イエス様は群衆に向かって語っておられました。イエス様はその宣教活動において、日々、肉体的な疲れを覚えながらも、ゆっくりと休息される時間もなかったようです。日々、押し寄せてくる人々に語り続けられました。本日、新約聖書の聖書箇所は、とびとびに読んでいただきました。最初に毒麦のたとえの箇所、そして間を飛ばしてそのたとえ話の説明の箇所を読んでいただきました。主イエスは人々に語りかけ、その人々から離れられたのちは弟子達に語りかけられました。主イエスの地上での生涯における宣教活動の期間はおよそ三年から三年半と言われていますが、その短い期間を、旅をし、多くの人と出会い、語り続けられました。
その語られたことの核心は天の国の到来ということでした。
終わりの日の希望といっても良いかもしれません。主イエスはその希望を語り続けられました。ですからイエスさまの時代から2000年後の今日においても、キリストの体である教会の礼拝説教では繰り返し、その終わりの日の希望を語り続けます。
今日の聖書箇所にも「世の終わり」という言葉が出てきます。「世の終わり」というと、日本語の感覚ですとあまり良い印象に感じられないかもしれません。「終わり」というとどうしてもジ・エンド、<もうあとがない>という感じになります。もう先がなく希望もないというニュアンスが入りがちです。また、「世も末」というような言葉と無意識に混同しそうになるところもあります。ちなみにご存知の方も多いかと思いますが「世も末」というのは仏教から来る言葉で、仏の力が衰えて道徳の乱れた世の中のことを指します。しかし、聖書でいう「世の終わり」はそうではありません。ここで「世の終わり」と訳されています言葉は、むしろ「完成の時」という言葉です。英語で言うとコンプリートということです。神がすべてのことを完成させる成就されるその時のことです。
イエスキリストの到来と共に、この世は終わりにむかって決定的に進んでいます。すでに終わりの時は始まっているともいえます。しかし、完全な完成はここでいわれている「世の終わりの時」「完成の時」となります。その完成の時までのことが、たとえ話として語られています。
「毒麦のたとえ話」は、他のたとえ話と同様、聖書を長く読まれている方にはなじみの深い話しです。この「毒麦」という言葉は、語義的には「雑草」という言葉です。おそらく、穀物の生育を阻害するような雑草のことを毒麦と言っているのでしょう。
たとえ話のなかで、熱心なしもべたちが雑草、つまり毒麦が生えてきたことに驚いて、「行って抜き集めてきましょうか」と主人に申し上げます。しかし、主人は「いや。毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。」といって、刈入れまでいっしょにしておけというのです。
実際、この地域では、雑草すなわち毒麦が生えてきても、その雑草は作物である小麦などよりよほどしっかりと根をはっていますので、下手に抜くと、生育期でまだしっかり根のはっていない穀物まで抜き取ってしまうことになります。したがって、作物の収穫期まであえてそのままにしておき、収穫の時にわけるということが、最近まで行われていたようです。先週、ご一緒にお読みしました「種を蒔く人」のたとえと同様、このたとえも、当時の、ごく普通の農作業のやり方にのっとったたとえ話で、聞いた人々がイメージしやすい話しになっています。
36節から、主イエスはこのたとえ話を説明なさっています。良い種を蒔く人は主イエスご自身、畑は世界、良い種は御国の子ら、悪い種は悪い者の子ら、そして悪い種を蒔く者は悪魔だとおっしゃっています。
悪い者の子を終わりの日に燃え盛る炉に投げ込むのは天使たちであって、御国の子ではないというこのたとえ話を、私たちは人を裁いてはいけないという勧告の言葉として受け取ります。裁くのは神の使いに、つまり神に任せないといけない、だから私たちは人を裁いてはいけないととります。人を裁くないう言葉はすでにマタイによる福音書の7章1節からの話に出てまいります。そのような勧告の言葉としてここを読むことは決して間違いではありませんが、私たちは「裁くな」という勧告をここから読み取る時、自分は良い麦であるという立場に無意識のうちに立っています。悪い者は神様が裁いてくださる、終わりの日に悪い者は燃え盛る炉に投げ込んでくださる、だから私たちは裁かなくて良い、と考えます。そして私たちは正義のもとにある善人なので大丈夫、そして最後には水戸黄門のように、悪い者はやっつけられて一件落着であると考えます。いま、水戸黄門といっても若い人にはわからないかもしれませんけれど。
しかし、そもそも良い麦、毒麦とはなんでしょうか?そして私たちは良い麦でしょうか?
