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得意なパターンをつくる
ガマの油売り口上は、いくつかの話材が有機的に結びついて、一つのはっきりしたまとまりのある“図式”になっているから、口上を実演する場合、どのように口上を述べ、演技をするか頭がまとまっていなければならない。
聴き手に納得してもらうためには自分なりの得意なパターンを作り上げることが早道である。まず自分の得意なパターンを作り上げて応用をきかせる。
同じことをやっても、
人にはそれぞれのパターンがある
無意識の心理
われわれの日常生活におけるさまざまの動作は、あらかた固有化されている。たとえば、自転車に乗るにしても、「これから自転車に乗るのだ」という、明瞭な意識をもって乗るわけではない。箸をとって食事するなどは、なおさらのことである。
つまり、日常さまざまの動作は、幼少のころから、何1000回、何万回と同じ動作を繰り返すことにより、いまでは、その動作を行なう場合、特に意識しないで行っているのである。いわゆる、無意識的にこれを行なっている。しかも、それで決して目的に反して行動をすることはない。否、完全に目的にそい、ムダな動作は省略されている。
反対に、たとえば自転車に乗りはじめのころの体験を思い出してみると、まだ自信がなく、むこうから通行人が来たと、思えば思うほど、それがかえって悪い暗示となって、その人の方へ進み、はてはぶつけてしまうこともある。
すなわち、いろいろの動作や行動などは、最初のうちは意識的に行なわれるが、反復されることによって、次第に意識にのぼらなくなってくる。いわゆる、無意識的に行なわれるようになる。
柔道、剣道や居合いでも繰り返し稽古すると技術に対して自信がつき、毎日の椿古を楽しむようになると、努力の意識はだんだんと稀薄となり、努力しても努力と感じない状態になる。宮本武蔵の「心常に兵法の道を離れず」といった心境になる。
こうして、技術は完全に固有化され、いわゆるイタについてきて、見た目に余裕を感じるようになってくる。
場数を踏んで自分を知り、自分を変える
我々の個人的・杜会的な活動は、その大部分が習慣的活動となり、明瞭に意識されない無意識状態にまで進捗している。今、このブログ記事を読む場合、これを理解することを可能にしているのは、眼をはじめとするさまざまな働きが関係している。何気なく、読んで理解しているが、この背後には意識していないさまざまな働きがあるからこそ、読んで理解できるのである。
無意識というのは、われわれが生きるうえで当然必要な部分・機能であり、われわれの中には、自分自身が知らない「もうひとりの自分」がいるようなものである。
どうすればこの「もうひとりの自分」を知ることができるのか?それを知るカギは……それは行動であり、身体の反応である。
自分がどんな口上の演技をすべきかと、あれこれ考えて、いいやり方をリストアップするよりも、実際に演技を繰り返し、そこで起こる感情、身体の反応から、「本当」の自分の好みや、こうしたいとう願いがわかってくる。
自分の意識で考えたところで、意識できないことがかなりの部分を占めているから、自分について考えすぎずに、自分の行動を変化させるよう試みるべきなのだ。
行動もせずに、「自分のやりたいことは?」「本当の自分のやりかたは?」と考えるより、動いてみて、自分がどんな行動、振る舞いをするのか、どんな感情、身体の反応が起きるか観察することである。
そしてもし、自分がやりたいことがあるのなら、まずはやってみることであり、なりたい自分があるのであれば、そのように振舞ってみることである。
満足のいく、うまく機能する自己の“物語”を創り出し、習慣的で意識的ではない望ましい反応のパターンを作り上げる。このためには、繰り返し、また繰り返して場数を踏むことが必要である。
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