説教「あなたが与えなさい」吉浦玲子
先週、ご一緒にお読みしました洗礼者ヨハネの死ののち、主イエスはひとりで人里離れたところに退かれました。退かれた、この言葉は、まさに引っ込んだということです。目立たないところへと向かわれたのです。これは洗礼者ヨハネに続いて自分の身に危険が迫っていることを感じられたということでありますが、単にご自分の身を守るため、臆病風に吹かれて逃げられたというのではありません。主イエスには十字架への道がありました、人々のために罪人として、贖罪のために、命を捧げるというご自分の道がありました。その十字架の時は、神の時です。神の時間です。しかし、神の時間はこのとき、まだ来ていなかったのです。ですから、主イエスはいま死ぬわけにはいかなかったのです。ですから、十字架の時までご自身の身を守られました。
少し横道にそれますが、身を守る、自分の身辺を管理し整えることは、私たちに神から求められていることです。神を信じていたら安全だ何のトラブルもないと、あまり安易には考えてはならないのです。暗い夜道を歩いていても、神様が守ってくださるから暴漢には襲われないとか、暴漢が襲ってきても神様がいつも助けてくださると安易に考えてはならないのです。暗い夜道ではなく街灯のついた道を歩く、できるなら夜間の一人歩きはしない、そんな当然のことはしっかりやらねばならないのです。私たちの体や生活は神から私たちに与えられています。それをしっかり管理し守る責任が私たちにはあります。私たちには神から自由と同時に管理責任を与えられているのです。神様は身勝手な私たちのボディーガードではないのです。しっかりと自分を管理しながら神に仕えていく、その過程において神は私たちを守ってくださいます。神のみこころ、ご計画において用いてくださいます。
主イエスもいったん退き、神のご計画に忠実に歩みを進めていかれました。
しかし、その退かれた主イエスを多くの人々が追いかけてきました。主イエスは舟に乗って行かれたのですが、人々は陸路歩いて主イエスのあとを追ったのです。ここには人々の必死さが感じられます。貧しい人々がなんとしても主イエスに会いたいと後を追った、切実さがあります。主イエスはその人々を見て憐れまれたのです。前にも申しましたようにこの憐れみという言葉は<はらわたよじる>という言葉です。主イエスは表面的に<ああ可哀そうに>と思われたのではなく、ご自身の内臓が引きちぎられるような思いで人々をご覧になったのです。
先週お読みした箇所では、洗礼者ヨハネは偉大な人物だったにもかかわらず、権力者ヘロデの宴会の余興のために、残忍に殺されました。愚かな権力者に、貧しい力ない人々が踏みにじられているのが神に背いた世界の現実です。正しい人が宴会の余興に殺される、不条理で深く病んだ世界です。悪と、苦しみと、死が、陰鬱におおっている世界で呻いている多くの人々を見て、主イエスは、心に、体全体に痛みを覚えられたのです。
その憐れみ、はらわたよじる思いのゆえに、主イエスは人々の病を癒されました。
その癒しの業は、主イエスの十字架への道に連なっていました。まずそれは、主イエスを良く思わない権力者のねたみを買う行動でした。いっぽうで、人々へも誤解を与えました。人々は主イエスの奇跡的な行いを見れば見るほど、主イエスがイスラエルの王になってくださると考えました。しかし、やがて人々は十字架の時、つまり神の時が近づいた時、主イエスがイスラエルの王、この世の王になることないということに気づきます。そのとき、人々の主イエスへの賛辞は、逆に期待を裏切られた落胆から、一気に憎しみと変わることになるのです。「十字架に付けろ」という叫びになるのです。
そういうことは主イエスはもちろんわかっておられました。わかりながらなお、主イエスは憐れみのゆえに、人々を癒されました。ご自身の業の一つ一つがご自身を死に向かわせるものでもあることを知りつつ、なお、傷ついた葦を折らず、消えそうな灯心を消すことなく主イエスは宣教の業をなさいました。
今日の場面では大変な数の人々が来て、主イエスに癒していただいたのですから、かなりの時間を要したと考えられます。夕暮れになって、弟子達はイエスさまに申し上げます。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
