字架を担う歩みになるのです。

十字架を担う歩みは人から見たらばかばかしく見える行為だ、報われない行為だと申しました。しかしまた逆に考えましたら、私たちの人生で、人からばかばかしく見えること、報われないことは、けっこうあるのではないでしょうか。仕事においても、家庭生活においても、報われないことは多くあります。どれほど労苦しても感謝されない、感謝されないどころかむしろ悪く言われてしまう、そういうことはままあります。しかし、主イエスの後に従いながら報われない行為、愛の行いをしていくとき、おのずとそれは十字架を担っていることになるのです。報われないことを、なんでもかんでもやればよいということではもちろんありません。正当な評価や感謝を求めてよいのです。しかし、仮に報われなくても、主イエスの後ろを歩みながら、愛の行いをしていくとき、それは十字架を担う歩みとされるのです。私たちが意識的に十字架を担いましょうと担うのではなく、私たちの報われない愛の行いを神が十字架を担っていると考えてくださるのです。この地上では報われないかもしれないけれど、終わりの日に神が報いてくださるのです。といっても、神の報いを求めて担うというのではありません。こうしたら神様に褒められる、天に富を積むことになると考えて行うことは、十字架を担うことではありません。ただただ主イエスの後ろで従いながら歩む、そこに十字架があるのです。

さて、さらに主イエスはおっしゃいます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」自分の命を救いたい者は命を失い、命を失う者は命を救うというのは、なぞかけのような言葉です。この言葉を自己を犠牲をしたらよいとか、なにか滅私奉公的なことをしたらよいという風にとってはいけないのです。ここで言われている「命」とはなんでしょうか?これはプシュケーというギリシャ語で、魂とか息という意味のある言葉です。人間の存在そのものといってよい言葉です。人間はただ生物学的に生きている存在ではなく、さまざまに考え、思いをもって生きていきます。願わくば、生きがいや喜びをもって生きたいと願っています。やりがいのある仕事をして、プライベートでもいろんな趣味をもって生き生きと生活をしていく、それは理想的なことのように思えます。

実際、私自身、そういうことを目指して生きていたように思います。忙しく、でもそこそこ生きがいをもって生きていたつもりでした。しかしある時、というか、長い間と言っていいかもしれません、意識していなかったむなしさというか、何か根本がかけているという気持ちになりました。だからというわけではないのですが、たまたま教会に行くこととなり、やがて洗礼を受けました。そしてそのあと気づいたのです。ああ、自分はほんとうの意味で生きていなかったと。死んでいたと。一生懸命働き、趣味もあって、生き生きと生きているつもりだった、でも死んでいた、と。

先日、ある教会の牧師就任式に伺いました。その就任式の礼拝の中で、司式をされた牧師の説教で、牧師の働きは、「生きよ」ということを人々に伝えることだと語られました。死んではいけない、生きよと伝えるのが牧師の役目だと。「生きよ」と伝えることはもちろん牧師の役目であり、それはとりもなおさず教会の役目でもあります。その牧師は、さらにおっしゃったのは、この春に、実はその先生の牧会されている教会の青年が自殺したということを語られました。それは牧師にとっても、教会にとってもたいへんな悲しみ嘆きであったと思います。実はその話は、牧師のメーリングリストで私自身、青年が失踪したところからお聞きしていました。皆で青年の無事のために祈りを合わせていた事件でもありました。しかし青年は命を自ら断ってしましました。

「生きよ」という言葉は、まずもちろん、肉体の命において「生きよ」というのです。死んではいけない、苦しみ多いこの地上にあって、なお生きよと伝えるのです。しかしまた、肉体の命は、肉体だけで支えることはできないのです。さきほどいいましたプシュケー、精神、魂において支えられるのです。さらにまた、その人間の精神、魂というものも、人間の力だけで支えられるものではないのです。キリストに従って歩んでいくとき、私たちは、それまで自分が大事だと思っていたさまざまなことを捨てるのです。自分を捨てて、とはそういうことです。自分がいきがいだと思っていたこと、大事だと思っていたこと、自分の命より大事だと思っていたこと、それらをいったん捨てるのです。そのとき、私たちは本当の命を知らされるのです。キリストの十字架と復活によって与えられるまことの命を知らされるのです。霊的な命を知らされるのです。その新しい命に生きるためには、古い自分が死ななければなりません。自分の思いや考えをいったんリセットしなければなりません。自分が大事だと思っていた命に死ななければなりません。洗礼において私たちはいったん死にます。命を失ったのです。そして新しく生かされました。霊的な命をいただきました。