良い麦は御国の子らであると主イエスはおっしゃっています。だれが御国の子でしょうか?主イエスは「悔い改めよ、天の国はちかづいた」とおっしゃいました。つまり天の国、御国に入る者は悔い改めた者なのです。神の前に悔い改めた者が、つまり自分が罪人であるということを認め、主イエスの十字架の贖いの業を受け入れることを神の前に告白する者が天の国に入ることができるのです。つまり良い麦とされるのです。主イエスによって良い麦とされるのです。
そもそもが罪人であり、また悔い改めたのちも、日々、罪を犯す者である私たちが、ただ主イエスに赦された者として、この地上に置かれているのです。そのような私たちがそもそも他者を裁くことができるでしょうか。
そしてまた、そもそも私たちには良い麦か悪い麦か正しく識別することができるでしょうか?作物であれば、これは小麦であり、こちらは雑草である毒麦であると容易に識別できるでしょう。仮に極めて似たような植物であっても、専門家なら判別は容易でしょう。しかし、この世界にあって、なにが良いことで悪いことか、その判別は容易ではありません。しかし、それでも「いや判別できる」と私たちが往々にして思ってしまいます。
その判別は、自分の正義に基づいてなしています。それは自分の正義であって、神の正義でないということを、私たちはついついどうしても忘れてしまいます。
これはこの世的な話ではありますが、昔、職場の上司が慰労会の席で部下たちに「人と議論をする時、かならず相手に逃げ道を残しておかないといけない」とおっしゃっていたことを思い出します。いくらこちらが正しいと思っても、勝ち目があると思っても、とことんまで相手を追いつめてはいけないと。それはビジネス上の議論やかけひきにおいての話でしたが、やはりそこには相手への敬意や配慮というものの大事さが語られていたと思います。そしてビジネス上の話であっても、大事なことは勝ち負けではなく、結局、双方にとって一番いい道を見つけることが、双方にとってプラスなのだということを言われていたのだと思います。勝った負けた、とか、こちらが正しくてそちらが間違っているということを明らかにすることは不毛なことで、結果的に、双方が良い方向に向かえるように話をしていくことが大事だということだったと思います。
しかし、ついつい私たちは正義を振りかざすつもりはなくても、知らず知らずにその自分の正義を絶対のものとしてしまいます。白黒はっきりさせたがります。勝とうとしてしまいます。白か黒かはっきりさせるといいますけれど、神からみたら、みんなグレーなのです。白が正義で黒が悪だとしても、100%白もなければ100%の黒もありません。そしてまたそれぞれに単一の色ではないのです。人間には白っぽいところもあれば黒っぽいところもあるのです。そのようなまだらで真っ白ではない人間が白黒はっきりさせることは困難なのです。
ただ、悔い改めた罪人として、共に、神の正義を求めていくということは可能です。健全な議論のあり方、隣人とのあり方は、ただただ共に神を見上げて、共に悔い改めながら、神の御心を求めていくということです。
しかし、いずれにしても、神の完全な正義がなるのは終わりの日です。神がすべてを完成される日です。その完成の日の前を生きる私たちの目には、たくさんの雑草が見えます。
完全ではない畑、つまりいろんな余計なものが生えているように私たちには見える世界があるのです。そのような自分たちの人生が見えてくるのです。これさえなければいいのに、逆に、これさえあればよかったのに、そのような思いにわたしたちはいくたびも捉えられます。もっと良い畑であれば、もっと私は生き生きと成長することができる、なのに、横に毒麦が生えていて、邪魔をする、そう感じてしまいます。職場で、家庭で、近所づきあいで、私たちは往々にしてそう考えてしまいがちです。
