「桃栗三年柿八年」ということわざがありますが、最近はこのことわざをあまり耳にしなくなったように感じます。ちなみの桃栗三年柿八年のあとに、ゆずは九年とか、梅は13年とかつづくとか、さまざまに説があるようです。
このことわざは、ご存知のように、ものごとには相応の時間が必要だということです。しかし、最近は効率化とかスピード重視で、すぐに成果が要求される風潮のせいなのか、桃栗3年柿8年なんて悠長なことは言いにくいのかもしれません。また家の庭などにこのように実のなる木が植えられていることが以前より減ってしまって、感覚的になじみがないということもあるでしょう。
さて、果物や木の実だけではなく、信仰は、実るものです。実らせていただきます。神が実りを与えてくださる。桃や栗が一ヶ月や二カ月で実らないように、信仰の実りにもやはり相応の時間が必要です。神の御栄光も相応の時間とやり方を経てあらわされるものです。
イエス・キリストは人間の歴史からすると長い長い時間をかけて到来されました。天地創造に始まる旧約の時代を経て、預言者の預言から数百年をへて成就したように、神のご計画の成就のためには相応の時間が必要です。神のなさることが遅いのではなく、神の最適な時間ややり方というのは、人間には場合によっては随分と時間がかかるように感じるのです。せっかちな現代人ならずとも、神のなさることに対して、人間の感覚とは往々にして相いれないものです。
今日は少し長い聖書箇所を読んでいただきました。教会学校などでも話しされることの多い種まきのたとえの箇所です。ある種は道端に落ち、ある種は石だらけのところに落ちた、また茨の中に落ちた種もある、それらの種はみなだめになってしまったけれど、良い土地に落ちた種は実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍あるものは三十倍にもなった。そしてそのたとえについて主イエスご自身が解説されているのが18節からになります。
この聖書箇所を読むとき、なんとなく不安になる方も多いのではないでしょうか。端的に言って、ひとりひとりの信仰のあり方が土地を比喩としてあげられているのです。自分は御言葉を聞いて悟る良い土地だろうか、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉をふさぐ茨の生えた土地だろうか、そんなことを考えられるのではないでしょうか。多くの人は、自分は良い土地だなんて思えないのではないでしょうか。私は茨が生えてる土地だとか、石だらけだとか思ってしまうのではないでしょうか。
そのようなことを反省して、みなさん、御言葉を聞いて悟る良い土地のようなしっかりとした良い信仰者になりましょうという勧めの言葉をここに聞くことはけっして悪いことではありません。しかし、ここで語られていることはそこでとどまりません。
そもそもこの土地は、別々の土地ではないのだと多くの解釈者は語っています。
この土地はひとつの畑なのだと考えられます。当時のイスラエルの畑は、今日的な農業とはことなり、畑全体がきちんと整えられていたわけではないようです。イスラエルはそれほど土地に恵まれていませんでした。そのなかで畑にできそうな比較的豊かな土地を畑にするのです。それでもそ、の畑の中には石がころがっているところもあったでしょう。そのすべての石を取り除くことは不可能だったのです。また畑の中に人が通るための道も作られました。場合によっては茨などの雑草が生い茂ることもあったのです。灌漑などをおこなわなかった当時の土地のやり方では、深いところに根をはる茨などはどうしてもとりのぞけなかったようです。そのような畑で、わりとおおざっぱなやり方で農業はなされていたようです。つまり、当時、種は、ぱぱっとまかれたようです。ですから、道の部分に種がこぼれることも、石の上に種が蒔かれることも、あったのです。種をまいたあとに茨が生えてきてしまうこともあったのです。道に蒔かれた種は鳥に食べられたりもしたでしょう。石の上に蒔かれた種は根が出ても干からびてしまいます。
ですからイエスさまの種まきのたとえは、当時の畑の様子ととてもよくあっていたのです。聞いた人は皆、はっきりとイメージを持つことができたのです。
そしてこの畑の例えは私たちの心の比喩として語られています。
私たちの心の中には良い土地もあれば悪い土地もあります。すべて良い土地ということもなければ、どこもかしこも石だらけということもないのです。すくすくと御言葉を受けいれて信仰が養われる良い部分もあれば、石ころもある、あるいは最初は良い土地だったのに、あとから茨が生えてくることもあるのです。ですから、私たちは私たちの心の中の石を頑張って取り除き、茨を根絶やしにしましょう、しっかりと畑全体を良く耕しましょう良い土地にしましょうということではないのです。