弟子達は日が落ちることを思いながら、じりじり、そわそわしていたかもしれません。時間のことなど全く気にしていないかのように、人々のために働かれるイエス様。夕方になって食べ物の心配をしないといけないのに、全く頓着されていないその姿に、少し焦っていたかもしれません。日暮れが迫ってくる、この大群衆が夜になってお腹を空かせて路頭に迷ったらどうしよう、そしてまたイエス様ご自身も大変お疲れなのではないか、イエス様と自分たちの食糧だって確保しないといけない、これからの段取りのことで弟子達の頭の中は一杯だったことでしょう。
そんな弟子達に主イエスは驚くべき言葉をお返しになります。
「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
聞いた弟子達は唖然としたことでしょう。自分たちが食べるものでさえないのに、この大群衆に食べ物を与えることなどできるわけがない、そう彼らが思うのも当然です。
「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」
そう正直に弟子達は申し上げます。
男だけで5000人ほどの大群衆です。この近くにあります大阪城ホールでコンサートをするときの収容人員が10000人くらいらしいですが、弟子達の前には、その大阪城ホールくらいかもっと多くの人間がいたと思われます。大阪城ホールいっぱい人々に対して、パン5つと魚2匹です。どう考えても話になりません。大阪東教会の昼食会の材料としたって足りません。
弟子達が「パン5つと魚2匹しか、ありません」と「しか」と言ったのは当然のことです。しかし、弟子達の前におられたのはどなたでしょうか?神のひとり子である、主イエスです。人間の常識での「しか」、人間の感覚で捉えられるスケールでの「しか」という言葉は主イエスに対して当てはまりません、神の業に対して筋違いも良いところです。
むかし、ある日本の小説家の書いた聖書物語を読んだことがあります。「人間イエス」として主イエスを描いた小説でした。それはまったく信仰的な本ではありませんでした。信仰のない人はこういうことを書くのだなと感じて読みました。その小説ではこの5000人の給食の場面は、影にパトロンのような人がいて、こっそりと食料を人々に配って、イエスの奇跡物語として作り上げたというような展開になっていました。だから何なんだというような話なのですが、しかし、人間はそのような話なら、理屈で理解できます。パン5つと魚2匹で大阪城ホールいっぱいの群衆が満腹したという話より、よほど筋が通っているからです。
しかし、神の出来事というのは人間にとって筋が通るかどうかということが大事なのではありません。そのようなものは意味がありません。なんの救いにもなりません。その小説のように、人間が人間の力で人を救う、パトロンがこっそりパンを配る、そのこと自体は悪いことではないでしょう。10000人の人々のために財力を持った人が、2万個のパンと1万匹の魚を手配した、慈善活動としては素晴らしいことです。しかし、それは救いの出来事ではありません。その素晴らしい慈善の話はただ10000人が一食分の食事を得たというだけの話です。
しかし、主イエスが与えられた食事は、肉体が満たされたということにとどまりません。いえ現実的にはここにいた多くの人にとっても、結局はお腹がみたされたというだけの話だったでしょう。しかし、この話を教会は語り継いできました。その伝えてきたことは10000人がお腹を満たされたすごいですね、イエス様の力はすごいですね、ということにとどまりません。このことは主イエスが共におられるとき、私たちには言葉なる神であるイエス・キリストを霊の糧として頂くと共に、肉体の糧もいただくということを語っています。人はパンのみにいくるに非ずと聖書は教えます。わたしたちはまず第一に神の言葉によって生きます。しかし神の言葉によって生きながら、なお、私たちには肉体の糧が必要です。その必要を神は満たしてくださるということをここで聖書は語っています。私たちの肉体的な飢え、痛み、苦しみも分かってくださる神が、主イエスを通して必要をあたえてくださるということです。主の祈りの「我らに日用の糧を今日も与えたまえ」とありますが、その糧を与えてくださるということです。
そしてまた、共に食事をする共同体としての教会の原点がここにあります。主イエスが共にある食事は「魚が2匹しかない」という「しかない」というような食事ではないということを語り継いできたのです。それはいつも豊かなものなのだということです。先週読みました領主ヘロデの誕生日の祝いの席の食事は、食事そのものとしては豪華だったであろうと思います。ヘロデの力を現わす、当時のその地域で食されるものとしては最高のものだったと思います。それに対して、今日の食事はお腹いっぱいになったといっても、結局それはパンと魚だけの食事です。しかし、領主ヘロデの食事は、人間の悪行のただ中にある食事でした。洗礼者ヨハネの首を盆にのせて楽しむような、人間の罪の極みの中での宴でした。そこには人間の欲望やへつらいや残虐さが満ちていたことでしょう。
