大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第7章31~37節

2022-07-15 18:28:44 | マルコによる福音書

2022年7月10日大阪東教会主日礼拝説教「開け」吉浦玲子

 主イエスはさまざまな場所に行かれました。今日の聖書個所の前のところでは、イスラエルの外のティルスに行かれました。そもそも7章の最初で、主イエスはファリサイ派や律法学者を批判する発言をされたこともあり、彼らの憎しみを買ったので、イスラエル外にいったん退かれたのかもしれません。しかしまた同時に7章24節には「だれにも知られたくないと思って」とあります。群衆が押しかけて来るような状況から逃れられたともいえます。そのティルスでシリア・フェニキアの女性の娘を癒し、そののちシドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖にやって来られた、とあります。しかし、この経路は、不自然な経路であるようです。といいますのはティルスはイスラエルから見て西北の地にある異邦の地で、シドンというのはティルスよりさらに北にある地です。それに対してデカポリスというのはぐっと南東にくだったところにある異邦の地です。いってみれば、大阪から鳥取に行った後、大阪に帰ってくるのに、いったん福井に行き、和歌山経由で、大阪に戻ってきたような感じです。この不可思議な経路については神学者の間でもいろいろな議論があるようです。もちろん福音書のなかには主イエスのなさったことのすべてが記されているわけではありません。この不可思議な経路の中での出来事が省略されているだけかもしれません。しかしまた、それぞれの地での出来事が省略されているのであるなら、わざわざ不自然な経路を記述する必要もないように思います。ある方は、このティルスからシドン、デカポリスという、異邦の地を主イエスと弟子たちが回ったのは、主イエスが弟子たち以外の誰にも知られないように旅をしたいと思われていたからではないかとおっしゃっています。それは弟子たちとの交わりの時を持つためであり、弟子たちへの深い教えの時であったのではないかと推測されます。マルコによる福音書は、これから十字架に向かう後半へと進んでいきますが、その十字架へと向かう前に、主イエスは弟子たちとの誰にも邪魔されない時間をお持ちになったのではないでしょうか。イスラエルの中では、絶えず人々が押し寄せるような日々でしたから、遠回りするような異邦の地での旅は、比較的静かに主イエスと弟子たちとの特別な時間を持つことがおできになったかもしれません。

私たちも、時には、遠回りのような、本来の在り方でないような日々の中を送ることがあるかもしれません。しかし、そのようなとき、むしろ神との時間を持てることもあるかもしれません。私自身を振り返っても、不本意な境遇に置かれて、やりたいことをストップせざるを得なかった時、今思えば、神との深い時間があったように思います。教会に関して申し上げましても、もう三年目に入ったコロナの時代、社会としても大変な時期であると同時に、教会としても苦しく試練の時でありました。しかし同時に、それゆに、特に神を覚え、いっそう未来へ向けて祈る時として与えられている期間という側面もあるのではないでしょうか。

そして今日の聖書箇所では再び、主イエスはガリラヤ湖に戻ってこられました。ここで人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきました。そもそも福音書には多くの癒しの話が出てきます。主イエスは重い皮膚病の人を癒したり、手の萎えた人を癒したり、長年出血の止まらなかった女性を癒されたり、さらには息を引き取った少女をも癒されました。イエス様の奇跡の癒しの話と聞くとまたかと思われるかもしれません。

 しかしこの癒しの話は少し特別な話でもあります。といいますのは、今日の聖書箇所の最後に「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」とあります。これは人々が主イエスについて語ったことですが、この言葉はイザヤ書35章の言葉を反映しているのです。つまり旧約時代の預言者イザヤは、救い主が来られる時、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。」さらに「口の利けなかった人が喜び歌う」と語っています。そのイザヤの預言が、今や現実となったということです。さらに少し複雑なことを言えば、次の第8章22節からは目の見えない人の癒しが記されています。これもまたイザヤ書35章で預言されていた「そのとき、見えない人の目が開き」とある救い主の業なのです。イザヤ書35章にはつまり今日の聖書箇所から次の8章までが救い

主の到来を描いていると言えます。主イエスが救い主であることを示しているのです。マルコによる福音書の著者は、主イエスの業を、すでに預言されていた救い主の業として強調して描いているのです。

 さて、主イエスは「この人だけを群衆の中から連れだし、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」とあります。「この人だけを」というところが目につきます。この耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきた人々は「手を置いてくださるよう」願ったのです。もちろん、主イエスは手を置くだけでも癒すことがおできになったでしょう。十二年間、出血の止まらなかった女性は、主イエスの服に触れただけで癒されたのですから。しかし、主イエスは手を置くこととは違うやり方でこの連れてこられた人を癒されました。そしてまずその人だけを連れ出したのです。主イエスは個人的な交わりを求められるからです。ただの病や不具合の癒しだけではなく、その人の存在すべてを救いへと導くために主イエスはその人と個別に向き合われるのです。さきほどの出血の止まらなかった女性も癒される時は人々の中に紛れ込んでいましたが、その後、主イエスはその女性を探し出し、会話をなさいました。単に病気が治ればよい、耳が聞こえればよいということではなく、その人を深いところから癒すために、個別に主イエスは関係を持とうとされるのです。