アメリカの聖公会に所属するある説教者は、この聖書箇所をまさに「種をまく人」の物語だと語っています。私たちは、ついつい種を蒔かれる土地の方へ注意を向けてしまいますが、これは「種を蒔く人」の話なのだというのです。たしかに新共同訳のタイトルも「良い土地悪い土地のたとえ」ではなく「種を蒔く人のたとえ」となっています。
種を蒔く人とはどなたでしょうか。
神です。
神が蒔かれるのです。良い土地にも悪い土地にも神は種を蒔かれるのです。農業の効率からいうと極めて効率の悪いことを神はなさるのです。出来る限り良い土地の部分を選んで種を蒔けば種が無駄になることはありません。でも神は種をまかれます、石の上にも道端にも、茨の根が残っているかもしれないところにも惜しげもなく蒔かれるのです。豊かに蒔かれるのです。
人間の目から見たらたいへんナンセンスな、いまはやりの言葉でいえばコストパフォーマンスの悪い、コスパの悪いやり方をなさるのです。きびしく成果を問われる事業のやり方から見たらありえないやり方です。また細かく効率を問う経済の観点から見たら、無駄そのもののようなことをなさるのです。
一方で、良い土地に蒔かれた種は実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなったとあります。この百倍、三十倍というのはたいへん大げさな数字です。当時の農業のやり方では十倍になったら万々歳なのです。ですから三十倍もとてつもない数字です。まして100倍なんて考えられないことです。その考えられないことをなさるのが神であると主イエスはこのたとえ話で語っておられるのです。人間が効率や成果を計算して、こまごまとやっていくことと、神のやり方は違うということです。神の恵みはそのようなものではないということです。人間が一生懸命この世にあって効率や成果を考えることが自体が悪いということではありません。しかし、神のやり方はそうではない、神のなさることは全く次元の違うことだということを主イエスは語っておられます。しかし、神はあえて効率が悪いことをなさっているわけではないのです。無駄をなさっているわけではありません。人間の目にはそうみえるということなのです。もっとも百倍の実りが得られるのであれば、少々種が無駄になっても逆にコストパフォーマンスはいいのではないか、そう思われるかもしれませんが、そういうことでもありません。神は仮にすべての種が無駄になったとしても種を蒔くことをやめられない方なのです。蒔き続けられる方なのです。
神が種を蒔かれるとき、私たちの心の土地は神の御業のなる土地とされます。蒔かれる土地もまた、変わっていくのです。変えられていくのです。石ころだらけだったところが豊かにされるのです。いつのまにか茨がなくなっているということも起こるのです。それは人間があれこれ考えて努力してやっていくことではないのです。神の御業が私たちのうちになされていく、その神の御業によって変えられていくのです。そこには相応の時間がかかるかもしれません。何年信仰生活をしてても私は石ころだらけだと自分で自分のことをがっくりくることもあるかもしれません。わたしなどもいつまでたっても、茨でぐちゃぐちゃのような気がしています。しかしなお神はそんな私たちの内なる土地に今日も豊かに種を蒔かれ続けています。神の御業はすでに始まっています。
ところで、本日の聖書箇所からあとの部分には多くの主イエスが語られたたとえ話が記述されています。毒麦のたとえ、からしだねのたとえ、迷い出た羊のたとえ、どれも聖書に親しんでいる人にはなじみのあるたとえです。ここで、主イエスがたとえ話で神の国のこと、信仰のことを語られた、ということについて、少し考えてみたいと思います。なぜ主イエスはたとえ話を語られたのか。それにはいくつかの理由があります。
ひとつには、危険が迫っていたからです。主イエスに対して敵対する勢力があったからです。イエス様はこれまで読んできたマタイによる福音書の箇所では、安息日論争の時もベルゼブル論争の時も、はっきりとものをおっしゃっていました。「人の子は安息日の主である」「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」そのようなことをはっきりとおっしゃっていたのです。しかし明確に主イエスに敵対する力が強くなってきました。したがって直接的には敵対者からはわかりにくい、たとえ話という方法で話の核心の部分を包んだ形で主イエスは語るようになられたのです。良い例ではありませんが、言論弾圧みたいなことがある世の中では直接に権力者を批判はできません、そのかわり風刺画であるとか、こっけいな音楽とかでぼかして批判をするようになります。短歌や俳句で花鳥風月を描いているように見せて、痛烈な皮肉を込めたりする場合もあります。それに似ています。
