ひまりんのつれづれ日記

感じるままに何でも書けたら・・・

モモを連れて大泉町へ

2006-11-12 23:01:38 | Weblog
今日は天気がいいのと長男もいるのでどこか行こうということになり、長男の提案で
車で1時間、群馬県の大泉町へ行ってきました。全人口の16%がブラジル人というところです。
西小泉駅前の雑貨屋さんでお菓子など買い、

交番でブラジルレストランを教えてもらいお食事してから、(ブラジル料理は肉料理が多いです。中はブラジル人ばかりみたいで、異国情緒ありましたが一人日本人ぽいウエイターさんがいました)

長男がお城好きなので小泉城址跡の公園に立ち寄りました。

なんと今日はモモまで連れてきてしまいました。写真は長男に抱かれているモモです。


食事中はケージにいれてくるまに残しておいたので、公園では離してやりました。




大変!クロネコがついてきました。パパがあわてて抱っこして、車にもどりました。
モモも時々は外に連れ出せそうです。来たがればの話ですけど。

もう一人の叔父さんのこと

2006-11-12 07:57:09 | 思い出したこと
山梨に行って親戚の人たちに会ってきたせいか、もう一人の叔父さんのことを思い出した。
母は6人きょうだいの一番上で、他に妹が二人、弟が3人いた。水曜日に亡くなった叔父さんは母の下の妹の連れ合いだ。
母のすぐ下の弟(私の叔父さん)は、若くして亡くなった。その叔父さんは母の実家の長男であるから家業を継ぐということで、上の学校へも行かせてもらわなかったという。昭和元年ごろ生まれた人ではなかったか、亡くなったのは多分昭和38年ごろではないか。そうすると40にまだならないくらいかと思われる。

叔父さんはおとなしい勉強好きの人だったのではなかろうか、だけど弟たちは大学には言ったが、叔父さんは行かせてもらえず、家業の味噌醤油製造業を継ぐはずであった。
しかし、召集されたため精神を病んでどこか普通ではなくなった。
病院に入って、退院してから田舎に住んでいて、東京に出てきて家に下宿してから
近くのアパートを借り、何か工場のようなところで働いていたと思う。
叔父さんは無口で人と話すのは苦手、パンが好きでお昼など食パンを何もつけず一斤食べてしまう。
お風呂から上がると一直線で何も着ず座敷を通って、家の東の廊下のところで服を着替えた。
その叔父さんは働いてはいたけれど、ある日突然死をしてしまったんだ。
心臓病か何かだったと思う。
兄弟思いの母の嘆きは大きく、葬式の帰りであろうか駅のベンチで涙が止まらなかったという。
私たち子どもはお葬式には行かなかったけど、何かショッキングなことが起こったというのは小学生(?)の私にもわかった。
そのことは忘れていたが、後に高校生になって
国語の時間、先生が黒板いっぱいに宮澤賢治の「永訣の朝」を書いてくれたとき突然貫一叔父さんのことを思い出した。
<あめゆじゅととちてけんじゃ>
あれを読んだら涙が出てきました。
いい詩ですね、文学っていうものは心の奥に入り込んでくることってありますね。
叔父さんもきっと文学青年だったではないでしょうか。
ご冥福をお祈りします。