そのとき、私たちは、新しい精神、魂に生き始めます。本当にやるべきことが見えてきます。むなしいと思っていた日々に光が注がれます。そのとき、肉体の命も、精神も、そして霊的な命も本当の意味で行かされるのです。洗礼を受けたのちも、私たちはキリストの後ろを歩んでいくとき、日々、ある意味、死んでいくのです。自分の命を捨てていくのです。しかし、だからこそ生かされる。死んではいけない、生きよというキリストの声を聞くのです。そしてこれまでとは違った世界が見えてくる、そして人間の評価や報いを超えたものを担えるようになってくる、自分の十字架を担えるようになってくる、それは滅私奉公のような苦しいお勤めではありません。いやもちろん苦しみはあります。しかし、本当の命に生きることです。愛に生きることです。この一週間も私たちは、生きます。まことの命に生きます。自分を捨てて、愛に生きていきます。


マルコによる福音書第8章22~33節

2022-07-31 08:35:43 | マルコによる福音書

2022年7月24日大阪東教会主日礼拝説教「あなたは、メシアです」吉浦玲子

 主イエスは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。それに対して弟子たちを代表してペトロは「あなたは、メシアです」とお答えしました。メシアとはもともとが「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、王や預言者といった特別な役割に神から選ばれた人々を指しました。やがてその言葉は、イスラエルを救ってくださる救い主を指すようになりました。メシアをギリシャ語で言うとクリーストス、キリストです。口語訳聖書ではこの箇所は「あなたこそキリストです」と訳されていました。その主イエスとペトロの会話に先立ち、今日の聖書箇所には目の見えない人が癒される話があります。この話は少し前に読みました7章31節からの耳が聞こえず舌の回らない人が癒される話と対になっていると考えられます。そしてこの二つの箇所は、以前にも申しましたようにイザヤ書35章の5節の「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」という旧約時代の預言者イザヤの預言の箇所とつながると考えられます。マルコによる福音書7章31節の耳の聞こえない人の癒し、そして今日の聖書箇所の目の見ない人の癒し、これらはいずれもイザヤが預言した救い主がやがて来られる時に起こる事柄です。ですから、まさに主イエスの到来によって、耳の聞こえない人、目の見えない人が癒された、これは主イエスがまさに救い主であることを示している出来事なのだとマルコは語っているのです。

ペトロは、主イエスに「わたしを何者だと言うのか」と問われた時、イザヤ書35章の預言と主イエスをつなげて考えていたかどうかは分かりません。しかし、主イエスのこれまでの数々の業を見て、主イエスは神から来られた救い主だとペトロはお答えしたのです。これは他の人々が洗礼者ヨハネの再来だとか、エリヤだ、あるいは預言者だと言っているのとはまったく質の異なる答えです。他の人々は主イエスが何か特別な力を持っているお方であるとは感じていました。そしてその言葉を聞いたり、あるいは助けをいただいたら、救いを得られると思っていました。主イエスは素晴らしい力や言葉で困っているところを助けてくださるお方だけれども、救いの主体はあくまでも自分の方にある、自分で自分を救うと多くの人々は考えていたのです。しかし、メシアだと告白するということは、救いというものが自分の側ではどうしようもないことであり、ただ救い主であるお方によらなければ救われないということを知っているということです。

救いはメシアであるお方からくる、そう考え、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えました。これは信仰告白です。しかしまた問題は、メシア、救い主であるとは告白したものの、その救い主がどのようなお方であるかをペトロはまだ正確には知りませんでした。そもそも当時のユダヤにおいてメシアとはイスラエルを建て直してくださるダビデのような王と考えられていました。現実のイスラエルをローマ帝国の支配から回復し、ダビデの時代のように強くしてくださる王というイメージでした。ペトロもまたメシアとはそのようなお方だと思っていたと考えられます。