神様なら、良い麦の根を傷めずに毒麦を抜きとることだって可能ではないか、なのになぜそのままにしておられるのか、そういう疑問もわいてきます。
しかし、別の観点で考えてみる必要があります。最初に申し上げましたように、私たちは自分を良い麦の立場に置いて考えることもできますが、毒麦、雑草の立場にも置いて考えることもできます。神がすべてを完成されるその日、私たちは自信を持って、御国にいるといえるでしょうか?私などは実のところ、燃え盛る炉に放り込まれるのではないかと恐れたりします。さきほど申し上げたように私たちは完全に白でもなければ黒でもない、つまり良い麦とも言えるし、あるときは悪い麦であるともいえないでしょうか。
いまこの瞬間、終わりの時がきて、刈り取られたらどうなるでしょうか?私たちは御国で太陽のように輝くと確信が持てますか?燃え盛る炉に投げ込まれ泣きわめき歯ぎしりしていないといえるでしょうか。
種を蒔く人のたとえの時にも、石だらけの畑も茨の生えた畑も、良い畑になる可能性があると申しました。この現実の世界の畑に生えた実際の雑草はずっと雑草のままで、毒麦はずっと毒麦のままです。しかし、この世界を管理されているのは主イエスです。その主イエスが管理されている世界、つまり畑に生えている毒麦がずっと毒麦であるとは限らないのです。主イエスによって、毒麦が良い麦と変えられることもあるでしょう。
毒麦を抜かずにそのままにしておられるのは、神の憐れみと忍耐のゆえです。言ってみれば、炉に放り込まれる前の執行猶予期間とも言えるでしょう。一息に抜いてしまうのではなく、毒麦と思えるようなものでも、いつか悔い改めて、主イエスのもとに来る、良い麦となる可能性がある、ですから、その時を神は待っておられます。
そもそも聖書全体が長い長い神の忍耐の歴史が記されているものです。アダムとエバの時代から、またイスラエルがいくたびも神に背いてきたその時代から、神はとてつもない忍耐をされて、待っておられた、そして、いまも待ってくださっているのです。
ですから、どうしようもないように見える私たちの周りの畑も、雑草がぼうぼうに生えているように見える畑も、いつまでもそうであるとは限りません。神には不可能はありません。気がつくと、自分の周りは毒麦ばかりだと思っていたのに、豊かに良い麦がたわわに実っている畑になっているということもあります。自分にとって苦しい辛いことがら、まさに毒麦といえるようなことも、振り返ってみる時、実は、自分にとって、かけがえのない助けになるものであると気づくこともあるでしょう。これさえなければと思っていたことがあったがゆえに、逆に豊かに導かれてきたということもあるでしょう。
神は終わりの日に一本でも多くの毒麦を炉に投げ込もうとされているのではないのです。一本でも多くの良い麦を御国に迎えたいと願われています。一人でも多くの人が悔い改め、そして主イエスの畑で養われ、豊かに実り、天の父の国で太陽にように輝くことを願っておられます。
この輝くという言葉には、原語では、外へという接頭語がついています、つまり外に向かって輝く、輝きを放つということです。それだけ豊かな者、まぶしい者とされるということです。
イザヤ書の60章に「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」という言葉があります。私たちは本来罪の闇の中にあるものでした。しかしキリストが私たちを照らしてくださるゆえに、私たちは光を放つものとされます。父なる神の愛と忍耐のゆえにキリストが遣わされ、私たちは輝きを放つものとされました。すでにその輝きは始まっています。そのことこそが神のみこころです。私たちもキリストのゆえに良い麦とされ、終わりの日の希望を持ちつつ、キリストのゆえに、日々輝きを放つ者とされ、終わりの日にも輝きを放つ者とされましょう。
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