しかし、今日の5000人の食事は主イエスの憐れみと癒しのまなざしの中にある食事でした。病人たちは癒され、その喜びの中にある食事でした。主イエスが人間ひとりひとりを顧み、その痛みや悲しみをご自分のこととして痛み、悲しんでくださる、はらわたよじってくださる、そのお方のまなざしの中で、信仰共同体は共に食事をするのです。
聖書の少し先に今度は4000人の食事の場面があります。やはりこの場面にも先だって癒しの話があります。つまり信仰共同体の食事は主イエスの憐れみと癒しに密接に結びついているということです。教会での食事しながらのまじわりのことを愛餐会と呼ぶ場合があります。主イエスの憐れみと癒し、その愛の中での食事ということです。教会での食事の原点はここにあります。
そしてもうひとつ今日の聖書箇所で私たちが思いめぐらしたいと願うのは、主イエスが「群衆を解散させてください」という弟子達に「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」とお答えになっているところです。
「あなたがたが食べる物を与えなさい」とおっしゃっているのです。原語で「あなたがた」という言葉が入っているのですが、通常、ギリシャ語では主語によって動詞が変化しますので、動詞だけで意味が通じるのです。「食べる物を与えなさい」というとき、「与えなさい」の変化形で、あなたがたに対して言われていることは通じるのです。しかし、ここではあえて「あなたがた」というギリシャ語が原文に入っています。これは「あなたがた」ということを強調しているということです。あの人々が食べ物を買いに行くのではなく、「あなたがた」が与えるのだ、「あなたがたこそ」が与えるのです、とイエス様はおっしゃっているのです。
御救いにあずかり、主イエスと共に歩むとき、私たちも言われるのです。「あなたが」それをやりなさい。「あなたが」この人のためにこうしなさい。そのとき往々にして私たちは答えます。「わたしには無理です。私にはこれこれこういうものしか、ありません。」5個のパンと2匹の魚「しかない」と答えた弟子達のように、私たちもまた、私にはこれだけのものしかないと思うのです。しかし、私たちがたったこれっぽっちと思っている、たったこれだけしかない、ということを神は用いられます。用いてくださいます。そしてそれは大きな業になります。
私たちは大阪城ホールいっぱいの人々を相手に何かをすることはないかもしれません。しかし、たったこれだけしかないと思っている私たちを用いて神は大きな業をなさいます。たとえば、寝たきりの人を用いてさえ神は大きな業をなさいます。そしてそれは人々に命を与える業です。自分には豪華なディナーを御馳走はできないかもしれないけれど、誰かを孤独の縁から救うささやかな何かはできるかもしれない。自分は無愛想で気が聞かなくてと思っていても、見せかけの愛想ではない応対に心解かれる人もいるかもしれない。病の人をお見舞いに行ったつもりが、かえってそのベットの中にいる人に逆に自分が励まされて帰ってくることもあるでしょう。すべて神が用いてくださるのです。
ヨハネによる福音書に最初に記されている奇跡は婚礼の席で葡萄酒が足りなくなったとき、主イエスが水をぶどう酒に変えたという奇跡でした。主イエスに命じられた人々は水を甕に汲んで、運んだだけです。彼らが水をぶどう酒に変えたのではありません。主イエスが変えられたのです。水しかない、それも大事な婚礼の席に水しかない、しかし、水を運ぶ人がいました。主イエスに従って運ばれた水はぶどう酒になりました。
わたしたちもまた、主イエスに従って歩むとき、手に持っているものは、パン5つ魚二匹くらいのものかもしれません。自分は日々水を運ぶような虚しいことをしているように思うこともあるかもしれません。しかし、「あなたが」それをするのだと主イエスがおっしゃるとき、そしてその言葉に従う時、私たちは私たちの中の小さなものをとてつもなく大きなものにして頂くのです。
それこそが喜びの愛の業となるのです。
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