ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

すめらぎ(天皇陛下)前編

2019年09月19日 | すめらぎ(天皇陛下)前編
すめらぎ(天皇陛下)


「天皇」は「すめらみこと」ではなく「すめらぎ」と読むべきなのである。


「天皇」は「てんのう」と読むのが
一般的である。

また訓読みしても
「すめらみこと」と読む場合が多い。

「すめらぎ」はあまり耳にしない人も多いことだろう。

しかし「天皇弥栄」という形で使用する場合、「天皇」は「すめらみこと」ではなく「すめらぎ」と読むべきなのである。

 まず「てんのう」は中国の音であるため、
祝詞などでは大和言葉を用い、
訓読みすべきである。

だが、それでも「すめらみこと」「すめろき」「すめらぎ」など、
読み方は複数あり、しかも読み方によって意味が異なる。

続く


神武天皇陛下が即位したのは橿原の宮(大和国奈良県)

2019年09月19日 | 神武天皇陛下が即位したのは橿原の宮(大和国奈良県)
神武天皇陛下が即位したのは橿原の宮(大和国奈良県)

天照大御神さまから命じられた孫の
ニニギノミコトさまが高天原から
地上に降り立ち
その曾孫の神武天皇陛下は
九州地方から渡って関西を目指しました。
神武天皇陛下が磐余(いわれ)の地において磯城の首長の(えしき)兄磯城を破り、
ニギハヤヒ(饒速日命)も天津瑞を献じて仕えることとなりました。

神武天皇陛下即位紀元
辛酉の年の春正月の庚辰の朔日に

畝傍山
東南「橿原の宮」に即位し建国したことに由来する。

金鵄は、神武天皇の弓弭(ゆはず・弓の端)に止まって光り輝き、
長髄彦の兵を追い払った鳶である。


皇紀復活 謹賀新年記念 今年は2679年

2019年09月19日 | 皇紀復活 謹賀新年記念 今年は2679年
皇紀とは神武天皇の即位を紀元とする紀年法です。

『日本書紀』にあるように
初代の天皇陛下・神武天皇陛下は
大和の橿原宮(かしはらのみや)で
即位しました。

辛酉の年の春正月庚辰朔の日です。これをグレゴリオ暦に換算すると、紀元前660年2月11日になります。
戦前の「紀元節」、
現在の「建国記念の日」が2月11日となっているのはそうした理由です。

明治政府は改暦の詔勅が
だされてから6日目の明治5年11月15日(西暦1872年12月15日)、
神武天皇の即位年を元年とする紀年法を制定し、「神武天皇即位紀元」
と命名しました。

後にそれを縮めて「神武紀元」とか「皇紀」と呼ぶようになりました。
皇紀は西暦と軌を一にして導入されたのです。

これに先立ち、明治2年4月、
時の刑法官権判事だった津田真道(まみち。のちに真一郎)は
集議院に対し「年号ヲ廃シ一元ヲ建ツ可キノ議」を建議しています。

津田は明治の改元にあたり、明・清にならった「一世一元」では改革が不十分であり、
西洋のキリスト生誕紀元やイスラームのヒジュラ紀元、あるいは ユダヤ教の天地開闢紀元をモデルに

わが国日本も神武天皇即位を紀元とせよと主張しました。

それが改暦とセットで実現したことになります。

さらにさかのぼると、幕末の国学者たちが「神武紀元」を持ち出していました。

というのも、天保11年(1840年)が
神武天皇即位から
ちょうど2500年にあたっていることから、

いわゆる皇紀とは神武天皇の即位を紀元とする紀年法です。

『日本書紀』によれば初代の天皇・神武は大和の橿原宮(かしはらのみや)で即位しました。

辛酉の年の春正月庚辰朔の日です。これをグレゴリオ暦に換算すると、紀元前660年2月11日になります。戦前の「紀元節」、現在の「建国記念の日」が2月11日となっているのはそうした理由です。

明治政府は改暦の詔勅が
だされてから6日目の明治5年11月15日(西暦1872年12月15日)、
神武天皇の即位年を元年とする紀年法を制定し、
「神武天皇即位紀元」と命名しました。

後にそれを縮めて「神武紀元」とか「皇紀」と呼ぶようになりました。

皇紀は西暦と軌を一にして導入されたのです。

これに先立ち、明治2年4月、時の刑法官権判事だった津田真道(まみち。のちに真一郎)は集議院に対し

「年号ヲ廃シ一元ヲ建ツ可キノ議」を建議しています。津田は明治の改元にあたり、明・清にならった「一世一元」では改革が不十分であり、
西洋のキリスト生誕紀元やイスラームのヒジュラ紀元、あるいはユダヤ教の天地開闢紀元をモデルに日本も神武天皇即位を紀元とせよと主張しました。

それが改暦とセットで実現したことになります。

さらにさかのぼると、
幕末の国学者たちが「神武紀元」を持ち出していました。
天保11年(1840年)が神武天皇即位からちょうど2500年にあたっていることから、

水戸学の藤田東湖(ふじた・とうこ)は「鳳暦二千五百春 乾坤依旧韶光新」という漢詩をつくりました。

津和野藩の国学者大国隆正(おおくに・たかまさ)は安政2年(1855年)に著した『本学挙要』のなかで
神武天皇の即位を元年とする「中興紀元」を提唱しています。

もっとも、神武天皇以来の年数をかぞえることは僧慈円の『愚管抄』でも採用されていますが、
幕末にはそれが尊皇思想や王政復古と結びつき、新政府によって制度化されるようになりました。

明治維新を迎えるにあたり、
改元と「一世一元」が実現したわけですが、明治天皇即位紀元を制定するとしても、年号を廃して紀元一本とするのか、明治という年号と併用するのか、
その場合でもどちらを主とするか、などいくつかの懸案事項は残りました。

政府は明治改暦から時を隔てず、
明治6(1873)年1月9日、左院に対し紀元・年号の問題を審議してもらったところ、
紀元のみ使用との回答があり、
おどろいた政府はあらためて併用を方針として再度下問したところ、
異議無しとの回答がようやく得られたという一幕がありました。

津田は年号を廃止し、皇紀での一本化をめざしましたが、明治政府は年号と皇紀の併用を前提として、
国書・条約・証書から私用にいたるまでの使用例を細かく規定しました。

それによると、もっとも正式な文書には皇紀と年号を併記することとし、略式、あるいは私的な文書には年号の単独使用、もしくは月日のみの記載を可とすることになりました。

皇紀は民間ではほとんど使用されることはありませんでしたが、
皇紀2600年(昭和15年、西暦1940年)には節目だったので式典など行わられ
ただし、これについては稿をあらためなくてはなりません。

敗戦後は皇紀の使用はほとんどなされなくなっていますが、長期紀年法としては皇紀が今でも法制上かつ暦法上の唯一のものです。したがって、閏年の決定には依然として皇紀がもちいられれているのです。

西暦のキリスト生誕紀元がわが国ではまだ法制上の基準として公認されないまま事実上の基準として通用しているのです。

「一世一元」の改元もさりながら、神武紀元
皇紀復活もしていきましょう。