 そのようなペトロや弟子たちに主イエスは語られます。イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とおっしゃいました。「しかも、このことをはっきりとお話になった」とあります。自分は権力者たちから排斥される、殺される、復活する、これらのことを主イエスははっきりとおっしゃったのです。これは当時のユダヤ人が考えていたメシアの姿とは全く異なりました。ダビデのような強い王、敵を蹴散らすつわものとは程遠いものです。

 ペトロはたいへん驚き、主イエスをわきへお連れしていさめ始めました。実際、主イエスの言葉はまだ聖霊を受けていないペトロたちにとっては理解しがたいものでした。それはそうだと思います。神から来られたお方が、この世の権力者ごときに排斥されて殺されるなんて思いもよらないことだからです。そして復活についてもわからないことでした。当時のユダヤの人々は、サドカイ派の人々を除けば復活ということ自体は信じていたのです。それはこの世の終わりの時、つまり神による最後の審判の時、人間は皆復活して、神の裁きを受けることになるという考えでした。しかしその世の終わりの時ではないとき、救い主が復活するなどということは信じがたいことでした。

ペトロはいよいよこれから主イエスがイエスの王国をこの世において築かれると思っていたのです。ですから、排斥されるだの殺されるだのということを言ってはなりません、そんな弱気でどうするのですか?救い主らしく強くあってほしいのに、こともあろうに権力者たちに負けて殺されるなんてとんでもない、そういうことをおっしゃっては、ほかの弟子たちにも、また多くの人々にも示しがつきませんよ、そうペトロはお伝えしたかったのでしょう。現代の私たちはその後のことを知っていますからペトロは愚かだなあと感じます。しかし、私たちもまた、神を自分の思いや考えの中で、神様にはこうあって欲しいと思う者です。愛ある神はこうあるべき、正義の神はこうなさってくださるべき、と神を勝手に規定するのです。しかし、神のなさることや、この世のありさまを見て、神というものが自分の規定に外れていると、神へ失望したり、神なんていないとうそぶいたりするのです。

 そのようなペトロに対して主イエスは「振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」たいへん、強烈な言葉です。この言葉を主イエスは振り返って弟子たちを見ながらおっしゃったのです。つまりこの言葉はペトロのみならず弟子たち皆に主イエスはおっしゃったのです。この時、位置関係としては、おそらくペトロが主イエスの前に出て、他の弟子たちから主イエスを引き離して主イエスに話していたのです。主イエスの前にペトロは出ていました。ですから「引き下がれ」と強く主イエスはおっしゃったのです。

 私たちもまた知らず知らずのうちに神の前に出ていっているかもしれません。自分の方が神の前に出て、神を振り返って、神様こっちにきてください、こうしてくださいと神に指示をしているかもしれません。何の悪意もなく、いやむしろ伝道のため、教会のため、みんなのため、家族のため、一生懸命にやっている、気がつくと神を放り出して、神より前に出て、自分で良かれと思ってやっている、そんなことがあるかもしれません。伝道のため、教会のためということであっても、神の前に出てやっているとき、それは神のことではなく人間のことを思っているのです。

 そんなとき、主イエスは「退け」とおっしゃってくださいます。私の後ろに行けとおっしゃってくださるのです。自分が神の前に出ていることを、そしてそれは道をそれて危ないところへ向かおうとしていることですが、それを止めてくださいます。愛をもって止めてくださいます。でも、その時は分からないことも多いのです。場合によっては自分は良いことをしているのに、物事がうまくいかないと感じるのです。さらには、悪しきものに妨害されているとすら思うのです。もちろんこの判断は難しいのです。ある神学者が信仰書を出版しようと企画をしていたのですが、出版社の都合やらさまざまなトラブルがあって、なかなか出版の作業が進まなかったそうです。その人は最初はそれこそ悪しき力による妨害かと思ったそうなのですが、後から考えたら、自分の中で、焦りがあったそうです。いろいろなトラブルの中で内容についても検討しなおして、その過程でそれまで見えなかったことが見えてきたそうです。そして当初より良い形での出版にこぎつけたそうです。神様が適切にストップをかけてくださったことが良い結果をもたらしたとその方はおっしゃっていました。私たちは時として、不本意であっても、神からの「退け」「ストップしろ」という声を聞き留めなければならないのです。

