ひまりんのつれづれ日記

感じるままに何でも書けたら・・・

葬儀番外編

2012-03-11 17:32:12 | Weblog
葬儀とはいっても我が家では、ときどきおもしろいことが起こる。

寺での追っ付初七日の法要が終わって、マイクロバスに乗り込んだ。
バスの前座席にはお寺さんからもらった卒塔婆が置かれていた。

バスの座席に座っているとニコニコ顔の娘が、木の仮位牌を持ってバスに乗り込んできた。
「おかあさんこれ手彫りだよ。よくできているね」

「へ~でも一木造りではないね~」などと戒名などをじっくりと見ていたら、
係の人が位牌はないかと探しに来た!

その時になって皆どうしてうちの娘が(長兄が持っていた)位牌を持っているんだと思ったとか言い出した。

なんでも兄が「ちょっと持ってて」とそばにいた娘に渡し、
娘は「持って行って」と聞き間違えてバスにまで持ってきたとのことだった(笑)

位牌は係の人が、ハイヤーで移動の、長兄、次兄、義姉の元に戻された。
位牌と遺影とお骨はこの場合三っつセットなのであります(笑)

でも少しの間私の膝の上にあった位牌はなんともあったかいものでした^^

この日いちばん愉快なエピソード。

母の葬儀

2012-03-11 17:26:10 | Weblog
母が死んだ翌日は納棺式だった。次男と参加した。

納棺師さんが母に化粧を施してくれ、ふっくらと血色のよくなった母はきれいに見える。

参加した11人でお酒と一丁の豆腐を食べてから、
皆で母の手足を清め、旅支度を整え、頭侘袋に六文銭を入れ、シーツを持ってお棺に入ってもらう。
母は身長160センチなので、大きく見えた。

母にはケーキやら好きなパン、お菓子などを持って行ってもらった。
メガネやらと一緒に母の日記帳も入れられていた。
次兄が「メガネケースを形見に貰う」といった。
母の日記帳は病院などで見たことがあるが、病気がわかる前のことを少し書いてあった。
懐かしい母の字で。

「日記もらってもいい?お母さんの字が残っているから」と私は思いきって言ってみた。
長兄の嫁さんが、
「え~あまり書いてないのよ」と言う。

強い反対もなかったので、それを私が棺の中から出すと
それに添えられていたボールペンを葬儀社の人が私に渡してくれた。

それをめくって私は母の筆跡を確かめ、自分のバッグにしまった。

こうして私のものになった母の残した3年日記。
入院前の去年6月29日で終わっている・・・
しまっておこうと考えていた日記だが
娘が「続きをお母さん書いたら」と言った。

母の日記を汚すことにならぬよう大事に、私母の死んだ日からそれを使うことにした。
あと二年間はこの日記帳と毎日生きていくことになる。

通夜も告別式も雨が降って寒かった。
92歳という年齢でもあるのに、母は親類も多く、参列者は多い方だった。
従妹たちも多く来てくれた。
本家の跡取りのいとこにもほんとに世話になった。
母と仲良しの叔母を何度も連れてきてくれたKちゃんも来てくれた。
受付をしてくれたのはやはり従妹のHちゃんだ。

こうして私はみなさんの好意のありがたさに触れて、
葬儀と会食を終えたし
夫と次男が車を運転してくれたので家から葬儀場までを2日間楽して行くことができた。

そして今日はもう母のことで兄姉と連絡を取りあったり、突然の電話にびくつくことのなくなったことが
なんとも言い難い気持ちだ。



パート先でキャンディーブーケをもらった。うれしかった。

ぬくもりをくれた人

2012-03-11 16:16:48 | Weblog
7日未明母が死んだ。

その日はパートだったけど、午後から休んで日に日に悪くなっている母の病状の相談に
兄姉といっしょに施設の医師と会うつもりでいた。
それも間に合わず母は行ってしまった。

連絡を受けたのが5時半ごろ。すぐには出れなかったから、6時30分ころ家を出た。
直通で池袋へ行き、大泉学園からバスに飛乗って、施設に8時には着いた。

施設の玄関で神妙な顔をしたチーフケアマネージャーと所長の出迎えを受け、いつものようにスリッパに履き替えようとした。
所長が「御遺体はお兄さん二人と自宅に帰られましたよ」と言う。

私は思わずニッコリして、二人にお礼を言って実家に向かう。
タクシーが捕まえられなかったのでまた西武バスに乗り込む。
実家に着いたのは8時半。

母はまるで眠っているかのような顔だった。
そのときは額もまだそれほど冷えてはいない。

叔父さん夫婦が訪ねてきてくれ、話しているうちに涙が出てくる。

母はほんとにガンバリ屋だった。いつも一生懸命で手抜きなんかしない。

ここには孫たち(甥や姪)もいて母はうれしいに決まっている。

この2ヶ月は身体の痛みと暑い暑いを訴えていたが、
その苦しみから、今は解放されたのだ。

私としてはもう少し生きていてほしかったけど、それは母の望むところではなかったのかもしれない。

母は私にぬくもりをくれた。

母は末に生まれた私を、小学校の高学年まで一緒の布団で寝た。
私が「一人で寝る」と言ったとき母が淋しそうな顔をしたのを覚えている。

母は小うるさい人ではあったが、いつも子どものことを考えてくれた。
私のことはあとあとまで心配してくれていた。

ぬくもりをありがとう。
甘えさせてくれてありがとうね。おかあさん。