しかし、たとえ話を使われた理由はそれだけではありません。イエスさまのたとえ話は、当時のイスラエルの人々にはとても情景のわかりやすい話だったと言われます。さきほど申しましたように種を蒔く人のたとえも、当時の農業の状況を良く知っている人からしたら、種まきの光景がはっきりと目にうかぶ生き生きとした話だったのです。当時のイスラエルの生活、自然そういうものを取り入れて、難しい言葉もなく、とても親しみやすい話を主イエスはされたのです。
しかし、そのたとえ話で、種まきのたとえでいえば、種まきの光景は生き生きと目に浮かびながら、その話の真意、イエスさまが伝えようとなさった神の業は、けっしてわかりやすくはありません。現に、そのたとえ話をイエス様ご自身が解説をなさっているのです。たとえ話の光景は生き生きと理解できても、その話がそもそも何を語っているのかはけっして分かりやすいものではありませんでした。
それには二つに理由があります。ひとつ目はそもそも神の国の真理というのはわかりやすいものではないというところから来ています。正確にいえば論理的に説明ができるものではないということです。神の業というのは論理的に論文に書いて説明ができるようなものではないのです。論文に書いて説明できるようなものではないものを伝える時、それは物語の言葉になったり、詩、ポエムの言葉になります。神の恵みというのはこれこれの大きさでこのくらいの頻度で顕れてという論文に書くような論理的な説明はできません。ですから、畑にまかれた種が百倍にも三十倍にもなるという豊かなイメージをともなったたとえ話で語られるのです。豊かに実った種のイメージには、説明の言葉で伝えられない者を伝える力があるのです。植物の生命力のイメージによって神の力が力に満ちあふれたものであることも伝えることができます、また実りの光景は明るく豊かな神の国の様子を伝えます。
信仰の出来事はそもそも論理では理解ができないからです。論理で考えると、種を無駄にばらまいておられるように見える神様の御心を理解することができないからです。ですから、イエスさまのたとえ話というのは一見わかりやすいようでわかりにくく感じます。しかし、それは神に国の現実を伝えるにはとても有効なのです。ですからイエス様はたとえ話で語られたのです。
でも、もっと本質的な問題があります。それが、たとえ話を理解できない二つ目の理由です。主イエスは9節で「耳ある者は聞きなさい」とおっしゃっています。
つまりもっとも大事なことは、聞く側の態度なのです。主イエスに敵対している人々、主イエスを信じようとしない人々には主イエスはたとえ話をされました。主イエスに従っている弟子達には丁寧にそのたとえ話の解説を主イエスはなさいました。しかし、主イエスがどのようにお話しになろうとも、どんなに丁寧に解説をなさろうとも聞く耳がない者には何の意味もないということです。
だいじなことは、私たちが努力をして自分たちの畑から石を取り除いたり、耕したりすることではないのです。聞くということです。心素直に神の言葉を聞くということです。私たちは礼拝において、御言葉を聞く前に、聖霊の導きを祈り求めます。神の言葉を聞くことは自分たちの力ではできないことだからです。
そもそも私たちの心には、せっかく言葉を100%素直には聞けないものがあります。人間の言葉であっても、語っている相手が嫌いだとか、過去に確執のあった内容についてだとしたら素直には聞けません。それが神の御言葉であってもやはり自分たちの先入観や、自分の抱えている心の痛みや、過去の経験に引きずられてどうしても素直には聞けないところがあります。神の言葉を神の言葉として聞くことは私たちの力では困難なのです。だから祈るのです。まっすぐに神の言葉が聞けるように。まっすぐに神が蒔いてくださる種を受け取ることができるように。私たちは何にもましてそのことを祈り願うのです。聞くことができるように。その祈りを神はかならずかなえてくださいます。そしてかならず三十倍の六十倍の百倍の恵みを与えてくださいます。相応の時間は必要ですが、それは必ず与えられるのです。相応の時間は神の時間です。それは今日かもしれないし三年後かも知れない。しかしすでに神の業は始まっています。喜びの種はすでに蒔かれています。神に聞きながら、人間が与えるものではなく神が与えてくださるものを私たちは喜びながら受け取るのです。
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