 さて、またここで信仰告白ということに戻ってお話をしたいと思います。信仰告白とは、三位一体の神への信仰を告白することですが、その核にあるのは主イエスとはどなたか?ということです。ペトロは「あなたは、メシアです」と告白しました。この告白は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと思うか」という主イエスご自身の問いに答えたものです。ここにいる洗礼をお受けになっている方は、皆、信仰告白をなさった方です。みなさんご自身の意思で告白をされました。しかしまた同時に、本人が意識するかどうかは別として、主イエスご自身から「わたしを何者だと思っているのか」と皆さんは問われたのです。主イエスは「何者だと思うのか」という問いの形で私たちを信仰告白へと招いてくださったのです。主イエスご自身から問われたとき、その問いが聞こえたからこそ、私たちは主イエスから引き出されるように「あなたはメシアです」と答えさせていただくのです。つまり主イエスから招かれて私たちは告白をさせていただいたのです。そこに私たちを招いてくださる主イエスの愛があります。愛の問いかけがあります。

しかしまた一方で、そのメシアがどういうお方かというのがあやふやなままということがあるかもしれません。今日の聖書箇所のペトロのように、自分のために苦しみをお受けになってくださり、十字架の上で死んでくださる救い主とは分からないのです。そしてそれはまた、キリストが神から来られた神ご自身ということが分かっていなかったからでもあります。ナザレ村の大工として育たれた主イエスをペトロはメシアだと申し上げました。ペトロだけではありません。キリスト者は、歴史上、たしかに存在し、歴史書にもその名を記されているイエスという一人の男性を、神のもとから来られた救い主、メシアだと告白した者たちです。そして告白した者はそのメシアが神ご自身なのだと知らねばなりません。

 それは人間である誰かを神として祀り上げることとは根本的に違います。人間を神に祀り上げるのではなく、神がこの世界に来られたと信じるのです。このナザレのイエスを神から来られた救い主、神その人だと信じる信仰が聖書の信仰なのです。しかしもちろん、実際主イエスは人間でもあられました。繰り返し繰り返し述べていることですが、これは主イエスは50%人間で50%神だということではなく、完全に人間であり、また完全に神であられるということです。なにか不思議なことでありますが、これはまさに信仰の事項なのです。基本信条で語られ2000年にわたり教会が信じてきたように主イエスは「まったき神にしてまったき人間」であるお方でした。いま、世間では宗教論議が沸き起こっていますが、主イエスを「まったき神にしてまったき人間」ではないと考えることは完全に異端です。聖書にもとづく正統的なキリスト教ではありません。しかしまた同時に、異端の新興宗教のみならず、正統的な教会の中にも繰り返し繰り返し、このような異端的な考えが入り込んできました。このような異端的な言説が教会を壊し、私たちの信仰の命を傷つけるのです。私たちは常にメシアとはどなたか、キリストは何者であられるのかという信仰の土台にしっかりと立たねばなりません。

ですから教会は繰り返し繰り返し信仰告白をするのです。教会では礼拝の中で毎週信仰告白をします。これは唱えるとご利益のあるありがたい言葉ではなくて、私たちの三位一体の神への心からなる告白です。実際のところ、あまり普段は内容を意識しておられないかもしれません。私自身、教会に通い始めたころは、使徒信条も日本基督教団信仰告白も内容は分かっていませんでした。しかしなお、私たちは毎週信仰告白をします。今はコロナ対策のため、声に出しては告白しませんが、心で告白します。ペトロはまだ聖霊を受けておらずメシアの意味を分かってはいませんでした。私たちは最初から救い主の意味がはっきり分かっていたわけではありません。分かったのちでも、私たちも揺れ動く弱いものです。揺れ動く弱い人間である私たちが繰り返し信仰を確認し、信仰の土台に立ち帰ることができるように毎週、告白して確認をするのです。「わたしを何者だと思うか」という主イエスの愛に満ちた問いかけがあるからです。今週も主イエスの愛のまなざしの中で私たちは問われます。「わたしを何者だと言うのか」。私たちもまた感謝と愛をもってお答えします。「あなたは、メシアです」「あなたこそキリストです」。そこから私たちは新しく救いの道を歩みはじめます。あなたこそ救い主ですという告白に確信を増し加えられ、救われた喜びの内に歩みます。