そしてまた、主イエスはこの連れてこられた耳が聞こえず舌の回らない人を「連れ出」したというのは、ただ一人の人間として、神との関係の中に、連れ出されたのです。アブラハムが親族から離れてメソポタミアの地から連れ出されたように、ヤコブがただ一人ハランに向かって旅をしたように、神は関係を持とうとされる一人を連れ出されます。

 そして今日の聖書箇所では、連れ出したのち、主イエスは、指を両耳に入れられたり、唾をつけてその舌に触れられました。ここは、少し今日の衛生観念から言うと違和感のあることですが、一定の癒しのための行為をなさっていることを連れ出された人が理解できるようになさったといえます。「わたしはあなたの耳を癒し、口を癒したいのだ」という主イエスの思いを、耳の聞こえない人に伝えるためでした。そしてまた耳の聞こえないこの人に、主イエスが直接に触れられましたが、この耳の聞こえない舌の回らない人にとって、耳や舌は、本来は、触れられたくない場所でしょう。この人にとって、耳が聞こえないこと、しゃべることができないことは苦しみの根源でした。主イエスの時代、このような障害を持って生きることは、今日とは比べ物にならないようなあからさまな偏見や差別の対象であったでしょう。その苦しみの源である、耳や舌に、主イエスは触れてくださったのです。

 そして主イエスは天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」とおっしゃいました。天を仰いで深く息をついたとは、天におられる父なる神との交わりにここであったと言えます。ここで「深く息をつき」という言葉は「うめく」とか「もだえる」という意味の言葉です。主イエスはここで、この耳が聞こえず舌の回らない人のこれまでの人生の嘆き、苦しみを、うめき、もだえ苦しまれたのです。もとより主イエスは、人間の痛み、苦しみを、離れた所から見下ろして、ささっと超人的な癒しをなさるのではありません。まず一人一人の苦しみ、痛みを、ともにうめいてくださるお方です。そしてその主イエスのお姿によって、この耳が聞こえず舌の回らない人にも、主イエスが自分の痛み苦しみをよくよくわかってくださっているということが伝わったと思います。

そして主イエスは「エッファタ」とおっしゃいました。これは「開け」という意味でした。この言葉の響きだけ聞くとおまじないの言葉のようです。しかしもちろん主イエスはまじないをかけられたわけではありません。救い主として「開け」と命じられたのです。閉ざされていた耳と口を開けとおっしゃたのです。差別され、孤独の中に閉じ込められていたこの人の人生を開けとおっしゃったのです。

耳が聞こえ、口が利ける者であっても、救い主と出会うことのない者の日々は、閉ざされています。罪によって閉ざされているのです。どれほどまじめに努力しても、罪によって、神と遠いところにいるとき、それは閉ざされた日々です。経済的に恵まれていても、仕事にやりがいを感じていても、神に向かって開かれていないとき、本当の生きるべき人生からは閉ざされています。耳が聞こえず舌の回らない人は自分の世界が閉ざされていることが分かりますが、耳が聞こえかつ舌が回る者は、かえって自分が閉ざされていることが分かりません。

主イエスは福音書の中で、よく「耳ある者は聞きなさい」とおっしゃいました。それは物理的に耳が聞こえても、聞こえない人々がいる、耳があっても、救い主の言葉が聞こえない人々がいる、だから敢えておっしゃったのです。「耳ある者は聞きなさい」。しかし、実際のところ、救い主の言葉、主イエスの言葉を聞き取る人は少なかったのです。主イエスはけっして難解な言葉、高邁な理論を語られたわけではありません。しかし、その言葉を理解する人は少なかったのです。神に向かって心が閉ざされているからです。

そしてまた今日、私たちは主イエスの言葉が聞こえているでしょうか?私たちの耳は神の言葉へと開かれているでしょうか?私たちの口は善きことを語っているでしょうか?神の言葉を自分の都合の良いように解釈し、人を傷つける言葉を語っていないでしょうか。そのような私たちのためにも主イエスはおっしゃるのです。「エッファタ」開けと。私たちの聞こえぬ耳を聞こえるようにし、回らぬ舌を回るようにしてくださるのです。福音を喜びの内に聞き取り、真実な言葉を語る者としてくださるのです。

実際に私たちの心を開いてくださるのは聖霊です。聖霊によって私たちの心はキリストの言葉、救いの言葉へと開かれます。エッファタ、開け、今、私たちの心は聖霊によって開かれています。神に向かって開かれた心は現実の世界もまた天に向かって開かれていることを知ります。昭和十五年、当時の大阪東教会の牧師の霜越四郎牧師は玉造署に突然連行されました。何回かお話したことですが、牧師は不敬罪の疑いで九十日間にわたり、拘留されました。無実でありながら拘留されたのです。幸い、霜越牧師は釈放されましたが、拘留中に詠んだ短歌があります。以前も引用させていただいたことがあるかと思いますが、こういう短歌です。「監房のうちはひろしや八方は、ふさがりおれど天に通いて」。短歌としての出来はともかく、霜越牧師の信仰がよくわかる歌です。コリントの信徒への手紙Ⅱの四章八節の「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ばされない」という四方から苦しめられてもというところと、八方はふさがりというところが響きあう歌です。

四方八方ふさがっていても、天に通っている、天には開かれている。主イエスがエッファタとおっしゃるとき、その言葉を聖霊によって聞くとき、たしかに私たちの世界は開かれるのです。いままで閉ざされていると思った現実が、奇跡のように重い扉が開いて、新しくされるのです。